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野々池周辺散策

野々池貯水池周辺をウォーキングしながら気がついた事や思い出した事柄をメモします。

「KX50周年を祝う有志の会」・・吉村太一さんが出席

2023-12-11 06:31:54 | 二輪事業
  
「古谷さんと吉村さん:KX50周年を祝う有志の会:プロストック」
12月2日に開催した「KX50周年を祝う有志の会」に、世界のモータースポーツ界で有名な「吉村太一」さんが来てくれた。
有志の会の事務局の一人安井さんから、吉村さんが有志懇親会に来てくれるかもしれないとメイルが入ったときは小躍りして喜んだ。何せ、モトクロス界の大スターでビジネスでも大成功を収めた人物で、しかも多くの人望がある。かって敵として戦ったこともあるので、あこがれでもあった。それこそ有志懇親会の花となり、会が一層華やぐのは間違いなく、しかも”時間があれば喋る”と回答もあったのだから、2度ほど吉村さんに直接メイルして感謝を伝えた。吉村さんの出席を、カワサキレースの大OB古谷錬太郎さんに伝えると、会いたいと喜んで頂いた。

吉村 太一さんを簡単に紹介すると、
●(株)アールエスタイチ相談役・創業者
●1967年MFJ全日本モトクロス選手権ジュニア125ccクラスチャンピオン
●1970年MFJ全日本モトクロス選手権セニア125ccクラスチャンピオン
●1970年MFJ全日本モトクロス選手権セニア250ccクラスチャンピオン
●元スズキ・ホンダ モトクロスワークスライダー
●2021年MFJモーターサイクルスポーツ殿堂顕彰者
また、吉村さんと親しく、かつ今回の懇親会に色々支援してくれたプロストックの貴島さんは吉村さんをこう紹介している。              
●日本モトクロス界に創草期から選手として参戦。
 60年代後期からの「第一期モトクロスブーム」の時期にはスターライダー として活躍。
●1970年には125/250ccダブルチャンピオンを獲得(スズキ)
●72年にはホンダMX初参戦に伴い電撃移籍。歴史的なホンダ製モトクロッサー世界初優勝を達成。
●75年、ライダーススポットタイチ(現・(株)アールエスタイチ) 創業。
●2021年からはカワサキサテライトチーム(マウンテンライダース)として全日本モトクロスに参戦中。
●現・(株)アールエスタイチ相談役

懇親会で、吉村さんがゲストスピーカーとして壇上にあがると、出席のライダー全員が一緒に壇上にあがり大いに喜んで楽しんでいた。


吉村さんと、かって現役の頃、全日本選手権を戦っていた頃は、それこそ毎レース顔を合わせたがあいさつ程度で、懇親会でお会いし直接話したのは、これが二回目になる。一回目の時は、ちょうど10年前の2013年3月、京都で開催された「マウンテンライダーズ設立50周年記念パーティ」で、その時の様子を当ブログに投稿しているので、再稿してみる。

「マウンテンライダーズ設立50周年記念パーティ」2013年3月4日
 「吉村社長(向かって右)と私(左) 一緒に写真に収まるのは現役時も含めこれが最初」
3月2日、久し振りに京都まで行ってきた。
京都に降り立ってびっくり。京都駅から会場への道すがらビルの谷間に吹く風が冷たい。西明石よりかなり冷たい風にコートを羽織ってきたことは正解。
ところで、 パーティの様子は「雑感日記」等に詳しいので、私は今回のパーティで感じたことを書いてみたい。

マウンテンライダーズを主催している吉村太一さんとは、彼がホンダチームを率いて全日本モトクロス選手権を転戦していた時以来だから結構の長さだが、マウンテンから強豪ライダーを排出し続けていたこと等の思い出もあって、どちらかと言えば、常に我々の前に立ちはだかるチームの親分との印象が今尚強い。一方、日本でのモトクロス普及を真摯に受け止めている人でもあり、現役の頃、色んなアドバイスやメーカーへの要求を聞かされた。例えば、モトクロスやオフロードをより一層普及するためには、競技場所を極力市街地近くで開催すべきだ。そうすれば、モトクロスが更に認知されるし、モトクロス人口だって増加するはず。市場開拓のためにメーカーが検討すべき項目はこうだと多くのアドバイスを受けた。しかしながら当時の当方、手前勝手なことばかりに顔が向き、必ずしも真摯に耳を傾けてこなかった。だが実際、このように日本市場のモトクロス人口や二輪市場が減少していく現状をみると、吉村太一さんの忠言は正しかったのかもしれない。メーカーの塀の内に居ると、どうしても眼先の事が優先してしまう悪癖があるので、森に吹く風の動向に気づかず、気がついた時には既に遅しとなる可能性が、どうしてもある。全日本で覇権を争っていると、他陣営は全て敵に見え、大きな流れが見えず、流れに埋没してしまい、苦しくなって顔を上げる時には既に市場は減少してしまっている。

吉村さんは、全日本の二輪レース界の衰退が感覚的に見えていたのかもしれない。
それでも日本のモータースポーツ界の主流を歩み、超一流のライダーをも育て上げ、経営する「RSタイチ」は今や二輪関係用品を扱う会社としては、実質日本No1だ。その成功の秘訣を、「マウンテンライダーズ設立50周年記念パーティ」で見る事が出来た。約300人強の関係者がパーティに出席したと聞いたが、出席者の殆どが吉村太一さんの人望を慕って参画したものだろう。まさに、太一さんの仁徳・人望が300人強の出席者を集めた思う。 主従関係にある企業のパーティならいざ知らず、実質一個人が主催するパーティに300人とは突出している。往々にして、その世界の頂点を極めた人、特に一番のみが高く評価されるレースの世界では、自分中心志向の強烈な個性を持つライダーがどちらかと言えば多い。そんな中にあって、これだけ多岐にわたる出席者の間口の広さ、それもライダーだけでなく、多くの団体からの出席者をみると、吉村太一社長の人望はすごいなと思わざるを得なかった。これが今回のパーティに出席して感じ得た印象で、吉村社長の懐の深さと成功の秘密だと思った。


会場で、「まうんてん通信(特別号)」なる一枚の冊子をもらった。
この号には、「マウンテンライダーズの誕生50年(吉村太一)」、「懐かしい思い出と驚き(第一期ライダー 谷川勝己)」、「未来に向かって(監督 小橋雅也)」、「HISTORY OF MOUNTAIN RIDERS」、「モトクロッサー開発よもやま話(吉村太一)」が記載されており、マウンテンライダーズ誕生経緯からマウンテン出身のメーカー契約ライダー達の氏名等々が列記されている。マウンテン出身のワークス契約ライダーは’60年代~’70年代にかけてはスズキ契約が圧倒的に多く、次第にヤマハ契約に移行し、次にホンダ、カワサキのワークス契約に移行する流れをみると、時の全日本の主流を歩むレーシングチームが何処かを容易に想像できる。その中のカワサキワークスライダーとして、田中教世、小島太久摩、小川裕己の名が並んでいた。

中でも、吉村太一さんが書いた「モトクロッサー開発よもやま話」は結構面白い。
日本の二輪企業が世界に羽ばたく過程で、世界を制覇したホンダ、ヤマハ、スズキがロードレース界から撤退後、モトクロスがビジネスになると気付いたスズキがオフロード市場に打って出る過程での、マシン開発の苦労話だが、結構面白い。1966年頃当時、チェコのCZ、スウェーデンのハスクバーナ車が世界のオフロード市場を席捲していたが、次第に日本メーカーに置き換わり制覇されていく過程での話。記事の最後の一節、
「日本製モトクロッサーが最初から優秀だったのではなく、積み重ねがあり現在の地位がある。
しかし、今またヨーロッパからKTMなどの逆襲が始まっている。今後のモトクロッサーがどうなっていくのか、私は興味が尽きない」と締めくくっている。これにはビックリ! 全日本や世界のオフロード市場の末端推移を肌に感じ見てきた本人から、今、脅威に感じる二輪企業として「KTM」の名を聞くとは思いもしなかった。実は、同会場で、かってカワサキモトクロスチームの主力ライダーだった、福本敏夫さんと四方山話をした。彼が言うに、今、日本のオフロード市場ではKTMが台頭しつつあるとの事。このままにしておくと、日本市場がKTMに置換してしまう恐れがあり、取って替わられる前になにか検討しておくべきではないかと聞かされていた。この日、偶然にも日本のオフロード市場の末端を観察している二人の著名人から、KTM恐るべしと聞かされた。日本のオフロード市場で、打倒KTMを開発して何ぼになるという意見もあるようだが、しかし日本企業が世界に打って出た当時の欧州企業が正にそうだった。昨年、モトショップシロタの城田社長(元チームグリーン選手)やカワサキマイスターの森田社長からも同様意見を聞いていただけに、日本市場は変貌しつつあるのかもしれぬと感じた。
鼻の利く経営者の感覚は何時も鋭い。
          

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「KX50周年を祝う有志の会」・・「let the good times roll」

2023-12-06 06:14:11 | 二輪事業
 
  
2023年12月2日、「KX50周年を祝う有志の会」の懇親会を、KXの故郷明石で開催した。
今回も、カワサキでMXに従事してきたメンバーだけに限定せず、広くカワサキモトクロスを応援してくれた在野の支援者、いわゆる「緑の血」が流れている人も含めて案内を回し、当日参加を加えると83名の出席となった。これは「KX40周年」「KX45周年」とほぼほぼ同数の出席者となった。また、会場設営や受付等にボランティア応援者が早くから駆けつけ準備して頂いた。

カワサキの二輪車の中で、開発、生産、販売そしてレース活動を51年間も絶えることなく続けてきた唯一のモデルが”KXシリーズ”。1972年に技術部にレース車の開発運営を担当する開発1班が結成され、始めて名付けられたモトクロス専用車”KX”、その機種名を一度も変える事なく続いた51年間だ。こんな機種をカワサキでは他を知らない。言い換えれば、カワサキのリーディングモーターサイクルの一つと言っても過言ではないと思う。この懇親会、カワサキのレース活動やKX立上げに苦労された大先輩達がお元気なうちに会をやらねば後輩として後悔しないうちにと、それこそ「隗より始めよ」ではないが、始めたのが10年前、そしてとうとうKXは歴史ある50周年となった。

今回の「KX50周年有志懇親会」の良かった点は、カワサキの最大の競争相手だった他社チームで大活躍した著名人、例えば吉村太一さんやHRCの元エンジン設計者、そして案内のFBを見て多くの一般の方が参加されたことだと思う。彼らからたくさんの祝言を頂いたが、かって敵として戦ったことなど何処に消えて、同志としてただただ嬉しいものだった。二輪ビジネスの世界では、レースが二輪ビジネスの頂点にいて、かつオピニオンリーダーであることは間違いない事実で避けては通れないものだから、共有する思いがあるのだろう。そして、この50周年の長い歴史を俯瞰するに「あの時のカワサキは頂点にあったよねとか、そしてリーディングカンパニーだったと言う事実は変えようがないよね」と言う声も多く聞こえた。しかし思うに、KX50周年懇親会に、こうしてかっての競争相手や一般の方が祝福に来てくれたという事実は、カワサキでKXを主体とするオフロード業務に従事した我々担当者や関係者にとっては何ものにも代え難い 嬉しい財産である。この声は、会の中で実施したトークショーに参加したライダーからも、また多く聞かれた。今回も、カワサキの二輪部門が昔から長く企業活動指針としてきた「let the good times roll」 活動を具現化することができ、主催者の一人として嬉しいものだった。   
  
  「カワサキKXシリーズ50周年有志懇親会集合写真:撮影、フォトジャーナリスト高橋絵里」

80にもう数年で手が届く後期高齢者を含むカワサキのリタイヤ元技術屋3人が発案・主催したので、会場設営を含めなんともぎこちない。そのぎこちなさに不安に感じた応援者のボランティア数人が実務を担当してくれた。所謂、素人集団の「手作り開催」だが、これがなんと孫もいる女性3人を含む一芸の優れ者(ボランティア参加理由を聞くと、二輪の楽しさを教えてくれたKXの催事には是非参加したいとか、レースをしたいと学生服のままの女子を受け入れてくれたのがカワサキのチームだったとか、カワサキのレース部門に在席した経験あり等々、あるいはカワサキの広宣を担当した経験ありとかの理由で参画)ばかりで、それぞれの得意分野に奔走して、手や足の動きが遅い我々高齢主催者にとって大きな助けになった。

会は、今年の物故者 への「黙祷」から始まり、カワサキのレース活動を最初に始めた90才のOB古谷さんが「初めの挨拶」を、KXの名付け親で世界のチームグリーン活動創始者でかつ開発1班の初代班長・レース監督の88才OB百合草さんの「乾杯の挨拶」へと続いた。最初の挨拶までは皆静かに聞いているものの、その後、自由歓談になると、相変わらずの賑やかさで笑声と大声の喧騒の中、会は進む。これは何時ものことだ。トークショーでは「あの時のカワサキ」として、①1973年、開発1班創設とチームカワサキの始まり、②ライダー紹介、③KX50周年記念車のデザインについて、の話があった。各団体や個人から提供して頂いた協賛品の抽選会はいつもながら好評で、「締めの挨拶」はカワサキで4度の全日本モトクロスチャンピオンを獲得した岡部篤史さんの担当、そして記念撮影へと続き、3時間で終わらせることができた。

「KX50周年有志懇親会」の始まる前から、出席されたメンバーからのFBを中心とするSNS情報が終始流れ始め、チャットを含む多くの方から、愉しいと好評のコメントが流れていた。中には、次の55周年をやれと強い催促もあったりで、「KX50周年を祝う有志の会」は、素人の手作り集団が開催した割には成功だと自画自賛しながらホッとしている。ただ惜しむらくは、今回の出席者リスト見るに、現役のKX担当者や若手ライダー諸君の参加はかなわず、次のKX50周年を担うべき若手の招聘は、我々年寄りの素人集団には予算もなくまた荷も重く、今なお敷居は高いと感じた。

「当日の式次第」
   
「当日の記念品」
●KX50周年キーホルダーとトートバック
KX50周年キーホルダーは、九州から馳せ参じトークショーを担当した元カワサキのデザイナー松見さんが今回のため特別に制作したもので大好評だった(限定数のため抽選)。同じく、KX50周年記念トートバックは元カワサキのデザイナー”デザインファクトリー”社が製作したもので出席者全員に配布。両方とも今回の特注品で非売品。
 
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KX50周年・・“Kawasaki Dirt Chronicles”

2023-12-01 06:17:27 | 二輪事業
 
11月29日のFBに、著名なジャーナリスト ”Shintaro Urashima”さんが「KX50周年によせて」と題して、「川崎重工ウェブサイト“Kawasaki Dirt Chronicles”より引用」を投稿していた。改めて読んでみると、30数年前の’90年代初頭、カワサキがモトクロスのリーディングカンパニーを自負し活動していた時期に、カワサキの担当者たちは何を考え、どんな活動をし、その結果はどうで、それは市場からどのような評価を受けたか、を記述した貴重な資料の一部である。他の部分も改めて読んでみたくて、川重のウェブサイトの”Kawasaki Dirt Chronicles”をGoogle検索するも「誠に申し訳ございません。アクセスしようとしたページが見つかりません」としか出ない。つまりこのウェブサイトの見つけ方がわからない。
 
当時、全日本選手権に外人ライダーを走らせるのに賛否両論あるのは当然で、日本人選手のみだったら貰えてた賞金がもらえなくなるだから反対論もある。しかし一方、「ダートスポーツ」FB の『砂煙の追憶』に、当時カワサキのワークスライダーで外人ライダーを抑えて何度も肉薄した走りをした、榎本正則選手が含蓄ある発言をしている。それには「彼らにしてみれば全日本で走るのは出稼ぎだったかもしれないが、彼らが思っている以上に結果として多くのものを残してくれたはず。受け継がずに過去のものにするのは、あまりにももったいない。育つものも育たない」と。当時EddieやJeffと共に全日本を戦った日本人ライダーからカワサキの真の意図を改めて聞かされるとは思いもしなかったが、ライダー側からみてもカワサキの決断は正しかったと言う証左だろう。あれから30数年後の2022と2023年、ヤマハワークスが外人ライダーを全日本選手権に走らせている。公開されている、その目的を読んでも、当時カワサキが考えていた、外人ライダーを走らせた理由と基本的には同じに思えるから、思うに、30数年前の事情から停滞したままで、全日本はあまり変わっていないのかもしれない。

こうした、後から読んでも含蓄のある考え方を記述した資料はなかなか見つらないだけに、貴重だ。今回投稿分を読みながら、こう言う資料だからこそ、カワサキの”KX50周年ウェブサイト”にも投稿してもらいたいと切に感じた。

さて、日本の「KX50周年を祝う有志の会」は、明日12月2日、明石で開催する。1972年にモトクロスを含むレースマシンの開発とレース運営を行う開発班がカワサキの技術部に創設され、KXと名が付くモトクロスマシンの量産車が翌年の1973年に販売された。そして現在に至るまでの、半世紀に及ぶ歴史ある一部期間に在籍した経験を持つ開発に携わってきた関係者の有志は、この50周年には格別な思いがあり、「有志の会」を呼びかけたところ、在野の皆さんを含む多くの賛同者を得た。そして、皆んなでKX誕生50周年を祝おうと参加してくれる。これこそカワサキが長く企業活動指針としてきた「let the good times roll」の一つの形だと思う。

▼川崎重工ウェブサイト“Kawasaki Dirt Chronicles”より引用
「カワサキの全日本モトクロス参戦史の中に、アメリカンライダーを起用した時期がある。'92~'94年のエディ・ウォーレン、'95~'97年のジェフ・マタセビッチ。折から世代の過渡期にあった日本のモトクロス界は、彼らの活躍に大いに刺激されることになる。抜擢された助っ人が活躍した6年間で、獲得したチャンピオンシップは4個。カワサキが勝利にこだわる姿勢を明確に打ち出し、圧倒的なプレゼンスを誇った黄金期だった。

「'89年の岡部篤史を最後にタイトルから遠ざかっていたので、常勝カワサキとしては『今年は取りに行くぞ!』という仕掛けが必要な時期でした」横山真一郎(KHI)は、その頃のチーム事情をこのように説き明かす。
「外人ライダーの起用には、チャンピオン獲得という使命以外にも目的がありました。当時からレース活動は量産車の先行開発の場という位置付けでしたが、日本人より速いペースで走れるアメリカンライダーを介せば、もっと高い次元での開発が行える。そしてマシン開発だけでなく、日本のモトクロス界に刺激を与え、全体のレベルアップにも貢献できる。そんな理想を掲げていたのですが、ただトップアメリカンを呼んでも、日本のレベルとは差がありすぎるという懸念がありました。ぶっちぎりで勝ちまくっては意味がない。程よく競り合いながら勝ち、日本人から見ても手が届くぐらいのライダーが理想でした。ちょうどいいのは誰か。この人選が難しかった部分でした」

抜擢されたウォーレンには、'85年にAMAスーパークロス125イーストチャンピオンになった実績と、KMC(カワサキ・モータース・コーポレーション)の開発ライダーを務めた経験があり、'91年には福岡で開催されたパンパシフィック・スーパークロスに来日した縁もあった。
'92年にウォーレンのメカニックを担当した後、'93年からKRTの監督を務めた河野孝の回想…。「ウォーレンは最適任者だったと思います。小柄なので力でマシンを押さえ込む乗り方ではなく、スピード的にも何とか付いて行けたので、日本人の手本としてもちょうど良かった。特にコースが荒れるヒート2になると、テクニックを発揮しました。1速高いギアを多用するためエンジンの回転が低めなので、ギャップで跳ねずにスムーズに走る。岡部あたりはウォーレンの走りを冷静に観察して、テクニックをずいぶん学んでいたようです」

初年度の'92年、KX250SRを走らせて24ヒート中10勝を挙げたウォーレンは、カワサキに3年ぶりのチャンピオンシップをもたらした。「願ったり叶ったりのシーズンでしたが、メカニックとしては葛藤がありました。ウォーレンには勝って欲しいけれど、花田茂樹(当時:KRT所属)ら若手ライダーも伸ばしていかなければならない。ウォーレンのセッティングを出した後に、花田のメカニックに助言したりという苦労もありましたが、第2戦九州のヒート2でウォーレン、岡部、花田が1-2-3フィニッシュを達成するなど、うれしい戦果もありました。ただ、アメリカンを採用した是非とは別に、個人的には日本人に勝たせたいとずっと思っていました。後にマタセビッチがチームに来てからも、この気持ちは変わりませんでした」

カワサキは'93年、ウォーレンの開発能力を見込んで、アルミフレーム車を投入する。「我々は常に量産を前提としてファクトリーマシンを開発してきましたが、アルミ製ペリメターフレームを採用した'93年のKX250SRだけは例外でした。技術的には砂型の鋳造パーツを多用するなどトライをしましたし、収集したデータもかなりありました。アルミフレームは重量面では有利でしたが、当時の状況ではコスト的に合わず、結果的に量産は見送られたのです。特性としては一長一短で、アルミ特有の硬さを解消するのに苦労しましたが、この経験は後々'06年型KX250F・KX450Fにアルミフレームを初採用する際に役立っています」

'93年はスズキが送り込んだ対抗馬、ロン・ティシュナーに敗れ、翌'94年も連覇を許した。カワサキにはウォーレンに代わる次のライダーが必要になった。「候補としてはマイケル・クレイグとジョン・ダウドも挙がっていましたが、最終的にマタセビッチを選びました。'88~'89年AMAスーパークロス125ウエストチャンピオンという実績はウォーレンに似ていましたが、マタセビッチはアウトドアではそれほど好成績を残していないので、ティシュナーには勝ちたいけれど勝ちすぎてはいけないという我々の要求に、ちょうど上手くマッチしそうだったからです。明石の社宅住まいだったウォーレンとは違って、マタセビッチはほぼ毎戦アメリカから通う参戦スタイルでしたが、'95~'97年と見事に3連覇を達成してくれました」

対照的な2人のアメリカンと苦楽を共有した河野は、今でも彼らのプロフェッショナリズムが忘れられないと言う。「ウォーレンもマタセビッチも、ゴールした後はしばらく話もできないほど呼吸が乱れ、ぜいぜいと肩で息をしていたものです。日本人はみんな割と平然としているし、ヘルメットを脱いですぐメカニックと会話したり、次のレースに並んでいるチームメイトに駆け寄って、ラインを教えたりする余裕がある。日本人は限界まで無理していないし、一方アメリカンたちは倒れる寸前まで攻めているんだなと、レースに対する姿勢の違いを痛感しました。みなさんはアメリカンなら全日本で勝てて当然だと思われるかもしれませんが、彼らがどれほど真剣に取り組んでいたのか、再認識してもいいのではないでしょうか。優等生だったウォーレンでも、負けた悔しさからトランスポーターの中でヘルメットを叩きつけていたことがありました。マタセビッチの場合は、2位のトロフィーをゴミ箱に投げ捨てていました。行儀は決してよくありませんが、彼らはとことん本気だったのです」

エポックを画したアメリカンの起用に、カワサキは6年目で一区切りをつけた。勝利と開発、そしてモトクロス界の活性化。当初の目的を果たしたKRTは以降、全日本モトクロスの将来を若い日本人ライダーに託していった」

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市場は活性化している

2023-11-30 06:00:20 | 二輪事業
11月29日のアメリカ二輪専門誌 "Cycle News "は「Triumph Motocross Bike Reveal – TF 250-X」を投稿している。同じく、モトクロス専門誌”Motocross Aactionmag”も「DETAILS RELEASED! 2024 TRIUMPH TF 250-X FOUR-STROKE」を投稿した。2024年に販売予定の英国 TRIUMPH 社の新しい4ストローク250㏄モトクロスバイクだ。
  「"Cycle News」
 "Cycle News "ネット誌によると、「Triumph Motorcycles announced at the end of 2022 that they will enter the Monster Energy AMA Supercross and AMA Pro Motocross championship series in 2024. The team that will be run by former Husqvarna team manager Bobby Hewitt announced that they will have three riders, but this is the first teaser on the new, built from the ground up, motorcycle that they will race. That race bike will lead to a production motorcycle that is expected to be available sometime in 2024.」とあるから、トライアンフの新しいモトクロスバイクは、来年2024年1月から始まるMonster Energy AMA Supercrossと全米モトクロス選手権の250㏄クラスにエントリーする。そして、この新しいモトクロスマシンは、2024年に発売予定で、$9,995 USDだそうだ。

英国の老舗二輪メーカーのTRIUMPHがモトクロスやエンヂューロマシンを開発計画中で、米国モトクロス史上#1と称されるRicky Carmichael 選手がその開発を手助けしているとの情報「TRIUMPH MOTORCYCLES TO INTRODUCE ALL-NEW MOTOCROSS & OFF-ROAD DIRT BIKES」は、2021年の中盤に報道されていたので知ってはいるが、TRIUMPHマシンがAMAのSXレースに登場するかもしれないと、しかもそれが近々に見られるとなると、すごく興味があった。それだけ、近年の米国オフロード市場は活性化している証左かもしれないと感じていた。

数年前、AMAのSXレースに”GASGAS"というブランドのチームが新しく登場し、GASGASワークスライダーは著名なJ.Barcia選手で、2021年のAMA SXの第1戦、ライブタイミングのトップに流れる続けるGASGASと言う名のブランドのマシン。世界最高峰モトクロス選手権と言われる米国のスーパークロスレースで、初参戦の初戦で1位とは、まことにもって立派な成果だった。更に2022年、GASGASマシンで登場する選手も増えてきた。さらに加えて言えば、”TM”というブランドのマシンがAMASXのAnaheim250SX Futuresに登場し、初参戦で大活躍していた。アメリカのオフロード市場も面白くなるぞと期待していたが、来年2024年にはイギリス車が登場する。

アメリカの、いや世界のモトクロス界で燦然たる記録を残し、かっての覇者であった日本のスズキのワークス活動が世界中のモトクロスレースから撤退して久しく寂しくなっていたが、そんな話題を蹴散らすほどオフロードの大市場アメリカの現実は、今もなお活性化しているようだ。アメリカのオフロード市場は、現在すでにオーストリアのKTM社が日本企業を押しのけて市場の覇者になった感が否めないが、今度はKTMの牙城に英国のTRIUMPHが戦いを挑む。そして次はイタリアのドゥカティが2024年からモトクロス世界選手権に参戦するとあった。

アメリカの市場で大きく躍進している二輪企業にKTM社があるが、つい最近、このKTMが53百万ドルの北米本社ビルを建てた記事「 KTM NORTH AMERICA’S ALL-NEW $53 MILLION HEADQUARTERS OPENS ON 20 ACRES」がある。北米KTMは KTM、 Husqvarna、 GasGasの各ブランドの二輪や幾つか電動を含む自転車そしてWPブランドの高級パワーパーツ部品を取り扱う会社で、CEOのStefan Piererは「今日は私にとって感慨深い一日だ」と述べ、「ちょうど30年前、アメリカでわずか10数名の従業員でスタートした事業が今日、KTMはヨーロッパを代表する二輪事業のリーディングカンパニーにまで成長し、米国市場で年間約10万台を販売して10億ドル以上の売上高を達成している。KTMがここまで成長してきた大きな要因はレース活動を中心にした企業活動であり、レース活動こそが、それが米国市場でも長年にわたるKTMの原動力であった」と話した。そして、「北米グループの組織は、2009年の30人の従業員から2023年には約360人の従業員へと成長し、3棟からなる新しい複合施設は、北米にある1000以上のネットワークをサポートするために、さらなる拡張を計画している」と続け、「米国市場では、ほとんどのブランドの二輪車の売り上げが減少または横ばいの中、KTMおよびハスクバーナは販売を伸ばした。次の目標は、5年以内に年間40万台販売する計画で、目標達成時はホンダ、ヤマハに次ぐ世界第3位の二輪企業となる」とも書いてある。

欧米の二輪販売が低調傾向にあるにも拘わらず、自社ブランドの販売は伸び続けているとするKTMの経営は素晴しい。1991年に会社倒産(1991年の前年、KTM社が倒産する可能性があると、世界モトクロス選手権の会場、イタリアでこの話題を直接聞いたことがある)に会いながらRacerXonline.comの記事「KTM FACTORY TOUR IN AUSTRIA」の説明によると、1992年、KTM社は再び小さなワークショップから出発、エンデューロレースのニッチ領域に参戦しながら成長し、その後、ラリーやモトクロスの世界で輝かしい成功を収めてきた。” Ready to race ”と言う明快な企業コンセプトロゴを旗印に、 モータースポーツへの飽くなき挑戦によって KTMはグローバルに成長し続けている。その目標とするのが、5年以内に世界第3位の二輪企業に成長することだと言う。超優良企業だった米国のハーレーダビッドソンでさえ2019年の世界販売台数は22万台弱に低下し、メディアによる二輪の将来は必ずしも明るいと言えないとする論調もしばしばあるが、大きく成長しているオーストリアの二輪企業KTMの話題は明るい。

それまで、世界の二輪事業を牽引してきたホンダ、ヤマハは欧米主体から新興国に活路を見出した。日本企業が落ち込んだ欧米の二輪市場に浸食してきたのが、強いブランド力をもつ欧米の二輪企業だと言われていた。その中で、KTMは、その明快なコンセプト”KTM Ready to Race”でON,OFF車とも豊富な品揃えと地道な「草の根活動」を展開し、日本二輪企業の販売が低調な、この時期を絶好の機会だと捉え、アメリカのオフ市場を席巻する動きをみせた。結果、モトクロスの分野では、世界選手権や米国のスーパークロスレースの王者として君臨し、そこから生み出す製品の優秀性を訴求し続けることでKMT信者を増し続けた。今まではハーレーは別格で日本企業間で其々の立位置を論議していれば良かったが、今や、そうではないようだ。

KTMの企業コンセプトロゴ”Ready to Race”は企業倒産後の出発点から何ら変わらず、その持つ意味は、KTMはレースばかりする企業ではなく、KTMはKTMユーザーと一緒に楽しみ、KTMユーザーと良い時を過ごしたいという意味だろう。末端市場はKTMの真の意味を理解し信頼し続けているのは間違いない。レースという言葉を企業指針にするなど以ての外だとする企業人やレースと聞くとそっぽを向く二輪関係企業人もいると聞くが、欧州二輪企業は自身の立ち位置を明確にすることでブランド構築に躍起になっており、結果、世界中の二輪愛好家は必然的に気にかけざるを得なくなる。オフロードのKTMの印象が強いが、オンロードの分野でも2018年にはロードレースの世界選手権のMoto3クラス、Moto2クラスおよびロードレースの最高峰MotoGPクラスの3クラスにワークスチームを送り込む唯一の企業でもある。勝つには三桁前後の億予算が必要と言われるMotoGP参戦だが、2020年のプレシーズンテストから著しい成長を見せ、2022年には王者Ducati と覇権を争う技術力を高めるまでになった。
 
新しいブランドのマシンがアメリカ市場に続々と登場する。やはり、アメリカの懐は深い。こうしたKTM成長の事例を見ると、二輪事業は経営手腕によってはまだまだ「未来ある事業体」と言えるのではないだろうか。当たり前のことだが、最後は結局、経営戦略の優劣が勝敗を決する。


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「KX50周年を祝う有志の会」開催まで一週間

2023-11-25 07:32:59 | 二輪事業
今年、2023年12月2日に「KX50周年を祝う有志の会」を開催する。
計画を思い立ったのが8月末、12月2日まであと一週間、もうすぐだ。
    

「KX50周年を祝う有志の会」の案内はこう書いている。

「今年、2023年はカワサキのモトクロッサー“KX”が市場に出て50周年となります。思えば、1972年、カワサキ技術部内にレースマシンを主に開発・レース運営を担当する開発班が誕生し、その翌年1973年にモトクロス専用車KXシリーズが量産販売開始されました。それ以降、一度たりとも開発を中断することなく、一度たりとも生産を中断せず、一度たりともレース参戦を中断することなく、そして“KX”という名を変えることもなく半世紀が過ぎました。この間、モトクロッサーの最適技術を開発し続け、世界中のモトクロスファンに愛され、多くのチャンピオンシップでチャンピオンを勝ち取りながら“KX”は改良されてきた半世紀です。我々も半世紀に及ぶ歴史ある一部期間に在籍した経験を持つので、この50周年には格別な思いがあります。カワサキのレース仲間有志は過去、「KX40周年」「KX45周年」を祝う有志の会を設け、皆で祝い楽しんで来ました。今回も、「緑の血」が流れる在野の皆さんから「KX50周年を祝う有志の会」を開催せよとの多くの熱い声援を得ましたので、下記のように会を計画しました。是非皆様のご出席を賜りますようにご案内申し上げます。
                                                                                                                                     
        記
  • 日時:2023年12月2日(土) 午後3時~(受付2;30~)
  • 場所:「グリーンヒルホテル明石」    

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久しぶりの訪問、カワサキプラザ神戸垂水

2023-11-15 07:02:16 | 二輪事業
 
店の名前を、「マイスター」から「カワサキプラザ神戸垂水」に変更して以来だから、久しぶりに訪問した。森田社長とは、彼がカワサキ技術部のモトクロス開発班に在席し、その後二輪販売の勉強のため一時KMJに出向してのち、「カワサキ・マイスター」と言う名のオートバイ販売店を開店し、もう長い付き合いである。カワサキの技術部在席していた頃はモトクロスマシンKX125のエンジン開発を担当していた。125㏄の排気量だから、もともと非力だが、それを、それこそ寝るのを惜しんで、家に帰っても布団に入っても125の出力向上を模索していたと聞いた。毎日のようにエキゾートパイプの形状を変えてトライしていた。ある時、エンジンを台上に掛け動力計の荷重をかけると、何かが違う、と言う。下方からエンジンの回転を上げると、エンジンの食いつきが違うという。これがKX125エンジンのトルクを一回り大きした要因だ。このエンジンは米国のモトクロス専門誌でベストマシンに選ばれ、Jeff Ward 選手を始めとするカワサキワークスに多くのチャンピオンをもたらしたのだ。さて、2ストロークエンジンの開発を成功させるためには、たくさんの汗をかかねばならない(=多くの実験をこなすこと)ことはよく知られた事実だが、森田さんの勘の良さ、能力と執念がこれを可能とした。

カワサキの二輪販売店を開いて、しばらくはモトクロスチームを作って全日本選手権に参戦していた。自前のエキゾートチャンバーを作ってレースに出ていたので、他のチーム員から羨望の的であった。今は、二輪販売の社長だが、昨今の二輪事情や顧客の求める二輪を良く分析しており、カワサキプラザの良い点等を含め色々教えてくれた。カワサキ二輪の販売はどうかと聞くと、もっと売れるという。彼の人柄の良さ、勘の良さと能力の高さから言えば、確かにそうだと思う。
  
  
  「2023年11月14日:カワサキプラザ神戸垂水、森田社長夫婦と私」:


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カワサキバイクマガジン誌に掲載された「KX50周年を祝う有志の会」の案内

2023-11-11 06:01:11 | 二輪事業

来る12月2日に開催される「KX50周年を祝う有志の会」の案内が、雑誌「カワサキバイクマガジン」誌11月号に掲載されていた。この会にも記者が参加する予定で、その模様は追って報告すると記載されているので要期待 。

本文は「今年、KXシリーズは生誕50周年を迎えた。KXシリーズはKX250/KX125が73年に発売開始されたのにはじまり、現在まで50年にわたってラインナップされているカワサキのモトクロッサーだ。KX50周年を記念して、いくつかの企画が組まれていて、カワサキもKX誕生50周年記念スペシャルサイトをオープンさせている。さらに年末、カワサキOBが主体となって、KX50周年を祝う会も開催される。カワサキのレース仲間有志は過去、KX40周年、KX45周年を祝う会を設けており、今回、KX50周年を祝う会に至っている。参加者は限られているため、残念ながら開催の詳細を告知することはできないが、開催後に本紙で開催の模様をレポートする予定だ」とある。
  
   
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「KX50周年」の歴史の一コマ・・・祝勝会

2023-10-29 06:49:19 | 二輪事業
  
ある時期のカワサキモトクロス開発陣で、全日本ワークスチーム+KMCR&Dチーム+KMCワークスチームとの祝勝会。
毎年秋、全日本とAMAのモトクロスレースが終了すると、次年度のマシンスペックを決めるための日米合同テストを開催していた。明石の開発陣とレースチームが垣根を無くし相互に納得するまでテストを繰り返し語り合って信頼関係を築きあげるために必要な行事だった。それらは、カワサキのモトクロスチームが最強で、この業界を牽引していた時代を、この一枚の写真が示している。
  
  前列左から:大津、M.フィッシャー、J.ワード、○、岡部、R.アッシュ
  二列目左から:山田、増田、的野、尾崎、森田、西垣、安井、堤、長沼
  三列目左から:D.ベトレィ、ノーマン、花田、内西、河野、R.ターナー、野宮、土肥

確か、1985年だと思うが、この年はジェフ・ワードがAMAのSXと250でチャンピオンに、全日本では岡部選手が125クラスのチャンピオンとなった。
  
当時の若手は上記写真に紹介したので、当時の事業本部の関係者を上図で紹介しておこう。
   前列 :安藤技術部長、岡部選手、高橋本部長、武本晃実験研究部長(当時、レース部門は実験研究部に所属)
   二列目:左端が武本一郎部長、中央は古谷部長、右端は岩崎部長

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「KX50周年」の歴史の一コマ・・・懇親会

2023-10-28 05:50:28 | 二輪事業
  
米国カワサキのモトクロスワークスチーム(Kawasaki Racing Team USA)が、確か、日本のスーパークロス出場のためと思うが、来社した際、某社主催の懇親会時の写真だ。

何故懐かしいのか。当時の Kawasaki Racing Team USAの契約ライダーJeff Ward、Ron Lechien、Jeff “Chicken” Matiasevich が一緒に大笑いした場面。この3人が笑ったシーンなど記憶にないので、今思えば貴重な写真だと思う。当時の、 Kawasaki MX team managerの Roy Turnerと各メカニックと一緒に来日した。こんな時代もあった。
   
 「場所:西明石の明石キャッスルホテル」
後列左3人目がサスペンション担当のRick Asch、一人置いて Kawasaki MX team managerの Roy Turner、 女性を挟んで、Jeff “Chicken” Matiasevich とJeff Ward 、その横にJeff Ward 担当メカニックのTom Morgan 、その後ろの背の高い選手がRon Lechien選手。
こんな時代も、確かにあった。懐かしい!!

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「KX50周年」の歴史の一コマ・・・モトクロス車の標準仕様となったペリメータフレーム

2023-10-27 06:30:06 | 二輪事業
  
「KX50周年website」関連情報の続編「#kx50yearsanniversary」は、世界のモトクロスマシンのフレームに大きな変革をもたらしたカワサキぺリメータフレームの誕生を紹介している。カワサキはこう書いている。 
In 1989, the KX125SR and KX250SR entered the All Japan Motocross Championship with a revolutionary new type of frame: a steel perimeter chassis that used two tubes that wrapped around the fuel tank rather than a single beam. That year, Kawasaki factory rider Atsushi Okabe won in the 250 class on this new chassis which eventually evolved into the aluminium perimeter frame still in use today and first introduced on the 2006 KX250F and KX450F.  」
1989年、新型ペリメータフレームを装着したワークスバイクKX125SRと KX250SRは世界で初めて全日本モトクロス選手権のレース場に登場し、その年度、ワークスライダー岡部篤史選手がペリメータフレームを搭載したワークスマシンで最高クラス250㏄クラスチャンピオンとなった。
 「KX250SR」

「RACERS」と言う、世界の二輪レースで大きな戦績を挙げたワークスマシンを取り上げた日本の専門雑誌がある。日本の購買層の特殊性から、取り上げる話題は圧倒的にロードレースで活躍したマシンが多いが、そんな中で編集長が取り上げた数少ないモトクロスバイクがカワサキのペリメータ搭載のKXだ。編集長がKXペリメータフレーム開発物語を取り上げた理由を、「RACERSvol26」の巻頭言に、要約するとこう書いている。
「ペリメータフレームを採用したカワサキKX125デザインの”圧倒的かっこよさ”を「RACERS」特集に選んだ。加えて、他社比較車と対比しながらKXを絶賛し、この”圧倒的かっこよさ”が多くのユーザーを引き付け、例えば当時カワサキKXの最大の競争相手だった、ホンダの技術者でさえ、ホンダのモトクロッサーではなくKXを買ったと書いている。その理由とは”KXが格好良いから”だったと言う。それまでのモトクロスフレームとは一線を引いた、言わばモトクロッサーのフレームとはこれだと言う既成概念を一掃してしまう”かっこよさ”がKXにはあった。そのことがホンダの技術者のみならず多くのモトクロスユーザーに注目されたとある」

その後もKXの話を外部から度々聞く機会があった。その度に指摘されたのはペリメータフレームの’90年代KXがもつ圧倒的カッコ良さとライディングポジショウンの良さである。その後のモトクロスマシンの多くは、カワサキのペリメータフレームをベンチマークとして発展し、ペリメータフレームがモトクロスバイクの世界標準になったような感覚さえある。
参考ブログ:

「RACERS編集長曰く”かっこいいKX”はどの様に開発され、そしてその性能、戦闘力の高さを如何に証明してきたのか」
ペリメータフレームは'90年モデルKX125と250に始めて量産車として採用されたが、その前年1989年、全日本モトクロス選手権で、カワサキワークス全日本チーム(KRT)はペリメータフレームをワークスマシンに採用した。それはMXレースマシンとしての戦闘力を確認するためだが、岡部、花田、長沼の3ワークスライダー用に搭載した。既に、次年度の量産適用を前提としていたので、是が非でもチャンピオンを獲得し戦闘力の高さを証明する必要もあった。当年のモトクロス選手権は前半125cc6戦、後半250cc6戦として、それぞれにチャンピオンを競うものだったが、'85、'87、'88年の125ccチャンピオンの岡部選手にペリメータフレームの勝利を託した。岡部選手の評価では「ペリメータフレームの特性は直進性に優れるがコーナリングに改良の余地あり」で、キャスター角等の変更でレース可能レベルまで改良された。更に良い点として「ペリメータフレームの優れた特性としてライディングポションに圧倒的優位性がある」と評価された一方、重量がやや重く125ccのエンジンでは非力さを感じるとの評価もあったと記述されている。残念ながら125ccクラスのチャンピオン獲得はできなかったが、後半250ccではパワーも十分にあったのでペリメータフレームの特性を見事に発揮しチャンピオンを獲得、そしてカワサキは全日本250ccクラスで13年ぶりにクラスタイトルを獲得することになるが、同時にペリメータフレームの優秀性が実戦で始めて認知された瞬間だ。

追加して言えば、今もそうだが、全日本モトクロス選手権には「米国AMAにある、レースマシンは量産車ベースである事」という規則はない。安全の基本事項を満足すれば如何なる仕様でもレース出場可能だ。開発機能を日本に集約していることもあって、当時の日本各社は各社が考える最強マシンを全日本に出場させ、夫々の技術力を誇示していた。従って、各社の考える最高技術の集大成であったモトクロッサーが参加する全日本で勝てるマシンであれば、次年度の量産車として販売しても十分な戦闘力があるマシンと考えられ、結果、開発中のマシンは量産可と説明していたので、全日本レースは落としたくなかった。

いずれにしても、'89~'97年の9年間でカワサキは5度の全日本選手権250㏄クラスチャンピオンを獲得し、その間ペリメータフレームと言う全く新しいフレームを搭載したKXが各社が誇る最強マシンと切磋琢磨する全日本で勝ち続けたことは、ペリメータの優秀性を示す証左だと思う。
また、この事実がオフロードの最大市場である米国でもカワサキモトクロス躍進の原動力へと波及していくことになる。'90年代初期におけるKMC(アメリカカワサキ)が誇る「kawasaki  racing team」の実績抜きに本当のカワサキペリメータの優秀性は語れない。
     「'92年Kawasaki Racing Team  USA」
    「向かって左から Jeff Matiasevich、Mike LaRocco、Jeff Ward、Mike Kiedrowski」

参考までに書くと、開発部門がペリメータフレームの開発を承認された理由の大きな一つに、エヤクリーナの埃対策があった。当時、クリーナボックス横に開閉式弁を埃対策として採用していたほどで、レース時のクリーナエレメントの埃詰まりによる出力低下が問題視されていた。改良案の一つに、ゼッケンプレートの直ぐ後にクリーナボックスを設け、埃舞うレースでも常にフレッシュエアーをエンジンに送り込み、かつ吸入量を増加させる事でエンジン出力の安定化を図ると同時に、燃料タンクはできるだけ重心位置に近い場所に設計する計画で開発スタートした。その構想を具現化するにはペリメータフレームが最適だった。試作車を野宮ライダーが試乗したところ、ライダーの股間からクリーナボックスの吸気音が気になるというのが第一声で、改良点として指摘された。一方問題点として、クリーナボックスから2サイクルエンジンのキャブに至る吸気通路が複雑になり、台上での出力向上に時間がかかった。結局満足できるエンジン出力を得るには時間がなく、泣く泣く(開発会議に上程した仕様と異なると叱責を受け)クリーナボックスの件は一時棚上げ先送り、ペリメータフレームだけを'90年モデルに適用した。 

’90年頃初期のペリメータフレームは、従来フレームよりもかなり高いポテンシャルがあることが分かったが、少し重いと言う欠点があった。カワサキはその後、ペリメータフレームを発展させたアルミフレームを試作し、’90年代初頭にはアルミフレームのKX250SRを当時のワークスライダーEddie Warren 選手に乗せて全日本モトクロス選手を戦ったこともあり、またミニバイクにもアルミフレームをトライしたこともある。これ等を通じて、当時のアルミフレームの課題を追求していた。

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