行雲流水

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おのれなりけり

2017年03月17日 | 仏の心
松原泰道師の言葉から

 お年寄りは自分が好きで年をとり、自分ですすんで体が不自由になったわけではありません。

好むと好まざるにかかわらず、誰もが生きていくうちに年をとっていくものなのです。

「子ども叱るな来た道じゃ 年寄り笑うな行く道じゃ」

という言葉のように、年寄りの老いた姿に将来の自分の姿を重ね合わせてみることが大切です。

 人ごとではなく、自分の将来の姿がそこにあるのだ、と考えることです。
 
 相手の中に自分の姿をみていく、

「おのれなりけり」と思う心です。

そのように思えば、自然と思いやりや相手を許す気持ちが出てくるものです。

 たとえば、年寄りを看病するとき

「おのれなりけり」の心を持っていれば、

冷たい扱いをしようとは思わないのです。

「自分が年寄りだったらこうしてほしい」

と思うとおりに世話をしてあげることでしょう。

 嫁と姑の問題でも同じです。

 姑は自分が嫁だったときを思い、

嫁は自分が将来姑になったときを思う。

相手を自分としてみることができれば、

自分である相手が悲しむようなことをしようとは思わないはずです。

 病人を世話するときも、

この「おのれなりけり」の心と、

観音様にお仕えするように

「この人が自分にいろいろな形で教えてくださって、自分を救ってくださるのだ」

という謙虚な気持ちをもつことです。

 ほかに介護する人がいないからといった消極的な気持ちや、

世話をすれば遺産が入ってくるといった

「お駄賃」が目的の気持ちではいけません。

これが自分のすべきことなんだと、思うことによって、

価値が違ってきます。

 なすべきことだから、どうしたらもっと楽しく、

苦労が少ないようにできるだろう、

という工夫や創造も生まれてくるでしょう。

 そのような態度でことにあたり、修羅場にも立ち向かっていけば、自然に道も開けてくるのです。