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野々池周辺散策

野々池貯水池周辺をウォーキングしながら気がついた事や思い出した事柄をメモします。

米国アマチュアモトクロスを支える3人

2015-08-03 06:25:15 | 二輪事業
そうか、もうそんな季節になったのかと、一年経つのは早い。
世界有数のアマチュアモトクロスの祭典、” Loretta Lynn's”が今、テネシー州のLoretta Lynn Ranchで開催されている。開催されるクラスは36クラス、全米各地を勝ち抜いた優秀なアマチュアライダーが集まって、誰が全米No1かを決めるレースで、Pro Openクラス(出場できるプロは条件あり)も設定されるアマチュアモトクロスレースでは世界最大級の祭典。

8月1日のRacerXに、「THE AMATEUR BOSSES」として、今年の Loretta Lynnで多くのアマチュアモトクロスライダー達を支援する二輪企業のマネージャー3人が紹介されている。彼らがLoretta Lynn'sに参戦するアマチュアライダーを全面的に支援する事で、オフロード車の大市場を底辺から支え続け、結果的に米国のモトクロス界は発展し続けていく。左からUSカワサキ「TeamGreen」の Ryan Holliday、USヤマハ「 Blu Cru」のDonnie Luce、そしてUSKTM「Orange Brigade」のChristy Lacurelle 。
   

かって、日本メーカーがオフロード市場に進出する際、最も大事にした購買層はキッズ市場で、各社ともキャンペーンを組んでこの層のユーザーを大事に育ててきた。しかし、だいぶ昔の話しだが、アメリカの訴訟問題が加熱した時期に、訴訟問題を恐れた日本の二輪企業ヤマハ、スズキ、ホンダが全米のアマチュアライダー支援から全面撤退し、全米のアマチュアライダーを支援しづけてきたのは唯一カワサキの「Team Green」のみとなった。かくして「Team Green」はカワサキ車のみならず、カワサキ以外のユーザーまでを分け隔てることなく支援しつづけることで、アメリカのオフロード市場を底辺から支え、1981年に開始された「Team Green」活動も今年で34年目に入る。

そして今、数年前から欧州のKTM社がアマチュアモトクロス分野の支援に参入した。KTMがアマチュアライダー支援を開始すると、「Team Green」が支援しきれていない分野を、それまでの日本メーカ以上の支援活動を実施するとともに、更に戦闘力のある多くのミニバイクを開発することで、絶対的なマスが増加しつつあった。「Kawasaki」と 「KTM」、KKコンビが、ともに相手を意識し共存しながら競争していけば、よりエキサイティングな米国のオフロード市場が復活する期待感がここ数年あった。

更に、2年ほど前から、日本二輪企業の中では最も多くのオフ車の品揃えを提供しているメーカー、ヤマハがアマチュアライダー支援を開始した。多くのアマチュアライダーにとって、自分が購入したバイクメーカーが全面支援してくれる企業が増える事は、鬼に金棒だ。リーマンショックで100万台規模にあった二輪市場が一挙に約45万程に落ち込んだ米国市場で、アメリカ経済は年内利上げの可能性が高いと言われる程に持ち直しつつあり、NWダウは史上最高値付近にあることをみると、遅れていた米国の二輪市場も大きく回復基調にのったという事だろう。伝統的に白人社会に支持されてきた米国のオフロード市場は大きなフォローの風に乗ったのかもしれない。

   「 FACES AT THE RACES:RacerX」

全米には、多くの市民がオフロードを楽しむエリアが幾つもある。現地に行くと、そこには数台のキャンピングカーを中心に、父親と少年少女達がモータサイクルや四輪バギー、VWの改造車でビュンビュンと走リ回っている。側で、母親はキャンピングカーに張ったテントの下で昼食のサンドウィッチを準備をしていて、楽しそうな家族的な風景があった。どちらかと言えば、キャンピング地の近くは、リタイヤした老人達が余生を過ごす場所でもあるが、ホテルの食堂は家族が楽しむ場所でもあった。そこには、暴走族まがいの人達は一切おらず、あくまでも家族単位の行動で、アメリカの週末の過ごし方の一つを垣間見る事が出来た。アメリカ人は長い開拓移民時代に、家族が一つの単位となり、幌馬車に揺られて 新天地を求めて歩み、永住の地にたどり着いた歴史がある。その頃の開拓民にとっては「家族」が唯一の財産であった時代の名残が、いまも脈々と受け続けられているのだろうと思う。開拓時代の馬が現代は単にモトクロスマシンに替わっただけで、一家の宝である自分の子供が英雄になった、この瞬間瞬間を家族は大事にしていくのだろう。こうして見ると、この世界が息づいている米国白人社会では、モトクロスを中心とするオフロード車市場は伸びる事はあっても廃れるとは考えられない。
      
 





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そうだったのか・・・

2015-07-10 06:11:39 | 二輪事業
「'15全日本MX選手権第5戦、神戸大会」でのこと。コースに出る前の元カワサキワークスライダー岡部選手と立脇選手。
      
先日の全日本MX選手権観戦記にも書いたが、このレースに往年のカワサキモトクロスワークスライダー岡部選手と立脇選手がコースマーシャルとして参加していたのでビックリした。が、それ以上に大変嬉しかったし、懐かしさもあって興奮した。もし彼らの参加がなければ雨にぬかるんだコースにただ徒労に疲れただけのレース観戦となっていたはずだと思っている。実は、全日本開催の数日前に、立脇選手のFBに岡部選手と立脇選手が当時のマシンで出場するとあったので事前に知ってはいたが誰が発案しどのような経緯があったのだろうと、粋なことも考えるもんだと気になっていた。
レース後、FB友達の貴島 久裕さんがこの経緯をFBに投稿していた。以下はその全文。
☆ 全日本モトクロス・神戸大会 ビンテージマーシャル号企画☆
「岡部を走らせたいんや」。。。 三台体制のビンテージマーシャル企画は、立脇さんの一言でカタチになったというのが知られざる真相です。 毎回、ワタシが私費で勝手にやらせて頂いてるビンテージマーシャル号。 今回も何か一台走らせて頂く予定でいたところ・・・ 神戸大会が決まった直後に立脇さんから相談を受け、レギュラーのマーシャル企画に「乗っかる」カタチで三台体制(しかも二台は本人さん!)でいこうという企画になりました。 しかし直後にワタシの身内に不幸があり、とても三台の準備は困難と判断し、一旦はお断りし白紙にさせていただきました。 ところがカワサキ関連のレジェンドの方々から「なんとかやれないだろうか」との熱意の打診を受け、一部の準備・整備・搬送を分担してやっていただけるということで企画は再浮上。 かくして史上初、ビンテージマーシャルに本人さん登場が実現しました。 冒頭の「岡部を走らせたいんや」は・・ ご存じの通り、岡部さんは80年代にカワサキに4度のタイトルをもたらしたスーパーレジェンド。 カワサキの40数年のモトクロス史上、その功績は抜きん出たものであり、またメーカー問わずに評価をしても日本モトクロス界の至宝と言えるべき人物です。 その岡部さんは92年の引退後しばらくMXからは遠ざかっておられましたが、本来ならチームカワサキの指揮を執るくらいのポストにおられてもよいのでは?・・・ と嘆くオールドファンも多数おられると聞きます。 立脇さんは、こういった背景から、かつてはライバルであった岡部さんをカワサキのレジェンドとして、地元神戸で皆さんにもう一度見てもらいたかった、 メーカーがやらないなら俺がやる!・・とまではいかないまでも、そんな気持ちがあったようです。 いつも腰が低くて控え目な立脇さんですから、真意は誰にも語られてないと思いますが、私は一度は白紙にした企画を無理をしてでも実行に移したのは、こうした熱意をひしひしと感じたからです。余談ですが、立脇さんと岡部さんは同い年。立脇さんは78年セニア(IA)に昇格後、カワサキ一筋。 一方の岡部さんはスズキ系チームから82年、国際A級に昇格。 昇格と同時にスズキワークスに加入されますが、ほどなくスズキは世界戦略車カルタスの開発に傾注するためワークスチームを解散。 そういった経緯のもと、84年にカワサキに移籍されることになるのですが、当時のカワサキのエースは立脇さん。 同い年ですが、IA歴もカワサキ歴も先輩な立脇さんは心中穏やかではなかったでしょう。 そんなチーム内ガチバトルがお二人を成長させたのか、ここからカワサキの破竹の勢いが始まり、同時にチームグリーンも発足し90年代にかけて数多くのタイトルを獲得していくのでした。 そんな現役時代を過ごした立脇さん、岡部さんに対しては今は戦友のようなお気持ちのようです。 そして、その気持ちが冒頭のような一言になったのだと、私は思います。 こんなシーンに関わらせていただいて、私も幸せです。 当時のウエアでサインボードを出していただいた平井監督。貴重なマシン(岡部車)をお借りしたY氏。 マシンの搬送から整備までしてくれた井上親子。当日奔走していただいた石垣さん。全体を仕切ってくれたキョロちゃん平田選手&貴子夫妻。 たくさんの方々、ありがとうございました。

本投稿FBに対し多くの賛同コメントが投稿されているが、全く同感するものがある。

昨年4月だったか、ホンダ技研が、全日本モトクロス選手権関東大会で、ホンダ初の2ストロークマシンを往年のホンダワークスライダー吉村太一さんライディングで登場させ、多くの関係者やMXファンからやんやの喝采を浴びている報道がメディア投稿されていた。ホンダのRC335C復元ストーリを読むと相当な予算を確保してのプロジェクトだったようだ。4ストローク一辺倒だったホンダが2ストロークエンジンでなければ勝てないこと事を知ると、相当な費用(四輪の開発費以上だとある)をかけて開発した当時のRC335Cだが、本プロジェクトはいわば“自分たちのルーツを確認することで、技術にかけるそのスピリットを再認識する”というのが復元・復刻プロジェクトの意義で、技術の伝承と製品を後世に伝えることを目的としたと書いてある。だとしても何故今頃、'73当時のマシンを現代の全日本に出す必要があったのかの真意は不明なるも、低迷した現在の全日本MX選手権に、いわゆる”喝”を入れたかったのだろうと勝手に思っていた。

そして、今年の全日本MX選手権神戸大会。この神戸大会で最も興味があり楽しかった出来事は、往年のカワサキワークスライダー岡部選手と立脇選手がコースマーシャルとして参加していたことだった。しかも当時のマシンで、当時のゼッケンをつけて、カワサキの地元神戸で、カワサキの元チャンピオンライダー達が参加した事はMXの一ファンとして神戸大会を見にきた最大の収穫だと思っている。現代の全日本選手権は本来活性化すべきIBや元J/Nクラスの参加数が極めて少なくなり、一方昔には開催されなかったキッズやレディーズクラスが全日本開催となり、参戦するライダー数の減少に伴って全日本最高峰クラスの技量レベルが世界と比較すれば総体的に低下した結果、ギラギラとした白熱する戦いが見られなくなった。そんな中での神戸大会に、多くの観客が来てくれたのは全日本を愉快に楽しんで過ごしたいという目的の人が多くいたと言うことだと思われる。特別な事前報道も場内放送もない中、岡部、立脇両選手が当時のギヤで当時のマシンで登場すると、やんやの喝采で多くのカワサキの旗が振られていた。それは神戸のカワサキが輩出したレジェンドライダーへのリスペクトの証左ではなかろうか。そして、このプロジェクトは一部の有志が立ち上げた計画だった。”あっぱれ!!”





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昔の写真は嬉しい

2015-06-10 06:15:35 | 二輪事業
元カワサキ全日本モトクロスのワークスライダー多田さんのFBに投稿された写真がこれ。
  
多田さんがFBに投稿すると、当時関係したライダー諸君等から多くのコメントメッセージが投稿されている。誰でも昔、少しでも関与した仕事を懐かしく思えてくるのは当然で、暫く眺めて読んでいると知らないことが一杯出てくる。・・・懐かしい。
詳しい年月日の記入はされていないが、US MXワークスライダーの日本テストの様子で、三田にあったMXコースでの写真。当時、毎年開催していた、日米ワークス活動の一環で来季マシンの合同テスト兼意見交換会であるが、今期レースが終了し、来季のスーパークロスが開催される合間、アメリカのモトクロスワークスライダーの殆どが来日した。 当時は、兵庫県の山奥、三田にあったモトクロスコースをカワサキが契約し耐久テスト等に頻繁に使用していた。コース脇にはかなり長い直線路をも設定し、スタート比較や練習ができるように改造しており、日米合同テストの主コースだった。
  
加えて、当時の米国「Kawasaki Racing Team」のMXワークスライダーの写真がこれ。
  
左から、Kent Howerton、Jeff Ward、Billy Liles そして Goat Breaker。USモトクロス界を代表する有名ライダーばかりだが、改めて見ると当時の超一流ライダーがカワサキを選んでくれたことに感謝。米国では、どのスポーツ選手にも一般的に当てはまることだが、一流に成ればなるほど勝てる可能性の高いチームと契約する。そのことでチャンピオン獲得の可能性が高くなり、契約金も相対的に高くなるからだ。だから何処のチームの出身かを論ずること事態は余り意味をなさず、現在の力量を評価してくれるチームと契約する。それでも、リタイヤ後は、チャンピオンになった時に在籍したチームやリタイヤした時に在籍したチームへのロイヤリティが高い傾向にあるようだ。

★スズキから移籍してきたKent Howertonからは貴重な意見を得たという意味で思い出がある。
彼がカワサキに来てからKXの評価が一変し良くなったのだ。Howertonの仕事は当時のUSワークスライダーの指導とマシン開発へのアドバイスが主契約だったと思う。ある時を境に、特に大きな仕様変更もしていないのに、日本に伝わってくるのはマシンの悪い面ばかりが強調されてくる。不思議に思っていたが、Kent Howertonがテスト来日した際に理由が判明した。Howerton の答えはこうだ。「KXは何も基本的に悪い事はないし、他社と十分な競合力がある」「あえて挙げる改良点はこれだけ・・・」と非常に明快。そのことが開発部門に正しく伝わって来ず、どこかでショートしていただけの事だった。Howertonとは机を前にして直接話した。互いにコミュニケーションの重要さを認識できたし、事実を正しく伝達することで組織の風通しが良くなった。その時以来、KXのマシン評価は一変した。ウソのように良くなったのである。

★Goat(Todd)Breakerがカワサキに居たことを知らない人も多いので、参考までに書いておこう。
KMC R&Dがオレンジカウンティ空港近くに単独の事務所を構えていた頃、確か1970年代中盤頃、その事務所で会ったのが最初だからかなり古い。Goatの兄、Brain Breakerは当時、有名なデザートライダーで、度々カワサキのマシンテストを引き受けていた。Goatは兄の後にくっ付いてカワサキの事務所に度々遊びに来ていたが、まだ10代中盤で勿論頭髪はふさふさしていた。GoatがまだToddと呼ばれていた時期だからかなり前の事だが、テストで山に出掛ける際、いつもBrainの車に同乗しており、たまたま一緒に同乗させたもらったが、悪行ぶりは今も書けないこと多く、その賑やかなこと。その後兄を超える有名ライダーに成長したが、その時以来の縁だからカワサキとは相当の長い付き合いだ。

★Billy Liles。ただただ実直で真面目なモトクロス選手で、懇親会にネクタイ姿で来たGeorgia州出身のナイスガイだ。
彼の人柄は、アメリカで2ヵ月間一緒に暮らした元カワサキワークス立脇選手が詳しい。「84年1月、2月、ニューポートビーチで、Billyと一緒にアパート借りて、CMCのレースや練習をしてたのを思い出しました。 英語が得意でない僕にゆっくりわかりやすく話してくれたナイスガイでした!」との立脇さんのコメントあり。


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「Team Kawasaki」ワークスチームの始まり

2015-04-25 06:20:27 | 二輪事業
今日(24日)のFB「Kawasaki USA」にはこう書いてある。
「The 1973 season saw Team Kawasaki's factory race teams ready to go!
 The team is full of racing legends both riders and tuners! PC: Kawasaki Heritage Hall Museum in Irvine, CA. 」
1973年のKMC(米国カワサキ)レースチームの写真で、当時は、ロードレース、モトクロス、トライアルのワークスチームで構成されていた。
当時、アメリカ二輪レース界に強烈なインパクトを与えた「Team Kawasaki」のワークスチームは、モトクロス(MX)ではJ.Weinert、B.Lackey、
ロードレース(RR)ではY.Duhamel、G. Nixon、A.Burmann等の著名な優秀ライダーを抱えていた。



当時、特に1970年代のUSカワサキ・ロードレースチームがアメリカ二輪市場に与えた強烈さ加減は度を超えていた。その効果もあってか、
時々出張するロスアンゼル移民局での通関時、カワサキステッカーを貼ったバッグを持ちバイクテストと言えば、職員は「カワサキ!」といってニコッとして0Kだった。
また、当時の関係者も健在で、一昨年「KX40周年」ビデオにも元気な姿を見せてくれた。
 「KX40周年を祝う有志の会」・・・番外編(2)
 「KX40周年を祝う有志の会」・・・その1

一方、日本では1972年、技術部内にレースマシンを専任で開発担当する部門 ”開発1班”が結成された。
当時、雑誌に載った写真を当時の班長の百合草さんが送付してくれたが、雑誌コピーによると、当時の国内のレース活動は、
ロードレースがH2Rで和田、杉本、大本、トライアルがKT250で山本、加藤、山田、モトクロスがKX125/250で竹沢、川崎、安井とある。
 

「Kawasaki Racing Team」と言う、所謂カワサキMXのワークスチームは1972年から始まった。
1972年当時から「Team Kawasaki」ワークスチームは、日本では技術部が、アメリカではKMC内に設置された技術部の出先機関 ”KMC R&D”が担当した。
当時から技術部が二輪開発を目的としてマシン開発とレース運営を担当しつい最近まで至ってきたと聞いているが、現在はどうなっているのだろう。

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US Kawasaki 「Team Green News 2015」

2015-03-20 06:35:21 | 二輪事業
     「 Team Green News 2015」
お気に入りに登録していた、"US Kawasaki HP"が何処かに移転していたらしく、探していると出てきた。
その中にある、「ABOUT MONSTER ENERGY® TEAM GREEN」を読んでいたら感心する事あり。

■1981年に立ち上った「US TEAM GREEN 活動」は今年35年目になるとあった。この間、「US TEAM GREEN」 から成長した有名な選手の一人として、最近では4度のスーパークロスチャンピオン Ryan Villopoto が紹介され、また”King of Supercross ”と称される Jeremy McGrath が TEAM GREENに帰ってきたともあった。Jeremy McGrathも「 TEAM GREEN 」の卒業生で、彼の最初のSX優勝は1989年、その時のマシンはKX。 US TEAM GREEN活動は、KXユーザーのみならず他車に乗るライダーもを含めモトクロスを楽しむ選手を区別することなくコーストラックサイドで支援している。今年も全米50箇所のローカルレース場のコースサイドにおいて支援するとある。
 ***TEAM GREEN が2014年に獲得した Championship 数***:
    Daytona Amateur Supercross: 7
    GNC Finals: 15
    Freestone Spring Championship: 8
    Monster Energy Mammoth Motocross: 14
    AMA Amateur National MX Championship at Loretta Lynn’s: 13
    Thor Winter Olympics: 21


■追記して言えば、今回の「Team Green News」でも、US KawasakiはDave Jordanを「TEAM GREEN」のUS側創始者として取り上げている。当時、カワサキのモトクロッサーの販売やアマチュアレース結果はおもわしくなく日本他社に比べ遅れをとっていたが、それ等の遅れを払拭すべく、ライダーがカワサキを購入して良かったと思えること、カワサキユーザー何を望んでいるのか、それを具体的に全米で展開したのが「TEAM GREEN活動」である。レースが開催される殆どの休日のレース場には必ず「TEAM GREEN」のテントがあり、多くのカワサキユーザーを全面支援することで信頼を勝ち取ってきた。この活動なかりせばカワサキのモトクロスビジネスはここまでこれなかったのは事実で、開発と販売ソフトが極めて上手にジョイントし成功した好例であり、草の根活動の二輪販売戦略の見本として大いに参考となる。初代マネージャーの” Dave Jordan ”こそ苦労して組織を立上げ軌道に載せた最大の功労者だろう。その後、「草の根活動」は欧州各地、オーストラリア、日本へと世界展開され各地で大成功を収めた。今では、その思想を着実に受け継いでいるのはアメリカ市場のみとなったが、決して目立つことのない草の根活動を地道に継続させる決意の一番の違いは、経営者の思想と歴代マネージャーのそれこそ”The HEART & SOUL OF TEAM GREEN”だったかも知れない。

各社とも二輪ユーザー取り込みのため多くのソフト活動を実施してきたが、30数年以上も同じ思想で活動し多くのユーザーの強い支持と信頼を受けているのは唯一「TEAM GREEN」だけとなったようだ。そこに、この活動の奥の深さがあり、ユーザーに信頼されている証左でもあり、狙いも結果も成功した「草の根活動」だろう。製品さえ良ければ売れるはずとか、特にレースマシンは勝てるマシンであれば売れるはずとか言う話を聞くことがある。しかし良い製品だとか、勝てるマシンだとかの根拠はじつは相当にあいまいで根拠はない。製品競争力は日々変化し、殆どの競合車の性能差も認められず、その認識の上で世界に冠たる企業に伍して戦う活動の一つが「TEAM GREEN活動」だったと言う事だろう。30数年前の先人達の発想と行動には感服する以外にない。

■もう一つ、「Team Green News 2015」には、”US Kawasaki のワークスチーム”が紹介されている。
ワークスチームの統括責任者は横山さん(Yoko)。日本のカワサキ技術部からUS KAWASAKI(KMCに出向し、川重入社以来一貫してモトクロス開発に関与、現在、彼以外にカワサキでモトクロスを熟知している人はいない。加えてワークスチーム員一覧表の中に、珍しいと言うか、懐かしい人を見つけた。二段目右から二人目の、”Rick Asch” だ。記憶している範囲では、おそらく30数年前後からUS Kawasakiのワークスチームのメンバーで、当時はサスペンションを担当していた。モトクロスレースでは、サスペンションセッティングの出来不出来は勝利のための重要な要素だったので、サスペンション生産企業に仕様を丸投げせずにチームの固有技術として保有していた。懐かしい!
  
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レースは盛り上がってくれるかな

2015-03-13 06:18:14 | 二輪事業
7日のNHK NEWS WEBに、「バイク各社 モータースポーツに復帰相次ぐ」とあった。
「業績の回復を背景にバイクメーカー各社の間では、いったん撤退した世界的なレースに復帰する動きが相次ぎ、 モータースポーツ事業を通じて低迷する国内市場のてこ入れにつなげたいとしています。 このうち「スズキ」は、バイクレースの世界最高峰「MotoGP」に今月開幕する今シーズンから4年ぶりに復帰します。 復帰にあたってスズキは、従来の「V型エンジン」から市販のスポーツバイクのほとんどに使われている「並列エンジン」に切り替え、市販車への転用につながるよう開発を強化します。 また「ヤマハ発動機」は、市販車をベースにした世界最高峰の「スーパーバイク世界選手権」に来年、5年ぶりに復帰します。(略)バイクメーカー各社が世界的なレースに復帰するのは、海外市場を中心に業績が回復する一方、販売が低迷する国内市場をてこ入れするためです。」

日本の二輪企業は一時凍結していた二輪モータースポーツに復帰する計画を表明したが、復帰理由の一つに低迷する国内市場対策だとされる。二輪ロードレースの最高峰MotoGPレースでは、ホンダとヤマハはリーマンショックを発端とした世界不況下でも二輪の開発や販売上の必須要件として継続してきたが、その後イタリアのドゥカティが参戦し、現在、3社の熾烈な競争が行われている。近々、イタリアのアプリリアの参戦計画もあり、加えてスズキも参戦すると発表した。一方、リーマンショック後、レース参戦費用がMotoGPより安価な量産車をベースにしたスーパーバイクレース(WSB)に多くのメーカーが参戦していた時期もあったが、此処にきて、逆にスーパーバイクレースから撤退しMotoGP参戦するチームが増加しつつある。つまり二輪企業としてMotoGPに参戦する意義は依然として大きいとの判断だ。しかし、参加企業が撤退しつつあるWSBレースにあって、ヤマハは2015年新開発のスーパーバイクマシンをもって2016年度よりWSBレースに再参戦するとあった。このような世界の動きの中で、色々な意見も聞こえてきそうだが、二輪企業にとってモータースポーツは技術開発やブランド構築上無視できない必須媒体ということが明確になった。

   更に加えて、レースファンにとって嬉しいことに、ヤマハが3月6日に発表した、国内におけるレース計画「2015年ヤマハモータースポーツ活動計画」によると、ロードレース、モトクロス、トライアルの各選手権にワークス参戦し、鈴鹿8耐にもワークス参戦するとあった。二輪モータースポーツファン待望の鈴鹿8耐に、久ぶりにワークスチームが参戦する。現在のところ、鈴鹿8耐にワークス参戦を正式に表明したのはヤマハ一社だけだが、過去の鈴鹿8耐の激戦例から見てもワークスチームとセミワークスやプライベートチームとの力量の差は歴然としているだけに、ヤマハのワークス参戦となれば、それでなくとも競争、競争で世界中で覇を争ってきた他社のワークスチームも黙っているはずもない。

上記ヤマハのモータースポーツ活動発表会で、ヤマハの担当部長は「モータースポーツを通じて若者の購買意欲を刺激したい」と話し、更に、「我々の時代にはモータースポーツが盛んで、ヒーローがいた」「ヒーローを作る事によって、若者に刺激を与えたい」とも話している。確かにそうで、モータースポーツのようなある意味、危険を背負って覇権を争うレースで、世界最高の選手、世界のヒーロー達が凌ぎを削る展開となれば、世間の注目は必然的にそちらに向く。 そこで勝つことが企業間の総合的勝利者として評価されるだけに、好き嫌いに関わらず関与せざるを得ない。国内は特に、ブームを作る事が販売上最も重要であると言われている。過去の二輪ブーム時、その頂点にレースがあって二輪ブームを牽引していたのは事実だった。

また、レースは企業の技術開発に貢献するかの疑問に対し、7年ぶりにF1に復帰するホンダの伊東社長は2月10日の記者会見で、「技術の真価を発揮するチャンスが来た。間違いなく市販車に(技術が)応用できる」と説明した。一方、トヨタは全く勝てなかったF1から撤退し市販車ベースのWRCレースに技術的価値を求めて今年から参戦する。要は、レースから得られる技術は修羅場の現場からしか得られない本物の貴重な技術であり、その技術情報を如何様に考えるかだと思う。加えて、二輪・四輪の主市場であるアジア・アフリカ等新興国では、環境・安全技術の難しい説明より、『国際レースでの速さ』の方が「ブランド力に直結する」とも言われている。モータースポーツに参戦することによる、ブランド強化や技術力誇示は二輪や四輪生産企業にとって金食い虫と言われようと避けては通れない道だ。

日本には欧米に歴史的に存在しているモータースポーツ文化がないとよく言われている。 日本のモータースポーツ文化が歴史的に定着してこなかったので、二輪の開発や販売を担当する日本の二輪企業側ではモータースポーツを実感として捉える機会が少なく、結果、レースとは異なる道を志向しがちになったのかもしれない。販売店も馬鹿にならない費用に加え面倒なモータースポーツへの強い関与を一部を除いて関与したがらない。等々、益々日本のモータースポーツは衰退の方向に向かう。かと言って二輪に全く興味がないのかと言うとそうでもなく、懐古趣味の話題、例えば40数年前に開発された二輪に群がる情報が飛び交っている所など、これ自体は健全な二輪文化の一部だと思うが、絶対多数の二輪購買層となるべき若者が飛び付く情報を発信できる場が少ないのではと感じられる。現代の若者にとって、二輪は格好よい対象になっていない、もしくは若者を取りこむソフト活動に欠けているいるかもしれない。その点では、上記ヤマハの担当部長の”ヒーローがいない”と言うのは、二輪が若者を引き付けない要因の一つかもしれない。他に目を向けると、暫し低迷していた相撲界は今、絶好調だそうだ。照ノ富士や逸ノ城の若いモンゴル力士に加え遠藤達がヒーローとなって、本来ヒーローとなるべき横綱が逆に悪役となった白鵬 、見ているだけわくわくする。 また、黒田が帰ってきた広島は、今や完全にブーム到来でチケットは完売だそうだ。若者を引き付けるヒーローが大活躍する場面にブームはやってくる。若者を引き付けるブームを構築し続ければ二輪に若者は帰ってくる。先日のBSフジプライムニュースに出演した”ジャパネットたかた”の高田社長が面白いことを言っていた。「最近のメーカーは新商品の特徴をさかんに強調するが、重要なのは、その商品を買う事でお客がどんな素晴らしい生活を楽しめるかを十分説明しきれていない。職人はいるが商人が不十分」・・・"Let The Good Times Roll"

  当ブログの「鈴鹿8耐」にこう書いたことがある。
『モータースポーツへの観客動員数が多ければ、技術優先志向の強い車(端的な車がスーパースポーツ車)を得意としている日本の二輪メーカは直接参戦せざるを得ない。すると、もっとエキサイティングなレースと相まって、観客はより一層盛りあがる。しかし、思うにレースはもっと泥臭くあるべきだろう。欧米のレースは、観客がレースと触れ合う事、選手と触れ合う事を心底楽しんでいるように思える。知識が無くても単純明快に分かるレース、観客に対する最大限のファンサービス、みんなが楽しめる雰囲気づくり、そしてレースを主催する街。全てのベクトルが観客中心に向いていると感じた。

過去、現場から見聞したことあるボルドー24時間、レースを見ている観客は少なく、レース展開などそっちのけで飲み食いドンチャン騒ぎの家族が多数いる。ゴミはアチコチに散乱し、夜はワインを飲んで大騒ぎする。歴史的なレースイベントの高貴なイメージとは大きく異なる光景がそこにはある。レースを知らなくても楽しめる雰囲気作り、ドンチャン騒ぎする人も寛容に受け入れる街がある。

90年代の鈴鹿はもっと泥臭い雰囲気があった。野宿する若者に対して実に寛容だったし、アチコチのテント張にも寛容だった。何時のまにか、次第に大人しく窮屈になってしまったようだ。面白くない、妖しくない催し物には、誰も楽しくない。90年代も、レース観戦が主目的ではなかった観客の方が圧倒的に多ったと思う』



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9社目の自動車製造会社

2015-03-02 06:29:33 | 二輪事業
   一昨年、自動車生産参入方針が発言された際の株主反応は今一だったが、今回は違った。
2月27日早朝、ヤマハ発の自動車進出記事が報じられると、一時は前日比105円(3.6%)高の3020円まで急上昇、終値は2972円(前日比+1.95%)に落着いたが、
日経平均が前日比+12円(+0.06%)だったの比べ、ヤマハ発への株主評価はかなり好意的だった。
理由はヤマハ発が欧州で四輪車生産・販売するという、19年を目途に工場を立ち上げ、日本で9社目の自動車製造会社の立ち上げ宣言が高評価された。
日経記事にはこうあった。
「・・(略)かねて四輪車への参入方針を示していたが、具体的な事業計画を明らかにしたのは初めて。
 エンジンから四輪車を一貫生産する日本のメーカーは、同じく二輪車から1963年に参入したホンダ以来になる。
 ヤマハ発が欧州で製造・販売するのは市街地での近距離利用などを想定した小型車。エンジンの排気量が1000ccのガソリン車と電気自動車をそろえる。
 小回りが利き、運転手との一体感がある二輪車の設計ノウハウを取り入れる。「小型車に合った街づくりが進んでいる」とみて、まず欧州で発売する。
 エンジンは自社で開発・製造し、電気自動車の動力源であるモーターや電池は外部から調達する考えだ。今後、工場の建設地や生産規模などの検討に入る。・・」
二輪生産世界2位のヤマハ発は数百億円を投じて専用工場を建て、二輪車の開発ノウハウを取り入れて開発した2人乗りの車を製造・販売するとあった。
市場では、ヤマハ発の自動車事業への参入について「技術は十分。やっと具体的な話がでてきたか、という印象」との声が聞かれ、「小型車は今後伸びが見込める市場で、
今のところ普通車のようにライバル社が多いわけでもない」ともあり、ヤマハ発の将来的な業績寄与を期待した買いが入っているとのことであった。
            「日経電子版」

ヤマハもやっと自動車製造業に進出する。過去にはトヨタと共同開発・生産した「トヨタ2000GT」や現在も自社エンジンをトヨタへ供給中で、またF1エンジンの開発など、
長年の自動車エンジン開発には高い技術を保有しており、自動車生産着手は遅いという声もあるが、東海地方を拠点とする二輪企業が揃って四輪事業で再び競争する。
知っている範囲での昔のヤマハ発の売上高5000億強の時期から現在は1兆5000億と大きく成長し、今やホンダに次ぐ世界最大級の二輪企業。
とは言っても、二輪事業は世界的にみると先細りになっていくという危機感がヤマハ発にはあるのだろう。先進国での二輪産業は成熟し、今後伸長する可能性があるのは新興国のみだが、
その新興国が経済成長を遂げていく過程での需要は二輪モペットから一挙に安価な自動車への方向にあるのは事実であり、一時期のインドのタタ自動車はよい例だろう。

今期、二輪の収益性は以前に比べやや不調ではあるが、二輪以外の業種で大きく収益を稼いでいる。
ヤマハ発のHPを見ると、二輪以外の製品の種類も多く、社会情勢や時に応じて大きく変動する顧客のニーズに素早く対応出来るような商品群を構成しており、
この商品群の多さが、二輪事業が売り上げの60%を占めるとは言え、毎年確実に売り上げを伸ばす源泉だと思う。
2019年から、販売網が確立し自動車の売り上げが加算されると、売り上げ倍増企業に成長するのだろう。
二輪を出発点とし互いに切羽琢磨して競争してきた浜松企業の力強さに驚嘆しつつ、それにしても日本9番目の自動車産業とは、すごい!驚いた!!



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Harley-Davidsonの株価は好調らしい

2015-02-04 06:22:06 | 二輪事業
    「新発売となるハーレーダビッドソンの新型『STREET750』、発売日は'15年2月27日。
  完全新設計の水冷Vツインエンジンを搭載し、ターゲットは「若年層とアーバンライダー」:レスポンスネット記事」

先月の日経記事に、「ダウ大幅反発、ハーレー株高にみる米消費への期待」とあった。記事によると、「企業による四半期決算の発表が本格化するなか、消費関連株の一角の堅調さが目立った。例えば、株価が約4%上昇した大型バイクのハーレー・ダビッドソン。足元で、同社を取り巻く環境は厳しい。価格が高めの同社製品の米国での主要顧客はベビーブーマー世代と高齢で、今後の需要の拡大が見込みにくい。 収益拡大の活路とする海外事業の販売は好調だが、ドル高が向かい風となる。ハーレーの2014年10~12月期決算は小幅ながら減収減益となったが、1株利益は市場予想を上回った。 米国では若者や都市部の消費者向けに従来型より価格が低く小型のバイクを販売し、新たな顧客層を着実に広げている。国外では新興国を中心に取り扱い業者を積極的に増やし、15年の世界の出荷台数は前年比4~6%増を見込む。厳しい環境下ではあるが、将来に向けた取り組みを評価する形で買われた。」加えて、「ハーレーのマット・レバティッチ社長はガソリン安などを背景に「米経済についての米消費者の心理はどんどんよくなっている」」と述べたとある。

ハーレーの'14年度損益表Harley-DavidsonHPを見ると、特段に高収益傾向にあるようにも見えず、むしろ昨年に比べ減収減益だが、なぜかハーレーの株価は堅調らしい。損益表に見える、営業利益率18%は二輪事業専門企業としてみると飛び抜けた超優良企業ではあるが、今までと格段に上昇しているわけでもない。株価は将来のハーレーの有望性を買われ堅調に推移すると見られての上昇なので、米国の消費者心理は相当に改善し好景気が続いているとの証左だろう。米国の株式市場は昨年の10月頃から相場変動の大きい状態が続いているが、それでも2年単位で見ると堅調に伸びているので、特に消費関連株の底堅さをみる範囲では投資家心理は強いと言う事だろう。当面、米国を中心に二輪市場は堅調に推移するようで、高価格の大型機種よりも若者向けの低価格バイクの伸び代に期待と言う事だろうか。


一方、ホンダHPによると、'14年度第3四半期連結決算の結果は、四輪の減益を二輪車販売の増加や円安による為替影響などでカバーしきれず、22.5% の減益。特に四輪のハイブリッド関連やタカタのエアバックの品質関連費用の増大が影響したとある。損益資料によると、四輪の営業利益率3%に対し、二輪事業は11.5%の高い営業利益率を確保し、米国、欧州、東南アジアと販売は好調のようだ。ただ、ホンダと言えど日本国内向けは低調に推移している。

全世界に約1800万台を販売するホンダと約28万のハーレー、共に二輪業界を牽引する両雄だが、共通項は明快なブランドアイデンティがあり、かつ市場に支持されている事。ホンダの二輪は個性がないと言われていると聞くが、全世界に1800万台を販売することこそがホンダのブランドアイデンティである。かたやハーレーの持つ個性は、ハーレーが持っている背景、所謂今も昔もハーレーこそ強いアメリカ、豊かなアメリカの象徴をハーレーは具現化しているし、保守的と言われるほど頑なに思想を守っている。以前のブログで、元外交官で作家の佐藤優はアメリカを「西部劇の保安官とドラエモンのジャイン」と表現したと書いたが、強いアメリカの象徴とアウトローへの憧れの二面性をもつハーレーは、アメリカそのものだろう。米国が強くなればハーレーも強くなる論理かもしれない。

一方、「帰ってきた「リターンライダー」は国内バイク市場の救世主になるか?」とする分析では、「リターンライダー」と呼ばれる中高年ライダーが市場を下支えする格好で、2010年以降、販売台数が下げ止まった。しかし、大きな課題として挙げられている、「事故の増加」とライダーの「高齢化」だと指定しているところをみると、国内の二輪市場の将来は決して明るい方向に進んでおらず、むしろ暗いと言う印象が強いのではなかろうか。 しかし、上記分析データでは、国内の二輪市場は悲観的に見えるが、極端な落ち込みは50ccの原付が主因で、その他クラスも落ち込みはあるもそれほど極端に悲観的ではない。過去、国内は何度も二輪販売の変動幅が大きい時期もあった。それでもユーザーに支持されている販売店は販売を伸び続けてきたと記憶している。

かなり前のことだが、ハードでなくソフト戦略を前面に出すことにより顧客を囲い込む事でハードの販売に結び付ける戦略をカワサキの国内販売会社が採用した時期があった。かって、カワサキの国内販売社が国内販売7万台を達成した時代の戦略がそうだった様に思う。ユーザーを囲い込むことで、熱烈なカワサキ信者を創る事に成功した事例。日本の二輪市場が落ち込みを見せ、幾つかの販売店が店をたたむ時期に、カワサキの一人勝ちを創った、「kawasaki let the good times roll 」を実践した典型的な成功例。

話は変わるが、一昨日夜のNHKBSの国際報道で、イスラム国(ISIL)を端的に表現する言葉として、「グローバルジハード」や「ブランド」という言葉で表現していた。イスラム国の広報担当のマーケティング作戦は見事に功をなし、中東テロへの無関心(実際は日本を巻きこんだテロは複数発生している)だった我々を、メディア報道を通じて一挙に彼らに注目を向けさせることに成功している。やることが徹底している。池内准教授のFBに、「(イスラム国にとってイギリスは敵なのですが)BBCの影響力が甚大であると感じているから(イスラム国は)まずそこをチェックする。これはアラブ世界一般にそうです。なおイランでもそうです。「イギリスの植民地主義がー」と言ったその人が次の瞬間「どれどれBBCでは何をやってるの?」と熱心に見ている。ソフトパワーってそういうもんです。」・・・なるほど。

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『ある時代カワサキを支えた人』・・・藤川哲三さん

2014-12-29 06:20:23 | 二輪事業
   「藤川哲三さん」
「NPO法人 The Good Times」理事長の古谷さんがFBに『ある時代カワサキを支えた人』を投稿している。
その中の格段に個性豊かな技術部出身者の三人目は藤川哲三さん。古谷さんはこう説明している。「藤川哲三。私と同期入社、元々は発動機だがジェットエンジンやX-11など、稲村さんの一つ前の技術本部長である。技術屋さんらしくめちゃ怖かった。 よく部下を叱りつけてたのを知っている。私とは結構気があって、ジェットスキーをアメリカ以外に展開するときには子飼いの福井昇を単車にくれたりした

で、古谷さんのFB藤川さんに関し、私は下記のようなコメントを返した。
『藤川さんが技術総括部長当時、私は単車開発担当でいろいろお世話になった。技術者の心構えを徹底して教えられた。 知っている範囲では、非常に数少ない優れた技術者の一人だと思っている。今も、日本機械学会や陸内などに寄稿しておられるようで、 また機会学会の企画で小中学生相手に飛行機の揚力実験、飛行原理の解説等を教授しておられる由と聞いている。

藤川さんが技術部を離れられた時期に、「2サイクル内燃機関」の本を書こうと提案された。乗り気になって、可なりの資料を纏めつつあったのだが、片手間では出来なくなり保留となったままで今でも気になっている。基本技術を勉強せずに、あるいは日頃からの研究無しに、商品に展開することの遇を諫めておられ、尊敬すべき技術者と思う。内燃機関研究者であれば、2サイクル、4サイクルあるいはロータリーもそうだが、市場から要求されたら直ぐに着手できるようにしておけと言われ、 技術者の中には2サイクルはいやだとか4サイクルの研究をしたいといっている技術者を諫めておられた。

たしか平成1年頃だったと思うが、かの有名な山海堂の「内燃機関」誌が「川崎重工の小型エンジンの技術変遷と研究開発特集」を 二ヶ月にわたって取上げたが、これは藤川さんの功績。当時この分野では最高の地位にあった専門雑誌、「内燃機関」(「内燃機関」と言えば、 内外の著名な内燃機関技術者が編集委員を務め、川田東大教授と長尾京大教授が編集主幹、AVL社のハンス・リスト教授が編集顧問を担当されて、 米国のSAEジャーナル誌や独のMTZに比べられる存在だった)が特定企業の開発状況を二ヶ月に渡って取上げてくれるのは異例のことだった。内燃機関誌の当時の八木国夫編集長が事前打合せに明石工場に来明されたので、酒豪で知られた八木編集長の相手をするようにと当時の藤川技術総括部長より 指示され二松荘で同席したことがある。八木さんはなかなか面白いジャーナリストだったが、負けず劣らず藤川さんも知識人でお二人意気投合されておられた。

開発に関して常に危機感を抱いておられ、内燃機関を使った製品開発を念頭に考えられた。その成果はジェットスキーの市場投入で大成功をおさめ、その後も無人ヘリやHST等の開発に関心を持たれ、それらは競合他社がその後量産した。場合によっては変人とも取られがちだが個性豊かな技術者で、技術に関しては分け隔てなく誰の意見も真剣に聞いておられ、しかし変わり者だが人事考課はニュートラルだと旧発動機の技術者からよく聞かされた。』

で、次のような投稿があった。
古谷錬太郎
大津さん、いろいろと有難うございます。藤川さん間違いなく変わってますよ。私は変わっている人好きですから、藤川さんも好きな一人です。理事室の隣の席でしたから、電話の度にずっと怒ってたのを私がヨコから茶化していたのを思いだします。技術的なことは全然解りませんが、ジェットスキーの国内、欧州展開の時、福井くんを出してくれていなかったら、カワサキのジェットスキー展開もこんなにスムースにいかなかったと思っています。そう言う意味で感謝です。逆にX-11は、藤川さんに頼まれて、結構お金使いました。藤川さんFB参加してるけど殆ど見ないので、このコメントも、あなたのコメントも見ないかもしれません。私のはともかく、大津さんのは見て欲しいですね。12月25日 17:57






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『ある時代カワサキを支えた人』・・・百合草三佐雄さん

2014-12-27 06:33:56 | 二輪事業
  「百合草三佐雄さん」
「NPO法人 The Good Times」理事長の古谷さんがFBに『ある時代カワサキを支えた人』を投稿している。
その中の格段に個性豊かな技術部出身者の二人目は百合草三佐雄さん。古谷さんはこう説明している。「百合草三佐雄さん、A1のアメリカでの現地開発や、レース、勿論二輪もジェットスキーも、アメリカの販売会社の社長も、 最後はジェットエンジン本部長も これくらいいろいろやった人は少ないと言っていいと思います。 アメリカのKMCがホントに立ち直ったのは百合ちゃんが社長の時代でしたし、ジェットスキーの400/500を450/550に新しくやり直してくれたのも彼なのです。 それで一挙に倍ほど売れるようになったりしました。何となく関係の深かった百合草さんです。

で、古谷さんのFB百合草さんに関し、私は下記のようなコメントを送った。
「昨年11月、「KX40周年を祝う有志の会」を開催しました。カワサキ初の本格的モトクロッサー「KX」の販売開始が1973年。 モトクロッサー等のレース車を専任で開発する新組織(開発1班)が技術部に結成されたのがその前年の1972年です。その1972年当時の開発1班班長が百合草さん。 当時の国内のレース活動は、ロードレースがH2Rで和田、杉本、大本、トライアルがKT250で山本、加藤、山田、モトクロスがKX125/250で竹沢、川崎、安井だった。 今も世界中のモトクロスシーンで常に先陣を切って活躍し、多くのモトクロスファンの信頼を得ている「KX」のスタートは百合草さんが組織化した開発1班からです。 また、百合草さんは、「KX40周年を祝う有志の会」に寄稿集を書いてくれました。」

『「KX40周年にあたっての思いで」         百合草三佐雄
 第1回全日本モトクロス大会が行われたのは1958年4月、大阪府下信太山自衛隊演習地内で開催された。カワサキがオートバイ事業に進出したのが ’60年だからまだカワサキ車は参加していないが、メイハツ車は参加していたかもしれない。’62年の第6回全日本では三吉選手が2位に入り、カワサキ初の入賞となった。 短期間に開発できたのは設計の松本さん、実験の宗村さん、メイハツから来た堤さん、それにモトクロスの名物おやじ松尾さんによるところ大であった。

 赤タンクカワサキの名声の出発は青野ヶ原自衛隊駐屯地において兵庫主催の第1回モトクロス大会(観衆1万人)にて、1~6位までカワサキが独占したことである。 当時単車事業部は赤字が続き事業見直しの議論が行われていたが、赤タンクの活躍でこのカワサキの技術を活かせば事業は軌道に乗せることができるとの判断が下された。

 KXの先輩が事業を救ってくれたのである。KXが’73年に生まれ、その時期のレース監督となった。平井さん率いる神戸スーパースポーツの竹沢選手が各地のレースで好成績を あげ、KXも順調なスタートを切った。KXが生まれる前には三橋、星野,海津、山本、歳森選手らの活躍があった。KXが誕生した頃は世界モトクロスの主流はヨーロッパ勢であった。

 アムステルダムを拠点として岩田さんが駐在し、開発ライダーにペテルソン、レースで勝つためにハンセンと契約しヨーロッパ各地のレースに参戦し、KXの開発を行った。 ’76年KMCに駐在したが、各レース場はスズキ、ヤマハのオンパレードでKXの姿は殆ど見られなかった。そこで、販売店の支援費として営業で使っていた費用をR&Dに移管してもらい、 チームグリーンを創設した。ピート堤さんを長としてジョーダンを補佐とし、レースにおける代理店の支援を行った。これが当たって、各地でカワサキが驚異的な活躍をすることとなった。例えば、’89年(年間)のラスベガスWorld Mini GPではKXのEntriesが43%、KXのWinsが71%またPonca CityのNMA FinalsではKXのEntriesが46%、Winsが76%と驚異的な成績である。 これらの成績も明石の開発部隊の研鑽の賜物であり、チームワークの業績である。AMAのチャンピオンとなったジェフ・ワードが時の大統領レーガンから表彰されたのも思い出の一つである。
 参考資料)小関和夫著「カワサキ モーターサイクルズ ストーリー」三樹書房

で、次のような投稿があった。
古谷錬太郎 大津さん懐かしい話を有難う。12月22日 15:00
西郷 善治 とても貴重なお話ありがとうございます。 12月22日 21:33

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