仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

神のみわざ

2012年03月08日 | 新宗教に思う
数日前、曽野綾子著『老いの才覚』(ベスト新書)を読みました。第8章は「神様の視点を持てば、人生と世界が理解できる」という興味をそそるタイトルが付いています。

“やっぱり、キリスト教の考えは、そうなんだ”と思う記述がありました。もちろん彼女は、“「敬虔なクリスチャン」ではない私は”と言われるように、一般的な信者で、彼女の意見や考えがカトリックを代表するとは思っていません。

“やっぱり、そうなんだ”と思った記述は、「神がいると思ったことが、二度ある」という小見出しの所にあります。

 私は博打は好きではありません。でも、私が書こうとしている主人公を生かすためには、カジノもまた場として必要になるかもしれないからと、同行しました。そして私はエレベー夕―の中で、その人に言ったのです。
 「もし、これで大金を儲けたら、そっくりそのまま、あの貧しいシスターたちにあげることにしましょう」
 賭け金の上限も決められているしょぼくれたカジノで、ケチな私は百ドルだけチップを買いました。ルーレットは一台しかやっていなかったのですが、座る席も気にもなりませんでした。私は同行者にチップを張ってもらうことにしました。
 「早くすって帰って寝よう」と、私は考えていましたが、ルーレットを見つめて、光っているように見えた数字に二度張ったら、二度とも当たったのです。その時、「敬虔なクリスチャン」ではない私は、神さまは博打場にもいらっしゃるのだ、と思ったんですね。…


もう一つの記述も、同様に物理的な出来事の上に、神の存在を思ったというものです。“やっぱり、そうなんだ”とは、神のみわざ(存在)を物質的な出来事の上に見る傾向があるということです。

キリスト教で宗派によって「原罪」の理解は異なるようですが、基本的には“永遠の生命を失う”とか“苦しみ”は、物理的な現象の上に見る傾向があります。

「この世の出来事は、神の意思による」という考え方がキリスト教ですから、すべてが神のみざわだと理解するのかもしれませんが、神のみわざといえば、何か超自然現象をイメージします。

浄土真宗の開祖・親鸞聖人は、数量で示された仏さまは真実の仏ではないと示されています。これは人間の尊厳も、「最後まで、ひとりでトイレに行ける」とか「~できる」という、形の上に見ないということでもあります。

 私たちは、病気が治った、儲かった、成功したなど、「~できた・~できる」という結果を重視します。そして結果は多く、数量で示されます。数量で示した途端、かけがえのなさや、唯一という尊厳が失われ、相対的な価値に埋没してしまいます。

親鸞聖人は『顕浄土真実教行証文類』に、真実の恵みを、人はどのような状態となっても阿弥陀如来と同質量の意味と値打ちを持っていることに開かれることだ(入正定聚の益)と示されております。

キリスト教も、神のみわざを、もっと精神的なものとして味わっておられる方もあることは疑いません。ただ傾向として、物質的なことや、超自然現象の上に見ることが多いように思われます。
コメント (2)
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