行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

啐啄同時

2012年07月13日 | 道元・正法眼蔵・曹洞宗
 啐啄同時は、もともと中国の民間の言葉ですが、禅書『碧巌録』に収録されています。「啐」とは、雛が卵の殻を内側からつつくことで、「啄」は、親鳥がタイミング良く卵の殻を外側からつつく様子を表しています。禅で「啐啄同時」と言えば、弟子の修行が熟したのを高僧が見計らって、悟りの動機を与えることを言います。卵の殻は、親鳥が割るのではありません。あくまでも、雛が割るのです。
よく、教育者が、「啐啄同時」を教育にたとえますが、私は啐啄同時は、教育現場における先生と生徒の関係ではないと思っています。あくまでも、機の熟すのを待って悟りに誘うことなのです。学校教育は機の熟すのを待っておれない部分もあります。道元禅師は、中国での師匠であった如浄との啐啄同時によって、身心脱落すなはち、悟りを開いたのです。

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白骨の御文

2012年07月10日 | 親鸞・歎異抄・浄土真宗
蓮如上人の、有名な『白骨の御文』です。 

それ、人間の浮生(ふしょう)なる相(すがた)をつらつら観ずるに、凡(おおよ)そはかなきものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)、幻の如くなる一期なり。
 されば未だ万歳(まんざい)の人身(じんしん)を受けたりという事を聞かず。一生過ぎ易し。今に至りて、誰か百年の形体を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫(もとのしずく)・末の露(すえのつゆ)よりも繁しといえり。
 されば、朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて、夕(ゆうべ)には白骨(はっこつ)となれる身なり。既に無常の風来りぬれば、すなわち二(ふたつ)の眼たちまちに閉じ、一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装を失いぬるときは、六親・眷属(ろくしん・けんぞく)集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。
 さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり。されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生(ごしょう)の一大事を心にかけて、阿弥陀仏(あみだぶつ)を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。
(御文章五帖目十六通)


(現代語訳)
人間の一生をつらつら考えてみますと、およそはかないもので、幻のようなものです。
未だに一万歳という齢を重ねた人というのを聞いたことがございません。それほど一生というのは過ぎやすいのです。それどころか百年の生を受けた人だっていません。私が先か、他の人が先かは別として、人間は必ず死んでしまうものなのです。私より遅れるか、先立つか、いずれにしろ人々は次々と死に、その数は、木の葉の雫や露よりも多いのです。
つまり、人間というものは、朝には紅顔の若者が、夕方には死んで白骨になる運命なのです。早くも動かしがたい無常の風が吹いてくれば、二つの眼はたちまちに閉じて、息も絶えてしまうのです。そうすると、紅顔はむなしく変じて、みずみずしい桃やスモモのような装いを失い、そのときになって、家族身内のものが嘆き悲しんでも、どうしようもないのです。そこで、いつまでも嘆き悲しんでいても仕方がないというので、野外で火葬しますと、ただ白骨だけがのこるのです。あわれとはいうものの、なかなか簡単に言い切れないほどです。そのように人間の運命ははかなく、しかもいつ死ぬかわからないという点では、老人、若者を問いません。だからこそ、どんな人も、早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深く信じて頼って、念仏すべきなのです。


 私は、若者の死に何度か立ち会ったことがあります。どんなに美男、美女であっても、棺を火葬炉に入れられてから1時間もすれば、白骨というよりも骨灰となって出てきます。「死」というものの無常さを全身で思う瞬間です。もちろん、死に関しては老若男女を問わず、無常なものです。さっきまで元気だった人が、急にしんでしまうということもよくあることです。蓮如上人は、人生はむなしいものだということだけを語っているのではありません。むなしいものだから、どのように生きるべきかということを問いかけています。私は、むなしいからこそ、今日一日を大切に生きていきたいのです。


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歩く

2012年07月06日 | 最澄・天台宗・比叡山
比叡山千日回峰行を二回成し遂げた、酒井雄哉師(天台宗大阿闍梨)の含蓄ある言葉です。

 人間だって自然の一部。自然はいろいろな命がつながり合っている。たった一人で生きている人間なんて誰もいない。誰もがいろいろな命の中で生かされているんだな。
 自然と離れて生活しているとそれを忘れてしまうけれど、自然の中に身を置いてみると、ああ一人ではないんだんなあ、としみじみ思うよ。

人間の自然な姿は歩くことだから、歩くことは人間を振り出しに戻してくれる。何かを振り返らせてくれるような気がする。原点かもしれない。地べたに自分の足がつくことで、土地とふれあい、大地の力をいただくことができる。
何かを置き忘れているような気がしたら、少しずつでいいから、歩いてみるといい。歩くことがきっと何かを教えてくれるよ。

自分の中に如来様がいて、日光と月光とが自然の中に立っている。仏さんなんて探したっていないんだ。自分の心の中にあるんだな。

呼吸のことはよく知らなかったけど、呼吸に意識を集中していたら気持ちが静まってきた。

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人の短をいうなかれ

2012年07月03日 | 空海 真言宗 金剛峯寺
弘法大師空海が座右の銘としたといわれている崔子玉座右銘の一文です。崔子玉は中国の後漢時代の人です。

無道人之短 無説己之長


人の短所をいうことなかれ 己の長所を説くなかれ


施人慎勿念 受施慎勿忘


人に施しては慎んでおもうなかれ  施しを受けては慎んで忘るることなかれ


世誉不足慕 唯仁為紀網


世誉は慕うに足らず ただ仁を国の制度となす


隠心而後動 謗義庸何傷


心にはかりてのち動く そしり何ぞ傷まん


無使名過実 守愚聖所臧



名をして実に過ぎしむるなかれ 愚を守るは聖の臧する所なり


在涅貴不緇 曖曖内含光



黒泥にあれども黒まざるを貴ぶ  曖昧としてうつに光を含め


柔弱生之徒 老氏誡剛強



柔弱は生の徒なり 老氏は剛強を戒む


行行鄙夫志 悠悠故難量


行行(剛強)たる鄙夫(人格の低い人)の志し 悠々として故(まこと)に量り難し


慎言節飲食 知足勝不祥


言を慎み飲食を節し 足るを知りて不祥に勝て


行之苟有恒 久久自芬芳


久久自ら芬芳(すぐれた功績)あらん

これを読んでみると、現代人の病巣にあてはまっているような気がします。

人の短所を言ったり、自分の長所をやたらと自慢するものではない。

特にこのところ、他人に厳しく、自分に甘い人が多くなったような気がします。

周りに対しては、正義の鉄拳をふるうが如く、攻撃するが、自分の悪に気づかず、あるいは気づいていても、開き直っているような人です。いわゆるクレーマーと呼ばれる人でしょうか。

仏教は、外に向かっている目を自分の内側に向けなさいと教えています。

人を攻撃すれば、必ず自分の方にもどってきます。

他人にして差し上げたことは忘れても、人様からしていただいたことは、忘れない。

人の悪いところばかり見ているのはむなしいことです。

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