『墓の建立と継承 「家」の解体と祭祀の永続性をめぐる社会学』(辻井敦大著)からの転載です。
以上が本書の知見である。この知見から、本書が序章において設定した「戦後日本において『家』の解体が進んできたにもかかわらず、墓が建立され続けてきた理由を社会的アクターの実践を通して明らかにする」、「従来の墓の継承が不可能となるなかで、いかなる論理のもとで社会的アクターが『家』に代わって〈祭祀の永続性〉を証明しているのかを解明する」という二点の作業課題に答えたい。
まず第一の作業課題には次のように答えたい。戦後日本において「家」の解体が進んできたにもかかわらず、墓が建立されてきたのは、石材店による墓の「商品化」に呼応し、血縁家族の連続性に期待して生前に墓を建立した人々の営みゆえであった。これは、決して「家」の残存として捉えられるものではなく、むしろ個人の選択肢を重視した血縁家族、すなわち家族の戦後体制の成立(落合二〇一九)とつながるものであった。石材店や地方自治体といった社会的アクターが、墓地開発、墓地供給を行うにあたっては、どのアクターもイデオロギーとして「家」を再生産しようとは考えなかった。それよりも、「個人を記念し追憶するため」、「コミュニティに生き貢献したことの証」として墓の建立を促したのである。こうした動きは、孝杢貢が、戦後に墓を跡継ぎが義務としてではなく、「子供のうちだれかが先祖の仏壇、墓を守っている」という状況を明らかにしたことと共通す。こうした「家」としての墓の継承規範が崩れていた事実は、第三章で「きょうだい」が墓地を管理し、最後に納骨堂、合葬墓を利用していた点や第六章で「嫁に出た」と語る女性が、兄が継承したはずの「家」の墓を管理していた点からもうかがえる。すなわち、本書の事例のなかで、墓参りに來て、実質的に墓を管理していたのは「きょうだい」、なかでも「嫁に出た」女性といった状況があり、実質的に「家」ではないのである。「家」の解体にともない生活保障の機能が市場や社会政策に代替された。こように、戦後において先祖祭祀は、主に血縁家族と市場に支えられた。つまり、戦後日本における墓の建立・継承、すなわち先祖祭祀は、「家」の創設や存続を目的にしたものではなく、主に血縁家族と市場に支えられたがゆえに行われたのである。
次に第二の作業課題については、血縁家族による従来の墓の継承が不可能となるなかで、社会的アクターである地方自治体、仏教寺院は、「家」の存続とは異なる論理で〈祭祀の永続性〉を保証しようとした、と答えられる。地方自治体は、墓地を「福祉」に関わる「コミュニティに生き貢献したことの証」と意味づけ、個人の尊厳と結び付けて〈祭祀の永続性〉を保証する論理を先駆的に提起した。そして、現在では納骨堂や合葬墓を整備することで、実際にそれを保証しようとしている。一方で、仏教寺院においては、仏教寺院と檀家、死者とそれを想い墓参りに来る人の「縁」を支えるために、永代供養墓や骨仏を建立し、「手を合わせる場所」と〈祭祀の永続性〉を保証しようとした。すなわち、従来の墓の継承が不可能となるなかで、「家」ないしは血縁家族に代わって、地方自治体や仏教寺院が〈祭祀の永続性〉を保証するという論理がとられたのである。こうして、〈祭祀の永続性〉の保証の問題は、戦後において血縁家族の連続性が期待された後、一九九〇年代以降は地方自治体や仏教寺院が引き受けるべき問題として現れたのである。
以上より、本書が示しだのは、人々が「家」の解体のなかでも死者を忘れず記憶・記録することを求め、それらを地方自治体、石材店、仏教寺院が支えるために墓の建立を促し、〈祭祀の永続性〉を保証しようとした実践だった。
すなわち、本書は、戦後目本において墓が「家」とは異なる論理のもとで建立されるとともに〈祭祀の永続性〉が求められ、それを社会的アクターが支えてきた実践を解明したのである。それゆえに、戦後囗本において先祖祭祀は存続しつつも、その機能は「家」を存続させるものではなくなったと解釈できる。そして、その結果として〈祭祀の永続性〉を希求する先祖祭祀は、「家」の維持・存続ではなく、安心感を与える機能が顕在化したのである。(以上)
以上が本書の知見である。この知見から、本書が序章において設定した「戦後日本において『家』の解体が進んできたにもかかわらず、墓が建立され続けてきた理由を社会的アクターの実践を通して明らかにする」、「従来の墓の継承が不可能となるなかで、いかなる論理のもとで社会的アクターが『家』に代わって〈祭祀の永続性〉を証明しているのかを解明する」という二点の作業課題に答えたい。
まず第一の作業課題には次のように答えたい。戦後日本において「家」の解体が進んできたにもかかわらず、墓が建立されてきたのは、石材店による墓の「商品化」に呼応し、血縁家族の連続性に期待して生前に墓を建立した人々の営みゆえであった。これは、決して「家」の残存として捉えられるものではなく、むしろ個人の選択肢を重視した血縁家族、すなわち家族の戦後体制の成立(落合二〇一九)とつながるものであった。石材店や地方自治体といった社会的アクターが、墓地開発、墓地供給を行うにあたっては、どのアクターもイデオロギーとして「家」を再生産しようとは考えなかった。それよりも、「個人を記念し追憶するため」、「コミュニティに生き貢献したことの証」として墓の建立を促したのである。こうした動きは、孝杢貢が、戦後に墓を跡継ぎが義務としてではなく、「子供のうちだれかが先祖の仏壇、墓を守っている」という状況を明らかにしたことと共通す。こうした「家」としての墓の継承規範が崩れていた事実は、第三章で「きょうだい」が墓地を管理し、最後に納骨堂、合葬墓を利用していた点や第六章で「嫁に出た」と語る女性が、兄が継承したはずの「家」の墓を管理していた点からもうかがえる。すなわち、本書の事例のなかで、墓参りに來て、実質的に墓を管理していたのは「きょうだい」、なかでも「嫁に出た」女性といった状況があり、実質的に「家」ではないのである。「家」の解体にともない生活保障の機能が市場や社会政策に代替された。こように、戦後において先祖祭祀は、主に血縁家族と市場に支えられた。つまり、戦後日本における墓の建立・継承、すなわち先祖祭祀は、「家」の創設や存続を目的にしたものではなく、主に血縁家族と市場に支えられたがゆえに行われたのである。
次に第二の作業課題については、血縁家族による従来の墓の継承が不可能となるなかで、社会的アクターである地方自治体、仏教寺院は、「家」の存続とは異なる論理で〈祭祀の永続性〉を保証しようとした、と答えられる。地方自治体は、墓地を「福祉」に関わる「コミュニティに生き貢献したことの証」と意味づけ、個人の尊厳と結び付けて〈祭祀の永続性〉を保証する論理を先駆的に提起した。そして、現在では納骨堂や合葬墓を整備することで、実際にそれを保証しようとしている。一方で、仏教寺院においては、仏教寺院と檀家、死者とそれを想い墓参りに来る人の「縁」を支えるために、永代供養墓や骨仏を建立し、「手を合わせる場所」と〈祭祀の永続性〉を保証しようとした。すなわち、従来の墓の継承が不可能となるなかで、「家」ないしは血縁家族に代わって、地方自治体や仏教寺院が〈祭祀の永続性〉を保証するという論理がとられたのである。こうして、〈祭祀の永続性〉の保証の問題は、戦後において血縁家族の連続性が期待された後、一九九〇年代以降は地方自治体や仏教寺院が引き受けるべき問題として現れたのである。
以上より、本書が示しだのは、人々が「家」の解体のなかでも死者を忘れず記憶・記録することを求め、それらを地方自治体、石材店、仏教寺院が支えるために墓の建立を促し、〈祭祀の永続性〉を保証しようとした実践だった。
すなわち、本書は、戦後目本において墓が「家」とは異なる論理のもとで建立されるとともに〈祭祀の永続性〉が求められ、それを社会的アクターが支えてきた実践を解明したのである。それゆえに、戦後囗本において先祖祭祀は存続しつつも、その機能は「家」を存続させるものではなくなったと解釈できる。そして、その結果として〈祭祀の永続性〉を希求する先祖祭祀は、「家」の維持・存続ではなく、安心感を与える機能が顕在化したのである。(以上)
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