仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

若者が孤独感を強める理由

2024年10月03日 | 現代の病理
昨2日、京都での会議。新幹線のなかで「ウエッジ」を読みました。一つだけ拾って見ます。

若者が孤独感を強める理由(駒澤大学総合教育研究部の萩原建次郎)

若い世代が最も孤独を感じているのはなぜか?
そこには子ども時代におけるある「体験」の欠落が関係している。

最も孤独を感じている世代は高齢者ではなく、20~29歳である。―こう聞くと、「健康で、将来に希望がある若者がなぜ?」と首を傾げる読者も多いだろう。だが、総務省が毎年実施している「孤独・孤立の実態把握に関する全国調査」では最も孤独感が強いのは20代であり、一昨年、昨年ともに孤独感が「常にある」(間接質問)と答えた20代の割合が10%を超えている。若者の孤独感が強い背景には何があるのか。
(中略)
 小学生による暴力行為発生率が中高校生を抜いたというデータがあります(文部科学省「令和4年度 児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」)。それだけ、子どもが大人からのプレッシャーに押しつぶされそうになっているということの証左でしょう。また、SNSなど非対面でのコミュニケーション、記号的なやりとりが増えた結果、身体性あるいは身体感覚を失い、他者の表情や声色をうかがったり、自分の感情を言葉で表現したりすることができなくなっている表れだと思います。
 現代における「自立」の実態は「孤独」と同義とも言えるほどやせ細り、子ども・若者にとっては、希望よりも無理やり押し出されるような、。強いられた自立タヘと変貌しています。もっと自由に、失敗しながら子どもたちには様々な体験をさせたいものです。
 若者が強い孤独感を抱くような社会に活力があるはずがありません。まずは我々大人たちの考え方や行動を変えていく必要があります。(以上)
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ことばが変われば社会が変わる①

2024年10月02日 | 日記
『ことばが変われば社会が変わる』(ちくまプリマー新書463・2024/7/10・中村桃子著)、頭の部分だけ目見ましたが興味深い内容です。

一九八〇年代まで日本には「セクハラ」ということばはなかった。
 「セクハラ」ということばがなかったから、セクハラはなかったのだろうか。そう考える人はほとんどいないだろう。むしろ、「セクハラ」ということばが広く使われるようになった結果、セクハラが目に見えるようになったのではないか。
 「セクハラ」の例は、ことばには、社会の見方を変化させる力があることを教えてくれる。社会の見方が変われば、社会は変化する。新しいことばが、社会を変化させたのだ。
(中略)
もうひとつは、「社会構築論」とも呼べる考え方だ。この考え方を唱えたのが、哲学ミッシェル・フーコーだ。第一章でも見るように、フーコーは、ことばは単に社会の変化を反映しているのではなく、ことばで語ることによって、その語っている現象が社会的に重要な概念になると指摘した。この、「言語」が「社会」を「構築」するという指摘は、物事の見方が百八十度変わることを意味する「コペルニクス的転回」になぞらえて、「言語論的転回」とも呼ばれる。
 「セクハラ」の例で言えば、人々が「セクハラ」ということばを使い始めたことで、それまで長いおいた放置されてきた行為が、被害者を苫しめる犯罪として社会的に重要な概念になった。
 社会構築論は、ことばと社会は別々なのではなく、両者は密接に関係しており、社会変化がことばの変化をうながすと同時に、ことばの変化も社会変化をうながすという形で、両者の変化がお互いに影響を与えて、ことばと社会が一緒に変化していくと考える。(つづく)
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生きづらさ

2024年10月01日 | 浄土真宗とは?
本願寺発行の月刊「大乗」10月号が送られてきました。今年の4月~連載している「なるほど仏教ライフ」10月号の執筆原稿の転載です。

「生きづらさ」を感じる人が多いという。この「生きづらさ」という表現は、1990年代後から徐々に新聞紙面上での登場回数を増やし、2000年代後半に大幅に増加して今日に至っているという。令和6年版 厚生労働白書でも、―人々が「生きづらさ」や孤独・孤立を感じざるをえない状況を生む社会へと変化してきたーと指摘されています。「生きづらさ」の内容と原因は、色々と説かれていますが、一つに、インターネットの普及等によって「思い通りになる」という万能感が増長し、逆に「思い通りにならない」現実が「生きづらさ」として実感されることがあるようです。
日常生活の行動や感情の起伏の多くは、無意識のうちに行われています。たとえば「目の前に髪の毛が落ちていたら、なぜ汚いと思うのだろうか」、『身体と境界の人類学』(浮ケ谷幸代著)によると、髪や爪は本来、頭部にあり手の先にあるものです。それが本体から切り離されて、違った形態で目にさらされると、あるべきところにないことから、人に不安や落ち着きのなさを抱かせる。身体から離れた身体の一部、あるべきところにないものとして、「汚い」「気持ち悪い」「居心地悪い」「不安」という思いをもつとあります。本を読みながら「なるほど」と思ったことです。私たちは、無意識の中にある「普通」に支配されています。
無意識下にあるものを意識化する。これは心理学をはじめ、さまざまな分野で研究されていることです。これは浄土真宗においても言えます。無意識下にある普通の一つに、人は思い通りになったことの中に喜びや安心を見いだすことがあります。欲望というギラギラしたものではなく、当たり前の普通のことです。しかしその普通が私を苦しめるのです。
以前、終末期にあるKさんという女性とお会いしたことがあります。Kさんは、手術後の胃がん再発で治療を断念して、訪問ケアを受けておられました。ご自宅にお伺いすると、一方的に子どものときからのことを取りとめもなく語られました。それは、いまの惨めな現実の原因はどこにあるのかといった回想をされているようで、家庭や人間関係のなかに生じている不幸の原因は自分にあったという後悔と、では自分はどうすれば素直な自分になれるのか。諦め切れない悔しさ、やり直せたらやり直したいという思い。こんな思いや後悔を持ちながら死んでいかなければならない不安を語られたあと、私を見つめ「「なぜ、わたしはこんなに苦しまなければならないのか」という問を投げかけてこられました。私は率直に「それはあなたの欲が深いからです」と言いました。それから十分くらい会話をしていたら、突然「わたしはなぜこんなに欲が深いのか」と大きなため息をつかれたのです。
その後、担当の医師からいただいたメールには、「Kさんは、ご家族に看取られて亡くなりました。心の葛藤は最後まで続いていましたが、次第に険しさ、厳しさは和らいでいきました。特に西原様のお話のなかで安心する部分があり、明らかにある種の変化が感じられました」と記されていました。
Kさんを苦しめていたものは、「思い通りになったことのなかに安心する」という無意識の感情であったようです。その無意識の中にある私が明らかになるとき、その苦しみを違う視点で捉えないすことができるようです。
私の中にある最も見えにくいことは「煩悩を具足せる凡夫人」(浄土真宗聖典『註釈版』550項)であるということです。阿弥陀仏の摂収不捨の救いを領受するということは、凡夫である私が可視化されることであり、その凡夫の私を仏と同質の存在と見てくださる阿弥陀仏の智慧と慈悲に開かれて行くことでもあります。
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