仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

光 風のごとく23

2012年03月10日 | 日記
拙著『光 風のごとく』より二題


虫の夜の宇宙に浮く地球かな

[大峯顕(おおみね あきら)]『君自身に還れ―知と信を巡る対話』(本願寺出版社刊)より。
[一九二九~ ]哲学者、大阪大学名誉教授、浄土真宗僧侶、俳人。著書『親鸞のコスモロジー』ほか。

作者は、秋の夜の星空を眺めたとき、ふとこの句が浮かんだという。大地に立つ自分を中心に三百六十度に広がる宇宙を見ず、宇宙に浮かんでいる地球、その地球に立つ自分を想っているところが面白い。
無数の因縁の中にある今。その今を頂戴して生きる。これが因縁を説く仏教の考え方に立った生活です。
面白いのは、私たちの日常生活における挨拶は、大方この仏教の考え方に即している。出会いの挨拶「こんにちは」は、〝今〟を指摘した言葉だ。別れの「さようなら」は、〝そのとおり〟といった今を肯定した言葉です。「ありがとう」も〝有ること難き〟今であり、「お蔭様」も、見えない存在によって今があるということ。返事の「はい」も拝見、拝領、拝読と言った〝拝〟で、そのままを肯定して頂くという意味である。すべて、今に目覚めて生きて行こうという仏教の考え方からきている。今を大切にして生きる。最もシンプルにして難しいことでもある。


足のうら洗へば白くなる

咳をしても一人

爪切ったゆびが十本眼の前にある

[尾崎放哉(おざき ほうさい)]『放哉全集』より。
[一八八五~一九二六]鳥取の生まれ。俳人、波乱に富んだ生活の中で、独自の自由律の句境を確立した。句集『大空(たいくう)』ほか。

最初、放哉の詩に接したとき、あまりにもシンプルすぎて、どう受け取ったらよいものかと「?」を抱いた。ここに「?」の私がひとりいる。そう思ったら放哉に共感できる思いがわき上がってきた。そうしたら時間、空間の隔たりを超えて作者の実感が伝わってきた。それは短い言葉のなかにも作者の深い〝実感〟が込められているからだろう。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と念仏を称えてみる。念仏が有り難く思えるのは、念仏を通して阿弥陀仏の実感が伝わってくるからであろう。阿弥陀仏は、この私のすべての可能性をご覧になって、無条件に救いたいという慈しみを発動された。その阿弥陀さまのこころが念仏を通して伝わってくる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする