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野々池周辺散策

野々池貯水池周辺をウォーキングしながら気がついた事や思い出した事柄をメモします。

『ある時代カワサキを支えた人』・・・大槻幸雄さん

2014-12-26 06:26:20 | 二輪事業
    「大槻幸雄さん」
「NPO法人 The Good Times」理事長の古谷さんがFBに『ある時代カワサキを支えた人』というテーマで取りあげられている。このメンバーの中には懇意にして頂いている人達もたくさんいて楽しく拝見したが、そのなかでも格段に個性豊かな技術部出身者は忘れられない。まずは、大槻幸雄さんだが、古谷さんはこう説明している。
大槻幸雄。カワサキでミスターホースパワーと言われたご存じZ1の開発責任者ですが、ご縁があって創成期のレース委員会でずっとご一緒しました。
 カワサキの初めてのファクトリーチーム監督、そのレースが鈴鹿でのアマチュア6時間耐久レース、金谷秀夫のデヴューレースです。
 その後GPレーサー開発など担当され66年のカワサキ初のFISCOでのGP参戦でも監督をされました。私はそのマネージメント担当でしたので、
 そんな関係で今でもお世話になっています。Z1開発後はカワサキのガスタービン事業を担当されて現在の川重のガスタービンに繋がっています。
 現在はZ1会のゴルフコンペの会長、非常に楽しいコンペなのも大槻さんが引っ張られるので、多士済々なのですが纏るのだと思います。


で、古谷さんのFB大槻さんに関し、私は下記のようなコメントを送った。
「 昨年6月、私のブログに大槻さんの事を若干書きました。
 下記はその一部ですが、私の抱いている大槻さんの印象は技術屋としても経営者としても卓越した人物だと思います。・・少々長いですが」
『’13年6月25日に行われた、「カワサキZの源流と軌跡」の出版記念会で、著者の一人であり、監修者でもある、大槻幸雄さんと久し振りにあった。 大槻幸雄さんはゴルフ親睦会「Z1会」の会長だが、ここ暫く私はZ1会のゴルフコンペに参加していないので久し振りだったが、お元気で何よりだった。ところで、大槻さんはカワサキ二輪技術部出身として知っている範囲では唯一の工学博士所得者であり、技術者の一人として、私は心から尊敬している。どの業種の技術者であれ、技術者が技術者として到達し得た頂点の一つであり、その称号でもある工学博士は、多くの技術者の憧れでもある。 そして、製品開発に従事する日常の日々の中に、担当する技術を奥深く極める姿勢は、競争相手に比べ資本力の乏しい企業が競争相手に伍して 戦える有効な手段でもある。

 Z1会での大槻さんのニックネーム(馬名)は「ミスターホースパワー」、その名は如何にもエンジン出力至上主義の印象を与えかねないが、 実際の大槻さんはそうではない。 昔の発展途上にあった時代の内燃機関の研究では、確かに出力向上は大事な要素であるけど、二輪車の総合性能を評価する場合、 必ずしもエンジン出力至上主義は正しくない。 私が初めて二輪開発部門に配属され、ある時期、大槻さんから手渡された資料の一つに、 「2サイクルガソリンエンジンの設計パラメータ」がある。 この論文は、その後航空機事業部(岐阜)に配属された飛永さんが昭和38年に纏めた2サイクル機関の 出力に影響する性能因子、特に2サイクルポート等が最高出力や トルクに与える影響をそのパラメータを数値解析化したものだったが、これがまた難解で、 担当する最後まで十分に理解し得なかった代物だ。 ただ単に、ポート形状や開閉タイミング、排気管形状だけの実験的に決まっていた2サイクルエンジン出力性能を、 それに大きく影響する因子を数値に置き換える画期的な論文だ。 大槻さんは、単に実験だけで性能を求めるのではなく、解析等を使い、つまり頭脳を使えという指示だったと思う。また、大槻さんは大東亜戦争で日本が敗北した負い目を強く感じられていたようにも見受けられ、日頃から資源の乏しい日本が大国アメリカに勝つには、 頭を使うしかないと言われた事もある。だから、常日頃から技術を磨け、技術の奥を極めろと指示されていた。

 その後、当時の2サイクル機関の出力向上を図るうえで大きな弊害だった、シリンダー焼付き問題を解消する技術をカワサキが競争相手に先駆けて開発した事がある。 当時、2サイクル機関のシリンダーとピストン焼付きが頻繁に発生し、出力向上時のネックだったが、線爆溶射という新技術がシリンダーの焼付き対策に多大な効果が あることが分かった。 線爆溶射技術はカワサキ独自技術として、カワサキの2サイクル二輪車の殆どに適用され、その効果は広く市場から認知される技術に至った。 競合社が線爆溶射技術に対抗すべく、 独マーレ社のメッキ技術を採用したのはかなり後になってからだったことを勘案すると、線爆溶射技術は世界に先駆けた先端技術だった。2サイク内燃機関への線爆溶射技術開発には私も参加し、その後、日本機械学会に発表した論文がある。日本機械学会と言え、関西支部での発表論文は当時手書きで、それをコピーし論文集に纏めたもの。原文は私が手書きし、故久世さんが発表した。 この技術も大槻さんの発想や決断が極めて大きい。当時は、この手の技術論文を発表する企業は少なく、日本機械学会関西支部担当教授から感謝されたことを記憶している。 その後、線爆溶射技術を、当時の世界最高レベルにあった、SAEに論文(SAE770624)投稿したが、すると、この論文は「Automobilengineering(Jury,1977)」に 取り上げられた。大槻さんの凄いところは、カワサキの線爆溶射技術が世界に冠たる技術だと認識されると、この技術を当時の世界最高自動車企業のBig three (GM、FORD,Chrysler)や American motors Corpに売り込みされた。 当時、エンジンの軽量化研究に熱心だったFORDが強い関心をもち、FORDへの線爆溶射技術提供の 打ち合わせも数度あった。 これ等は大槻さんが常に言う、技術の深さ追及の一つの事例であるが、資本力の乏しい後発企業が世界に認知させる手段として、 常日頃から技術を磨いておけと言うことだろう。加えて、大槻さんはレースに強い関心を持たれ、二輪事業後発企業のカワサキが自己技術を世界に認知してもらうには、 レースで技術を勝ち抜いていくのが最も有効な方法だとも考えておられた。

 大槻さんは、その後単車技術部長を兼務されながらガスタービン事業部長を担当され、退職後「純国産ガスタービン開発物語 ガスタービン事業の誕生」を刊行された。 この本は「1972年から純国産ガスタービン開発に着手され、発電と排熱エネルギーの再利用が同時にできる注目のコージェネレーションシステムをつくりあげた川崎重工技術者たちの足跡」 として、617pに及ぶ大作である。その中の4部終編に含蓄ある大槻さんの思いが綴られている。例えば、産業用ガスタービン事業を成功に導いた経験として、 特に「オートバイ開発の経験」や「開発技術者の心構えと使命」等は上手く書けている。「開発技術者に要求される資質」など、面白い。また、最後の章「事業と戦争の類似性」は全く同感するものがある。

 大昔、ゴルフに興ずるなど亡国の輩と言っていた大槻さんがゴルフ親睦会の「Z1会」を結成するなど、単車に携わっていた頃の大槻さんを知る者としては想像も出来ないが、 ガスタービン事業を成功させるにはゴルフも必要だと言ったと人伝てに聞いたことがある。しかも80才を超えてもゴールドティには立たず、今も白ティスタートだ。 このような偉人がカワサキの二輪開発技術の先駆者だったこと、そして彼の教えを少しでも受けることが出来た事を誇りと思っている。』

こう書いて投稿したら、早速、古谷さんがFBに書き込みされた。
古谷錬太郎 」大津さん、有難うございました。飛永くんは同期です。惜しい人を早く亡くしたとと思ってます。久世さんKMJに来られた久世さんですか?  私はなぜか、大槻さんとは、ずっと繋がっていました。技術については全くの門外漢ですが、いつも気を使って頂きます。 Z40周年のアメリカイベントなどもその最たるもので、Zの開発など何の関係もない私に『おまえも来い』と仰って頂いて、そんなことからKWASAKI Z1 FAN CLUB は生まれたのです。
 12月22日 10:51

で、こう返事した。
「大津 信 」飛永さんの論文は当時明石工場にあった回転機械班当時の資料です。個人的には飛永さんを存じ上げませんが岐阜で回転翼を担当され、超優秀な方だと伺っています。 久世さんはKMJでサービスを担当されていました。その前は長く単車の研究部門で新研究を担当され、0280(スクエア4気筒)の開発や2サイクル高効率エンジンの研究で 一緒させてもらいました。12月22日 12:22 」
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これは大変だ! どうなるタカタエアバック

2014-12-12 06:20:39 | 二輪事業
  12月8日のBSフジ・プライムニュースで「何が問題エアバック」が特集されていた。
この日の後半、今や全米及び日本の自動車業界最大の関心事となっている、タカタ(株)のエアバック異常爆発という市場不具合が取り上げられた。タカタ(株)の関係者は同席せず、日本のモータージャーナリストとPL訴訟に精通する弁護士が出席し、タカタ製エアバック不具合の現状を解説していた。番組で報道されたタカタのエアバック不具合を聞く範囲では、タカタは特に全米で厳しい訴訟の嵐の中に今後突き落とされる予感がする。既に動き出している集団訴訟やその後の裁判での懲罰賠償も十分考えられ、企業の存続さえも危惧される事態が発生する可能性すらある。つまりタカタのエアバッグは危機的状況の真ん中にさしかかっている。この事は膨大なリコール対応費用に加え米国弁護士の格好の獲物になってくる。
     
     「インフレーター内に収納された火薬(硝酸アンモニア)が設計値以上に爆発して格納を破損、結果、人身事故に至る。」                                            

一方、業を煮やしいたたまれなくなったホンダは10日、エアバック問題で国内初の調査リコールを発表した。
それによると、タカタ製の欠陥エアバッグ問題を巡り、原因究明を待たずに実施する調査リコール(無償修理・回収)を日本で行う。調査リコールが実施されれば国内では初めてとなり、しかも、調査リコールを全世界に広げる意向を明らかにしたとあった。本来、自動車の安全や保安基準を保持できない場合、まずは不具合の原因究明が最優先され、その後一斉に対策部品が確保され次第リコールするのが一般的。だが、今回の調査リコールは日本の法令にも明記されていない自主的リコールのようで、自動車企業はここまでしないと顧客の信頼が得られない緊急事態だと考えたのだろう。「原因は特定できていないが、安全のためリコールに踏み切った」とは、異例中の異例で、自動車メーカは飛んでくる火の粉の火消しに躍起になっているのが目に見える。

しかし、不具合発生元のタカタは「自動車メーカーのリコールに協力する」と自らの立場を堅持し、全米への拡大にも消極的で、自動車メーカの判断に従うとしている。確かに、自動車の市場不具合は最終組立メーカーが市場対応するのが一般的ではあるが、米国で10数年前に発生したフォードエクスプローラ車のタイヤ不具合を契機に、不具合を発生させた部品メーカーも市場対応することが義務付けられた、所謂「TREAD法(トレッド法)」が施行されている。だから、今回のエアバック問題も、法令上では主原因部門であるタカタ(株)が率先して対応すべき事項である。 それにも関わらず、聞こえてくるタカタの市場対応は鈍い。その誠意の無さ(そのように見える)が前記したように企業として米国の厳しいイバラの道に進ませている。

国内ではホンダが先陣して調査リコール処置をとったが、ほかの自動車メーカーも追随すれば、リコールの対象台数がさらに拡大する。
さすれば、生産能力に限りがあるタカタとしては、交換部品をどのような優先順位で供給するのかという難しい課題に直面する等、難題も多い。だとしても、全数回収調査によって事態が収束するわけでもないはずだが、最重要項目である不具合原因究明状況の声が一向に聞こえてこない。日本の景気を牽引する自動車産業にあって、エアバック問題が景気の足を引っ張らねばよいが・・・。

参考:
タカタエアバック問題に関連し、リコール制度が新聞紙上やネットにも頻繁に出てくるので、ネット上で少し調べてみた。
先進国は自動車等に関する独自のリコール制度を定めているが、このなかで自動車業界にとって最も影響力のある日本と米国の制度についてネット情報の受売りを少しばかり参考までに。
 ①リコールに関する法令
  重要法令として、日本では「道路運送車両法」(国交省)、米国では「全国交通・自動車安全法」(NHTSA)と「消費者製品安全法」(CPSC)があり、ともにリコールを命じる強力な権限を規制当局に与えている。今回のエアバック問題の担当はNHTSA。
 ②自動車における日本―欧米法令のリコール適用の相違
  日本では「道路運送車両法」に基本がおかれ、法規不適合をリコールと規定しているのに対し、欧米では「実安全欠陥が傾向的に
  存在するか否か」が判断基準であり、
  実際に事故が発生し且つ傾向性が有る場合がリコールとなる。従って、同一事象にも係らず国内外で市場処置の仕方が異なる。
  法規適合でも実安全欠陥が存在する場合は、国内でもリコール処置を適用する場合がある。
  また、米国のトレッド法では実質同一車の米国以外でのリコール案件は届出が必要で、改修は世界規模になることが多い。
 次に、リコール処置と大いに関連するPL法について。
 米国では、企業が製品に重大な危険があると判断した場合には、速やかに関係官庁に報告する義務がある。
 例えば、CPSCは24Hr以内の報告義務と違反した場合の制裁金は最高165万ドル、NHTSAは5日以内の報告義務と違反した場合の制裁金は最
 高1500万ドルを科す懲罰的賠償制度がある。 また、製品欠陥が原因で傷害事故が発生した場合に適用される米国のPL法では、企業の
 悪意のある行為に対して陪審員による懲罰的賠償制度が適用されるリスクがあり、リコールの判断を誤ると官庁及びPL訴訟の両面に
 おいては損害賠償を科せられることになり、リコールは迅速且つ公正に実施する必要がある。

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NHKwebニュースに面白いバイク記事があった

2014-10-18 07:55:48 | 二輪事業
NHKwebニュースに「転機迎える 日本のバイク」と言う面白い話題があった。
一つは、日本国内のバイク事情で、若者のバイク離れが顕著になる一方、バイク利用者の平均年齢は51才に達しているという、業界団体の調査結果があるそうだ。バイク愛好者が次第に高齢化していく傾向にあり、日本の二輪各社は若者を引き戻す策を検討中とあるが、これはそう簡単にはいくまい。一方、アジアの新興国4か国の年間販売台数の推移をみると、インド以外の市場は成熟期に入った。特にホンダ、ヤマハのドル箱だった、ベトナムやタイ、インドネシアではここ数年、伸びが鈍化傾向にあり、打開策として買い替え需要を促したり、スポーツタイプやデザインにこだわった若者向けのバイクなど新たなジャンルの商品を投入したりすることで、「作れば売れる」時代からの転換を図ろうとしている、とあった。
   「NHK WEBニュース」

ところで、東南アジアのバイク市場と言えば、ベトナムのバイク市場の一端を見た時の印象はかなり強烈だったと言う印象がある。その一部を当ブログにも書いたこともある。時々テレビに映る、ベトナムの街筋のバイクの行列と言うか群れというか、交通運搬手段は2000年当時頃と現在も左程変わらず、車でなくバイクが主流に変化は見られない。 2000年ごろ、ベトナムを訪問する機会があった。その頃はベトナムのバイク市場が格段に伸びを示す一方、低価格の中国バイクがベトナムに流れ込み、大きくベトナム市場に喰い込み、一時的には圧倒的シェアを拡大した時期であった。当時のホーチミン市でベトナムバイク市場の一端を垣間見ることが出来た。タイでは評判の悪かった小型モペットが小柄なベトナム女性(ベトナム女性のバイク利用は高い)には好評で、そのモペットをベトナムで本格生産する計画だった。販売店や路地裏のモペット修理屋と部品屋が集合した地域がアチコチに点在しており、その数カ所見て回ったが、当時、どのバイク販売店も中国製の低価格車を恐れていた。しかし、数年後、中国製は一掃され日本製モペットに変わった。日本車に取って代わった理由は分析され報告書も一般公開されている。

それにしても、信号らしきものが無い交差点で、雲霞の如く湧き出てくると表現した方が適正だと思うほどのモペットの大群を見たとき、モペットをこれ程までに市場に認知させた、ホンダ技術者と営業担当には本当に敬服した事を覚えている。この光景には「二輪事業に携わったホンダマンこそ男冥利に尽きる」と感心したものだ。本当に頭が下がる思いだった。

世界の二輪レースで、ホンダと鉾を交えて戦う機会を得てホンダの戦い方は何となく理解していたが、ベトナムでのホンダの大群を見たとき程、二輪事業に携わった一人の技術者として、ホンダを羨ましく感じた事はなかった。アジアのバイクビジネスの大成功に学んだ、ホンダの前途は明るい。そして市場が求める新しいニーズを求めてホンダは進む。こんな想いを、NHKwebニュースをみて思いだした。
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In Memory - Jan de Groot

2014-08-18 06:25:32 | 二輪事業
「In Memory - Jan de Groot」

カワサキで永くモトクロスとロードレースの開発やレース運営を担当してきたが、この人ほど素晴らしい人に会ったことがない。
オランダ人で、欧州でプライベートのモトクロスチームを結成し、その後、「Kawasaki Racing Team」を任され世界モトクロス選手権の中心人物だった。とかくレースと言うと、個性豊かで目立ちたがりの人達がいる中で、どちらかと言えば控えめで、しかし多くの欧州トップライダーからの信頼は絶大だ。とにかく100%信頼のおける人で、この人に任せてたら全てOKだという信頼性と人望を一心に集めた人であった。

先日、FBを眺めていると、Janさん(Jan de Groot)の写真が突然出てきた。投稿したのはUS kawasakiの横山さんだが、「I miss you so much, Jan...」と書いてある。なぜ、今頃、Janさんの写真を投稿した理由を勘ぐってしまったが、いずれにしても懐かしい写真だった。亡くなられたのは2007年だからもう7年が経つ。源出典の ”MotoX” 「In Memory - Jan de Groot」には、彼の功績をこう記している。「Jan de Groot(1945-2007)は国際的なモトクロススポーツの中心舞台で、「Kawasaki Racing Team」のチームマネージャーとして大いに活躍。 モトクロスに彼の全人生を捧げ、高い技術的知識と優れたライダー選択能力があり、世界グランプリの舞台で輝かしい実績を残してきた。 彼の長いモトクロス人生の中で、「Kawasaki Racing Team」でのキャリアが最も優れた功績で成功した時期でもある。 Jan de Grootが運営する「Kawasaki Racing Team」には、Greg Albertyn,Stefan Everts,Sebastian Tortelli, Mickael Maschio, Frederic Bolley, Talon Vohland,Chad Reed, Steve Ramon等、世界モトクロス選手権やAMAモトクロス選手権で大活躍した、あるいは活躍中の錚々たる選手が  Jan de Grootの元に集まり世界チャンピオンを獲得し続けた。
 「Jan de Groot Kawasakiが獲得した世界チャンピオン」:
  ● 2002年 125cc Mickael Maschio
  ● 1998年 250cc Sebastien Tortelli
  ● 1996年 125cc Sebastien Tortelli
  ● 1995年 250cc Stefan Everts 」

鈴鹿や菅生で世界モトクロス選手権が開催される度に、あるいは次年度チーム運営打合せ時の度に、所属するライダーと一緒に毎年来社した。なぜか、Jan さんと話していると、自分でも分かるぐらいに落着いて話をすることができたことを鮮明に覚えている。何はさておき長身の欧州紳士だ。下記写真は世界各地域で戦うカワサキモトクロスとロードレースのレース活動発表会@明石工場である。
        
        「前列中央がJan de Groot、その右はSebastian Tortelli。その右隣りはAMAのJeff Emig とKMCの Bruce Stjernstrom」

この頃の、カワサキモトクロスの欧州事情を簡単に振り返ってみたい。
それまでの世界モトクロス選手権は英国カワサキ(KMUK)の Alec Wright が英国をベースに活動してくれた。当時は、欧州統一チームと言う概念はまだ乏しく、KMUKが本社からワークスマシン等の支援/援助をうけカワサキ本社に代わって世界選手権を転戦するとともに、UKにおける「Team Green 」を組織化しUS Kawasakiと類似した支援プログラムでKXマシンの販売とライダー支援を行い、欧州でのモトクロスマシンの販売量を飛躍的に伸長させた時期だった。US Kawasakiの「Team Green 」の初代managerだった、Dave Jordan とともにKMUKの Alec Wright、この二人の活躍なかりせば、カワサキKXの伸長は無かった。KMUKの Alec Wrightリタイヤ後、カワサキの世界モトクロス選手権を担ってきたのがオランダ人のJan de Grootで、イギリス人の Alec Wrightが中々果たせなかった世界チャンピオンを数度獲得したことがJan de Grootの大功績で、この事が欧州全域におけるカワサキの地位を一挙に更に高めた。Jan de Grootとカワサキ、カワサキのモトクロスが世界各地で最も輝いていた一つの時期、欧州でのカワサキモトクロスの地位を最も高めた功労者である。

ところで、本ブログでも何度も紹介してきたが、Dave Jordan リタイア後もUSカワサキの Team Green 思想と活動は脈々と歴代マネージャーに引き継がれ、多くのチャンピオンを輩出し、かつ多くのモトクロスユーザーにも支持され、カワサキの Team Greenが米国のアマチュアモトクロス界をリードし続け今に至っている。一方、Alec Wright リタイア後の英国は、知名度の高かった Team Green の名は消え、KXの販売も低下しユーザーが離れていった。決して目立つことのない草の根活動を地道に継続させる決意の一番の違いは、経営者の思想の差だったかも知れない。一方、世界選手権の分野では、Alec WrightをJan de Grootが引き継ぎ、その意志はJanさんの奥さんEllenが、そして次の後継者へとカワサキの血統は脈々と続いている。



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カワサキモトクロスの原風景

2014-08-04 06:20:05 | 二輪事業
ここ数日、KMC(US Kawasaki)の横山さんのFBに、”Loretta Lynn”でのアマチュアモトクロスの様子が投稿されている。
その一つが下記の「Stilez #23 swept 85 class at Loretta Lynn's Ranch」と言う写真。
    「85ccクラスを総なめした#23Stilez Roberston」
そうか、もうそんな季節になったのかと懐かしく思い出した。世界有数のアマチュアモトクロスの祭典、” Loretta Lynn's”が現在米国で開催されているレースで、85ccクラスを総なめしたライダーがカワサキの#23Stilez Roberstonで、その紹介写真だった。

一方、KMC「Team Green」は、Loretta Lynnでも、カワサキアマチュアモトクロスライダーの支援活動に専念している。
その様子は、下記”Racer X"レポートに詳細が記述されているが、この支援活動こそがUSカワサキモトクロス活動の原点でもあり原風景でもある。このレポートによると、「Team Green」は18名のアマチュアライダーを支援しているとのこと。同じクラスで戦う複数のTeam Green選手でも勝つのは一人だけだが、勝てなかったライダーにも、勝ったライダーも同等にサポートすることでライダーによるTeam Green支援の差別はない。その事こそが「Team Green」活動が多くのライダーに支持され信頼されて続けている所以だと思う。それは、30数年前のTeam Green創世期も、現在も、「Team Green」活動によるモトクロスの”草の根活動作戦”は同じで終わる事なし。
Racer X: Loretta LynnでのTeam Greenの役割

ところで、Loretta Lynn's Ranchにおけるレース結果「Day1 full results」があった。アマチュアライダーの原点構成は排気量”65cc”と”85cc”のミニモトクロスクラスが中心になっているが、この表を見てビックリした事がある。10才前後のアマチュアモトクロスライダーの出発点である、65や85ccクラスは「KTM」に既に凌駕されている。 かろうじて、最近、85ccに新モデルを投入したカワサキが85ccクラスで善戦しているも、総体的にみれば、モトクロスの原点クラスは「KTM」に独占されつつある。30数年以上前、モトクロスと言えばヤマハ、スズキがアマチュアクラスをも含め、その頂点にあって、多くのライダーの信頼を得ていた。そこにカワサキが「Team Green」活動という”草の根活動”を前面に押し出し、先行する他社に代わってカワサキが米国のアマチュアライダーの絶対的な信頼を得て、その状態は長く続き、アメリカのモトクロスはカワサキが支え続けていると言っても過言ではないほどだった。ホンダ、ヤマハ、スズキは米国二輪市場の落ち込みに伴い、こうした活動から全面的に撤退した模様だと聞いてから久しい。唯一、カワサキのみが米国のモトクロスライダーを支援し続けてきた経緯がある。ところが、日本各社が二輪市場支援活動から撤退もしくは縮小した間隙の中に、米国オフロード市場に参入してきたのが、オーストリアの「KTM」社だ。そして、その効果はてき面で、65cc、85cc市場はオレンジ色(KTMカラー)一色に変貌した。こうした傾向にあることを各メデイアからの情報で既に分かっていたが、これほどまでにKTMが寡占状態に近い程に台頭しているとは思いもしなかった。この傾向はミニバイク市場だけかと言うと決してそうではなく、250cc、450ccクラスレースのトップも既に「KTM」が独占する時代へと変わりつつある。米国でのモトクロスを筆頭とするオフロード市場は景気に左右されにくい安定市場で、米国民には昔から根強い人気がある。KTMは其処に大きな杭を打った。
        「65cc(7~9才)クラス戦績」
        「85cc(9~11才)クラス戦績」

「KTM Ready to Race」単純明快なコンセプトが、アメリカのオフ市場を席巻する日が近い事を予感させると何度も当ブログにも書いてきた。世界のトップアマチュアが勝つために選ぶマシンがKTMだとすれば、彼らがオピニオンリーダーとなって市場を引っ張るので、日本の二輪企業にとって、その脅威が現実になっている。(別件だが、KTMの大株主はインドのバジャージ社。BMWの傘下にあった、ハスクバーナ社をKTM社のCEOが買収したので、KTMとハスクは兄弟)さて、これから日本の二輪各社がどのような動きをするか楽しみに観察してみるのも面白い。

参考:
KTMの台頭・・・FIM Junior Motocross World Championship
Ready To Race「KTM Junior Supercross Challenge
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KXT250・・・三輪ATV モトクロッサー

2014-05-09 06:31:17 | 二輪事業
     「KXT250 Tecate:kawasaki USA」
先日、「kawasaki USA」のFBに懐かしい写真が投稿してあった。”KXT250 Tecate” 三輪ATVモトクロッサーだ。
開発主担当は当時のKMC R&Dで、車体と取り纏めをKMC R&Dが担当し、エンジン関係は明石のオフロード班(モトクロス担当)が担当した。KXT250が販売される、その約10年ほど前、ホンダから三輪ATVが販売され、瞬く間に全米中に販路を伸ばし市場拡大の先駆けとなった。それ以降、日本各社もこの市場に参入するに至り、ATV市場は全米において更に拡大を続けた。この時期、開発販売されたのが”KXT250 Tecate”。「kawasaki USA」のFBには下記コメントが添えられている。
「 The 1987 KXT250-B2 Tecate。 In 1981 Kawasaki manufactured its first ATV, the KLT200. That four-stroke powered,  three-wheeler broke ground for the more exciting race version Tecate. The Tecate featured a KX250 engine,  racing-inspired UniTrak suspension and a front disc brake.」

KXT250に搭載されたエンジンはKX250とKXのエンデューロ版DX250の合体で、クランクケースはピボット位置の関係で新作したような記憶がある(間違っているかもしれないが)。KXT250はKXよりも高い冷却性能が必要で、ラジエーター容量やシュラウド形状等をR&Dと何回もやり取りしたことを覚えているので、性能確保以上に一番苦労したのは冷却系だったと思う。騒音対策や森林走行時の火災対策も標準装備した。

当時、ATVのレースも盛んに開催され、当時のCYCLE NEWS(だいぶ後になってからATV NEWSが刊行された)にもレース状況や結果が毎週記事に出ていた。KXT250のレースマシンで思い出す事がある。ATV市場はホンダが開拓した。ホンダから多くのATV車が販売され、何れのマシンも好評だったが、その中にATC250Rという2サイクルエンジンを搭載した三輪モトクロッサーも販売されていた。このATC250Rのマシン評価はとても素晴らしく、特に滑らかなエンジン特性は高い評価を受けていた。KXT250の開発ターゲットはATC250Rを凌駕すること。 全米各地でATVレースが盛んに開催されるようになると、ATC250RがCYCLE NEWSやATV NEWSの常連となる。で、KXT250販売後、カワサキも三輪モトクロッサーのライダーと契約しレース出場した。当初はホンダのATC250Rが速く勝てない。ところが、1年も経過し、カワサキのKXT250がホンダのATC250Rを打ち破るレースも出てくるようになると、俄然カワサキ勢に勢いがでてきた。その後、カワサキのKXT250がチャンピオンとなった。 その時の状況を端的に表したものとして、ホンダのレースマネージャーの悔しさがにじみ出た記事がCYCLE NEWSに載る、「ホンダが10年がかりで開拓した市場をカワサキがほんの数年で奪い取った」との趣旨の内容だったと記憶している(この新聞記事を切り抜いて大事にしまっていたが、リタイヤ整理するときに廃却してしまった)。 記憶だけを頼りに書いているので、多少文言は異なっているかもしれないが大筋はそうだったと思う。常勝ホンダを打ち破り、敵将からのコメント記事だったので、KXT250と言うと、これをまず思い出す。

三輪ATVはその後四輪ATVに変わり、四輪ATVモトクロッサーが下記の KXF250 Tecate-4。
   「Kawasaki Tecate-4 KXF250」
KXF250の開発は車体、エンジンとも明石のオフロード班(モトクロス)で開発した。この頃になると、べンチマークはスズキの四輪ATVとなり、特にポジションとサスペンション周りは秀逸もので、 KXF250開発での苦労はスズキを凌駕するサスペンションセッティングだったと記憶している。
Kawasaki Tecate-4 KXF250」をWikipediaで調べてみたら、「Tecate-4 is rumored to be the most powerful of the 250cc class and
 still holds the title.sport quads.In a test done by Dirt Wheels magazine
」として高く評価されていた。

ところで、カワサキのATVは当初から現地主導で開発された。'70年代初頭、カワサキは現地法人内に技術部の出先機関R&Dを常設している。R&Dは日本人技術者を中心に現地技術者数名を雇用して現地ニーズの高い機種、例えばポリスバイクやオフ関係の開発を主に展開していた。彼らが市場ニーズを周到に調査し、現地が要求する車の開発まで現地で行っていた。そこから量産販売されたモデルで特筆するものの一つに、特に多用途四輪車(Mule)の開発があげられるが、現地マーケットニーズを現地で具現化したものとして高く評価されると思う。多用途四輪車(Mule)はR&Dが開発した最大の功績で、その後、各社が追従し多用途四輪車の市場は拡大していく、その先駆けである。

つい最近読んだネット記事(6日のMSNニュース)にこんなものがあった。
甦れ日本企業、経営失速の原因は「R&D」「独創」「サービス性」の誤解釈にある…再生のヒントは「焼酎」にあり」という記事だ。焼酎という単語に釣られて読んだが、要は日本企業の経営が駄目になっている理由として幾つかの誤解釈を挙げている。その一つが「R&D」。「特に日本企業が振り回されたのが、今回ご紹介する3つの「横文字」です。振り回されたというより、その意を誤って解釈し、自ら深みにはまっていった。
 今一度、その正しい意味を確認することは日本企業にとって有意義だと思われます。
 第一は「R&D」(研究・開発)と言う言葉です。
多くの日本企業では、これを「Technical R&D」(技術面だけの研究開発)に限定した解釈から、盲目的に「技術革新最優先経営」へと舵を きってしまったようです。 アメリカのMBAマーケティングでは、上記とは別に、「Marketing Reseach & Business Developmet」すなわち 「市場調査と営業開発」という「もうワンランク上のR&D」が経営学の要諦となっております。本家米国のアップルやグーグル、最近では韓国の弱電や自動車産業などの方が市場をよく見据えた営業戦略のもと、最適の商品を提供していますから、技術に固執する日本企業が、市場で負けるのは当然の成り行きではないでしょうか。 1970年代、80年代までの日本産業には「営業優先の経営」 「市場に見合う商品導入」などといった経営良識があったはずなのに、どうしたことか、そうしたものを、失ってしまった企業が増え続けているのが 残念でしかたありません」、と言うものだ。

成程と思いながら、KXT250を含むATVやMuleを開発した「Kawasaki R&D」 と重なるものがあって、懐かしい当時のR&D技術者を思い出した。
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RACERS vol26 KXペリメータフレーム特集 (その2)

2014-04-26 06:31:31 | 二輪事業
RACERS vol26 KXペリメータフレーム特集 (その2)

「カワサキが作り上げたモトクロッサーの新しいスタンダード」 ⇒「MXフレーム形態を一変させたカワサキペリメータフレーム」
           「KX250SR 岡部車」
「ペリメータフレームの開発が始まったのは'88年の夏頃で、新規車体を模索していた主任技術者(安井さん)は担当者のスケッチを見てKXに適用可能と判断した。 試作車の操安性を確認したところ、従来フレームだとウォブリングが発生しスロットルを戻すギャップ路面での安定性が抜群だったとある。つまりスロットルを開けてギャップを通過できる。ただコーナリングが少し重いものの新型フレームにありがちな変なくせもなく、素直な操安性だったとテストライダーの野宮選手は評価した。縦剛性の低いペリメータは路面荷重をサスペンションだけでなくフレーム骨格がしなって吸収している。逆に、この骨格のしなりが、コーナリング侵入時の倒しこみのクイック性を阻害し、ハンドリングの若干の重さにつながっている可能性があるとも判断された。また、Rショック取付のアルミマウントはRショック本来の性能をやや阻害しているようだった。もう一つ、ペリメータを改良していく過程での問題は 重量増だった。」以上が文中に記載されたカワサキペリメータ試作車の初期技術的特徴であるが、レース用フレームとして改良され続け、結果的に適用初年度から全日本チャンピオン獲得という成果を得たことで、試作開発されたペリメータフレームのモトクロス用としての素性はかなり良いものだったと書かれている。

ところで、「RACERS」誌のペリメータ特集をみて本誌を購入した、二輪設計に興味をもつ技術屋や学生などにとって、本誌が取り上げ追求した、ペリメータ特性分析にはかなり不満があるのではなかろうか。ペリメータフレームは、カワサキが考えるMXフレーム設計思想に対し、どの分野で満足しどの分野が課題だったのか等を含め、本誌購読者はたぶん知りたかったと思う。何故なら、フレーム剛性と乗り心地、フレームとサスペンション剛性や作動性(ダンパー特性)はかなり奥が深い技術的課題だ。二輪フレーム、しかも負荷荷重の高いモトクロスフレームの構造とはなんぞやを期待して購入した読者にとって、編集者の技術的観点からの突っ込み不足は正直否めない。

エンジン構成部品であるHFT部品を取り上げた「RACERS vol17」が12ページに渡ってホンダHFT機能解説に費やしたの対し、ペリメータフレームに関する
技術の記述はわずか4ページしかない。学会誌や専門誌に取り上げられる機会の多いエンジンに対し、従来から二輪車体に関する論文の投稿量は少ない。それだけ二輪車体の解析は難しい。かってスーパーバイク担当時、二輪車の操縦安定性に関する文献を探したが残念ながら資料は少なく、結局技術研究所と解析をトライしたことがある。論文が少ない上に要求したものがなく、技術研究所でも新規に解析せざるをえず、その解析に相当時間がかかった。今はどうだか知らないが、当時は、それだけ二輪車体の各要素が操安性に及ばす影響と体感を定量化する難しさがあった。だからフレーム設計では経験と実績を重要視してきたと思うが、その点を考慮しても、読者が期待する、ペリメータフレームの分析や課題等についての記述量が少ないように思える。

たぶん編集者側がそこまで突っ込んだ要求をカワサキ側にしなかったのだろうと思っている。ペリメータフレームは現在も続くモトクロスフレームの基本骨格となっているだけに、その発想からテスト経緯及び課題や改善点を、ライダーを含む実務担当者間の忌憚のない討論を通じて知りたいと思う読者も少なからずいる。特に、設計と実験、そして開発に携わったライダー達、加えてフレームに合わせるべく改良し続けたサス担当のKYB技術者、其々の個性のぶつかり合いは、その心底にH,Y,Sに負けたくないという思いがあり、そこには泥臭い葛藤があったはずと信じられるからだ。レースマシンの開発と言うのは、単にマシンを開発し市場に販売するだけでは終了しない。特に全日本選手権では、日本の二輪企業各社が持つ最高レベルの技術の戦いであり、彼我の戦いに勝ってこそ、開発中のマシンの優位性が認められる。各社ともその思いは同じだけに、勝つことに執念を燃やし続けた開発担当者達の思いが文中には少なかった。カワサキの意地と執念が、その開発過程での泥臭い物語が、読者の興味を引き付けるものであったはずだが、4ページの紙面上には残念ながら読み取れなかった。

(余談だが、本誌を読みながら、複数他社もペリメータフレームに類似したMXフレームを試作しレース実戦で研究したことを知った。当時、某社の担当部長から 某社でもカワサキペリメータを参考にMX車を試作したことを直接教えてもらったことがある。結果はどうだったかは差し控えるが、興味の対象だったことは確か)

話しは変わるが、カワサキがペリメータフレームの開発を承認された理由の大きな一つに、エヤクリーナの埃対策があった。文中、当時のエヤクリーナの写真にある、クリーナボックス横に開閉式弁を埃対策として採用していたほどで、実際のレース時の埃詰まりによる出力低下を問題視していた。改良案の一つに、ゼッケンプレートの直ぐ後にクリーナボックスを設け、埃舞うレースでも常にフレッシュエアーをエンジンに送り込み、かつ吸入量を増加させる事でエンジン出力の安定化を図ると同時に、燃料タンクはできるだけ重心位置に近い場所に設計する計画でスタートした。その構想を具現化するのにはペリメータフレームが最適だった。試作車を野宮ライダーが試乗したところ、ライダーの真下からクリーナボックスの吸気音が気になるというのが第一声で、改良点として指摘された。この構造イラストは文中にもある。一方問題点として、クリーナボックスから2サイクルエンジンのキャブに至る吸気通路が複雑になり、台上での出力向上に時間がかかった。結局満足できるエンジン出力を得るには時間がなく、泣く泣く(開発会議に上程した仕様と異なると叱責を受け)クリーナボックスの件は一時棚上げ先送り、ペリメータフレームだけを'90年モデルに適用となった。ところが、最近発売した新型YZ450にはビックリした。'88年にカワサキが構想した設計思想と類似だったからだ。

「あのころはみんな蛍光色だった」・・・米国の有名デザイナー・トロイリーとダートクール誌浦島編集長のKXデザインに関する談話だが面白い。カワサキがペリメータフレームをMXマシンに採用して以来、アフターマーケット部品市場が拡大した。ペリメータフレーム採用によって、燃料タンクをシュラウドが覆うことでデザイナーの担当分野が広がった事によるが、従来からMXレースではライダーがニーグリップする際、燃料タンクに泥を巻き込み傷が着きやすいという問題があった。こすれ傷があってもレース使用上は何ら問題ないが見栄えが悪い。そこで燃料タンクをシュラウドで完全に覆ってしまうことで高価な燃料タンクを交換することもなく、安価なシュラウドだけの交換で新しいマシンに変えることが可能となった。シュラウドはデザインパーツだった。もうひとつ、当時、蛍光プラスチックをUS Kawasakiのレースチームが多用していた。群を抜いて格好良く素晴らしかったので、是非量産適用してくれと強い要求がきた。数種の蛍光グリーンの樹脂部品を試作してみたが、これが見栄え抜群。しかし、蛍光樹脂部品の問題は色劣化がある事。各種試作し環境テストセルでテストしたが色落ちの経時変化を改良できず、当時は量産採用不可。今思い出しても蛍光グリーンは兎に角格好よく、KXに良く似合っていた。あれから20数年、再度トライする価値はあるように思う。

「巻尾:受け継がれていくカワサキイズム」
モトクロスは昨年KX誕生40周年を祝い、往年の関係者を含む80名が参加する懇親会を開催した。その象徴とするのが「1973年にデビュー以来、数多くの勝利とタイトルを獲得し続け、以来41年、一度たりとも開発を中断することなく、一度たりとも生産を中断せず、一度たりともレースを止めることもなかった40周年」に集約される。それは、KXに代表されるコンペティションモデルの宿命として、常に競争相手との戦いに勝つことで、技術力の優位性を保証してきた歴史である。その事実があればこそKXを信じ購入して頂いた多くの顧客への約束でもあった。このことは競合他社の考えも全く同じだから、常に同じ土俵での彼我の競争に晒され息を抜く時間などなかった。 ところが面白い物で、2年間開発中断しても勝てるようしろとか、もうこれ以上は勝つのを望まないとか発言する営業幹部も出て来るようになり、これにはさすがに唖然とした。確かにそんな雑音も一部にあったが、カワサキは勝つことで技術力の優位性をユーザーに保証してきた経緯がある以上、手を緩めれば相手が勝ち我々は負け犬になるだけの世界。結果的に、”一度たりとも開発を中断することなく、一度たりとも生産を中断せず、一度たりともレースを止めることもなかった40周年”として、確かな事業性とともに多くのカワサキユーザーに約束を果たしてきたという自負だけで雑音にも気にせず開発とレースにまい進してきた。レースとは、技術レベルの優劣を勝負として競争するものであり、過去、日本企業は極限のレースで勝つことで製品の優秀性をアピールし企業が発展してきた歴史を持つ。「最も技術力を誇示できる場がレースである限り、その場で戦い、そして進化してきたのがKX開発担当者に植え込まれたDNA」だから変えようがない、と言うカワサキ担当者の発言が本文中に記載されている。・・・100%同感である。

ところで、2010年に発行された、「RACERS vol6」の"kawasaki GP Racers特集”に「参戦と撤退を繰り返すカワサキに未来はあるか」という記事がある。本著によると、'82年のKR500は他社の4秒落ちで撤退、X09はタイムが上がらずじまいで'93シーズン途中で撤退、'02年のZXRRは勝てる見込みもないままリーマンショックの金融危機に揉まれてGPから撤退した。何れも特にハード面の失敗が途中撤退の大きな要因であるが、「他社は続けているのに、どうしてカワサキだけが参戦と撤退の歴史を繰り返して来たのか、その根源を分析しようと試みた」と編集長は述べ、「経営レベルが先行不安の情勢下に陥った場合、即効性のある緊急処置を求められると、どうしてもロードレース活動から撤退せざるを得なかった」と編集長は続けている。また、「RACERS vol6」には「モトクロス部隊がうらやましい」との記述もある。「全日本モトクロスに行くと、今シーズンもカワサキワークスのテントが張られ、その中にファクトリーマシンがある。モトクロスにおけるファクトリー活動はここ30年以上途切れることはなかったと思う。ファクトリー活動によってKXの開発が進み、また活動によってカワサキのブランドイメージが向上し、結果KXが売れユーザー層も厚くなり、ファンは喜び、社員の士気も上がって、また新しい技術が投入されたファクトリーマシンが走り出す。そんな図式が連綿と続いている。翻ってロードはどうか。残念ながら、ファクトリーマシンを走らせて結果を残せばバイクが売れる時代ではなくなった。ならば、メーカーにとって、レースに参戦する大義は何だろう。」とカワサキのモトクロスとロードレースを対比させ所感を述べている。

一方、レース活動こそが企業活動に流れるDNAだと言って標榜して止まない企業がホンダとヤマハと言う、世界を代表する日本の二輪企業だ。2013年発行の「 RACERS」誌が’80年代鈴鹿8耐で活躍したホンダ「RVF Legend Part 2」を特集しているが、そこには「ホンダは競争相手に勝って一番になること」とある。これが世界の二輪市場を席捲する企業、ホンダの発想原点であると書かれていた。伊東ホンダ社長は東京モーターショープレスデイで『 モータースポーツはHondaの原点であり、DNAであります』と発言している。とかく、レース参戦と言うと、何ぼ単車が売れるのかとか、どれだけ企業イメージが上がるのかとか、費用対効果はあるのかとか、色々な声があると聞いたこともあるが、レースに参戦し勝つことがホンダ、ヤマハのDNA、つまり遺伝子だから、妙に屁理屈をつけた議論は不要なんだろう。そのためには、例えばMotoGPに勝つために80億近い予算を計上することも厭わないし、さる某会社のレース予算を20数年前に未確認情報だが聞いた時は、こんな企業と戦うのかと正直ビックリしたこともある。化け物企業と戦うのに如何なる戦略を考え勝算を見こむべきだろうか。

「RACERS vol6」にある「参戦と撤退を繰り返すカワサキのロードレースに未来はあるか」の、その歴史の主因をカワサキが「小さい会社」ゆえとする編集長の結論にはもう少し考察すべき事もあると思うが、多くの日本二輪企業との面談を通じて各社の企業文化を見聞してきた編集長の意見は外部から見える企業の一つの姿として謙虚に受け取る必要があるのだろう。しかし、KXの40有余年に及ぶ歴史を繋げている現実と未来がある一方で、参戦と撤退を繰り返してきたカワサキが現実に存在した事実は編集長には特異な現象として映ったに違いない。
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RACERS vol26 KXペリメータフレーム特集 (その1)

2014-04-25 06:30:53 | 二輪事業
  「RACERS vol26」
「RACERS vol26 」誌を読んでみた。調べてみたら2011年8月24日の「RACERS」ブログに、同誌がカワサキの世界耐久マシンを取材した際、撮影場所にあったKXのチャンピオンマシンをみた編集長が何時かは「RACERS」誌にカワサキKXを特集したいと書いてあった。それには「KX、カッコイイなぁ。売れなくったっていい、いつしか必ず『レーサーズ』で特集します。」とある。あれから2年と半年経過して「KX」が「RACERS」誌に特集された。編集長が惹かれたのはKXのフレーム、その後の世界のモトクロッサーフレームの基本骨格となった、"KXのペリメータフレーム"だった。そこで、「RACERS」誌がKXのペリメータフレーム開発に挑んだ人間模様を如何様に掘り下げて記事にするのか楽しみに読み進みながら、思い出した事を書いてみた。

★「編集長がKXペリメータフレーム開発物語を取り上げた理由」
巻頭言で、編集長はペリメータフレームを採用したカワサキKX125デザインの”圧倒的かっこよさ”を「RACERS」特集に選んだ理由として述べている。かつ、他社比較車と対比しながらKXを絶賛し、この”圧倒的かっこよさ”が多くのユーザーを引き付け、例えば当時カワサキKXの最大の競争相手だった、ホンダの技術者でさえ、ホンダのモトクロッサーではなくKXを買ったと書いてある。その理由とは”KXが格好良いから”だったという。それまでのモトクロスフレームとは一線を引いた、言わばモトクロッサーのフレームとはこれだと言う既成概念を一掃してしまう”かっこよさ”がKXにはあった。そのことがホンダの技術者のみならず多くのモトクロスユーザーに注目されたとある。(余談になるが、現役当時、20数年以上前の事だが、アメリカのデイトナかゲインズビルからかの帰国時、ある中継空港で一人便を待っていたら、 カワサキを退職したデザイナーMと偶然あった。ホンダのデザインルームで仕事をしているとのこと。彼はカワサキ在籍時、KXのデザインを担当していたので 非常に親しくしていたが、その彼が言うに、その時たまたま防寒用に羽織っていた革製の米国カワサキレースチームのジャケットをくれという。 ホンダのデザイナーが何故カワサキレーシングのジャケットが欲しいのかと聞くと、曰く「ホンダには隠れカワサキファンが多く、隠れカワサキファンの 会合時,皆に自慢したい」とのことで、帰国後名詞にあった場所に送ったことがある。この時初めて他社の隠れカワサキファンの存在を知った)

★「編集者曰く”かっこいいKX”はどの様に開発され、そしてその性能、戦闘力の高さを如何に証明してきたのか」
ペリメータフレームは'90年モデルKX125と250に始めて量産車として採用されたが、その前年1989年、全日本モトクロス選手権で、カワサキワークスチームはペリメータフレームをワークスマシンに採用した。それはMXレースマシンとしての戦闘力を確認するためだが、岡部、花田、長沼の3ワークスライダー用に搭載した。既に、次年度の量産適用を前提としていたので、是が非でもチャンピオンを獲得し戦闘力の高さを証明する必要もあった。当年のモトクロス選手権は前半125cc6戦、後半250cc6戦としてそれぞれにチャンピオンを競うものだったが、'85、'87、'88年の125ccチャンピオンの岡部選手にペリメータフレームの勝利を託した。岡部選手の評価では「ペリメータフレームの特性は直進性に優れるがコーナリングに改良の余地あり」で、キャスター角等の変更でレース可能レベルまで改良された。更に良い点として「ペリメータフレームの優れた特性としてライディングポションに圧倒的優位性がある」と評価される一方、重量がやや重く125ccのエンジンでは非力さを感じるとの評価もあったと記述されている。残念ながら125ccクラスのチャンピオン獲得はできなかったが、後半250ccではパワーも十分にあったのでペリメータフレームの特性を見事に発揮しチャンピオンを獲得、そしてカワサキは全日本250ccクラスで13年ぶりにクラスタイトルを獲得することになるが、同時にペリメータフレームの優秀性が実戦で始めて認知された瞬間だ。

追加して言えば、今もそうだが、全日本モトクロス選手権には「米国AMAにある、レースマシンは量産車ベースである事」という規則はない。安全の基本事項を満足すれば如何なる仕様でもレース出場可能だ。開発機能を日本に集約していることもあって、当時の日本各社は各社が考える最強マシンを全日本に出場させ、夫々の技術力を誇示していた。従って、各社の考える最高技術の集大成であったモトクロッサーが参加する全日本で勝てるマシンであれば、次年度の量産車として販売しても十分な戦闘力があるマシンと考えられ、結果、開発中のマシンは量産可と説明していたので、全日本レースは落としたくなかった。


★「カワサキが勝利にこだわる姿勢を明確に打ち出し、圧倒的なプレゼンスを誇った黄金期に何をしたのか」
その後2年間、カワサキは善戦するも全日本チャンピオンを取れず、組織がこのままずるずると勝つ事の意味を忘れてしまう事を恐れた。と言うのは竹沢選手がカワサキで250チャンピオンになったのは1976年、次のチャンピオン獲得は125の岡部選手の1985年、その間の9年間、カワサキはチャンピオンから遠ざかる。この9年間、勝ちたいと言う思いとは裏腹に思いを集大成して勝ちに繋げる意思はやや貧弱で、加えてこれを別に不思議と思わない環境にあった。 その後、岡部選手が4年間チャンピオンを獲得し、組織は勝ち方を覚え、勝つことの意義を確認することができる時期にあったが、岡部選手に続く若手ライダーが育っておらず、このままでは、以前の9年間に戻ること、つまり暗黒の数年を過ごさざるを得ない危機感があった。これは一度でもチャンピオンを維持し続けたチームだけが持つ何とも言い難い焦燥感であった。何としても勝ちたい。そこで熟慮した結論は外人ライダーとの契約だった。全日本選手権に外人ライダーを出場させるのは、別にカワサキが最初ではない。カワサキが外人ライダーと契約した理由はJEFF “Chicken”MATIASEVICH・・・懐かしい写真!に述べている。

カワサキが勝利にこだわる姿勢を明確に打ち出し、圧倒的なプレゼンスを誇った黄金期だったからこそ、カワサキはモトクロス市場のリーディングカンパニーとして行動を起こすべきと判断した。まず第1に勝てる事、次に高いレベルでマシン開発ができる事、そして競争させることで日本選手の技量を向上させ全日本選手権を活性化させること等である。ただ、懸念された事は勝つためだけにアメリカンを走らせたと単純に捉えられてしまわないとか言うことだが、結果的にそれは杞憂だった。

     カワサキの全日本モトクロス参戦史の中に、アメリカンライダーを起用した時期は、'92~'94年のEddie Warren、'95~'97年のJeff Matiasevichの二名だが、その時期のカワサキの活躍は「RACERS vol26」誌に詳しく書かれている。カワサキKXマシンの事業性が確立し、かつ勝利にこだわる姿勢を明確に打ち出した時期だ。全日本選手権にアメリカンライダーを採用する是非についての異論は甘んじて受けるが、しかし、これを機に日本人ライダーの技量は確実にUPし、レースも活性化たことは事実で、更に言えば、Eddie Warrenが全日本選手権から引退する最終戦の菅生で、当時のホンダファクトリー東福寺選手が全ライダを代表してEddieに感謝の挨拶をしてくれたことで、カワサキの選択が正解だったことが結果的に証明された。菅生での出来事は予期せぬ事だっただけに感無量の思いがした。また、上記「JEFF “Chicken”MATIASEVICH・・・懐かしい写真!」には、当の Matiasevichが日本でレース参戦していた頃の思い出が綴られている。そこには、彼らは彼らなりに一生懸命レースに没頭していた事、全日本のレース参戦は思い出に残る最高の時期だったと述べている。

一方、全日本選手権は日本人に勝たせるべきだと言う意見もあるらしいと聞いたことがある。が、4月18日の「ダートスポーツ」FB の『砂煙の追憶』には、当時カワサキのワークスライダーで外人ライダーを抑えて何度も肉薄した走りをした、榎本正則選手が含蓄ある発言をしている。それには「彼らにしてみれば全日本で走るのは出稼ぎだったかもしれないが、彼らが思っている以上に結果として多くのものを残してくれたはず。受け継がずに過去のものにするのは、あまりにももったいない。育つものも育たない」と。あれから17年、当時EddieやJeffと共に全日本を戦ったライダーからカワサキの真の意図を改めて聞かされるとは思いもしなかったが、ライダー側からみてもカワサキの決断は正しかったと言うことだろう。別の観点から言えば、憂慮すべきは、毎年開催される「Motocross of Nations(国別モトクロス大会)」でのこと、かって世界の10番前後だったものが、最近では予選通過もままならない全日本の選手、そしてカワサキもまた全日本の最高クラスチャンピオンから遠ざかって久しい現実だということだろう。そう考えると榎本選手の言葉は重い。

いずれにしても、'89~'97年の9年間でカワサキは5度の250ccクラスチャンピオンを獲得し、その間ペリメータフレームと言う全く新しいフレームを搭載したKXが各社が誇る最強マシンが切磋琢磨する全日本で勝ち続けたことは、ペリメータの優秀性を示す証左だ。
また、この事実がオフロードの最大市場である米国でもカワサキモトクロス躍進の原動力へと波及していくことになる。
     「'92年Team Kawasaki USA」
    「向かって左から Jeff Matiasevich、Mike LaRocco、Jeff Ward、Mike Kiedrowski」
本文では、欧州のS・トーテリや米国のR・カーマイクル(RacerXが選ぶ全米史上最高ライダー)達がペリメータフレームKXで大活躍した時代を解説しているが、それより前の時代、'90年代初期におけるKMC(アメリカカワサキ)が誇る「kawasaki MX racing team」の実績抜きに本当のカワサキペリメータは語れない。

**その2に続く**
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Kawasaki KX40周年

2014-03-28 06:13:22 | 二輪事業

つい最近の「Kawasaki USA FB 」に、KX40周年の動画が投稿してあった。
過去40年間で31個のスーパクロスチャンピオンを生み出したモトクロッサー、それがkawasaki KX!」
 

With 31 combined Supercross championships over the last 40 years,
 the Kawasaki KX is the most decorated championship bike in the history of the sport.
  Ryan Villopoto, Ricky Carmichael, Jeff Emig, Jeff Ward...the list of green-clad moto titans goes on.
  Over the years, the faces and the names of the riders may change, but one thing remains the same: winning.
 Consider it our proof that the Kawasaki KX is The Bike That Builds Champions. 」


KXの広告動画をみて、いつも感心すること、それは幼い子供の憧れの目線の先にあるもの。
子供の憧れる目線の先にあるもの、それがKawasakiKXマシンとKawasakiのチャンピオン達。
こうしてKXは幼いユーザー達に永遠に続く憧れのマシンであり続けることを訴求している。
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”Mike Fisher”

2014-03-05 06:01:46 | 二輪事業
   「Racer X」
3月1日の「”Racer X” WHERE ARE THEY NOW: MIKE FISHER」の”Mike Fisher”、ごく親しい仕事仲間だったので懐かしい。
2011年10月、US Kawasaki ワークスMXチームのマネジャーだった Mike Fisherがカワサキを突然去った。その年、2011年、KawasakiとRyan Villopoto はUSスーパークロスレースとナショナル450クラスの両クラスチャンピオンを獲得するという輝かしい戦績を残したが、その時のチームマネジャーがMike Fisherだ。Mike FisherがUS Kawasakiの開発部門及びワークスチームに在籍したのは18年間に及んだが、輝かしい2011年両クラスチャンピオンを獲得後、カワサキを去った。それから2年、その後のMike Fisherの消息を知ることはなかったが、懐かしい顔が「Racer X」に再び登場した。

Mike FisherとはKXやKDX等DirtBikeの開発等で永年に渡り親しい仕事仲間だった。その後、US Kawasaki MXのワークスチームマネジャーに昇格し、その間、US Kawasakiを代表する顔であったのは事実で、いわゆる業界では”カワサキの人”として世間には良く知られている有名人だ。

そこで、「Racer X」の記事を辿りながら、Mike Fisherとの消えかかりつつある記憶の一部を思いだしてみたい。
「Racer X」記事によると、Mike Fisherの業界での最初の仕事は、1984 ~ 1985に掛けてUS Hondaでのモトクロス関係の仕事だったようだ。この頃のホンダはワークス、量産車ともトップランクを常に維持し華々しく活動していた時期だったと思うが、USのトップライダーをワークスライダーとして数人纏めて確保する策で常勝を続け、かつワークスマシンの基本となる量産車の評価も高かった。特にホンダの車体とサスペンション・セッティングの評価は特筆もので高く評価されており、各社のベンチマークとなっていた。DirtBikeの総合性能はサス性能を筆頭に車体性能の完成度つまり出来不出来に寄ることが大きく影響し、そのホンダマシンのセッティングはMike Fisherというテストライダーが担当していると何度も人づてに聞いたことがある。

ホンダに負けじと、ホンダを競争ターゲットの第一に置いた時期なので、Mike Fisherとはどんなライダーなんだろうと何時も気になっていた。
すると、1986年、Mike FisherがUSホンダからUSカワサキに移籍してきた時は本当にびっくりした。カワサキR&Dと契約後、ほぼ毎日KXやKDXのテストを繰り返す毎日だったと思う。この時期を境にKXのサスペンション性能は飛躍的に向上したのは疑いのない事実で、彼らは量産間際まで仕様を詰めていた。先行量産(量産移行前に、量産仕様と殆ど同じ仕様で数台生産し量産可否の決定を行う)ステージでは、現地のUS KYBとKMC R&Dメンバーは最終確認に夜遅くまで集中テストを繰り返していた。当時は、KYBとの技術的連携において相互に強い信頼関係にあったので、US現地の最終仕様の詰めと確認を信頼して任せていた。結果的に量産時期を遅らすこともなく、かつ当時の殆どの雑誌社がKXを常にトップレベルに評価していた。このようにKXが高く評価された要因は、US現地(KMC 、USKYB)が執念を持って最終確認テストでを繰り返した功績だと思っている。「Racer X」記事でMike 本人が語っているように、Fisher達が努力した結果は雑誌社を含め市場から正しく評価されたと言うのは客観的に見てその通り。

だが、残念ながら1991年、KTMにワークスライダーとして移籍することになる。KTMに移籍した時は流石に驚いたが、ある時、レーストラックで、 Fisherが当方に歩み寄ってきた。久し振りに握手を交したが、相変らず手が折れる程に強い力で握手してきた。暫く話しこんだが、カワサキからKTMへ移籍した理由は何も聞かなかったけど、KTMのワークスライダーには満足しているように見えた。しかし、そのKTMもオーストリアの本社が倒産。

1993年、再度カワサキに戻ることになる。そこから、Mike Fisherはレース活動に一旦縁を切り、R&DでKXテストに加えdirt bike、Jet Ski、Mule等、カワサキがUS市場に販売する全製品の開発テストにフルタイムで専任することになる。「Racer X」では、GormanでのMule(四輪多目的車)の当時のテスト内容の一部が書かれている。また、当時のMike Fisherの上司はMike Preston。この時期、R&Dでテストを担当したMike PrestonとMike Fisher、彼らの果たしたカワサキへの貢献度は計りしれない。信頼性も非常に高いもので全面的に信用していた。カワサキのdirt bikeが著しく性能向上し、US市場において確保たる地位を維持し続けたのは、US市場の末端を熟知したR&D関係者、特にMike PrestonとMike Fisherのの功績が大なるものがあったと、当時を改めて振り返っても確かにそうだったねと自信を持って言える。

2005年に日頃から思いであったレーシングに復帰する希望がかない、しかもチームマネージャーとしてUS KawasakiMXワークチームを纏める役目を担当する。この間、James Stewartと Ryan VillopotoというUSモトクロス界の2大スターを抱え、またMitch Payton/ Pro Circuitチームのライダー契約を担当しながら、多くのチャンピオンシップをUS Kawasakiにもたらし続けた。

ところが、2011年、18年在籍したUS Kawasakiを去ることになる。 「Racer X」もこの理由を最も知りたかったようだ。「Racer X」によると、当時のカワサキが考えるMXの方向性とMike Fisher本人が思い描くMXワークスチームの方向性とにズレがあったとだけ記述している。だが、その具体的な内容までに言及していない。2012年、カワサキを去り、自分の思い描くレースチームを結成しレース活動を続けたいと画策したが、資金的に難しかったようだ。現在、 Costco Powersports の営業担当マネージャーとして活動しているそうだが、「Racer X」記事を読むと仕事が楽しそうだ。

             
             「向かって右から Ryan Villopoto 、Kawasaki's racing boss, Bruce Stjernstrom、
              そして Monster Energy Kawasaki Team Manager, Mike Fisher:championship ring授与式」

永くカワサキのDirtBikeの開発を担当してきたが、DirtBikeの大市場であるUS市場での現地テストで最高レベルに仕上げることは成功の必須条件。その期間、開発テストでは前述のMike PrestonとMike Fisherの二人、MXワークスチームではRoy Turner、彼らが果たした役割は言葉に語り尽くせぬほど大きい。結果的にカワサキはUS市場で確保たる信頼を得るまでに至ったが、それは彼らが明石側と一緒に辛苦を共に苦労しながら成し得た成果だという事に疑う余地はない。はっきり言えることは、カワサキが一番輝いてきた時代の一つの時期を先頭に立って引っ張ってきた人達である。


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