昨夜、車で移動中、テレビ番組が流れていました。内容は長嶋一茂が出演しており中学時代の恩師が、その頃の長嶋一茂の成績についてコメントしていました。その中でその恩師が自分のことを「恩師としては」と語っていました。自分の自分を「恩師」と語ることは、言葉の誤用でしょう。先生も「先生としては」の使うことも本来は誤用でしょう。生徒から見ての恩師であり先生です。
「懇志」も同様でしょう。「懇ろなる志」なので、自分で「懇志を持参しました」と使いがちですが、自分では「志」と書くべきです。
昨夜、車で移動中、テレビ番組が流れていました。内容は長嶋一茂が出演しており中学時代の恩師が、その頃の長嶋一茂の成績についてコメントしていました。その中でその恩師が自分のことを「恩師としては」と語っていました。自分の自分を「恩師」と語ることは、言葉の誤用でしょう。先生も「先生としては」の使うことも本来は誤用でしょう。生徒から見ての恩師であり先生です。
「懇志」も同様でしょう。「懇ろなる志」なので、自分で「懇志を持参しました」と使いがちですが、自分では「志」と書くべきです。
西原先生がお書き下さった記事を拝読して、小学生の頃の違和感を思い出しつつ、自らの日常の発言を顧みているところです。
西原先生、書いて下さり、誠に有り難うございます。
この記事の終わりに「懇志」「志」についても書いて下さいました。
何年前でしょうか、このブログの記事で「懇志」「志」についての西原先生のお考えを拝読する機会に恵まれて、自分の習慣を改めました。
私は最初、「志」と書いてお供えしていたのですが、「懇志」と書いてある他の方のお供えを目にして、志より懇志の方が丁寧な気持ちが伝わるのかなぁ と思って、それからは私も懇志と書くようになったのですが、西原先生の記事を読ませて頂いて、志と書くように改めました。
ところで、同様に御門徒さんがお寺さまへ法要や法話会の際にお供えする金子のお包みに「御法禮」と書いておられるのを目にする機会もございます。
「志」と「御法禮」の意味合いはどう違うのかにつきまして、西原先生のお考えを教えて頂けると大変有り難いのですが、可能ならばどうぞよろしくお願い申し上げます。