仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

「悲しむ」ことの重み

2012年03月30日 | 日記
夕方から築地本願寺で会合があるので、少しの時間でしたが途中、柏市図書館に寄りました。

月曜日(24.3.26)に紹介しました「東日本大震災の発生から1年を迎え、…「悲しむ」ことの重みだ”と、『世界』『中央公論』『希望』に掲載されていた“悲しみ”について」の各誌コピーで入手しようという腹積もりでした。

あるある雑誌類を閲覧するコーナーには100冊近く、人気雑誌からマイナー誌まで定期刊行物が置いてあります。各誌、表紙が見えるように工夫され、雑誌の置き方にも序列があるらしく、売れ筋は、入り口付近にありました。

そのせいかすぐ目に入ったのは、『新潮』(月刊)「震災はあなたの 〈何〉を変えましたか? 震災後、あなたは〈何〉を読みましたか?」の表紙でした。

表紙だけ見て、何も変わっていない自分に、少し後ろめたい気持ちを持ちましたが、目的の雑誌をコピーして、図書館を後にしました。

そして今朝(24.3.30)、昨夜は帰りが遅くなり、見はぐっていた夕刊に目を通しました。

東京新聞夕刊(24.3.29)「文芸・時評」に、沼野充義(東大教授)氏の、昨日見た『新潮』に関する短いコメントを評論導入部に執筆されていました。


大震災からはや一年。文芸関係でもこの一年を振り返った特集企画が目立つ。『文芸春秋』は「3・11から一年100人の作家の言葉」という三月臨時増刊号を出し、『新潮』は「震災はあなたの 〈何〉を変えましたか? 震災後、あなたは〈何〉を読みましたか?」という特集を組み、こちらには若手から長老まで二十八人が寄稿している。それらの寄稿のひとつひとつにいまここでは立ち入る余裕もないし、執筆者ひとりひとりの真率さには敬意を表するしかないのだが、この種の特集自体にうっすらとした違和感を覚え始めている自分に気づき、これはいったいどうしたことだろう、とあらためて考え込んだ。 
 象徴的なことに、いま挙げた二つの雑誌は特集を「完全保存版」「100年保存」と銘打っている。もちろんそれは「忘れてはならない」という強いメッセージなのだろうが、逆説的なことに、途方もない厄災を定型的な追悼企画の対象とすることによって、その記憶そのものをなし崩し的に過去に追いやってしまう危険もあるのではないだろうか。被災者の困窮も、瓦磯の処理も、原発をどうするかも、いま現在私たちが直面している問題である。
 たった一年の問に、私たちは忘れてはいけない多くのことを忘れ、慣れてはいけないことに慣れ始めているのではないか。(以上略)

この“その記憶そのものをなし崩し的に過去に追いやってしまう危険もある”は、鋭い指摘だと思います。私はその表紙を見て、何も変わっていない自分に、少し後ろめたい気持ちを持ったのですが、一年でこのたびの大震災を総括しようとするのが無理な話です。

ところがこうした売れ筋の雑誌に「何を変えたか」と迫られると、“変わって当然”というメッセージと共に、評論氏が言うように、過去の出来事として捉えてしまします。現代人は、自分や物事を客観視する場に置くことが慣れています。客観視した途端、それは終わったこととなりやすいようです。

自分を混迷の中に置き、揺れ動く中に、ある種の飛躍が起こるのだと思っています。
コメント
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