行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

七仏通誠偈

2017年03月14日 | 仏の心
諸悪莫作

衆善奉行

自浄其意

是諸仏教


もろもろの悪をなすなかれ

もろもろのよいことは奉じ行え

自らの心を清らかにせよ

これが諸仏の教えである。

釈尊が現れるまでに6人の仏さまがいらっしゃいました。釈尊を含めて過去七仏と言っています。

過去七仏は、

一.毘婆尸仏(びばしぶつ)

二.尸棄仏 (きしぶつ)

三.毘舎浮仏 (びしゃふぶつ)

四.倶留孫仏(拘留孫仏) (くるそんぶつ)

五.倶那含牟尼仏(くなごんむにぶつ)

六.迦葉仏(かしょうぶつ)

七.釈迦仏 (しゃかぶつ)

の7人です。

この過去七仏の共通の教えが七仏通誠偈です。

至極簡単なことで、小学生でもわかることですが、これを行うことは簡単ではないかもしれません。

悪いことはするな。

良いことをせよ。

自分の心を清らかにせよ。

これが7人の仏さまの教えである。


今の世の中、この徳目が欠けていると思います。

子どもの心でさえ曇ってしまっています。

簡単な事のようですがよく考えてみる必要があります。

烏鷺滝が苦を語る

2017年03月10日 | 仏の心
○お釈迦様は、人生は苦であると説かれた。
○苦の中にはいろいろある。
それを四苦八苦というんじゃ。
○人生楽しいことばかりじゃあ思うとる人は苦しいことに出会えばほんまに苦しい。
○人生苦しいものじゃあ思うとりゃあ、本当に楽しいことがわかるんじゃ。
○うまいもんばかり食うとる人はさらにうまいもんを食わにゃあ気が済まんようになってくる。
○人生は苦じゃあ言うても、無理して苦業することはない。
○苦業せんでも、人生は苦しいんじゃけぇ。
○苦業でも怠けでもいけん。
○中道がお釈迦様の教えなんじゃけぇ。

随人観美

2017年03月07日 | 仏の心
松原泰道師の言葉から

仏教でいうなら、仏の願い、本願を引き出すということでしょう。

卒業の時の最後の授業に、先生は黒板に、「随人観美」と書かれました。

そのときの印象は、いまも鮮烈に私の胸に残っています。

人にしたがって美を見よ。

みんな一人一人が美しいものをもっている。

それを観察し、見つけ出すのが教育なのだ。

という言葉です。

 私はそのときには十分にはわかりませんでしたが、のちにだんだんとわかってきました。

そしてこれに「全人皆神」とつけ加えさせていただき、

前に申しました「随処作主、立処皆真」と対句にしました。

 「随人観美、全人皆神」(人にしたがって美を観ずれば、全人皆神なり)

 この「随人観美」は、「即人観美」(人に即して美を観ず)でもいいでしょう。

人それぞれに即して美を見るのです。

この美は、当然ながら表面的な美しさにとどまるのではなく、

真、善、美を含んでおり、真、善、美につながっています。

 つまり、どんなに欠点の多い人間でも、そこには神の摂理があり、必ず使命をもっているということです。

言い換えれば、曲木の人間でもどこかに神の心があるわけです。

 シェークスピアは、逆の面から同じことを述べています。

 「いかなる悪徳も、外面にはいくつかずつの美徳のしるしを見せている。

それをせぬようなら、そんな愚直な悪徳はかつてない。」

 じつに説得力のある言葉ではないですか。

マナスル初登頂や、アイガーの東山稜の初登攀などによって知られた槇有恒さんは、

二度も日本山岳会会長を務められていましたが、

山に登るの心得として、

「自然の奥底に秘められた無辺際の精神との交流を忘れないでほしい。

それは自然を真に愛し尊び大切にすることにつながる道と思う。」

と記されています。

人間もまた、一個の自然の存在です。

その奥底には、無辺の精神が秘められています。

いかなる人といえど、いかなる人をも軽蔑できないし、

卑しめることはできません。

自分の健康や幸福を誇り、不幸な人を思いやることのできない人は、

ただただ「慢」の修羅の人というほかないのです。





 

神様の心 仏様の願い

2017年03月03日 | 仏の心
松原泰道師の言葉から

私が早稲田大学の学生だったころ、教育学部の教授に原田実という方がいらっしゃいました。
先生はクリスチャンで、教育のセオリーはすべてキリスト教思想でした。
先生がつねづねおっしゃるのは次の一点でした。
「人間が生まれてくるのは偶然ではなく、
神の心をもって生まれてきている。
その神の心がどこにあるかを引き出すのが教育というものである。」
 だから、知識だけを教えるなら教師は労働者でいいけれど、
神の思し召しを引き出すのは、神を信ずる者にして、初めてできること。
それが教育者であるという考えです。
その考えに基づき、先生は、
「教師は、労働者ではなくやはり、聖職者でなければならない」
ともおっしゃっていました。
 仏教でいうならば、仏の願い、本願を引き出すということでしょう。
 卒業の時の最後の授業に、先生は黒板に「随人観美」と書かれました。
そのときの印象は、今も鮮烈に私の胸に残っています。
人に従って美をみよ