仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

如来の驚き

2012年03月04日 | 浄土真宗とは?
3日は当寺法話会。熊本のSご講師。節談を入れた話の運びが見事でした。そのご法話の中で、森繁久弥さんが舞台で泣いた話をしてくださいました。この話題は以前、読売新聞の編集手帳(2009年11月11日)に紹介され、人の知るところとなった話です。

森繁久弥さんが若いとき「屋根の上のヴァイオリン弾き」九州公演で観客に対して大失態を演じてしまい、舞台で泣いたことがあったという。

芝居が始まったのに最前列の少女が居眠りをしていた。
森繁さんはじめ俳優たちは頭に来て面白くない、起こせ、起こせとばかりに床を音高く踏みつけて床を鳴らした。
しかし少女は起きなかった。
アンコールの幕が上がって少女は初めて頭を上げたが両目は閉じたままだった。
居眠りに見えたが実は盲目の人が全神経を耳に集めて芝居を心の目に写そうと必死だったことが分かった。
心無い仕打ちを森繁さんは恥ずかしく思い、舞台で泣いた。

すこしお説教風に味わいを書いてみます。

「大悲をもつて西化を隠し、驚きて火宅の門に入り、甘露を灑ぎて群萌を潤し」。中国の善導大師の言葉です。如来をして驚くべき動転を起こさせた事実とは何か。それは人の世には、釈尊の教えが響きわたり、智慧者であれ、善人であれという教えが行きわたっていた。ところがその時、如来の耳に、その教えの狭間にあって、智慧なき凡夫のうめき声に聞こえてきた。

そのうめきは、智慧者たれとの教えを前にして、智慧なき自分を呪う声であり、まさに盲目の人を前に、開眼して進めというがごとき、心無い仕打ちに苦しむ凡夫を呻き声であった。

その凡夫の呻きに接したときに如来は、智慧者たれという教化の教えを捨て、大悲の相となって、凡夫の涙の中に身を置いたという。まさに如来の驚きは、自身の迂闊さへの驚きであり、すべての人を救わんとする願いへの回帰でもあったのです。

お見事、森繁久弥。
コメント
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