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野々池周辺散策

野々池貯水池周辺をウォーキングしながら気がついた事や思い出した事柄をメモします。

ベトナム二輪事情の記事あり

2017-02-17 06:21:24 | 二輪事業
   2月8日のsearchinaに「日本の二輪車がベトナムで圧倒的な存在感、中国企業は「日本に打ちのめされた」=中国報道」と言う記事があった。ベトナムの二輪モペット市場で負けた中国企業の話だ。2000年頃、ベトナム二輪市場で日本製モペットが主流だった時代に、値段の安さを売りに中国製モペットが急に売れ始めた時機があった。外見上は日本製と何ら変わらず良く出来ていたのでじわじわとベトナム市場に浸食しつつあった。ところが、突然、中国製モペットが売れなくなった。その理由を中国側の視点からみた記事である。要点はこうだ。
「(略)中国メディアの今日頭条は7日、かつてベトナムの二輪車市場で中国企業が一定のシェアを獲得していたが、今では日本メーカーに徹底的に打ちのめされてしまったと伝える記事を掲載した。記事は、ベトナムの街中では美しい女性が二輪車に乗って颯爽と走っている光景を目にすることができると伝え、ベトナムの各家庭の二輪車の保有台数は約2台に達するなど、同国の二輪車市場は非常に大きいことを指摘。 一方、ベトナムの街中で見かける二輪車の大半がホンダやヤマハなど日本メーカーの二輪車であると伝え、そのほかはイタリアのピアッジオやベスパなどが中心だと紹介。10年以上前は中国の力帆集団の二輪車がベトナムで一定のシェアを獲得していたが、同社の製品は品質問題によって信頼を失い、さらに日本メーカーの追い打ちによって徹底的に打ちのめされ、シェアを失ってしまったと主張した。 さらに記事は、感覚的には「ベトナムの路上を走る95%の二輪車が日本メーカーの製品」に思えるほど、ホンダやヤマハはベトナムで圧倒的なシェアを獲得していると伝え、ベトナムの消費者は「日本か韓国、欧米の製品しか信じていない」と伝え、中国の二輪車がベトナム市場でシェアを奪還するのは非常に難しい状況となっていることを指摘している」と書いている。

思いだしてみると、確か2000年初頭頃、ベトナム市場では中国資本が低価格二輪車をもって参入し、一時的にはシェアを拡大した時期があった。その頃のベトナムの二輪市場を見る機会があった。旧現地資本のタイカワサキがベトナムに進出し、ベトナムに組立工場を建てた時期だ。タイでは評判の悪かった小型モペットが小柄なベトナム女性(ベトナム女性のバイク利用は高い)には好評で、そのモペットをベトナムで本格生産する計画だった。ホーチミン市内を数日かけて数か所見てまわったが、販売店や路地裏のモペット修理屋と部品屋が集合した地域が市内のアチコチに点在しており、その数カ所丹念に見て回った。当時日本製モペットを主に販売する販売店も驚異的にのしてくる中国製の低価格車を恐れていた。しかし、数年後、中国製は一掃され日本製モペットに変わる。日本車に取って代わった理由は分析され、その報告書も公表されているが、結果的に中国製品の品質の悪さが敗因だ。

数年にわたり、東南アジアの二輪事情を見る機会があり、タイ、フィリッピン、マレーシャそして中国でも二輪車が生活の基盤になって、国の隅々に多数のモペットやバイクを見ることができた。その中でもベトナムやインドネシアは別格で、その街でモペットの大軍を見たときは驚きを通り越して言葉を失った。信号らしきものが無い交差点で、雲霞(ウンカ)の如く湧き出てくると表現した方が適正だと思うほどのモペットの大群を見たとき、モペットをこれ程までに市場に認知させてきたホンダ技術者と営業担当には本当に敬服した事を覚えている。この光景は「二輪事業に携わったホンダマンこそ男冥利に尽きる」と感心したものだ。本当に頭が下がる思いがした。ホンダと言えば、「勝ちに拘る」と言ってレースに集中する姿を主に見てきたが、現実のホンダの姿、テリトリーの広さと集中力は驚くべきものだった。ホンダの言う「勝ちに拘る」と負う意味は、モータースポーツだけに当てはまるのではなく、全世界にホンダ独自の哲学を広げることにあると再認識させられたものだ。一見よく目立つ中小型や大型の二輪ばかりを対象にしていると、モペットの開発と言うと何となく力が入らないと言うのを聞いたことがあるが、ある二輪企業は最も優秀の人材をモペット市場開発に投入していると聞いたこともある。実際に現場・市場に来て現場の流通を見てみると、その考えの価値はある。

こうして世界の二輪市場の歴史や趨勢をみると、家電市場で見られたような中国や韓国の追従を許さないのは、戦後、日本での熾烈な競争に勝ち残った浜松企業を中心とした二輪企業の強さであろうし、世界的にみると稀有な産業に見える。二輪の超優良企業ハーレーの営業利益は18~20%で、後進国を現在の主戦場として伸びているホンダ二輪は先進国の低迷にも拘わらず営業利益率は四輪部門を上回る10~15%を維持し、二輪事業は極めて高い収益性を確保できる事業体であり続けている。その理由は、市場動向を見た的確な戦略と素早い決断/実行力こそが高い収益性を確保できる事業体に成長することを、ハーレー、ホンダの柔軟性のある企業体質から見える。日本のメディアによると、二輪の将来は必ずしも明るいと言えないとする論調もしばしばでてくるが、二輪事業は経営手腕によっては「未来ある事業体」と言えるのではないだろうか。最後は結局、経営戦略の優劣が勝敗を決するのだろう、とは言っても、東芝のように、危機の主因を現社長は「経営者側の責任」と言い、法廷闘争中の3人の元経営者は「我々は悪くない」と言う。こんな経営者にあたったら最悪だ。
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モトクロス、どれが一番マシンか!

2017-02-13 06:10:23 | 二輪事業
AMAスーパークロスレース(SX)第6戦ARLINGTONのライブタイミングをパソコン観戦しながら、レースというのは最後まで決着が付くまで本当に分からんと思った。250㏄クラスは現在ポイントランキング僅差で2位のKTM S. Mcelrath選手がトップ走行中まさかのトラブルで脱落し、2、3位を走行していたPro Circuit/Kawasaki racing teamのライダーが繰り上がり優勝と2位となった。メインクラスの450は、赤旗中断後の再スタートでやや出遅れたMonster Energy/Kawasaki Racing Teamの Eli Tomac選手が素晴らしい追い上げ、トップを狙える場所まで上がってきた途端、Fブレーキトラブル発生で最後尾付近まで後退した。優勝はKTMワークスMarvin Musquin選手。このレース、上位5位までを見ると、KTMと兄弟会社Husqvarnaが4個を占め、改めてその実力を示した。一方、日本4ワークスは見る影もなく弱さが目立った。
  
既に米国のモトクロスシーンの主役は欧州のKTMがトップで、その牙城を崩すのはだんだん難しくなったように見える。二輪の大市場、米国のマーケットの主役は、ハーレーダビットソンが米国販売のシェア1/2を占めるクルーザー部門とモトクロスを主とするコンペティション部門であることは周知の事実であるが、そのモトクロス市場を牽引するのはKTMとHUSQVARNAであることが今回のレースでも明確になった。

SXに出場する各ライダーが使用するバイクは、モトクロスの量産車を使用することが義務付けられており、近くの販売店で販売される量産車と基本的に同じ仕様を、各ライダーが最もその技量を発揮できるように規則の範囲内で変更や改良が許されている。SXで優勝したバイクも基本的は量産車と同じ仕様なので、量産車が持つ基本ポテンシャが高くなければ世界トップクラスのライダーを満足させることはできない。つまり、優勝したバイクは世界最高峰の選手がレースに供しても十分に機能する性能を持った、非常に優れたマシンだと言える。で、どの量産モトクロスマシンが優秀であるかを、米国の有名ネット誌「Cycle News誌」と「Motocross Action誌」が、2017年モトクロスマシンの評価結果として公表している。それによると、結果は次のようだ。
 「No1マシンは名実ともKTM]
450㏄マシン評価:Cycle News (2017 450 Motocross Shootout)
1st place – KTM 450 SX-F
2nd Place – Husqvarna FC 450
3rd Place – Honda CRF450R
4th Place – Yamaha YZ450F
5th Place – Kawasaki KX450F
6th place – Suzuki RM-Z450

(450㏄マシン評価:Motocross Action記事不明)

250㏄マシン評価:Cycle News(2017-250f-motocross-shootout)         
1st Place – Yamaha YZ250F        
2nd Place – Husqvarna FC 250       
2nd Place – KTM 250 SX-F         
3rd Place – Kawasaki KX250F
4th Place – Honda CRF250R
5th Place – Suzuki RM-Z250

250㏄マシン評価:Mmotocross Action (2017 MXA 250 FOUR-STROKE SHOOTOUT)
1st Place – KTM 250 SX-F
2nd Place – Husqvarna FC 250
3rd Place – Yamaha YZ250F
4th Place – Kawasaki KX250F
5th Place – Honda CRF250R
6th Place – Suzuki RM-Z250


KTMと言えば、1992年、小さなワークショップから出発、エンデューロレースのニッチ領域に参戦しながら成長し、その後、ラリーやモトクロスの世界で輝かしい成功を収めてきた。2006年には300以上の従業員と60人を超えるワークスライダーを雇用できるレベルまでに成長し、” Ready to race ”と言う明快な企業コンセプトロゴを旗印に、 モータースポーツへの飽くなき挑戦によって KTMはグローバルに成長し続けてきた。現在、3000人以上の従業員を雇用し続けている。今後も年間売り上げの5%をモータースポーツ分野に投入する予定だとある。ON,OFF車とも豊富な品揃えと地道な「草の根活動」を展開し、日本メーカーが予算縮小しているこの時期を絶好の機会だと捉え、アメリカのオフ市場を席巻する動きをみせてきた。結果、モトクロスの分野では、世界選手権や米国のスーパークロスレースの王者として君臨し、そこから生み出す製品の優秀性を訴え続けることでKTM信者を増し続け、その強固なブランド力を如実に証明し疑う余地もないほどになった。こうしてみると、日本の二輪企業は” Ready to race ”ロゴを決して使わないと思うが、簡単明瞭で分かり易い企業コンセプトロゴと、その方向性を確実に実行する結果がユーザーに大きく訴え支持を得ていると思われる。

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おやおや、大変だ!

2017-01-20 08:21:54 | 二輪事業
ビックリ仰天記事が目に付いた。
19日の日経記事に「川重米法人、トランプ氏の人気番組から撤退 スポンサー降りる 」とある。
非常に難しい時期に、これまた難しい選択を、ましてメディアに報道するとは、勇気ある企業だとビックリ仰天。
日経記事はこう書いてあった。
「川崎重工業の米国グループ会社は18日(米国時間)、トランプ次期米大統領が司会をつとめていた米国の人気テレビ番組「アプレンティス」のスポンサーから降りる意向を示した。米メディアが報じた。トランプ氏がエグゼクティブ・プロデューサーとして番組に関わっていることが理由という。(略) 米国では交流サイト(SNS)上で、トランプ氏と取引がある企業などに対し、「グラブ・ユア・ウォレット(財布のひもを締めよう)」と呼ばれる不買運動が盛り上がっている。 アプレンティスのスポンサー企業、大統領選でトランプ氏に寄付した企業も不買運動の対象としてやり玉にあがっており、その数は約70社に及ぶという。川重の米国法人はこれらの運動の影響を懸念し、番組のスポンサーから降りる方針を固めたと見られる」と。日経の元記事はロイター報道の「川崎重工、米人気TV番組のスポンサー降板 トランプ氏関与で」のようだ。

実は、この報道を見る前に、FB「Kawasaki USA」に奇妙な記事が投稿してあったので不可思議に感じていた。
「Kawasaki USA」FBの投稿メッセージはこうだった。
 
「Kawasaki USA」のメッセージによると「カワサキ広報担当者のメッセージは誤報で、この従業員はカワサキの従業員ではない」としているので、多分、解雇したのだろう。FB「Kawasaki USA」の突然の投稿メッセージの意味することが不明だったので、この前後のFB記事を探していると、上記の日経とロイター記事に巡り合った次第。

すると、ロイターから次の報道が発表された。
「川崎重工業の米国法人カワサキモータースUSAは18日、テレビのリアリティ番組「ニュー・セレブリティ・アプレンティス」のスポンサーを降りるとの先の広報担当者の発言は不正確との声明を出した。これより先、広報担当のケビン・アレン氏は電話でのインタビューで、顧客からの懸念や不買運動などを考慮し、トランプ氏がエグゼクティブ・プロデューサーとして関与する限り、番組に参加しない、と述べていた。その数時間後、同社は短い声明で「『ニュー・セレブリティ・アプレンティス』とトランプ氏の関与について最近出された、カワサキモータースUSA従業員によるコメントは、会社の立場を正確に伝えていない。また、この従業員はもう社員ではない」と述べた。ロイターはより詳細な説明を求める電子メールを送ったが、カワサキモータースUSAからの回答は得られていない。」
同じく、日経も誤報を伝えた。
「川崎重工業は19日、トランプ次期米大統領が関わる人気番組のスポンサーから米国法人が撤退するとの米メディア報道について「我々は一貫して政治的にニュートラルな立場を取っている」とのコメントを出した」

産経ニュースに、トランプ次期大統領を支持するライダー集団が肉壁となって大統領就任式と市民らを危険から守ると宣言したとあるので、KAWASAKIの現地販売会社はこの一環での行動かと邪推したが、報道記事を読むとそうではなく、カワサキの広報担当による誤報だとされたようだ。今、企業関係者は非常に神経質になっているのは、多くの報道から日本でもよくわかる。そんな時期に誤報とは言え、皆がビックリするような発言が報道されるとは、どうなっているのだろう。


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「カワサキレーシングチーム」のワークステントの下で・・・その2

2016-12-30 08:10:06 | 二輪事業
   「カワサキレーシングチームのワークステント」
昔、全日本モトクロス選手権大会でのメーカーワークテントの下では、次年度のマシンはどうなるんだろう、どの位の戦闘力があるんだろうかとか、じっと目を凝らしている観客や競争相手の目が幾重も続く。ワークステントの下には、帆ロを被せたワークスマシンが数台。レースが近づくとワークスマシンがピットから出てくる。すると、観客もカメラマンもワークスマシンの後をぞろぞろと付いていく。ワークスチームのワークスマシンを、みんなワクワクしてワークステントの前で釘づけになって見ていた。ワークスライダーを、ワークスマシンを憧れの目で見ている子供達も沢山いた。80年代から90年代の全日本モトクロス選手権大会、そんな雰囲気が満ちていた。そんな時代も確かにあった。みんな何処に行ったんだろうと、そんな記憶をたどりながら、当ブログで書き記した事などを少しだけだが思いだし書いてみた、その続編。

★『カワサキが勝利にこだわる姿勢を明確に打ち出し、圧倒的なプレゼンスを誇った黄金期に何をしたのか』というフレーズで書いたことがある。「その後2年間、カワサキは善戦するも全日本チャンピオンを取れず、組織がこのままずるずると勝つ事の意味を忘れてしまう事を恐れた。と言うのは 竹沢選手がカワサキで250チャンピオンになったのは1976年、次のチャンピオン獲得は125の岡部選手の1985年、その間の9年間、カワサキはチャンピオンから遠ざかる。この9年間、勝ちたいと言う思いとは裏腹に思いを集大成して勝ちに繋げる意思はやや貧弱で、加えてこれを別に不思議と思わない環境にあった。その後、岡部選手が4年間チャンピオンを獲得し、組織は勝ち方を覚え、勝つことの意義を確認することができる時期にあったが、岡部選手に続く若手ライダーが育っておらず、このままでは、以前の9年間に戻ること、つまり暗黒の数年を過ごさざるを得ない危機感があった。これは一度でもチャンピオンを維持し続けたチームだけが持つ 何とも言い難い焦燥感であった。何としても勝ちたい。そこで熟慮した結論は外人ライダーとの契約だった。全日本選手権に外人ライダーを出場させるのは別にカワサキが最初ではない。カワサキが勝利にこだわる姿勢を明確に打ち出し、圧倒的なプレゼンスを誇った黄金期だったからこそ、カワサキはモトクロス市場のリーディングカンパニーとして行動を起こすべきと判断した。まず第1に勝てる可能性が高い事(勝ちレベルを苦心した)、次に高いレベルでマシン開発ができる事、そして競争させることで日本選手の技量を向上させることで全日本選手権を活性化させること等である」。ただ、懸念された事は勝つためだけに外人ライダーを走らせたと単純に捉えられてしまわないとか言うことだが、結果的にそれは杞憂だった。それは、「ダートスポーツ」FB の『砂煙の追憶』に書いてあるように、当時カワサキのワークスライダーで外人ライダーを抑えて何度も肉薄した走りをした、榎本正則選手が含蓄ある発言をしている。それには「彼らにしてみれば全日本で走るのは出稼ぎだったかもしれないが、彼らが思っている以上に結果として多くのものを残してくれたはず。受け継がずに過去のものにするのは、あまりにももったいない。育つものも育たない」とあった。

★  「JEFF MATIASEVICH」
カワサキの全日本モトクロス参戦史の中に、アメリカンライダーを起用した時期は2度ある。'92~'94年のエディ・ウォーレン、'95~'97年のジェフ・マタセビッチだ。この時期は、前述したようにカワサキが勝利にこだわる姿勢を明確に打ち出し時期に相当する。この経緯は「KAWASAKI DIRT CHRONICLES vol09」に記載されている。全日本選手権にアメリカンライダー採用する是非については異論があってしかるべきだが、しかし、これを機に日本人ライダーの技量は確実にUPしたことは事実だし、更に言えば、E・ウォーレンが全日本選手権から引退する最終戦の菅生で、当時のホンダファクトリーの東福寺選手が全ライダーを代表してウォーレンに感謝の挨拶をしてくれたことで、カワサキの選択が正解だったことが証明された。

アメリカの”JEFF MATIASEVICH(ジェフ・マタセビッチ)”をインタビューした記事が数年前のアメリカモトクロスネット誌「RacerX 」に投稿されたことある。
JEFF MATIASEVICHは、1988、1989年の全米125 West Supercross Championで、1998年にモトクロスレースから引退した。RacerX記者の「あなたのキャリアで突出したハイライトはなんですか?」との質問にこう答えている。「カワサキでレースに専念できたことが一番素晴らしい時代だった。特に1995'96'97と日本のカワサキワークスチームと契約し全日本のチャンピオンシップに勝ったことだ。 日本でレースに専念できた3年間は、私の経験したなかでも最高の時間だった。日本のサポート体制は最高だった。カワサキのワークスバイクは驚くほど素晴らしく、要求するものはなんでもカワサキはトライしてくれた。 他のカワサキワークスバイクより2年も先行する優れた仕様を開発してくれた。それは5年後量産移行する仕様だ。驚くほど素晴らしいバイクをカワサキは用意してくれた」「私は1986年にプロに転向し、1998年に引退した。この間、最高の契約条件は日本のカワサキとの契約だった。私のキャリアの中で最高の3年間だった」として、当時のカワサキ技術陣のワークスレース活動の考えを適切に説明している。

★「受け継がれていくカワサキイズム」
カワサキのモトクロスワークスチームに関係した有志が、2013年、「KX誕生40周年」の期に、往年の関係者を含む80名が参加する懇親会を開催した。その根本の考えは、1973年にデビュー以来、数多くの勝利とタイトルを獲得し続け、以来41年、”一度たりとも開発を中断することなく、一度たりとも生産を中断せず、一度たりともレースを止めることもなかった40周年”に集約できる。それは、KXに代表されるコンペティションモデルの宿命として、常に競争相手との戦いに勝つことで、技術力の優位性を保証してきた歴史である。カワサキは勝つことで技術力の優位性をユーザーに保証してきた経緯がある以上、手を緩めれば相手が勝ち我々は負け犬になるだけの世界。結果的に、”一度たりとも開発を中断することなく、一度たりとも生産を中断せず、一度たりともレースを止めることもなかった40周年”として、確かな事業性とともに多くのカワサキユーザーに約束を果たしてきたという自負であり、これが雑音にも気にせず開発とレースにまい進出来た理由。レースとは技術レベルの優劣を勝負として競争するものであり、過去、日本企業は極限のレースで勝つことで製品の優秀性をアピールし企業が発展してきた歴史だっだからこそ、カワサキはそれを忠実に守ってきた。
最も技術力を誇示できる場がレースである限り、その場で戦い、そして進化してきたのがKX開発担当者に植え込まれたDNAだから変えようがない」と言う、カワサキ担当者の発言記述がRACERS vol26にある。これが”カワサキのモトクロイズム”の原点だったと信じている。
   「’92年Team KAWASAKI USA」
    「向かって左から Jeff Matiasevich、Mike LaRocco、Jeff Ward、Mike Kiedrowski」

「 モータースポーツは○○社の原点であり、DNAであります」と公言している企業をよく聞く。とかく、レース参戦と言うと、何ぼ単車が売れるのかとか、どれだけ企業イメージが上がるのかとか、費用対効果はあるのかとか、色々な声があると聞いたこともあるが、レースに参戦し勝つことがホンダ、ヤマハのDNA、つまり遺伝子だったとすれば、妙に屁理屈をつけた議論は不要なんだろう。だから勝つためにはビックリするような予算を計上することも厭わないし、さる某会社のレース予算を20数年前に未確認情報だが聞いた時は、こんな企業と戦うのかと正直驚いたこともある。化け物企業と戦うのに如何なる戦略を考え勝算を見こむべきだろうかと考え続けた。

★カワサキモトクロス開発陣のOB会と言う有志の会がある。この会が、80名強が出席した、2013年の「有志によるKX40周年」を主催した仲間だ。
戦後、驚異的競争力で世界有数企業へと成長した浜松企業の代表、ホンダ、ヤマハ、スズキと競争せねばならない二輪技術の戦いの場で、彼らと競争しながら勝つと言う目的意識を強く共有してきた仲間達である。だから会社内によく見受けられる仲良しグループでもないし、嫌な仕事を相手に押しつけあって非難し合う事もない。この間、モトクロスとロードレースの人事交流も行われたので、当時のロードレース部門の最大行事だった、鈴鹿8耐もモトクロスグループが相当な部分を直接あるいは間接的に支援してきた時期もある。カワサキモトクロスの長い歴史からみれば、ある一時期を担当してきただけのメンバーであるが、次の世代に歴史を引き継ぐ役目も担ってきた。カワサキモトクロスの歴史を守りながら、世界中のモトクロスやオフロードの戦いの場で大活躍してきた時期もあれば、たまたま競争相手の後塵を浴びた時期もあるが、夫々の時期においても各人の業務を懸命に全うしてきた自負は夫々にある。レース担当とは、このブログでも何回となく述べてきたが、マシンを開発し販売移行したら仕事は終わりではない。カワサキマシンを購入してくれた顧客に満足して貰えること事、そして最終的にカワサキモトクロスを信頼して頂けること、これ等を責任をもって達成してきたメンバーでもある。

                ・・・・”Kawasaki let the good times roll”・・・・
(続)

                        
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「カワサキレーシングチーム」のワークステントの下で・・・その1

2016-12-29 06:23:44 | 二輪事業
  「カワサキレーシングチームのワークステント」
昔、全日本モトクロス選手権大会でのメーカーワークステントの下では、次年度のマシンはどうなるんだろう、どの位の戦闘力があるんだろうかとか、じっと目を凝らしている観客や競争相手の目が幾重も続く。ワークステントの下には、帆ロを被せたワークスマシンが数台。レースが近づくとワークスマシンがピットから出てくる。すると、観客もカメラマンもワークスマシンの後をぞろぞろと付いていく。ワークスチームのワークスマシンを、みんなワクワクしてワークステントの前で釘づけになって見ていた。ワークスライダーを、ワークスマシンを憧れの目で見ている子供達も沢山いた。80年代から90年代の全日本モトクロス選手権大会、そんな雰囲気が満ちていた。そんな時代も確かにあった。みんな何処に行ったんだろうと、そんな記憶をたどりながら、当ブログで書き記した事などを少しだけだが思いだし書いてみた。

★ カワサキのワークスチームは「カワサキレーシングチーム:Kawasaki Racing Team、KRT)」だ。KRTにスポンサーが付くと「○○カワサキ」と呼ぶ場合もある。
このチームに入りたくば、その前段の販社のチームグリーンメンバーに選出されねばならない。チームグリーンライダーの中からほん数名が川重二輪技術部のテストライダー契約になれる。テストライダーは毎日、技術部の整備現場に出勤し車の整備から教ぶ。体トレで体を作りながら耐久テストで技量向上を図り、場合によってはワークスライダーと一緒に走る機会もある。彼らは、全日本選手権レースではチームグリーンの一員として技術部から派遣され、自分等でマシン運搬車を運転しながらレースに参戦する。その間、ワークスライダーは飛行機移動。これ等がカワサキのワークスチームとテストライダー所謂チームグリーンライダーとの差であり、こうして若いライダー達はワークスライダーに憧れチャンピオンを目指した。
  「1973年、ここから始まった、チームカワサキワークス」 
カワサキモトクロスの歴史は、1967年~2011年の45年間で、最高峰部門250クラスのチャンピオン獲得数8回、同125クラスの獲得数13回、廃止になった90クラス3個を加えると計24個を数え、全日本モトクロス界において燦然たる実績を誇る(参考:ヤマハ=29個、ホンダ=21個、スズキ=19個)。他社と遜色のない成績を誇った、そんな時代がカワサキモトクロスの歴史にあった。更に加えれば、1963年当時、赤タンクのカワサキは青野ヶ原自衛隊駐屯地における兵庫主催の第1回モトクロス大会(観衆1万人)にて、1~6位までカワサキが独占したことである。当時単車事業部は赤字が続き事業見直しの議論が行われていたが、赤タンクの活躍でこのカワサキの技術を活かせば事業は軌道に乗せることができるとの判断が下された。KXの先輩が単車事業を救ってくれたのである。これは幾多の先輩たちが証言している、紛れもない事実。


  
   「’89KX250SR:このワークスマシンが’90年、世界で初めて販売された量産ペリメータKXで、世界のペリメータフレームの先駆けとなる」
黄金時代は現代ではない。その時代には気がつかず後になって初めて「あの時代はすごかった。圧倒的プレゼンスがあった」と分かるものと定義すれば、カワサキワークスレース活動の歴史のなかで、最大に輝いていた時代、それは’87~’97年代だと言うことに疑いのない事実だろう。'85年から再び始まったカワサキレーシングチームの活躍は、まさにカワサキの時代であり、カワサキの黄金期だったと言ってよい。全日本選手権におけるカワサキのワークスレース活動にはモトクロスとロードレースがあるが、モトクロス活動の歴史と戦績はロードレースの活動実績を遥かに上回り、カワサキのワークスレース活動の歴史はモトクロスが中心だったと言っても過言ではないだろう。1967年~2011年の間、カワサキモトクロスに関与したワークス契約ライダーは開発主体ライダーを含め延べ140名強。加えて、メカニックそして設計や実験担当の開発陣を含む組織の連綿と続いた歴史がカワサキレーシングチームを構成し、世界のカワサキモトクロスレース活動の中心母体として先陣を走った。

2010年、雑誌”RACERS VOL6”にも記述されていたように、「全日本モトクロスに行くと、今シーズンもカワサキワークスのテントが張られ、その中にファクトリーマシンがある。モトクロスにおけるファクトリー活動はここ30年以上途切れることはなかったと思う。ファクトリー活動によってKXの開発が進み、また活動によってカワサキのブランドイメージが向上し、結果KXが売れユーザー層も厚くなり、ファンは喜び、社員の士気も上がって、また新しい技術が投入されたファクトリーマシンが走り出す。そんな構図が連綿とく続く」、それがカワサキのワークスレース活動だった。世界のカワサキモトクロスレース活動の中心に日本の開発部隊があり、そこから各地のワークチームにワークスマシンや情報を供給しながら戦った。世界各地のレースシーズンが終了すると、次年度レースに照準を合わせ、世界のワークスチームが合同テストに参加すべく日本にやってくる。その合同テストで決まったマシンが次年度のワークスマシンとなって、次々と各地に航空便で発送される。そこにはライダーとマシンの安全を願って「お守り」がついていた。そんな構図のカワサキモトクロスの歴史が何年も続いてきたが、そんな歴史も紆余曲折の結果に修正を加えながら構築したもので、数年でできたものではなかった。

★カワサキモトクロスレース活動が戦績を挙げ続けられた歴史の一番の要因は、ワークスチームが技術部の開発チーム内に所属し量産車の開発をも一緒に担当してきた歴史にあるだろう。カワサキモトクロスのプレゼンスが次第に上昇してくると、常勝カワサキを維持し続ける必然性と責任に加え、いや負けるかもしれないという恐怖感が一緒になって自然と心中に沸き起こる。この恐怖感などは一度でもチャンピオンチームになった者でしか味わえないものだろうが、実際そうなってくる。しかし一方、チャンピオンを獲得し続けると、社内を含め周辺から雑多な雑音がそれとはなしに聞こえてくるもので、例えばもうチャンピオンを目指さなくともいいだろうという声だ。これもカワサキモトクロスがその地位を確立したことを認める証左だと理解し納得してきたものの、当方が一休止すれば、敵がその席を占拠するだけのことで、尖閣と中国との関係と同じで負けると取り返すには相当な費用と労力を要する。それでもレースに勝つ事の難しさを理解し、レース活動を支持した当時の事業本部長には助けられた。

当時の米国カワサキのモトクロスマシンの広告宣伝文句は「誰でもJeff Wardと同じマシンを購入でき、Jeff Wardと同じようにライディングすることができる」。
カワサキのモトクロス開発組織は本当に小さな所帯だ。その中で持ち得る戦力で他社と互角に戦うために、カワサキ独自の戦略を立てた。それは、全日本選手権は次年度以降の量産車の先行開発に専念することだった。他社の先駆的な機構を横目に眺めながら羨ましくはあったけど、自社の立ち位置は守った。他社に劣る戦力は如何ともしようがないが、持った戦力をフルに活用し全日本でのカワサキのプレゼンスを明確にすること、それは量産車の先行開発に徹することだった。その思想の延長上にKXシリーズが完成し、60~500ccまでの品揃えが完成し(当時はカワサキだけだった)、その技術を活用してのKDX、KLXそして三輪や四輪バギー車を自組織内で開発した。昔のような潤沢な資金などとは程遠い予算で、レース活動を継続し、成功させ、認知してもらうには量産KXを含むオフロード車の開発を広く手掛け事業経営に貢献すること。その間、技術者は複数の開発機種を同時進行せざるを得ず、ワークスライダーも量産車の開発に多くの時間を費やす事になった。幸いにも、アメリカの”Team Green”組織への支援体制が確立した時期もあって、カワサキオフ車の追い風となり、カワサキオフ車の生産台数は他社を凌駕し№1の時期が数年に渡って何度もあった。この生産と開発ラインを完成し続けるために、全日本選手権レース参戦は必須だった。これが、カワサキモトクロスの成功理由の一つでもある。
これがカワサキモトクロスの”一度たりとも開発を中断することなく、一度たりとも生産を中断せず、一度たりともレースを止めることのなかった歴史”である。
         
モトクロスマシンの開発の難しさの一つに、量産車として社内基準を満たすだけではなく、毎年大なり小なり改良されてくる、次年度他社マシンと互角以上の戦闘力をもってレースの戦いに勝たねばならない事だ。一般のオンロード車が各社とも交互年度に上市されるに対し、レースマシンの宿命で一年開発を休止しようという考えは各社も持たない。負ければ売れない理由にされるだけで、よーいドンの戦いに勝たさねばならない。これが開発者に重く圧し掛かっている。

★ある遠い昔、サスペンションメーカーKYBの事業部長が来社された。
モトクロスマシンに装着するサスペンションはマシンの総合性能に極めて大きな影響を持つ。当時、カワサキモトクロスマシンが市場から強く支持され、長く好評価を受け続けてきた大きな理由の一つは、サスペンション性能が優れていたからである。カワサキのサスペンション開発の経緯は、「KAWASAKI DIRT CHRONICLES」に説明されているが、その中にある、ユニトラックを構成する重要部品がサスペンションだ。「エンジンのトラクションをRサスで叩き出す」、エンジン性能をサスペンションが引き出す事も多く、開発組織が上手く回転していた。勿論、KXのエンジンは時代に先駆けた新機構を順次採用し高い評価を受けていたが、同時にサスペンションも市場から高い評価を得ていた。カワサキはサスペンション専門家を独自育成していたので、サス仕様を製造会社に一任することはなく、カワサキの固有技術としてサス開発技術を開発部内に蓄積出来ていた。

カヤバの新事業部長来社の目的は、KYBユーザー各社の意見を聞いて回ることだった。
他の二輪メーカーはサス担当会社へ苦情の山だったらしいが、カワサキはしなかった。理由は簡単。KYBの技術を高く評価していたから、そのままの意見を述べただけ。当時は、サスペンション、電装、気化器等の主機能部品メーカーを取り込んだ、「チームカワサキ」を構成していた時期でもあった。「チームカワサキ」がレース体制支援から量産に至る開発を共同分担していたので、互いのコミュニケーションも上手く機能していた。つまり、チームカワサキに対して部品メーカーのロイヤリティが極めて高かった時代でもあった。

当時、カワサキチーム最大の競争相手はホンダだが、サスペンションメーカーも同様にホンダ系列企業ショーワと熾烈な競争に晒されていたので、互いの利害が一致したこともあって、KYBサポート員もサーキットではカワサキのレースジャケットを着用し、チームカワサキの一員としてカワサキを勝たせる事、言い換えればりショーワに勝つ競争だった。だから、新規技術はカワサキチームに最初に持ちこまれレースに供与され、他社が使いたくとも数年待たされた事もあったと聞く。他ワークス企業から再三再四、KYBに文句が来たらしいが、当時、カワサキがレースに採用した新機構のサスペンションスペックはカワサキ専用だった。ある時、サスの競合メーカーからレースの全面的支援体制の申し入れがあったが、カワサキ担当者の回答は「NO」。理由は簡単で、「カワサキの競争相手と組んでいる部品メーカーとは組まない」と非常にシンプルな理由だった。レースや量産開発という目的を通じて、個人的にも強い信頼関係を築いていた。勿論、コスト意識も互いに共通認識があったのでやり易かった事も事実。

遠い昔の話なので今では冗談まがいに話せるが、当時は勝つために必死だった。それほどに完成車開発生産メーカーと主要部品メーカーとの繋がりは強固だった。というか、企業の繋がりよりも個々の人間関係の繋がりが強かったと思う。所詮、開発とは開発を担当する要員個人々の繋がりの強さで決定されるもの。そうしないと、相手に勝てない時代だった。

★モトクロスを中心とするオフロード車は販売の伸びとともに事業性がみるみる好転した。小さな排気量にも関わらず利益性は極めて高くなっていく。しかも工場ラインが閑散期に入る時期にオフロード車を生産できるメリットは生産の平準化に絶大な効果があり、ライムグリーン一色のマシンが次々とラインオフする光景は壮観なものだった。
                      

(その2へ)
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「カワサキレーシングチーム」は消滅する?

2016-12-24 06:39:41 | 二輪事業
いやはやビックリした。22日、こんなフェイスブック記事が投稿されていた。

上記のFBコメントは、著名なモトクロス雑誌編集長が発信したFBで、今年まで「カワサキレーシングチーム(KRT)」に所属していた新井選手が、来年の2017年から、川崎重工の二輪技術部が運営していた「カワサキレーシングチーム(KRT)」を離れ、川重子会社の販売会社(KMJ)が運営する「チームグリーン」に移籍した後に、空席となった所謂「カワサキのワークスチーム:KRT」に米国カワサキのワークスライダーだった、マクグラスとビロポートが新加入する?と言う、冗談とも皮肉ともとれるコメントだ。KMJのチームグリーンと言えば、本来、国内の販売促進を主目的としてモータースポーツを活発化するための組織だ。販促に特化した活動を行ってきたチームに、なんで、今年までワークスチーム所属の、しかも今年度順位2位のワークスライダーが移籍するだろうかと当方も一瞬、迷った。加えて、KMJが運営するレースチームの名称、誰でも知っているぐらい有名な「チームグリーン」から、わざわざ取ってつけたような「カワサキチームグリーン」に変更する理由も意味も説明がないまま、これもわからない。

KMJが運営するレースチーム「チームグリーン」は国内では有名で、過去、優秀なライダー(川重・技術部が運営する「カワサキレーシングチーム」がテストライダー契約し、耐久テスト等で練習させ、レースはチームグリーンメンバーとして出場させた)を輩出し、都度、上位にある、「カワサキレーシングチーム」に送り込んできた、販売会社が運営するチームとしてはそれなりに国内では名をはせてきた。
それをわざわざ「カワサキチームグリーン」と名称変更するには、何か理由や魂胆があるに違いないと、それらしい情報を探してみるも、発信元のKMJからの説明がないまま、色々邪推されるような街の声も出てきた。例えば、あるネット記事のコメント欄には、「あれですよ、評判の悪い販売のイメージ戦略の一端を担わされた形ですよね」などともある。きちんとした説明がないだけに、こう言うコメントが飛び交う。数年前も、KMJのチームグリーンが8耐参戦すると発表した際も、「カワサキロードレースがワークス再開か?」と言う、まことしやかな記事が雑誌記事にでて、ユーザーや雑誌屋は一時困惑していた。「カワサキレーシングチーム」=ワークスチームが仮に8耐参戦してきたら、そのチームは「本物のワークスチーム参上」と言うのかと、一見笑い話のような話がカワサキのレース活動を良く知る雑誌記者から同時に流れ、苦笑してしまった。

いずれにしても、「カワサキチームグリーン」発足に伴い、従来、国内のレース活動の主流を担ってきた「カワサキレーシングチーム(KRT)」はどうなるのかの説明がカワサキから無い。かと言って、海外のカワサキレース活動をみると、米国では従来通り「Kawasaki Racing Team(KRT)」として活動すると発表され、同じく欧州でも世界スーパーバイク選手権と世界モトクロス選手権は「Kawasaki Racing Team(KRT)」が参戦するとあったので、「カワサキレーシングチーム(KRT)」と言うチーム名は存在しているのだ。海外、特に米国では「Kawasaki Racing Team(KRT)」がワークスチーム、「Team Green」はアマチャアライダーを支援する組織として存在し、市場では明確に区別して認識されており、その形態は遅れて発足した他社KTMやYAMAHAも同じ。

「Kawasaki Racing Team」は、カワサキのオフィシャルワークスチームの呼称であり、これ以上に強いチームはカワサキには存在しない。
「カワサキワークスチーム」は、ロードレースが1966年に活動開始し、モトクロスは1973年に組織化して、その歴史は他社のワークスチームに比べても遜色ない実績と歴史を育んできた。その歴史を担当したOBやOG達がしっかりと守り伝え、かつそれぞれの仕事に誇りをもって後輩に託してきた歴史がある(カワサキワークスロードレースは、1966年、日本GP(鈴鹿)でデビューした水冷ロータリーディスクバルブ直列2気筒125ccエンジンを搭載したワークスマシンが始まりで、技術部の大槻さんが監督だった(大槻さんに直接確認した)。モトクロスのワークス活動の始まりは1973年で、同じく百合草さんが初代監督。ちなみに”ワークスチームの定義”とは「2輪及び4輪の自動車等製造会社が、自己資金でレース参戦する場合に、そのチームを指す名称、つまりマシンを製造しているメーカーが直接チームを運営してレースに参戦する形態を言う」と定義している)。 こうしてみると、今年、2016年はカワサキのワークスチーム50周年で、記念すべき歴史の年。それゆえに、カワサキワークスの代名詞「カワサキレーシングチーム」という歴史あるチーム名称を使わない理由が見当たらない。

そんな歴史の中、カワサキのロードレースは紆余曲折の歴史で、例えば、2010年に発行された、「RACERS vol6」の"kawasaki GP Racers特集”に「参戦と撤退を繰り返すカワサキに未来はあるか」という記事がある。本著によると、'82年のKR500は他社の4秒落ちで撤退、X09はタイムが上がらずじまいで'93シーズン途中で撤退、'02年のZXRRは勝てる見込みもないままリーマンショックの金融危機に揉まれてGPから撤退した。何れも特にハード面の失敗が途中撤退の大きな要因であるが、「他社は続けているのに、どうしてカワサキだけが参戦と撤退の歴史を繰り返して来たのか、その根源を分析しようと試みた」と編集長は述べ、また、「モトクロス部隊がうらやましい」との記述もある。「全日本モトクロスに行くと、今シーズンもカワサキワークスのテントが張られ、その中にファクトリーマシンがある。モトクロスにおけるファクトリー活動はここ30年以上途切れることはなかったと思う。ファクトリー活動によってKXの開発が進み、また活動によってカワサキのブランドイメージ向上し、結果KXが売れユーザー層も厚くなり、ファンは喜び、社員の士気も上がって、また新しい技術が投入されたファクトリーマシンが走り出す。そんな図式が連綿と続いている。翻ってロードはどうか。残念ながら、ファクトリーマシンを走らせて結果を残せばバイクが売れる時代ではなくなった。ならば、メーカーにとって、ロードレースに参戦する大義は何だろう」と、カワサキのモトクロスとロードレースを対比させながら所感を述べている。カワサキのロードレースは撤退と参戦の繰り返しだったので、担当した技術者は、その度に唇をかみ涙を飲んできたと類推されるが、一方記事にあるように、カワサキのモトクロスは1973年のKX登場以来、「カワサキモトクロスの歴史は”一度たりとも開発を中断することなく、一度たりとも生産を中断せず、一度たりともレースを止めることのなかった歴史”」であり、常にこの中心にいたのが技術部の開発部隊で、この歴史の事実は変えようがない。


何時も、こう思う。
『技術レベルの高さの優劣を、勝負として競争するのがレースであり、過去、日本企業はレースで勝つことで優秀性をアピールし企業自体が発展してきた歴史がある。二輪ユーザーが求めるものは多様化しつつあるが、最も技術力を誇示できる場がレースであることは現在も何等変わらない。更に加えるなら、書籍「失敗の本質」では、技術には兵器体系というハードウェアのみならず、組織が蓄積した知識・技能等のソフトウェアの体系の構築が必要と指摘している。組織の知識・技能は、軍事組織でいえば、組織が蓄積してきた戦闘に関するノウハウと言っても良い。組織としての行動は個人間の相互作用から生まれてくるとある。この指摘から言えば、戦いのなかで蓄積された人的・物的な知識・技能の伝承が最も必要なレース運営組織は経験的に企業グループ内で実質運営されるべきであり、レース運営を外部団体に委託すること等は組織技術ソフトウェアの蓄積から言えば絶対に避けるべき事であろう』

全日本選手権で、近年、他社がワークス活動から撤退した後も、技術開発のためには全日本選手権参戦が必須条件であると固くなに守ってきた技術部のワークスレース活動「カワサキレーシングチーム」だが、つい最近、競合他社が再びワークス活動を再開した理由として挙げたのが、「マシン開発のために全日本に参戦する」と明確にメディアに公表してきた事実を見るに、これはカワサキの技術部が長年守り続けたレース参戦目的の歴史は正しかったという証左になろう。ライダー技量の低さから世界のレースの戦いから一人蚊帳の外にある全日本のレース界が、唯一存在できる可能性があるとすれば、それはマシンの開発である。このレース参戦目的の歴史を毅然として守り続けてきたカワサキの技術陣が、まだそうだとは発表無いが、もし仮に、全日本選手権から「カワサキレーシングチーム」を放棄したとすれば、いかにも残念至極で、「カワサキレーシングチーム」と言う名前はカワサキワークス(別の言葉で言えばカワサキの技術力)のアイデンティティを表す最たるものだけに、関係OBの一人として居た堪れなくなった。それは、長くレースを取材してきた雑誌編集長達も同じ思いであろうし、それが冒頭のFB投稿になったと推測される。
                                   








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Kawasaki let the good times roll.

2016-12-19 06:24:43 | 二輪事業
   KAWASAKI’S SUPERCROSSMAS PARTY
12月17日の「RacerX online.com」に良い写真が投稿してあった。これは動画でライブ放送されたものをRacerXネット誌が再編集したもの。
参加したカワサキモトクロス新旧ライダーは、Monster Energy Kawasaki riders のEli TomacJosh Grant、そして250㏄クラスを担当する、Monster Energy/Pro Circuit Kawasaki (Joey Savatgy, Justin Hill, Austin Forkner, and Adam Cianciarulo)からJustin Hill(他のメンバーはフロリダ)。加えて、カワサキの大スター Jeff Ward Ron LechienJeff MatiasevichRyan Villopoto Jeremy McGrathの各選手。カワサキの米国本社が6月に新しい建屋に移転した後、創設50周年記念に合わた色んなイベントが開催されているが、この12月に開催されたのが、2017年米国カワサキモトクロスワークスチームの紹介と会社従業員のクリスマスパーティーを兼ねたイベントで、その模様がこれ!現役のモトクロススター達と往年の大スター達がカワサキの従業員家族達と一緒に楽しんだパーティ、楽しそうに見える。
最後に、RacerXネット誌はカワサキをこう結んだ。・・・・”Kawasaki let the good times roll”・・・・
 ・・・『Kawasaki に出会う人たちがハッピーになるような活動をKawasakiは展開し続けます』・・・
このカンパニーロゴはカワサキを端的に表すのに最も象徴的なもので、40年以上も続いているカワサキ二輪の基本理念だが、今尚、米国の末端で生き続けている。その理由は簡単で、カワサキを表す言葉としては最適だとRacerXの記者も知っているからだと思う。

こんなイベントを日本のカワサキファンやカワサキモトクロスファンにも是非提供して欲しいと切に願っているし、こうありたいものだ。
     
  
  
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米で“サムライ”と呼ばれた男 ②

2016-09-30 07:02:55 | 二輪事業
9月28日の産経ニュース【銀幕裏の声】”サムライ”と呼ばれた男の続編が掲載された。22日の産経ニュースに掲載された「”サムライ”と呼ばれた男(上)」につづく下巻なので、転載しておこう。

米ドラマ「白バイ野郎ジョン&パンチ」で、ジョンとパンチの白バイ警官が乗っていたKZ1000POLICE、ハリウッド映画「トップガン」で 主人公の戦闘機パイロットを演じたトム・クルーズが乗っていたGPZ900R。いずれも劇中で日本のカワサキ製バイクが活躍している。 「どうしたら後発メーカーのバイクが米国に浸透できるか? 自分が開発したバイクで米大陸も横断しました」。こう振り返るのは、 これら傑作バイクの生みの親である元川崎重工常務、百合草三佐雄さん。米国でカワサキモータース(KMC)社長などを務め、 カワサキの大型バイクを米国市場に普及させた立役者だ。だが、決して順風満帆ではなかった。「とんでもない事件が起こったんです…」。軌道に乗り始めた大型バイク事業を脅かし、社の存続さえ揺るがす事件の真相を百合草さんが吐露した。

 「白バイ警官転倒続発で“欠陥バイク”の濡れ衣 敗訴で賠償金100億円」
百合草さんが開発に関わったZ1の白バイバージョン「KZ1000POLICE」は、米国のCHP(カリフォルニア・ハイウェイ・パトロール)や、 LAPD(ロサンゼルス市警)などで採用後、米各都市の警察でも採用が決まっていった。KMCのR&D(研究・開発)所長時代、百合草さんが奔走した結果、 その高い性能、信頼性が全米で認められた証しだった。 「しかし、帰国後、とんでもない事態に見舞われたのです」と百合草さんが語り始めた。 「テキサス州で白バイ警官が転倒する事故が起きたのです。それも何件も発生し、その原因がバイクの欠陥だとして集団訴訟を起こしてきたのです」1983年、カワサキ側は敗訴。その賠償金は当時の日本円で約100億円という巨額にのぼった。さらに米交通安全局はリコールするよう通達してきた。 「社の上層部からは“もう会社はつぶれてしまうかもしれない”と言われました。しかし、私は絶対におかしいと思いました。 バイクの安全性については、CHPやLAPDなどでの白バイ採用の厳しい合同テストをクリアし、絶対の自信を持っていましたから」  百合草さんはすぐに米国の弁護士に相談したが、返事はつれなかった。「米国で判決を覆すのは難しい。リコールで応じた方がいい」。つまり泣き寝入りしろという提案だった。この対応に、いつも冷静で謙虚な百合草さんが怒りを爆発させた。「そんなばかなことがあるか。私たちは時間と労力を惜しまず安全で高性能なバイクを開発した。 断じて欠陥バイクなどではない!」と。

 「事故が起こって当然? ずさんなメンテナンス」
百合草さんは直接、同局へ出向き交渉した。理路整然とした百合草さんの反論を聞き、同局は「調査のために1年間の猶予を与えよう」と提案してきた。 ただし、立証責任はカワサキ側にあった。 百合草さんたちはただちに調査を始めた。すると、驚くべき事実が明らかになってきた。 日本と違い、米国の白バイ警官は自宅から白バイに乗って出勤、そのまま帰宅していた。バイク管理は個人に任され、毎月決まったメンテナンス経費が個人あてに支払われていたのだ。 「しかし、彼らは経費を浮かそうと、バイクが壊れるまでメンテナンスしていなかった事実が分かってきたのです」 いくらタイヤが摩耗しようと、チェーンが傷つこうと、故障する限界までメンテナンスを怠っていたのだ。白バイはいつ転倒してもおかしくない状況で、 高速運転で逃走車両を追跡するなど過酷な業務を行っていた。 百合草さんたちは約3カ月の調査で、これらの結果をまとめ同局へ提出した。その結果、“欠陥バイク”の汚名は返上。リコールも免れ、巨額の損害賠償の危機も回避された。

 「クライスラー&カワサキ製 “幻”のスポーツカー秘話」
米国のバイク市場で“世界最速”の名をほしいままにしたカワサキの大型バイク。その性能に、ある巨大自動車メーカーが目をつけた。「実はクライスラー社から、カワサキのエンジンを積んだ小型スポーツカーを共同で開発できないか、と提案してきたのです」1985年当時、日米を代表する技術力を誇る両メーカーによる夢の高性能小型スポーツカーの共同開発計画が進んでいたというのだ-。 百合草さんはカワサキ側代表として何度もクライスラー側と交渉を重ね、急ピッチでテストカーの開発は進められたという。 「第一次のプロトタイプカーが完成。私も試乗しましたが、若者向けの優れたコンパクトカーでしたよ」と百合草さんが明かす。 しかし、突然、クライスラー側は新車の開発を中止し、計画は幻に終わる。当時、クライスラー側で新型スポーツカーの開発に最も熱心だったスパーリック社長が、 アイアコッカ会長との意見の相違で退社したのが原因とされているが、真相は不明だ。 もし、カワサキエンジン搭載のクライスラー製スポーツカーが販売されていたら、現在の世界の自動車メーカーの勢力地図は違った形になっていただろう。 百合草さんはアイアコッカ氏とも親交が厚く、「なぜ彼は計画を中止したのでしょうか? Z1などのバイク技術が、四輪にどう生かせていたか-と想像すると残念でなりません」と 百合草さんはつぶやいた。

 「夢はバイクから航空機へ」
長年、バイクの研究・開発、米国での販売などに尽力した百合草さんは平成5年、川重取締役となり、航空宇宙事業本部副本部長兼ジェットエンジン事業部長に就任する。 「私は航空機を作るために入社したのです…」。血気盛んな新入社員の頃、上司に申し出た百合草さんのこの熱い思いを会社はずっと忘れていなかったのだ。 昨年初飛行に成功した国産初のジェット旅客機「MRJ(三菱リージョナルジェット)」の開発には、その中心となった三菱航空機の他、 企業の垣根を越えた“オールジャパン”の技術力が結集されている。そこには、「日本航空宇宙学会」関西支部長や「日本航空機エンジン協会」理事などを務め、 日本の航空機産業の発展に長年尽力し、そしてYS11の設計者の一人、土井武夫の遺志を受け継ぎ、誰よりも航空機を愛してきた男、百合草さんの智恵が生かされている。
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米で“サムライ”と呼ばれた男 ①

2016-09-24 06:30:18 | 二輪事業
9月22日の産経ニュース【銀幕裏の声】に、米で“サムライ”と呼ばれた男、”百合草三佐雄”さんの紹介記事があった。
カワサキ二輪事業の百合草さんについては話すことはいっぱいあるが、すぐに思いだした事をひとつふたつ。百合草さんは、カワサキ単車事業初期頃の単車実験関係の責任者の一人で川航技報に多くの論文を残され、且つカワサキのワークスレースの開発や運営に大きく関与した第一人者。また、KMCでは社長を含め在任時、その後米国オフロード市場を席巻した”TEAM GREEN”創設に携わり、加えてジェットスキー、ATVや多目的車MULEを初めて開発上市された。米国駐在時に、競争が最も熾烈だった米国モトクロスやロードレースでカワサキの大成功を導き、駐在から帰国後、再度レース部門の責任者を担当された百合草さんの一言、「全日本モトクロス選手権で勝て!」を信じて、以降モトクロス開発部隊の見直しに着手、連れて勝てるライダーとの交渉を本格的に開始した。「勝て!」の一声がなかったらのらりくらりの組織に終わった可能性すらある。とにかく、夢を具体化できる人で、どちらかと言えば地味なカワサキの開発陣に対し、その方向性を明確に指示した人だが、未来の形を語れる人が上位に立つ組織は良くなる。また、百合草さんは頭のきれる人で、昼休みに好き者が集まる4研ビル2階での賭けトランプでは常に勝たれるので不思議だった。メンバーは当時の各部門責任者たちばかりで、若輩でペーペーの私は記録兼雑用係だったので覚えているが、その閃きは見事だった。1976年、百合草さんがKMCR&D(MAIN通りにあった昔のR&D)の所長に着任された当時、私もテストで初めての米国出張だったが、大変お世話になった。その年に、ロングビーチでのF1公道レースの前座でイボン・デュハメル等がH2Rで走るというので、種子島さんや百合草さん等と一緒に見に行った記憶がある。
 
 「現在も百合草さんは、新たな国産旅客機開発の必要性の訴え、論文などを執筆:産経ニュース記事から」

以下、産経記事からの転載。
人気の米ドラマ「白バイ野郎ジョン&パンチ」やハリウッド大作の劇中、日本製バイクが活躍していることをどれほどの人が知っているだろうか? 
「カリフォルニア・ハイウェイパトロール(CHP)で採用されていたポリスバイクはカワサキ製。ロス五輪で聖火ランナーを先導したのもロス市警(LAPD)が 採用したカワサキ製です」。こう語るのは元川崎重工常務の百合草三佐雄さん。航空機のエンジニアとして入社後、世界最速の称号“NINJA=ニンジャ”の愛称で 米国のバイク市場を席巻した伝説のバイク「GPZ900R」の開発部長でもある。自ら米国に乗り込みカワサキモータース(KMC)社長も務め、 大型バイク王国・米国にカワサキの名を轟(とどろ)かせ、米国人から“サムライ”と呼ばれた男が挑んだ米開拓秘話を紹介したい。

 「ヒーローの愛車はカワサキだった」
米国のCHPに所属する白バイ警官、ジョンとパンチ2人組の活躍を描く米ドラマの傑作「白バイ野郎ジョン&パンチ」(1977~1983年)。 ドラマで2人が乗っていた白バイは当時、CHPで実際に採用されていたKZ1000POLICE(Z1000Aの警察仕様)だった。 同ドラマは日本でも昭和54年から放送された大ヒットシリーズ。当時、番組を見ていた人たちの中で、こう思い込んでいた人は少なくないのではないか。 当然、大型バイク大国“米国の象徴”ともいえるハーレーダビッドソン社製のポリスバイクが使われていたのでは-と。 当時、米国の大型バイク市場は、ハーレーダビッドソンなどの他、日本勢ではホンダのCB750などが勢力を拡大し、カワサキは後発メーカーだった。 61年、カワサキがこの牙城に挑むため、“白羽の矢を立て米国に送り込んだ”日本からの刺客が、新型バイクの研究・開発だけでなく、 グリーンのチームカラーで、世界のロードレース界を席巻した「チームカワサキ」の監督も務めた百合草さんだった。

 “カワサキのバイクを知り尽くした男”に「米国市場で戦え!」
百合草さんはA1、Z1、そしてGPZ900R初代“ニンジャ”などカワサキを代表する歴代名バイクの開発に関わってきた生粋のエンジニア。 51~56年にはKMCのR&D(研究開発)所長として米国でバイク開発に携わっていたが、KMC社長としての米国赴任は異例ともいえる指令だったという。 会社は“カワサキのバイクを知り尽くした男”に米国市場での社の命運を託したのだ。「君はバイクの開発責任者なのだから、今度は米国でそのバイクを販売するために市場を開拓してこい、というのが会社からの命令ですよ」と 百合草さんは苦笑しながら当時を振り返った。 百合草さんは技術者として、自ら開発したバイクを持ち込み、米大陸横断という過酷なテストを何度も繰り返した経験も持っていた。 そこで培った知識などを駆使し、米市場開拓の作戦を練り上げていく。

 高速道路の充実した米国での大型バイク需要、レース好きの若者を対象にした市販レーサー需要…。 開発者としての視点から米国向けバイクのニーズを分析していた百合草さんは社の期待に応え、米市場にぐいぐいと食い込んでいった。 世界最速の名をほしいままにした“ニンジャ”シリーズは、公道での「ゼロヨン」(約400メートルのタイムを競うレース)などレース好きの米国の若者たちの絶大なる支持を得て販売網を拡大。また、CHPやLAPDに採用されたKZ1000POLICEは、その信頼性から、米国全土か、 カナダの警察用白バイとしても採用されていった。

だが、決して順風満帆だったわけではなかったという。 「このKZ1000POLICEは、まさにカワサキの名を世界に知らしめた傑作バイクですが、後に社の存続を揺るがす事件を引き起こすことになるのです」。 百合草さんが明かした壮絶な“ある事件”については後編で紹介したい。

「売れるバイクを作れ」の社命、航空機開発資金を稼ぐためだった。 百合草さんは昭和10年、東京で生まれ、愛知県で育った。「戦後の日本の産業を復活するためには最先端の技術が求められる航空機作りの技術者が必要だ」との信念から、名古屋大学工学部航空学科に進学する。 大学で航空機設計について学んだ“師匠”は、旧日本陸軍の戦闘機「飛燕」や「屠龍」などの設計者、土井武夫さんだった。 東大工学部航空学科で土井さんと同期だったのが、零戦の設計者として知られる堀越二郎さんだ。 「土井さんからは当時、国産初の旅客機として研究・開発が進められていたYS11の図面を教材に講義を受けました。 航空機開発の草分け的技術者から“失敗の経験の尊さ”も教えられました」と言う。 YS11の設計には土井、堀越両氏が関わっていた。 百合草さんは、「国産の新型航空機を自分の手で飛ばしたい…」という夢を膨らませ、迷わず選んだのが川崎航空機工業。 現在の川崎重工だった。

 しかし、当時、日本の航空機産業は米国からの規制を受け衰退。戦闘機などの軍用機はもちろん、旅客機もYS11以降、自由に製造できる環境にはなかった。 入社した百合草さんへの会社の指令は、「新たなバイクを開発しろ」。配属されたのは二輪車部門だった。
「“私は航空機を作るために入社したのです”と上司へ抗議しました」と百合草さんは苦笑しながら当時を振り返る。「すると上司にこう言われたんです」 航空機作りの夢に燃え、熱く訴えてくる若いエンジニアを諭すように上司はこう語りかけた。 「航空機を研究開発するためには数千億円が必要なんだ。今、その資金はこの会社にはない。その莫大な開発費を稼ぐために、君に世界で売れるバイクを開発してほしい」と。 若きエンジニア、百合草さんは、大学で土井さんから受け継いだ航空機エンジン開発のノウハウを、「世界で戦える新型バイクのエンジン開発に注ごう」と強く心に誓った


 
 「平成6年、百合草三佐雄さん(右)は師匠の土井武夫さんを川重明石工場に招いた(百合草さん提供):産経ニュースから」


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ヤマハの支援プログラムに期待

2016-06-13 06:07:57 | 二輪事業
   「bLU cRU
6月10日、ヤマハ発動機から”bLU cRUサイト”bLU cR(Yamaha Off-Road Racing Amateur Support)Uが公開された。
これには、ヤマハYZシリーズのアマチュアオーナーのためのレース参戦サポートプログラムとして、こう書いてある。「汗をかき、土にまみれ、情熱の限り戦う オフローダーたちへ―。 bLU cRU(ブルー・クルー)は、ヤマハオフロードコンペティションモデルを使用する、アマチュアライダーを対象としたレースサポートプログラムです。 この日本には、トランスポーターにYZを積み込み、チームで、家族や仲間と昼夜を走ってレースに向かう多くのヤマハオーナー様がいます。 ある人は「ファクトリーライダーになりたい」と夢を描き、ある人は自らの限界に挑み続ける。またある人は純粋にレースを楽しむなど、その思いはさまざまです。 レース会場では、輝く笑顔やくしゃくしゃの泣き顔など、レースに全身全霊をかけ、心を奮わす姿に何度も出会いました。 その度に、ヤマハ車を選んでくれたことへの感謝とともに、「なにか恩返しはできないか」と自問自答を繰り返したのです。 そして、ヤマハのブランドスローガンである“Revs your Heart”にも込めた想い、「心躍る瞬間、そして最高の経験を届けたい」という答えに辿り着きました。 bLU cRUは、オフロードを愛し、汗をかき土にまみれ、刺激的な日々を過ごすヤマハオーナー様のオフロードライフをさらに豊かにするために生まれたのです」

日本のアマチュアオフロードユーザーを対象に、彼らを支援するプログラムが、日本でオフ車を生産販売する企業から久しぶりに登場した。このような支援プログラムは発想はあっても、実際の定着化は困難だろうと日頃から思っていた。と言うのは、日本のオフロード市場はもうからない分野として販売店も積極的に関与せずで、そのためオフ車を中心に取り上げる雑誌も少ない。

しかし、全米には、多くの市民がオフロードを楽しむエリアが幾つもある。現地に行くと、そこには数台のキャンピングカーを中心に、父親と少年少女達がモータサイクルや四輪バギーVWの改造車でビュンビュンと走リ回っている。側で、母親はキャンピングカーに張ったテントの下で昼食のサンドウィッチを準備をしていて、楽しそうな家族的な風景が日常的にある。従って、米国の二輪販売店の店頭に置かれているのはモトクロスマシンで、店頭の一番前に置かれている車をみれば、今年の一番人気がすぐ分かる程である。だから、その市場を草の根的に支援するプログラムが必然的に発生した。特に、1981年に原点がある、有名なカワサキの”TEAM GREEN"プログラムは他社がこの分野から撤退しても、幾多の問題を経験しながらでも現在も継続され続け、多くのオフユーザーに支持されてきた歴史がある。ところが、ここ数年、アメリカの景気回復に伴い、米国白人社会に根強い人気のあるオフロード市場が、今さらに大きく拡大し続けているとの報告がある。そのため、”TEAM GREEN"プログラムと類似の支援プログラムが、2、3年前からKTMとヤマハから順次発表され、それらは米国のRracerXonlinにも、アマチュアモトクロスを支える3人のボスとして紹介されている。ここに、日米のオフロード市場の歴史的あるいは文化的背景の根本的差異がある。で、ヤマハによると、米国で生まれたbLU cRUは、既に数千人がメンバーとして活動し、その中からは、アメリカ最高峰のAMASXで活躍中のクーパー・ウェブ選手やジェレミー・マーティン選手を産んだと紹介されている。ここだけを見ると、米国ヤマハの”bLU cRUサイト”も米国カワサキの”TEAM GREEN"も概念的には同じに見える。

一方、米国で成功した”TEAM GREEN"活動は、日米のオフロード市場の環境や成立ちが異なる事で、米国本家と日本の販売会社のチームグリーン活動とは異なっていた。そして、米国本家が35年の歴史を継続しているのに、日本の”TEAM GREEN"活動はいつの間にか消滅し、唯一、ロードレース活動に目的を変えて残っているだけとなった。だからこそ、今回のヤマハが計画した、”bLU cRU(ブルー・クルー)”の成功を市場は大きな興味を持って注目しており、私も期待している一人。

ヤマハが、世界の隅々にわたってライダーの支援活動を展開している事実は、最近のSNSである程度知ることができる。世界中の二輪市場を開拓し定着させることでホンダやヤマハが、ひいては二輪市場が、飛躍的に成長を遂げてきた歴史があるだけに、こうしてみると、二輪事業は経営手腕によっては「未来ある事業体」と言える。、二輪を梃に大きく成長し続けたホンダ、ヤマハ、スズキを見ると浜松企業の力強さを感じる。
当たり前のことだが、最後は結局、経営戦略の優劣が勝敗を決する。
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