『文芸春秋』(2022.6月号)に“小林一茶「死ぬのが恐い」往生際”(大谷弘至)が掲載されていたと、法話会の折に世話人がコピーを届けてくれました。8頁ある読み物ですが、最後の2頁を転載します。
妻の菊も亡くなってしまいます。
三十七歳の若さでした。人並みの幸せもつかの間、妻子に相次いで先立たれてしまったのです。老いた一茶が一人残されました。菊の死の翌年、一茶は飯山藩士の娘ゆきと再婚します。ゆきは三十八歳でした。しかし、武家と農家という身分の違いがあったためか、夫婦活はうまくいかず、わずか三ヶ月で離婚。その心労からか、一茶は同年に脳梗塞を再発ご言語障害が残ってしまいます。
それでも一茶の俳句への情熱は尽きず、竹駕籠に乗って信濃の弟子宅をめぐり続けました。一八二六年(文政九)には、柏原で乳母をしていた、「やを」と再再婚します。やをは三十二歳で倉吉という二歳の男児を連れていました。
ところが翌一八二七年(文政十)閠六月、柏原一帯を焼く大火に見舞われ、一茶宅も母屋が全焼、焼け残った土蔵での生活を余儀なくされます。
その年の十月十九日、一茶は不意に気分が悪くなり寝込んでしまいます。申の下刻(十六時半過ぎごろ)、一茶は土蔵で安らかに息を引き取りました。一茶の弟子、文虎が『一茶翁終焉記』に書き残したところによれば、一茶はみずからの最期にあって、ただ一声、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えたといいます。一は辞世の句を遺しませんでした。
無様でも愚直に生きる
死に下手とそしらば誹(そし)れ夕炬燵(ゆうごたつ)
これか一茶が一度目の脳梗塞で倒れた時の句の苦です。一時は半身不随になってしまいますが、奇跡的に回復しました。そんな一茶を見てdされたが意地悪く「死にぞこない」と揶揄したのでしょう。それに対して一茶は炬燵のなかで聞こえないふりをしているわけです。一茶からすれば、現世での命尽きるまで、どんなに無様でも愚直に生きようという強い思いがあったはずです。
一茶は死への恐れを率直に吐露していました。
花の影寝まじ未来が恐ろしき
一茶が亡くなる年に詠んだ句です。「未来」は、もともと仏教用語死後の世界のことを指しました。
この句は、次の西行の和歌を踏まえています。
願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ
できることなら旧暦二月の満月の頃、満開の桜の下で死にたいと言っています。幻想的で美しい世界。みずからの理想の死を詠っています。
西行は源平の争乱を生きた人であり、もともとは武士でしたので、中世の美学を生き、みずからの死でさえ、潔く美しく演出しているのです。ちなみに西行は、歌で願ったとおり、旧暦の二月十六日、桜のころに亡くなりました。
一茶はこの和歌を踏まえつつ、まったく逆のことを詠んでいます。桜の花の影で眠ったらそのまま死んでしまうから、うかうか眠らないというのです。死を恐れない西行の潔さにくらべると、「死ぬのが恐い、死にたくない」と本音を吐いて、なんとも無様であり、往生際が悪いのですが、自分を飾らず、とても正直です。それゆえ、真に迫ってきます。
苦しみの多い娑婆であるけれどもそれでも生きていたい。死ぬのは恐い。こうした往生際の悪さこそ一茶の真骨頂でした。あるがままに弱さを見つめ生に執着すること、死を恐れることは煩悩であり、わたしたち愚かな人間は煩悩があればこそ、笑ったり泣いたり、喜怒哀楽に翻弄されるもので、一茶はそのあるがままを受け容れて生きました。一茶には、「老後」とか「余生」といった言葉は無縁でした。生きている最後の一瞬まで、煩悩にとらわれている愚かな人間の生を懸命に生き抜こうどしたのです。
人間は誰しも弱い存在です。一茶はその弱さを決してごまかしたりせず、あるがままに自分の弱さを見つめ、悲しい時は、大いに悲しみ、つらいときには大いに嘆き、喜ばしいときには大いに喜びました。
このように「あるがまま」を大事にしていたからこそ、前もって辞世の句を詠む「わざくれ」、つまり作為を嫌ったのです。一茶にしてみれば、理想の死に方を求めて、現代風にいえば、終恬に励むなど、思いもよらないことではないでしょうか。(以上)