行雲流水

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随人観美

2017年03月07日 | 仏の心
松原泰道師の言葉から

仏教でいうなら、仏の願い、本願を引き出すということでしょう。

卒業の時の最後の授業に、先生は黒板に、「随人観美」と書かれました。

そのときの印象は、いまも鮮烈に私の胸に残っています。

人にしたがって美を見よ。

みんな一人一人が美しいものをもっている。

それを観察し、見つけ出すのが教育なのだ。

という言葉です。

 私はそのときには十分にはわかりませんでしたが、のちにだんだんとわかってきました。

そしてこれに「全人皆神」とつけ加えさせていただき、

前に申しました「随処作主、立処皆真」と対句にしました。

 「随人観美、全人皆神」(人にしたがって美を観ずれば、全人皆神なり)

 この「随人観美」は、「即人観美」(人に即して美を観ず)でもいいでしょう。

人それぞれに即して美を見るのです。

この美は、当然ながら表面的な美しさにとどまるのではなく、

真、善、美を含んでおり、真、善、美につながっています。

 つまり、どんなに欠点の多い人間でも、そこには神の摂理があり、必ず使命をもっているということです。

言い換えれば、曲木の人間でもどこかに神の心があるわけです。

 シェークスピアは、逆の面から同じことを述べています。

 「いかなる悪徳も、外面にはいくつかずつの美徳のしるしを見せている。

それをせぬようなら、そんな愚直な悪徳はかつてない。」

 じつに説得力のある言葉ではないですか。

マナスル初登頂や、アイガーの東山稜の初登攀などによって知られた槇有恒さんは、

二度も日本山岳会会長を務められていましたが、

山に登るの心得として、

「自然の奥底に秘められた無辺際の精神との交流を忘れないでほしい。

それは自然を真に愛し尊び大切にすることにつながる道と思う。」

と記されています。

人間もまた、一個の自然の存在です。

その奥底には、無辺の精神が秘められています。

いかなる人といえど、いかなる人をも軽蔑できないし、

卑しめることはできません。

自分の健康や幸福を誇り、不幸な人を思いやることのできない人は、

ただただ「慢」の修羅の人というほかないのです。