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野々池周辺散策

野々池貯水池周辺をウォーキングしながら気がついた事や思い出した事柄をメモします。

「1.6秒ラップタイムが削れる!?」としたら買う?

2016-06-08 08:53:13 | 二輪事業
最近発行された”DIRTSPORTS”ネット記事に「 17KX250Fは、1.6秒ラップタイムが削れる!?」という記事があった。
カワサキ発表では、2017年モデルKX250は前年度モデルに比して、テストライダーが1分55秒のラップを1.6秒縮めたそうだ。
   「DIRTSPORTS」
一般的に、競争車の次年度モデルの出来具合を表す指標として、ラップタイムの数字を、しかも社内のテストライダーのタイムを、評価基準として説明時に出すのは異例で、あまり聞いたこともなかったので興味が出てきた。で、正式の広報資料にはどう書いてあるのか見ると、カワサキモーターズジャパンの広報資料「KX250F」には、「高性能パーツにより、高出力とスムーズなパワーデリバリーを実現。 2017モデルではエンジンはよりパワフルに、車体はより軽くスリムになり更なる進化を遂げています」とある。また、オフロードモデルの大市場アメリカの販売会社KMCの広報資料「KX250F」には、 
「WITH MORE SUPERCROSS AND PRO MOTOCROSS WINS THAN ALL OTHER OEMS COMBINED,
NO ONE ELSE COMES CLOSE TO THE CHAMPIONSHIP-WINNING POWER OF THE KAWASAKI KX™250F MOTORCYCLE.
 THE TRADITION CONTINUES IN THE ALL-NEW 2017 KX250F, THE BIKE THAT BUILDS CHAMPIONS.」とだけ書いてある。
両社の広報資料にはラップタイムの記述はなく、”DIRTSPORTS”誌が「1.6秒ラップタイムが削れる!?」に”?マーク”を付けた理由か分かった。

競争車の場合は特にそうだが、ライダーが最も速く走れる仕様、つまりラップタイムを稼げるベスト仕様は、ライダーによって必然的に異なるのが普通。何故なら、評価ライダーの体格、技量レベル、好みは各自異なるので、ある評価ライダーが最も走りやすい仕様でも別のライダーが走行するとタイムが低下する場合がある。上級ライダー、特にプロクラスになればなるほど各ライダーのベストスペックは異なっているが一般的で、1.6秒短縮できたといっても、この値を信じて購入した全ライダーに恩恵があるかというと一概にそうでもない。だから、今回のラップタイムが短縮できるとした資料に興味が沸いたわけだが、詳しい説明を見つけられなかった。

競争車の量産仕様は国別仕向地向けに変えることぐらいが一般的で、ライダー毎に仕様を変えて販売することはまずできない。
従って、社内の評価ライダーが試乗してタイムを1秒強短借したというのは事実だろうけど、「これは正常進化しましたよ」程度なんだろう。
各社の競争車も次年度モデルでは同様に正常進化するので、各社の評価ライダーのタイムを出して説明しても、最近話題になった軽自動車の燃費表示値と同じで、末端ユーザーにとってはあまり重要でないのではと勘ぐってしまう。

それでは、開発中のマシンが他社競合車と同等以上のポテンシャルを確保したかを確認する術があるのかというと、開発の前線である競争の場でそれを確認するしかない。すでに、ホンダもヤマハも全日本モトクロス選手権の場は次年度以降モデルの開発の場と公式に表明しているので、全日本選手権で競争者と対等に戦い、そして勝てれば、マシン性能を十分に引き出す事が出来る優秀なライダーが乗っても十分に勝てる能力を持った車として確認できる。(少なくとも、各社が持つ最高の技術を争っている場で、優れた技術を出し惜しみする企業は多分ないので、全日本選手権で勝てば、勝てるポテンシャルを確保したと納得できる)加えて、評価ライダーがテストコースで評価する場合、もっともタイムを稼ぎやすいベストラインを走ることができるが、実際のレース本番ではそう簡単ではない。レースを戦っている時、自分のベストラインを相手が先に取れば、当方は必然的に遅くなる。つまり勝つための要素は、自由なライン取りができる、所謂「懐の深さ」の高いマシンが勝ち負けに大きく影響する(競争しない一般車には要求されない事だが)ので、競争車は実際の競争でレベルアップを図り確認していく以外にない。これが、競争マシンに要求され最大の課題で、だから、国別で言うと20位に届かないモトクロス後進国日本のレースを、欧米のモトクロス専門誌が注視している理由でもある。


さりとて、1秒強でも早く走れるようになったのは事実であろうから、正常進化したことまでを全く否定はしないが、しかし、例えば、仮に3秒以上に早くなったら、これは技術的勝利だと言えるかもしれないが、ユーザーは雪崩を打って飛びつくだろうか。
二輪ではないが、こんな記事があった。若者の車離れは、クルマが嫌いだから? 金銭的に厳しいから?『日本自動車工業会の調査によると、クルマを保有していない若者の約6割が「クルマを買いたくない」と考えているそうです。 若者の車離れを裏付ける結果ですが、クルマが嫌いになったわけではなさそうです。クルマを買いたくない3つの大きな理由・・(略)クルマを買いたくない理由で多かったのは「クルマを買わなくても生活できる」「駐車場代などで今まで以上にお金がかかる」 「自分のお金はクルマ以外に使いたい」の3つでした。自動車そのものに対するネガティブな理由はごくわずかですから、やはり金銭的な問題が大きいと考えてよいでしょう』下がり続ける給与所得者の平均年収に、加えて車両価格の問題も影響しており、平均的な自動車価格は年々上昇しているのも購買意欲に影響しているとしている。そのために、低い購買力に合わせた車種も必要かとして、付加価値の高いクルマを売るというやり方は成立しにくくなっており、機能を最小限にし、価格を抑えた車種を用意するなど、購買力が低い事を前提にしたプロダクト戦略も必要となってくると結論つけている。二輪よりさらに利便性の高い四輪車ですら、日本の若者の購買対象となっていないとすれば、趣味性の高い二輪の販売は苦戦するのは必然の様な気がする。

前にも書いたが、若者が二輪に全く興味がないのかと言うとそうでもなく、懐古趣味の話題、例えば40数年前に開発された二輪に群がる情報が飛び交っている所など、これ自体は健全な二輪文化の一部だと思うが、絶対多数の二輪購買層となるべき若者が飛び付く情報を発信できる場が少ないのではと感じられる。現代の若者にとって、高い二輪は敬遠される、二輪は格好よい対象になっていない、もしくは若者を取りこむソフト活動に欠けているいるかもしれない。BSフジプライムニュースに出演した”ジャパネットたかた”の高田社長が面白いことを言っていた。「最近のメーカーは新商品の特徴をさかんに強調するが、重要なのは、その商品を買う事でお客がどんな素晴らしい生活を楽しめるかを十分説明しきれていない」・・・" Let The Good Times Roll"・・・


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二輪は将来なくなる?

2016-04-06 06:10:54 | 二輪事業
3月23日の日本経済新聞 電子版にヤマハ発動機、「二輪×通信」で異分野走る と言う記事があった。
世界を代表する二輪企業、ヤマハ発動機が二輪ビジネスの将来は不透明だとして、次世代の成長ビジネスへの展開を研究中だとする記事。記事には、『背景には強い危機感がある。主力事業である二輪車は国内2位だが、柳弘之社長は「二輪車は100年と永劫(えいごう)に続くビジネスではない」と強調する。すでに日本市場は全盛期の8分の1の規模に縮小。「二輪車の利用者は必ず四輪車に移行する」。ヤマハ発OBも「今ある乗り物の中で、最初に大量生産を終えるのは二輪車だろう」と予測』として、日本の家電業界が台湾、中国や韓国企業に負け彼らの傘下に組されつつある中で、二輪の将来性も厳しく四輪にとって代わられると言う。また、「いい製品をつくるだけでは売れない。電機業界で起きたことは自動車業界でも起きうる」としながら、ヤマハの持つ既存技術を斬新な形で組み合わせた新しい商品を目指すとある。
 「日本経済新聞」

ヤマハは昨年2月27日、日本で9番目の自動車産業進出を発表した。浜松を拠点とする二輪企業(ホンダ、スズキ、ヤマハ)が揃って四輪事業で再び競争するとの記事にビックリしたが、市場は好意に受け止めヤマハ発の自動車進進出に株価が大きく跳ね上がった。この時も、二輪は世界的にみると先細りになるという危機感がヤマハ発にはあるのだろうと感じたが、ヤマハはまだ生産開始もない自動車産業の、次のビジネス展開を既に考えていたとは、今回改めて浜松企業の底力に正直驚くばかり。

二輪が普及し始めて凡そ60年、一つの事業が衰退する周期を凡そ100年だとすると、ヤマハ説(二輪が衰退するとすればと言う説だと思う)によれば二輪の寿命は残り40年。確かに二輪市場は、先進国ではもうこれ以上の伸び代はなく、今後伸長するのは新興国のみで、その新興国も二輪未開発の領域、例えば中近東イランの7800万市場やアフリカ・ナイジェリアの1億8000万市場が手付かずのまま残っている。これらは政情不安で市場参入に躊躇する企業もあると聞くが、多くの企業が機会を狙っている。また、経済変動の波が大きく今ひとつ安定性に欠けるものの東南アジアや南米も早晩回復するだろう。こうしてみると、残り40年で二輪が衰退の方向になるとは考え難い。

かって中国二輪企業が東南アジアへ参入したが品質不具合で数年も経ずして撤退。結局、従来からの二輪企業が今も生き残っていると言う世界的にみると稀有な産業だ。しかもハーレーやホンダを中心とする二輪事業の展開は世界的不況と言われる中でも二輪事業は極めて高い収益性を確保できる事業体であり続け、それは今でも変わらない。その理由は、市場動向を見た的確な戦略と素早い決断/実行力こそが高い収益性を確保できる事業体に成長することを、ハーレー、ホンダの柔軟性のある企業体質から見える。メディアによる二輪の将来は必ずしも明るいと言えないとする論調もしばしばあるが、二輪事業は経営手腕によっては「未来ある事業体」と言えるのではないだろうか。当たり前のことだが、最後は結局、経営戦略の優劣が勝敗を決する。

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Kawasakiで活躍した”Olle Pettersson”

2016-03-26 09:56:59 | 二輪事業
26日のアメリカMX専門ネット「Motocross Action」 CLASSIC PHOTOS: THE MAN WITH THE PLAN FOR JAPANに、Olle Pettersson を取りあげている。「Olle Pettersson was a successful Husqvarna Grand Prix racer when the Japanese brands made their first foray to the GP circuits in the late 1960s. Olle signed on to develop the Suzuki GP bikes, which were later used to devastating effect by Joel Robert and Roger DeCoster. Olle then moved over to Kawasaki to R&D their GP bikes.
   「Motocross Action」

カワサキのMXGPマシン開発黎明期、Olle Pettersson選手は、当時モトクロスの主流であった欧州において、カワサキのMXマシン開発に多大な影響を与えた。その事実を、2013年11月に開催したモトクロス開発陣のOB会、「KX40周年有志の会」で、当時の開発責任者達が次のように証言している。当時のレース部門開発責任者だった百合草三佐雄さんは、次のように書いている。「KXが誕生した頃は世界モトクロスの主流はヨーロッパ勢であった。 アムステルダムを拠点として岩田さんが駐在し、開発ライダーにペテルソン、レースで勝つためにハンセンと 契約しヨーロッパ各地のレースに参戦し、KXの開発を行った。

そして、欧州現地で本格的モトクロスマシンの開発に専念した伊吹さんの証言:「KX40周年を祝う有志の会」:伊吹清隆 「1960年代後半には、二輪ロードレースGP界を日本メーカーが席巻しており、モトクロスGPの舞台においてもスズキとヤマハが輝かしい戦績を上げていました。 カワサキは国内において市販改造車による赤タンク時代の実績はあったものの、1972年4月に本格的にモトクロス車の開発のための新組織(技術部開発1班)を 立ち上げた当時は、先行二社との歴然とした技術的ギャップが存在していました。 赤タンク時代の星野、山本氏等スター選手は、既に引退していて、 経験の少ない若手ライダーのみではマシン開発の方向性も掴みかねている状況でした。一挙に世界GPを戦えるマシンを開発することを目標において、 開発ライダーとして評価の高かったスエーデン人オーレ・ペテルソン氏と契約を結びました。1972年秋、溶接部品と簡易治具を持ち込みペテルソン宅のガレージ内で フレームを製作して、テストを繰り返しながら改良をするなどの大胆な試みを約1ヶ月かけて遂行しました。メンバーは、KHIから岩田、伊吹、藤原の3人、ペテルソン氏と 弟(メカニック)の5人編成であり、加えてカヤバ社から眞田氏が参加しました。このプロジェクトによって技術的方向性を掴むことができて確かな成果が得られたと確信しています。また、ペテルソン氏のマシンへの細部にわたる適切なアドバイスと共に、 実直で親切な人柄からモトクロス全般に関する多くのことを教えられました。その後、ハンセン(250cc)、ハマグレン(500 cc)の2選手によりヨーロッパGPに参戦し、 短期間でまずまずの実績を残せるまでレベルを上げることができたのは、このスエーデンでのプロジェクトが土台になっていると考えます。」
   
   (Olle Pettersson、Stig Pettersson、Vic Iwata)

加えて、モトクロスマシンの重要構成部品である、サスペンションメーカーから現地に派遣されたKYBの眞田さんの証言:「KX40周年を祝う有志の会」:眞田 倬至(KYB(株)OB) 「1972年、得意先から酷評を受けていたカヤバの2輪車用緩衝器に対し「世界一の商品を見つけ出せ!」と、上司から重い責任と種々の試作品を背負いながら世界を80数日間放浪。まだ粗削りのDe Carbon式ガスダンパーのポテンシャルを見出してくれたのが唯一、Pettersson氏(K社契約・元MX世界チャンピオン)だった。 これが契機となって2輪車用ガスダンパーの開発が始まった。この後、数年の歳月と一切の妥協を許さない上司の指導、それに優秀で忍耐強い同僚たちによって手が加えられ、 先に商品化されていた4輪車用ガスダンパーとは似ても似つかぬ製品に仕上がった。究極の性能を要求されるレースマシンから始まり、高性能な2輪車にはガスダンパーが 装着され今日に至っている。彼の一言がなければ2輪車用緩衝器事業の社史は別の運命を辿っていたと私は思う。今回、出掛ける前にKYB秘書室に私の計画を伝え、会社のロゴが入ったお土産と最近の会社概況冊子を携えPettersson氏にお渡しした。ご本人からは「プロライダーを引退してから初めて会う2輪車関係の珍客。このように自分を評価して頂き幸せだ」との言葉を頂いた。
   
   (41年ぶりの再会にはPettersson氏(私の右・手前)、奥様、二人の子供の夫婦と孫たち8人が、
    Strangunus(Swedenの首都、Stockholmから西に100km)で温かく私を迎えてくれました。
    私の良き遊び相手だった坊や(写真右から2番目)も今や45歳です。彼も父親の血筋を継ぎ、
    Sweden MX125㏄のチャンピオンになったそうです)

1973年にデビュー以来、数多くの勝利とタイトルを獲得し続け、その評判を揺ぎ無いものとした、カワサキの輝かしいモトクロッサー「KX」は2013年に40周年を迎えた。その間、一度たりとも開発を中断することなく、一度たりとも生産を中断せず、一度たりともレースを止めることもなかった40周年。その原点に、当時の開発陣の一人として、Olle Pettersson選手が多大な貢献をしたことは間違いない事実で忘れる事は出来ない。その後、KXはモトクロッサーの最適技術を開発し続け、世界中のモトクロスファンに愛され、多くのチャンピオンを勝ち取りながら今も改良され続けている。

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死ぬ前に一度は乗るべき”Kawasaki KX500”

2016-03-19 06:20:02 | 二輪事業
  「「DIRT BIKE」
つい最近、米国の著名MX専門誌「DIRT BIKE」が「KX500: THE ONE BIKE TO RIDE BEFORE YOU DIE」として、”死ぬ前に一度は乗るべきマシン、KX500”を記事に書いている。当時、カワサキのモトクロスマシンは他社に先駆けてフルラインアップし、KX60からKX500を揃え、多くのモトクロスファンの期待に答えていた。加えて、KXを基本に開発したエンデューロ・マシンもラインアップに揃えていたので、日本の二輪企業のなかでは最も多くのオフロードマシンを世界中に供給していた。その最上級排気量クラスマシンがKX500で排気量は499cc。KX500の活躍は、昨年9月にも「Mmotocross Action」が取り上げていたものを本ブログKawasaki KX500に書いたが、1989以降の最上位排気量クラスのレースではカワサキの独壇場で、当時、米国では最も多くのチャンピオンフラッグを獲得したマシンとして評価されている。

専門誌がKX500の戦闘力を高く評価してくれるのは嬉しいのだが、開発を担当した一員として振り返ると、KX500ほど難しい開発はなかったと言う記憶が残る。なにせ、今、振り返って昔を思い出しても、2サイクル500cc単気筒エンジンの開発は難しかった。2サイクルエンジンの制御機構が無い時代に、シリンダー、エキゾートパイプと気化器で、有り余るエンジンパワーをコントローラブルな特性に纏めるのが難しい。この時代、2サイクル500cc単気筒のパワーをコントロールできる選手は世界中探しても5指もいない時代で、誰でもコントロールできるエンジンパワーではなかったのは確かだろう。日本と米国の社内評価ライダーの評価は手厳しく、もっとコントロールできるパワー特性にしてくれと強く要求した。ベンチマークにしていたホンダCR500は一般評価ライダーの評価は素晴らしく、評価ライダーはCR500以上のエンジンコントロール性をいつも要求するが、これが困難で、一時はKX500エンジンの出来の悪さを自虐的に考えてしまう時期さえもあった。しかし、いざ本番レースになるとトップライダーが乗るKX500の持つ戦闘力は群を抜いて素晴らしかった。つまり、乗るライダーによって評価が異なっていたのだ。その証左の一つに、「Racer X online」は、カワサキワークスRon Lechienが「1988年Motocross des Nations」に出場した際の、 LechienがKX500を絶賛した記事を書いた。

  「Superbikes ... Jeff Ward up front」
加えて言えば、カワサキのワークスライダー Jeff Ward がKX500で米国で当時流行していた、「Superbikers」に出場し何度も勝ったと言う事実や、当時内燃機関研究の先端研究所ベルファストにある大学のブレイア教授にも請われてKX500エンジン数台を研究用に送ったこともある。このように、KX500エンジンは汎用性があり優秀だった。更に、KX500の能力の高さを目の当たりにしたのは、当時アメリカの某社ワークスライダーであった、某著名ライダーを世界モトクロス選手権にカワサキで参戦させるべく、彼が常時使っていたカリフォルニア・ランカスターのMXコースでKX500のワークスマシンを試乗させた際、彼の特別仕様ワークスマシンより、仕様を合わせていないKX500が4秒速く走ったことだ。現地でこの試乗には立ち合ったので良く覚えている。

だが、月日が経って歴史を振り返って思い出すのは当時の自虐的にさえなった苦労ばかり。こうして多くの専門誌がKX500の、その優秀性を語ってくれることで、やっぱりKX500は凄かったんだと思いだしても微かに微笑みが浮かんでくる程度でしかなく、頭の中を占めているのは苦労し悩んだ事のみが先に出てくる。

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一番マシンはKTM 450SXF

2016-01-13 06:25:46 | 二輪事業
モトクロスの世界最高峰レース AMAスーパークロス(SX)の第1戦はHUSQVARNA車が優勝、2位がKTM車で、欧州車の1-2で2016年シリーズの幕が開けた。

一方、SXに出場する各ライダーが使用するバイクは、全米各地で販売されるモトクロスの量産車を使用することが義務付けられており、近くの販売店で販売されている量産車と基本的に同じ仕様を、各ライダーが最もその技量を発揮できるように規則の範囲内で変更や改良される。SXで優勝したバイクも基本的は量産車と同じ仕様なので、量産車が持つ基本ポテンシャが高くなければ世界トップクラスのライダーを満足させることはできない。つまり、優勝したバイクは世界最高峰の選手が扱っても十分に機能する性能を持った、非常に優れたマシンだと言える。

そんな中、つい最近、モトクロス専門誌「Motocross action」誌に、2016 MXA 450 SHOOTOUT: CRF VS. FC VS. KX-F VS. SXF VS. RM-Z VS. YZ-Fとして、全米で販売されているモトクロスバイク6車の性能比較を実施した記事があった。
それによると、一番マシンは欧州のKTM 450SXFで「It should win, and it did win」という最大限の評価を得ている。二番目は同じく欧州のHUSQVARNA FC450
  ■FIRST PLACE: KTM 450SXF
      「ベストバイクと評価された KTM 450SXF」
しかも、 KTM 450SXFは2016年だけでなく、 2010, 2011, 2015 のベストマシンでもあり、ここ2年連続を含む4年、このクラスのベストマシンだと評価された。モトクロスのバイクは二輪の原点の一つである競争するために、そのレースに勝つためだけに、開発販売されるマシンだから、技術的合理性にそって設計されている。本来、技術的合理性の追及は日本の二輪企業が得意とするところで、その技術的優劣を競うレースに勝つことで、日本企業は、その優秀性を世界中に認知されてきた歴史がある。その日本企業が左程の規模にない欧州企業に頂点を奪われ続けて4年、モトクロスバイクを開発しつづけた日本の優秀な技術者達は悔しくないのだろうか。一般的なオンロードバイクは3年もしくはそれ以上の期間を置いて大変更される事が多く、各社の谷間に販売された最新バイクはベストバイクになることが概して多いのと違い、モトクロスバイクは勝つために毎年、大変更や小変更なりの改良をされて市販されるので、毎年各社の取組や技術力が問われる。ましてやモトクロスバイクの大市場である、アメリカ市場に焦点を合わせて開発されているので、雑誌社の評価ライダーも真剣になって甲乙をつけざるを得ない。

ちなみに、二輪の大市場でもある、米国の最近の二輪販売台数傾向は2014 U.S. Motorcycle Sales Totals によると、下記のようになっている。
         
ストリートバイクの絶対量(334千台)が一見多いように見えるが、Harley-Davidson Reports 2014 Fiscal Resultsによるとハーレーダビットソン社がその1/2弱(171千台)を米国で販売しているので、ストリートバイクの全販売量は163千台しかなく、この数を日本と欧州各社がシェア販売するのに対し、オフバイクの販売量81千台は日本各社とKTMとHUSQVARNA社がほぼ独占。しかも、レース専用車としての高収益性もあって米国市場ではオフロードバイクの主流であるモトクロスバイクの販売は二輪各社の大きな収益源となっている。また、景気が戻りつつある米国市場の二輪販売では、オフバイクの伸びは前年度比+11%で、米国市民のオフ車志向は根強い。この構図は30数年前と変わらず、根強い米国市民のオフロードバイクによる家族の絆を伴って、二輪の大市場である米国ではモトクロスバイクを優先せざるを得ない理由でもある。昔、とある会合で、ある二輪企業の部長と話しをしていると、「今、モトクロスがよく儲かっているんで足を向けて寝られないんですよ」とその部長が徐に言った。
目の付けどころが確かだど儲かるんだなーと、頭から離れなかった。

★アメリカはオフロードの大市場、その原点を、前出のWorld Mini Grand Prixでも書いたが、全米には、多くの市民がオフロードを楽しむエリアが幾つもある。 現地に行くと、そこには数台のキャンピングカーを中心に、父親と少年少女達がモータサイクルや四輪バギー、VWの改造車でビュンビュンと走リ回っている。 側で、母親はキャンピングカーに張ったテントの下で昼食のサンドウィッチを準備をしていて、楽しそうな家族的な風景があった。 どちらかと言えば、キャンピング地の近くは、リタイヤした老人達が余生を過ごす場所でもあるが、泊ったホテルの食堂は家族が楽しむ場所でもあった。 そこには、暴走族まがいの人達は一切おらず、あくまでも家族単位の行動で、アメリカの週末の過ごし方の一つを垣間見る事が出来た。 アメリカ人は長い開拓移民時代に、家族が一つの単位となり、幌馬車に揺られて 新天地を求めて歩み、永住の地にたどり着いた歴史がある。 その頃の開拓民にとっては「家族」が唯一の財産であった時代の名残が、いまも脈々と受け続けられているのだろうと思った。 開拓時代の馬が現代は単にバイクに替わっただけなのだろう。一家の宝である自分の子供が英雄になった、この瞬間瞬間を家族は大事にしていくのだろう。 一時期、アメリカの家庭もドラッグ等の家庭内暴力問題が深刻な課題としてクローズアップした時期があった。 その時期、家庭内のコミニュケーションツールとして活用された一つがMXだったと聞いたことがある。
  
  





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ホンダに期待!

2015-12-09 06:22:04 | 二輪事業
今日(8日)の東洋経済オンラインFBに、ホンダ「2190万円バイク」が背負う重大使命と言う記事があった。
ホンダが発売した2190万のバイクが背負う重大使命とあるので興味が沸く。ホンダ2輪事業を担当する鈴木哲夫執行役員が述べた記事を読むと、「排気量は1000cc。最高出力はレース仕様から3割程下げているが、仕様変更は必要最低限にとどめ、「世界一操りやすいマシン」という本物の乗り味を再現することにこだわった」「生産台数は1日1台で、バイクの品質を確保するために、エンジンから車体の溶接・組立まで、全ての工程を手作業を行う」「既に成熟域にある先進国での伸び代は少なく、今後趣味商品の主戦場となる新興国市場で勝っていくためには、現時点で先進国においてそれなりのブランドアイデンティティを 構築しておかないといけない」、そのための2190万バイクだとしている。ベテランの作業員が全て手作業で品質管理する事がホンダ二輪が求める最高品質だと解釈できるコメント(ホンダは手作業でしか最高品質を確保出来ないと言う意味にもとれる?)に加え、大型バイクに強いブランド力を持つハーレーや欧州バイク等の新興国進出を食い止めるためには、ホンダのブランド力を更に高める必要がある。その戦略バイクこそが2000万のMtotoGPバイクのレーサー・レプリカだとも読み取れる。
    「ホンダRC213V]
 
ところで、ホンダの鈴木哲夫執行役員と言えば、4年ほど前、こんな発言「高回転高出力バイク「そういう時代じゃない」」をしていた。
高回転・高出力型の大型バイクについて、「そういう時代じゃない。乗りにくいものを造ってもしょうがない」との認識を示し、
『どんどん高回転、高出力になり、排気量メリットは200km/h超えた領域で初めて意味があるようになってしまった。 『CBR1000』などのクラスのオートバイは10年前にホンダ・レーシングが8時間耐久レースに出ていた車と全く同一スペックになっている。 そんなものは街中で楽しいはずも無いし、そういう時代じゃないと強調。 そして、「基本的には、乗りにくいものを造ってもしょうがない。 ハーレーやBMW、ドゥカティみたいに他の人に見せる盆栽のようなものはホンダには無理。 だから少なくとも実用品というか、 乗ってどうのというのは絶対負けないようにしろと、 見せてどうとか飾ってどうとかという所はあきらめてもいいから、乗ってどうだけちゃんとやれと社内には言っている』、とあったので、4年前、とうとうホンダは鈴鹿8耐の常勝マシンだったCBR1000を筆頭とするスーパースポーツ分野から一歩後退するのだと、我々二輪レースファンはがっかりしていた。

ホンダの幹部発言は、需要が低迷している世界の二輪市場で最も販売を伸ばしているハーレーダビットソンそしてBMWやドゥガティの欧州車を、ただの見栄えだけの「盆栽」と称し、今後のホンダは彼らとは一線を引き、より実用性の高い二輪の開発に専念し、性能一辺倒の二輪はレースの世界でのみ反映させる意向なんだろう考えていた。結果、スーパーバイクで覇権を争う2015年鈴鹿8耐では、時代遅れの車(と業界では言われてるらしい)に元ホンダワークスライダーを引っ張り出してもマシントラブルで惨敗、一方、優れたスーパースポーツバイクの開発に成功したヤマハワークスが16年ぶりに優勝。さすがホンダだ、言ったことを実践していると感心した。

ところが4年後の今年、盆栽バイクだと貶したハーレーや欧州車に脅威を感じ、新興国でのホンダブランドを守るためには、世界最高峰レースMtotoGPのレーサー・レプリカが必要であるとの発言に、この心変りは何なんだろう。ひょっとしたら、その意味するところは、ホンダが何度も述べてきたモータスポーツこそ企業のDNAでレースに勝つ事こそ重要だという原点に戻ったのであれば、これからのホンダは楽しくなるはず。世界中の何処のモータースポーツ分野においても、その頂点を目指してホンダの戦いを見る事が出来れば、二輪はもっと楽しくなる。そうなって欲しいと切に思っている2輪のレースファンが、どこにもいる。明日のホンダに期待!!

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「過去の思いで・・・KX40周年」

2015-11-27 08:20:01 | 二輪事業
フェイスブック(FB)機能は優れている。FBの「過去の思いで」と言う機能は、過去に自分が投稿した記事の幾つかを再度シェアしないかと言う。
それで、数年前の事を思いだし、自分で懐かしく一人で笑う。2013年11月27日FBの私の「過去の思いで」は「KX40周年」だった。もうあれから2年もたった。カワサキが市場に販売してきた二輪車の中で、その発売から現在に至るまで同じ機種名を踏襲している機種は”KX"以外にない。そんな伝統あるKXマシンは、その後、何度も世界市場で数多くのチャンピオンを獲得しNO1の地位をゆるぎないものとしてカワサキに還元してきた。さて、次回の祝う会は何年になるのだろうか。
 「「KX40周年を祝う有志の会」・・集合写真」

        

                             
                               2013年 11月16日
                          世話人:大津信 安井隆志 和田修 増田智 立脇三樹夫


 
                「1973年にデビュー以来、数多くの勝利とタイトルを獲得し続け、その評判を揺ぎ無いものとした、
                 カワサキの輝かしいモトクロッサーブランド「KX」が40周年を迎えました。
                 以来41年、一度たりとも開発を中断することなく、一度たりとも生産を中断せず、
                 一度たりともレースを止めることもなかった40周年です。
                 この間、モトクロッサーの最適技術を開発し続け、世界中のモトクロスファンに愛され、
                 多くのチャンピオンシップでチャンピオンを勝ち取りながらKXは改良されてきました。
                 これもひとえに多くのカワサキファンからの真摯な指摘と支持を受けて、毎年進化し続けてきた結果であり、
                 そして現在も進化し続けている歴史がKXの40周年だと思います。
                 そこでKXを誕生させ育しみ、その時代々に活躍した開発担当者やレース関係者が集まり、
                 昔を懐かしみ敬愛し、次の世代に期待して懇親を深めようと有志の会を立ち上げました」
  
                         
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レースチームOB会

2015-11-21 06:53:08 | 二輪事業
今年のカワサキモトクロス(MX)会忘年会の案内メイルがきた。
毎年、カワサキモトクロスOB会忘年会としての案内だったので毎回出席し、多くのカワサキモトクロス開発関係者へも参加を呼び掛けてきた。そして、OB会の一つの区切りとして2013年末には「KX40周年を祝う有志の会」を開催し、80名のOBと現役の開発関係者が出席し大いに賑わい大成功だった。ところが昨年は限定メンバーでの会と言う事で参加しなかったが、今回の忘年会には限定条件も付いていないようなので、出席してみようと思っている。

ところで、レース関係者のOB会と言えば、つい最近のFBに「ヤマハレーシングOB会」という懇親会が投稿してあった。ヤマハレース関係者の大先輩からライダー、メカニック、技術者達約60名ほどの参加でにぎわったとある。さればと、ヤマハ(発)HPを検索してみると、「ヤマハレーシングライダーOB会」がある。ヤマハ(発)HPによると、イベントの会趣旨にはこう書いてあった。「ヤマハがレース活動を始めて50年以上が経ったけれど、これまで世代やレースカテゴリーの壁を超えてレース仲間が顔を合わせる機会がなかった。 その草創期を知っている先輩や私たちが元気でいるうちに、ぜひ実現したいと思っていたんです。そんな時、コミュニケーションプラザでヤマハのレース史を紹介する企画展をやっていると聞いたので、ちょうどいいチャンスだと、みなさんに声をかけたわけです」と話すのは、この集まりを企画した本橋明泰さん。 (略) さらに幹事役として、'80年代の全日本ロードレースや世界GP、鈴鹿8時間耐久で華々しい戦績を残した平忠彦さんも協力。残念ながら都合が合わず欠席された方が 数名いらっしゃいましたが、この日、本橋さんと平さんを含む13名の方たちが集まりました。・・・・」 「鈴木秀明さんがじっと腕組み。「今の俺たちがあるのは、こういう先輩たちのおかげだな」と真剣な表情でつぶやく姿が印象的でした。」 ・・・ などなどおもしろい話が山盛りで、どなたの話からもヤマハに対する愛着とヤマハライダーであったことの誇り、勝つことに一途でファミリーのように 固く結ばれた当時のチームやスタッフを懐かしむ様子が窺えました。ヤマハのレース活動は、今もこうした人と人のつながり、絆によって支えられており、 その関係を失わない限り、これからも数多くの勝利を積み重ねていくことでしょう」、と書いてある。

なるほど、なるほど、レースに勝つと言う目的に集まった集団の考えは何処も一緒だなと思った。
実は、カワサキのモトクロスOB有志が「KX40周年を祝う有志の会」を計画立案した際の趣旨も全く同じ。カワサキのモトクロッサーKXが世に出て41年目になり、その成り立ちから軌道に乗せるまでの大変な辛苦をなめ、良い路線を次の世代に引き継がせた大先輩たちが元気な内に、KX開発に携わった人達、KXでレースを戦った仲間が、世代を超えて一堂に集まり、更に未来を担う現役世代にその思いを繋げたらいいよねと思い発案したもの。さればと”隗より始めよ”と一部有志が集まり始めたのが「KX40周年を祝う有志の会」。ヤマハも全く同じ思いを持っていたと知って、我が意を得たり。

モータースポーツ活動は企業活動の原点でありDNAだと言って憚らない、世界の二輪業界を牽引する日本の大企業ホンダとヤマハ。
「レース参戦すること」「一番になること」、そこから生まれる、勝つことへの貪欲さの中で育ってきたライダー、メカニックや技術者達の集まりは、どの様に蓄積され継続されていくのか非常に興味があったが、やっていることは何処とも同じで特異な事はないようだ。

勝つか負けるかの勝負の世界では、重要な競争力学が働くことで大企業病にかからぬ組織が自ずと出来上がってくるのが普通である。
とかく、レース参戦と言うと、何ぼ単車が売れるのかとか、どれだけ企業イメージが上がるのかとか、費用対効果はあるのかとか、好き物の集まりとか、色々な声があるらしいとよく聞くが、それらは実際のレースに勝負をかけてきた仲間達にはとっては妙に屁理屈をつけた議論にしか聞こえない。だから、レース仲間はOBから現役まで自然と意気投合し、なにかあると直ぐに集まる。

さて、来年2016年はカワサキのワークス活動50周年にあたる。1966年、水冷ロータリーバルブ直列2気筒125ccエンジンを搭載したワークスマシンが日本GP(鈴鹿)でデビューした、その年がカワサキのワークスレース活動初年度だと聞いている。
(ワークスチームの定義はウィキペディアのワークス・チームやホンダモータスポーツのチームの話による)




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東京モーターショー報道記事から

2015-11-02 06:18:23 | 二輪事業
今年のモーターショー、FBやHPで企業各社の考えている、あるいは各社が市場に知らせるべき項目は簡単に読むことが可能。
二輪・四輪に限らず各社の思いを好意的に伝える記事が多い中で、興味があった記事として10月29日の朝日新聞デジタルに 、
「(モーターショー二輪編)バイク愛するオヤジ記者の嘆き」と言う、バイク歴30年余の記者がバイク好きの素人目線で二輪ブースの印象記事を書いている。
10年ほど前には150万前後であった入場者数は徐々に少なくなってきたとはいえ、一昨年は90万超えに回復しつつある。下記写真は朝日新聞デジタルより。
 
朝日新聞デジタル記事の要点。
①.東京モーターショーは四輪が主戦場のショーだけに致し方ないが、モーターショーでの二輪の位置づけは、正直なところ「おまけ」
  国内4メーカーの出展数はほんのわずかだった。
②.カワサキ:「ニンジャ」を中心に展示、カワサキのエンジン開発に対するこだわりを押し出す。ただ、すでに市販されていることもあり、鮮度は若干落ちる。
        高価格路線で、若いライダーへの新提案が乏しいのが残念。
③.ヤマハ発動機:定番「YZF」がメインで、「R3」は、国内では珍しい320ccエンジンは「400でも250でもない」魅力をどれだけ浸透させることができるか。
        ヤマハはEVオンロードスポーツなどのコンセプトモデルも積極的に出展。他のメーカーとの違いを鮮明にさせていたという印象。
④.スズキ: 大型ツアラー「隼(ハヤブサ)」頼み。
⑤.ホンダ:「CB」シリーズでリターンライダー狙い。いずれも定番から大きな変化はなく、「守り」の展開の様相。

日本国内のバイク事情で、若者のバイク離れが顕著になる一方、バイク利用者の平均年齢は51才に達しているという、業界団体の調査結果がある。
バイク愛好者が次第に高齢化していく傾向のなかで、日本の二輪各社は若者を引き戻す策を検討中だとNHKのWEBニュース(転機迎える 日本のバイク)に昨年あった。
で、二輪各社が考える、若者を二輪に戻す策の具体例を東京モーターショーで観察できるかと期待したが、朝日新聞記事を読む限りではそれは期待外れだったようだ。
一方、二輪を足がかりに四輪事業を大成功させたホンダ、スズキに加え、今年2月、ヤマハは四輪事業に進出することを公表し、日本で第9番目の四輪製造会社となった。
ホンダ、スズキの株価が4,000円前後で評価される中、ヤマハの株価は3,000円程の市場評価であり、四輪事業を成功させたいヤマハは新しい四輪コンセプトモデルを展示した。
ホンダ、スズキに加えヤマハも四輪への取り組みがより鮮明になったように感じられる。

そんな中で、東京モーターショーでの二輪企業社長の意気込みが公表されているので、各社の二輪への取り組みを抜粋してみた。
【ホンダ】 東京モーターショー2015での代表挨拶内容での、二輪に関する部分を抜き出すと、
「まずは、私たちの原点ともいえるスーパーカブです。1958年、Hondaは、生活に役立つ新たなモビリティとして、このスーパーカブを提案しました。
 一方で、その翌年には、当時の二輪レースの最高峰であるマン島TTレースに出場を果たしています。生活に役立つ身近な製品を開発する一方、
 モビリティを追求する企業として、走りを究めることも、不可欠であると考えたからです」
「モーターを搭載した「EV-Cub Concept」、環境性能に磨きをかけた「Super Cub Concept」などの次世代モデルを、発売を前提に開発しています。
 今後も、多くのお客様に愛され、新しい時代を担えるスーパーカブを生み出して行くつもりです」
「走りの追求においては、MotoGPクラスで活躍するHonda RC213Vで公道走行を可能としたものが「RC213V-S」です。「世界一速く走るマシンとは、
 世界一操りやすいマシンである」という思想に基づき、新たな試みを具現化したモデルです。レースで得た技術の、単なる市販車への還元ではなく、
 その枠を超えた「世界最高峰の夢のマシン」を、今、お客さまのもとにお届けします」
として、ホンダのスーパーカブの紹介と世界最高峰二輪レースMotoGPのエッセンスを取り入れた「RC213V-S」がホンダの回答だった。

また、世界第2位の二輪企業であるヤマハの社長挨拶は社長挨拶に紹介されているが、二輪を操縦するロボットでの制御研究と三輪バイクの紹介が主で、
ヤマハの新コンセプトスポーツカーにメディアの視線は向いているように見えた。
(スズキ、カワサキからの挨拶公開は見つける事ができずじまい)

東京モーターショーは世界3大モーターショーの一つと言われる時期もあったが、モーターショーの主戦場が中国、東南アジア等の新興国に移動して久しい。
しかし、日本企業にとっての東京モーターショーは、各企業の主張や夢を市場にアピールする最も適した媒体である事に間違いないはずで、
ましてや、国の経済を牽引する自動車企業社長の挨拶は世界の経済状況を見通す意味においても重要視されてきたこともあり、今年も
メディア情報を注視してみたが、二輪企業各社からの二輪事業についての格段の戦略説明を個人的には見いだせなかった。

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Kawasaki KX500

2015-09-19 06:07:17 | 二輪事業
  「Jimmy Weinert」                          
9月16日付け[Motocros Action」に「 EVERY AMA 500 NATIONAL CAMPION (1971-1993)」の記事があった。
米国AMAナショナルモトクロス選手権での最大排気量500ccクラスチャンピオンの一覧表で、1971年~1993年までの歴代チャンピオンが記載されている。これによると、USカワサキワークスがチャンピオンを獲得したのは下記の6年だが、1989以降は、500ccクラスはカワサキの独壇場であった。
    1972 …Brad Lackey (Kaw)
  1975 …Jimmy Weinert (Kaw)
  1989 …Jeff Ward (Kaw)
  1990 …Jeff Ward (Kaw)
  1992 …Mike Kiedrowski (Kaw)
  1993 …Mike LaRocco (Kaw)


こうして素直に実績を見ると、KX500は凄い!と思ってしまうが、今、振り返って昔を思い出しても、2サイクル500cc単気筒エンジンの開発は難しかった。
単にパワーを出すだけならそんなに難しいものではない。 2サイクル500cc単気筒エンジンの持つ出力特性を、どのライダー層に焦点を合わせてコントロールするかが難しい。一般の評価ライダーからは酷評のコメントだらけで、KX500エンジンの出来の悪さを自虐的に考えてしまう時期さえあった。

  しかし、現実のレースの世界でのKX500の持つ戦闘力は群を抜いて素晴らしかった。その証左の一つに、「Racer X online」ネット紙に、カワサキワークスのRon Lechien が「1988年Motocross des Nations」に出場した折、彼のマシンであったKX500についてこう語っていた。
I rode the 500 well and RJ wanted to ride the 250。 So Wardy went to the 125s、he was a smaller guy。
  The bikes in ’88 were good。 I think our 500 was better than the Honda、 to be honest」

そしてまた、1988 Kawasaki KX500 の印象についての質問に答えている。
「Yeah、 it was my bike from the nationals。 We shipped all of our bikes over there, which is a big help、
I was comfortable with it。  Like I said、 I think we had the best bike in the class。 It was great」

つまり、Ron LechienはKX500を絶賛していたのだ。

制御機構が無い時代に、シリンダー、エキゾートパイプと気化器で、有り余るエンジンパワーをコントローラブルな特性に纏めるのが難しかった。この時代、2サイクル500cc単気筒のパワーをコントロールできる選手は、世界中探しても5指もいない時代で、誰でもコントロールできるエンジンパワーではなかったのは確かだろう。その点においても、世界中のモトクロス選手権で戦ってきた歴史の中で、KX500程苦労したマシンはない。

加えて言えば、500ccのエンジン担当は、設計者や実験者とも大変苦労していた。80、125、250がパワーを絞りだすことに注力すればよく、非常に高い評価を受ける傍で、スムーズなエンジン特性を求めて、たいへん苦労してテストを繰り返す毎日だった。当時はホンダCR500のエンジン特性は一般の評価ライダーの評価も良く、あのエンジン特性は常にベンチマークだったが、そのCR500より、Ron Lechien はKX500を評価してくれていた事になる。苦労したことはいつまでも忘れずにいるもので、当時のKX500設計担当の山本さんは当時のコンロッドを今も大事に保管していると、OB会で聞いたことある。だが、こうして時代を超えて出てくる専門誌の紙面を見ながら米国AMAの歴史を振り返ってみると、KX500は高い戦闘力をもったチャンピオンマシンだったと評価できるものの、昔の自虐的になった時期の思いはいつまでもネガティブに自分の頭の中に残っている。
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