行雲流水

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白骨の御文

2012年07月10日 | 親鸞・歎異抄・浄土真宗
蓮如上人の、有名な『白骨の御文』です。 

それ、人間の浮生(ふしょう)なる相(すがた)をつらつら観ずるに、凡(おおよ)そはかなきものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)、幻の如くなる一期なり。
 されば未だ万歳(まんざい)の人身(じんしん)を受けたりという事を聞かず。一生過ぎ易し。今に至りて、誰か百年の形体を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫(もとのしずく)・末の露(すえのつゆ)よりも繁しといえり。
 されば、朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて、夕(ゆうべ)には白骨(はっこつ)となれる身なり。既に無常の風来りぬれば、すなわち二(ふたつ)の眼たちまちに閉じ、一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装を失いぬるときは、六親・眷属(ろくしん・けんぞく)集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。
 さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり。されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生(ごしょう)の一大事を心にかけて、阿弥陀仏(あみだぶつ)を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。
(御文章五帖目十六通)


(現代語訳)
人間の一生をつらつら考えてみますと、およそはかないもので、幻のようなものです。
未だに一万歳という齢を重ねた人というのを聞いたことがございません。それほど一生というのは過ぎやすいのです。それどころか百年の生を受けた人だっていません。私が先か、他の人が先かは別として、人間は必ず死んでしまうものなのです。私より遅れるか、先立つか、いずれにしろ人々は次々と死に、その数は、木の葉の雫や露よりも多いのです。
つまり、人間というものは、朝には紅顔の若者が、夕方には死んで白骨になる運命なのです。早くも動かしがたい無常の風が吹いてくれば、二つの眼はたちまちに閉じて、息も絶えてしまうのです。そうすると、紅顔はむなしく変じて、みずみずしい桃やスモモのような装いを失い、そのときになって、家族身内のものが嘆き悲しんでも、どうしようもないのです。そこで、いつまでも嘆き悲しんでいても仕方がないというので、野外で火葬しますと、ただ白骨だけがのこるのです。あわれとはいうものの、なかなか簡単に言い切れないほどです。そのように人間の運命ははかなく、しかもいつ死ぬかわからないという点では、老人、若者を問いません。だからこそ、どんな人も、早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深く信じて頼って、念仏すべきなのです。


 私は、若者の死に何度か立ち会ったことがあります。どんなに美男、美女であっても、棺を火葬炉に入れられてから1時間もすれば、白骨というよりも骨灰となって出てきます。「死」というものの無常さを全身で思う瞬間です。もちろん、死に関しては老若男女を問わず、無常なものです。さっきまで元気だった人が、急にしんでしまうということもよくあることです。蓮如上人は、人生はむなしいものだということだけを語っているのではありません。むなしいものだから、どのように生きるべきかということを問いかけています。私は、むなしいからこそ、今日一日を大切に生きていきたいのです。

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