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野々池周辺散策

野々池貯水池周辺をウォーキングしながら気がついた事や思い出した事柄をメモします。

「KX50周年」の歴史の一コマ・・・全日本選手権でレースを戦ったアメリカ人

2023-10-26 06:09:27 | 二輪事業
  
2016年の1月、アメリカの著名な「CycleNews」ネット誌は、 往年のカワサキワークスライダーJEFF MATIASEVICが表彰されたと、報道「Jeff Matiasevich To Be Honored At San Diego 1 Supercross」している。

2016年スーパークロスレース第2戦 San Diego で、JEFF MATIASEVIC選手はLegends and Heroes Awardとして表彰された表彰事由には、「JEFF MATIASEVIC選手はカワサキワークスライダー時、1988年と1989年の2度にわたりAMA125西部地区SXチャンピオンを獲得」したことに加え、ジャパン(日本)スーパークロスチャンピオンを獲得し、「1995年には全日本モトクロスチャンピオンになった(実際には1995年から1997年の3年連続全日本モトクロスチャンピオン)を高く評価したものとある」と書いている。

JEFF MATIASEVIC選手はカワサキが全日本選手権に勝つべく契約した、二人目の外人ライダーであり、全日本選手権の最高峰250㏄クラスの’95、’96、’97年の3年連続チャンピオンである。
 「’95、’96、’97年全日本選手権チャンピオン」
RacerXonlineが投稿した、JEFF MATIASEVICHとのインタビュー 記事「BETWEEN THE MOTOS: JEFF MATIASEVICH」には、明石の開発部門との関係を語っている。その一部を抜き出してみるとこうだ。
「あなたのキャリアで突出したハイライトはなんですか?」との記者質問に、JEFF MATIASEVICは次の様に答えている。
●カワサキでレースに専念できたことが一番素晴らしい時代だった。特に1995、‘96、’97と日本のカワサキワークスチームと契約し全日本のチャンピオンシップに勝ったこと。日本でレースに専念できた3年間は、私の経験したなかでも最高の時間だった。日本のサポート体制は最高だった。カワサキのワークスバイクは驚くほど素晴らしく、要求するものはなんでもカワサキはトライしてくれた。他のカワサキワークスバイクより2年も先行する優れた仕様を採用してくれた。それは5年後量産移行する仕様だ。驚くほど素晴らしいバイクをカワサキは用意してくれた。
●私は1986年にプロに転向し、1998年に引退した。この間、最高の契約条件は日本のカワサキとの契約だった。私のキャリアの中で最高の3年間だった。
「最後の質問として、タトゥー(刺青)が日本のカワサキとの契約で大きな障害になっていると、ある雑誌にあったが本当か?」との質問に対し、
●それは真実ではない。確かに日本ではタトゥーはマフィアのイメージがあるのは確かだが、日本のカワサキがそれを契約条件にしたことはない、と答えている。
            
        「JEFF MATIASEVICH:‘96年全日本チャンピオン祝勝会」                 

思いだしてみると、当時、カワサキは善戦するも全日本チャンピオンを取れず、組織がこのままずるずると勝つ事の意味を忘れてしまう事を組織マネージメントとして恐れた。と言うのは竹沢選手がカワサキで250チャンピオンになったのは1976年で、次のチャンピオン獲得は125の岡部選手の1985年、その間の9年間、カワサキはチャンピオンから遠ざかっていた。この9年間、勝ちたいと言う思いとは裏腹に思いを集大成して勝ちに繋げる意思はやや貧弱で、加えてこれを別に不思議と思わない環境にあった。その後、岡部選手が4年間チャンピオンを獲得したが、1990年にホンダの東福寺選手にチャンピオンを譲り、チームとして悔しい思いをしていた。岡部選手に続く日本人選手を育てるべく、MXマシン開発を担当する技術部で契約し開発テストや実践レースで将来のチャンピオン候補として育成してきた選手も岡部選手に取って代るだけの実力を備えておらず、かと言って時期を失すると、また過去の暗黒の数年に後戻りしかねない危機感が胸の内に強くあった。これは一度でもチャンピオンを維持したチームだけが持つ何とも言い難い焦燥感である。何としても勝ちたい。そこで熟慮した結論は外人ライダーとの契約だった。全日本選手権に外人ライダーを参戦させるのは、別にカワサキが最初ではないが、カワサキが勝利にこだわる姿勢を明確に打ち出し、圧倒的なプレゼンスを誇った黄金期に出した結論の一つでもある。

それまでに、外人ライダーを全日本に走らせる前に、日本人選手の技量向上を図るべく組織的に色々トライしてきた。
当時、全日本選手権GP大会に出場する世界のトップライダーを見る度に、日本人と外人ライダーとの技量差は歴然とあり、何とかこの差を詰めたいと考えていた。そのために、日本の契約ライダーをアメリカに長期出張させアメリカンライダーと競争させる試み等を何度もトライしてきた。が、最も効果が認められたのは、外人ライダーを全日本選手権に出場させて、全日本選手権の場で直に競争させることであった。ラップ寸前程の差があった技量差が、これを機にアメリカンライダーとも競合できるレベルに成長したのは事実で、全日本選手権も大いに盛り上がった。

一方、後で小耳に挟んだことだが、全日本にアメリカンライダーを走らせることは、余りにも冷たい組織の奴らだとの声が一部にあったらしい。それは一部の声ではあったが、日本人選手との契約を優先しないことのやっかみでもあったのだろうか、モトクロスの責任者は冷酷な奴だと言われたらしい。ルールに則った競争世界で、国粋主義でもあるまいしと思いながらも、日本人は異文化を上手に取り込むことで、文化的にも経済的にも成長してきた歴史があるのに、何とも情けない話を風評に流す暇な人種もいるのかと思ったが、色んな理由も考えられるので一抹の寂しい気がしたものだ。しかし、これを機に日本人ライダーの技量は確実に向上し、レースも活性化たことは事実だ。更に言えば、Eddie Warrenが全日本選手権から引退する最終戦の菅生で、当時のホンダファクトリー東福寺選手が全選手を代表してEddieに感謝の挨拶をしてくれたことで、カワサキの選択が正解だったことが結果的に証明された。菅生での出来事は予期せぬ事だっただけに感無量の思いがした。更に加えて言えば、「ダートスポーツ」FB の『砂煙の追憶』には、当時カワサキのワークスライダーで外人ライダーを抑えて何度も肉薄した走りをした、榎本正則選手が含蓄ある発言をしている。それには「彼らにしてみれば全日本で走るのは出稼ぎだったかもしれないが、彼らが思っている以上に結果として多くのものを残してくれたはず。受け継がずに過去のものにするのは、あまりにももったいない。育つものも育たない」と。当時EddieやJeffと共に全日本を戦った日本人ライダーからカワサキの真の意図を改めて聞かされるとは思いもしなかったが、ライダー側からみてもカワサキの決断は正しかったと言うことだろう。

カワサキのHP「kawasaki DIRT.CHRONICLES vol09」に、外人ライダーについて記述した項があるので、一部を抜き取ってみた。
「外国人ライダーの起用には、チャンピオン獲得という使命以外にも目的がありました。当時からレース活動は量産車の先行開発の場という位置付けでしたが、日本人より速いペースで走れるアメリカンライダーを介せば、もっと高い次元での開発が行える。そしてマシン開発だけでなく、日本のモトクロス界に刺激を与え、全体のレベルアップにも貢献できる。そんな理想を掲げていたのですが、ただトップアメリカンを呼んでも、日本のレベルとは差がありすぎるという懸念がありました。ぶっちぎりで勝ちまくっては意味がない。程よく競り合いながら勝ち、日本人から見ても手が届くぐらいのライダーが理想でした。ちょうどいいのは誰か。この人選が難しかった部分でした」
 
「日本人は限界まで無理していないし、一方アメリカンたちは倒れる寸前まで攻めているんだなと、レースに対する姿勢の違いを痛感しました。みなさんはアメリカンなら全日本で勝てて当然だと思われるかもしれませんが、彼らがどれほど真剣に取り組んでいたのか、再認識してもいいのではないでしょうか。優等生だったウォーレンでも、負けた悔しさからトランスポーターの中でヘルメットを叩きつけていたことがありました。マタセビッチの場合は、2位のトロフィーをゴミ箱に投げ捨てていました。行儀は決してよくありませんが、彼らはとことん本気だったのです」

これ等は、カワサキが勝利にこだわる姿勢を明確に打ち出し、圧倒的なプレゼンスを誇った黄金期だったからこそ、カワサキはモトクロス市場のリーディングカンパニーとして行動を起こすべきと判断した一つの事例に過ぎない。まず第1に勝てる事、次に高いレベルでマシン開発ができる事、そして競争させることで日本選手の技量を向上させ全日本選手権を活性化させること等である。ただ、懸念された事は勝つためだけにアメリカンを走らせたと単純に捉えられてしまわないとか言うことだが、一緒に戦った全日本選手の話を総合すると、結果的にそれは杞憂だったのだ。

その後、ずいぶん経ってからJEFF MATIASEVICH選手の全日本選手権参戦マシンが、米国のネットに投稿されていたのを見たときはビックリした。一番ゼッケンに米国国旗の星条旗をデザインしたJEFF MATIASEVICH専用マシンで、当時のカワサキデザインGr若手の苦心の作。今から思うと、当時のカワサキはかなりの余裕を持った大らかな時代だったかもしれない。    
  「 Rad bike. Would love to feature this bike on the website.:Motocross ActionFB」

しかし、カワサキレーシングチーム(KRT)が全日本モトクロス選手権の最高クラスでチャンピオンを獲得した1997年のそれ以降、カワサキは全日本選手権最高クラスで今年(2023年)も勝てず、26年間も無冠が続いているのかと、今はそんな時代になったのか不思議な感覚を覚えた。
     年度  250㏄クラス 125㏄クラス           備考
    

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「KX50周年」の歴史の一コマ・・・In Memory - Jan de Groot とその時代

2023-10-25 06:11:48 | 二輪事業
  
 「In Memory - Jan de Groot」

カワサキで永くモトクロスとロードレースのマシンン開発やレース運営を担当してきたが、この人ほど素晴らしい人に会ったことがない。
オランダ人で、欧州でプライベートのモトクロスチームを結成し、その後、「Kawasaki Racing Team」を任され世界モトクロス選手権の中心人物だった。とかくレースと言うと、個性豊かで目立ちたがりの人達がいる中で、どちらかと言えば控えめで、それが結果的に多くの欧州トップライダーから絶大な信頼へと繋がっていた。とにかく100%信頼のおける人で、この人に任せてたら全てOKだという信頼性と人望を一心に集めた人であった。

亡くなられたのは2007年だからもう16年も経つ。源出典の ”MotoX” 「In Memory - Jan de Groot」には、彼の功績をこう記している。「Jan de Groot(1945-2007)は国際的なモトクロススポーツの中心舞台で、「Kawasaki Racing Team」のチームマネージャーとして大いに活躍。 モトクロスに彼の全人生を捧げ、高い技術的知識と優れたライダー選択能力があり、世界グランプリの舞台で輝かしい実績を残してきた。 彼の長いモトクロス人生の中で、「Kawasaki Racing Team」でのキャリアが最も優れた功績で成功した時期でもある。 Jan de Grootが運営する「Kawasaki Racing Team」には、Greg Albertyn,Stefan Everts,Sebastian Tortelli, Mickael Maschio, Frederic Bolley, Talon Vohland,Chad Reed, Steve Ramon等、世界モトクロス選手権やAMAモトクロス選手権で大活躍した、あるいは活躍中の錚々たる選手が  Jan de Grootの元に集まり世界チャンピオンを獲得し続けた。
 「Jan de Groot Kawasakiが獲得した世界チャンピオン」:
  ● 2002年 125cc Mickael Maschio
  ● 1998年 250cc Sebastien Tortelli
  ● 1996年 125cc Sebastien Tortelli
  ● 1995年 250cc Stefan Everts 」

鈴鹿や菅生で世界モトクロス選手権が開催される度に、あるいは次年度チーム運営打合せ時の度に、所属するライダーと一緒に毎年来社した。なぜか、Jan さんと話していると、自分でも分かるぐらいに落着いて話をすることができたことを鮮明に覚えている。何はさておき長身の欧州紳士だ。下記写真は世界各地域で戦うカワサキモトクロスとロードレースのレース活動発表会@明石工場である。
        
        「前列中央がJan de Groot、その右はSebastian Tortelli。その右隣りはAMAのJeff Emig とKMCの Bruce Stjernstrom」

この頃の、カワサキモトクロスの欧州事情を簡単に振り返ってみたい。
それまでの世界モトクロス選手権は英国カワサキ(KMUK)の Alec Wright が英国をベースに活動してくれた。当時は、欧州統一チームと言う概念はまだ乏しく(欧州でのレース運営は各国の利害とエゴがもろにでて、統一組織を構成しない限り困難)、イギリスの直販会社KMUKが明石の開発部隊からワークスマシン等の支援/援助をうけ世界選手権を転戦するとともに、英国における「Team Green 」を組織化しUS Kawasakiと類似した支援プログラムでKXマシンの販売とライダー支援を行い、欧州でのモトクロスマシンの販売量を飛躍的に伸長させた時期だった。US Kawasakiの「Team Green 」の初代managerだった Dave Jordan とともに英国の Alec Wright、この二人の活躍なかりせば、カワサキKXの伸長は無かった。英国の Alec Wrightがリタイヤした後、カワサキの世界モトクロス選手権を担ってきたのがオランダ人のJan de Grootで、イギリス人の Alec Wrightが中々果たせなかった世界チャンピオンを数度獲得したことがJan de Grootの大功績で、この事が欧州全域におけるカワサキの地位を一挙に更に高めた。Jan de Grootとカワサキ、カワサキのモトクロスが世界各地で最も輝いていた一つの時期、欧州でのカワサキモトクロスの地位を最も高めた功労者である。

ところで、本ブログでも何度も紹介してきたが、Dave Jordan リタイア後もUSカワサキの Team Green 思想と活動は脈々と歴代マネージャーに引き継がれ、多くのチャンピオンを輩出し、かつ多くのモトクロスユーザーにも支持され、カワサキの Team Greenが米国のアマチュアモトクロス界をリードし続け今に至っている。一方、Alec Wright リタイア後の英国は、知名度の高かった Team Green の名は消え、KXの販売も低下しユーザーが離れていった。決して目立つことのない草の根活動を地道に継続させる決意の一番の違いは、経営者の思想の差だったかも知れない。一方、世界選手権の分野では、Alec WrightをJan de Grootが引き継ぎ、その意志はJanさんの奥さんEllenが、そして次の後継者へとカワサキの血統は脈々と続いている。
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「KX50周年」の歴史の一コマ・・・モトクロス聖地 と言われた 「 Saddleback Park 」

2023-10-24 06:15:10 | 二輪事業
  

モトクロス聖地 の今、 「 Saddleback Park 」
 「公園入口で販売されていたサドルバックパークのステッカー」
過年のmotocross actionネット誌に、「MEMORIES OF THE WAY WE WERE: SADDLEBACK PARK TODAY」と言う記事があった。
カリフォルニア州ロサンゼルス近郊にある、かってモトクロスの聖地と称された”SADDLEBACK PARK”の現在の写真が投稿されていた。昔、ほとんどのカワサキKXやKDXは、現地プロクラスのライダー達によるSADDLEBACK PARKを中心とするコースでの過酷なテストで合格した仕様を量産移行した。
     「motocross action」

1980年代半ば、当時全米中で吹き荒れた訴訟問題に巻き込まれ、サドルバックパークも閉鎖となった。
この公園は、全米で初めて建設された、オフロード車が遊べる、特にモトクロス車のための、広大な公園で、モトクロスが大好きな米国人を象徴する場所だった。モトクロスの世界選手権、全米選手権そしてリージョナル選手権等の多くのレースが開催され、言わば、モトクロスの盛んな南カリフォルニアにおけるモトクロスの聖地と言われた。当時、日本の二輪企業もモトクロスやオフロード車のテスト場所としてサドルバックパークを日常的に使用していた。

現在のサドルバックパークの航空写真は一面草に覆われ、モトクロスの聖地と言われたかっての面影はないが、図中にある、スタートラインからBANZAI HILL(バンザイヒル)までの登りの長い直線は平地のまま残っている。MAGOO DOUBLE(マグーダブル)の向う側にカワサキはテストキャンプを設置し、ここを拠点に広いサドルバック内のコースを使ってテストしていた。マシンの評価テストは勿論、マシンの耐久テストもここで実施していたので、多くの現地ライダーにとっても耐久テストは良い練習の機会でもあり歓迎されていた、懐かしい場所。写真には写っていないが、BANZAI HILLの右側にも広大なエンデューロコースがあって、日常的に多くのファンがいた。

思いだしてみると、'76年のアメリカテストを皮切りにアメリカ出張の機会も増えてきた。米国はモトクロスを中心とするオフロード車の大市場で、当地のサドルバックパークやインディアンデューン等の郊外の山や砂漠地帯でテストに立ち会う機会も多くなった。MX車のテストの殆どはサドルバックで仕様を決定し、このコースで耐久テストも実施した。毎日数名のプロクラスのライダーが朝から遅くまで走った。当時は「耐久テストに来て」と言うとすぐにプロクラスライダーが集まり、そのライダーの殆んどがレース並みの走りで競って耐久したものだ。サドルバックは日本二輪各メーカー拠点から30分ほどの近さなので、各社とも頻繁に利用していた。ある時、KX500の量産仕様を決めるために一通りの評価テストを終え、比較車として用意した他社前年度量産車を凌駕したので合格点とした。テストが終了したころ、黄色のワークスライダーが当地で一人練習していた。当方のテストライダーが彼と知り合いだった事もあり、それなら仕様の決まったKX500と黄色マシン(ワークスマシンだったと思う)と比較しようとなって、サドルバックのスタートラインからバンザイヒルまでスタート競争することになった。すると、KX500はどうしても黄色マシンに置いて行かれる。減速比を替え、ライダーを入れ替えしても、スタートで黄色マシンに勝てない。とうとう、その年の量産は延期となった。その時以来、黄色の500マシンを見ると、暫くの間トラウマとなった記憶が残っている(実際の全米選手権でのKX500SRワークスバイクは何度もチャンピオンとなったが)。多くのテストをサドルバックで実施したので結果の殆どはOKだったが、失敗したこと、うまく機能しなかったことの思い出は鮮明に頭の片隅にいつまでも残る。

アメリカの著名なアフターマーケット会社「Pro Circuit」の社長で「Pro Circuit Race Team」のオーナーでもあり、かつ優秀なエンジンチューナーでもある、Mitch Paytonさんのインタビュー記事「BETWEEN THE MOTOS MITCH PAYTON」にもあったが、「米国では、生活の一部として極普通にバイクを楽しんでいる多くの人々がいる。彼らは古い2サイクルのモトクロスバイクを購入し週末には整備し、こうした人生を楽しんでいる。米国の多くの人々はバイクが好きなんだ。だけど、彼らが欲しいバイクはWorld Superbikeマシンでは決してない」と、今のアメリカのバイクライフを話していた。これは、USテスト時、実際に見聞きした、約40数年前のアメリカのバイクライフと根本的に同じ風景だ。当時も、現地に行くと、そこには数台のキャンピングカーを中心に、父親と少年少女達がモータサイクルや四輪バギー、VWの改造車でビュンビュンと走リ回っている。側で、母親はキャンピングカーに張ったテントの下で昼食のサンドウィッチを準備をしていて、楽しそうな家族的な風景だった。そこには、暴走族まがいの人達はおらず、あくまでも家族単位の行動で、アメリカの週末の過ごし方の一つを垣間見る事が出来た。アメリカ人は長い開拓移民時代に、家族が一つの単位となり、幌馬車に揺られて 新天地を求めて歩み、永住の地にたどり着いた歴史がある。その頃の開拓民にとっては「家族」が唯一の財産であった時代の名残が、いまも脈々と受け続けられいるのだろうと思った。開拓時代の馬が現代は単にバイクに替わっただけなのだろう。だから、アメリカのごく普通の白人一般家庭の楽しみは小さい子供がバイクともに成長する姿だとすれば、モトクロスバイクはアメリカ人の伝統的な生活のごく一部として普通に存在しているのだろう。

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「KX50周年」の歴史の一コマ・・・Loretta Linn牧場

2023-10-23 05:57:39 | 二輪事業
  
アメリカの有名な伝説的カントリー歌手Loretta Linnが2022年の10月4日に亡くなったとの記事がその日、一斉に米国の二輪専門ネット誌に流れた。90才だったそうだ。更に、FMF Racing はツイッターに「Thank you Loretta Lynn for opening up your ranch for all us Motocross fans to enjoy for the past 30 years. A Country Queen, Rest In Peace! 」と投稿している。なぜ、伝説的なカントリ歌手と二輪が関係あるのかと言えば、AMAアマチュアモトクロスの最終戦でかつ最大の祭典が、Loretta Linnの自宅敷地 Tennessee州Hurricane Mills 牧場で毎年開催されていたので、アメリカの二輪オフロード市場に少しでも接した経験がある人であれば、その名前は忘れられないと思う。

思い出してみると、かっての大昔、Loretta Lynn には数度訪問したことがある。当時、NWAのPonca Cityのモトクロス レースと日にちをずらして開催されたのがAMAのLoretta Lynnモトクロスで、ともにアマチュアモトクロスの甲子園と称され、全米各地を勝ち抜いた精鋭が最終チャンピオンを、ここで決する 。Ponca City レースがNWA主催で、Loretta Lynn はAMA主催だが、出場する選手は全米のトップアマチュアライダー達なので両レースともに出場する選手が多い。テネシー州のナッシュビル空港から Loretta Lynn 牧場に来ると、100°F超の猛烈な暑さの Ponca City に比べ、湿度が高く、道々には蝉(だと思う。それまで、ロスアンゼルス、フロリダ、テキサス、ネバダ近傍しか知らなかったので、蝉と思しき声が聞こえて嬉しかった記憶がある)が鳴いていたという記憶がある。米国専門ネット誌に投稿された最近の写真やビデオを見ていると、Loretta Lynn のスタートラインやコースレイアウトの基本コースは30数年前と何にも変っていないようにも見えた。何もないくそ熱いばかりのPonca City に比べれば、大きな木が沢山あるLoretta Lynnの暑さは幾分かしのぎ易すかった。

未だ鮮明に覚えているが、ここ、Loretta Lynnのコース脇の樹々の間に、ライダー達の駐輪場、広いピットエリアがある。レースが終了し暇している時、時のTeam Green選手の一人だった、Eddie Warren の親父に誘われ、バーボンの地酒(自家製と聞いた記憶がある)を頂戴した。夕食時間に近かったので、この冷したバーボン(かなりの度数であった)が旨かったのでかなり飲んだところ、丁度晩飯の頃酔いが回ってきて、たまたま夕食に頼んだ名物のナマズ料理を食べれなかった。一緒にいた、メカの小松君に私の分も喰ってくれと、一人野外のレストランに残してベットに転がり込んだ苦い思い出がある。この時のバーボンで不覚にも酔いつぶれ、しかも楽しみにしていたナマズ料理も喰えなかったので、Eddie Warrenの名前はずっと記憶にあった。その後、全日本選手権に外人ライダーを走らせるべく計画した際、推薦選手の中の一人に、その当時結婚しオーストラリアでレースをしていたEddie Warrenの名があったが、どんな選手かは直ぐに思い出せた。

Ponca City レースやLoretta Lynnレースは、カワサキのモトクロスビジネスが大きく飛躍するに至った、その原点の場所でもある。
当時のカワサキは、日本のヤマハ、スズキの先行2社に比べキッズ用のモトクロスに参入するのが遅く、アマチュア選手支援のために立ち上げたTeam Green活動は1981年に始まった。当時、ロサンゼルス近郊にあるモトクロスの聖地サドルバックパークを訪れると、ライムグリーンのバイクは1台もおらず、スズキとヤマハが大半を占め、少数だがマイコ、ブルタコ、CZ、ハスクバーナなどの欧州車も走っていた。カワサキがキッズ仕様のモトクロスに参戦しようにも誰もカワサキには見向きもしなかった時代だ。KX80が新発売され、KX80に乗ってくれるライダーを探したことがTeam Green活動の始まり。そして、カワサキTeam Green契約第1号は、忘れもしない、サム・ストアと言う選手。2番目契約選手がリチャーズ・サンズ。初めて、Ponca City レースを見たときの印象を今でも鮮明に覚えているが、ヤマハ・スズキの黄色のマシンの中に、たった一台のグリーンのマシンがぽつんとスタートラインに並んでいた。その後、Team Greenの活動は米国のアマチュアモトクロスライダーの絶大な信頼と支持を受け、スタートラインの半分以上をカワサキのグリーンマシンが占めるに至り、多くのモトクロスライダー憧れのチームへと成長した。カワサキのキッズバイクレース参戦は、兎にも角にもたった一台のサム・ストア選手から始まったのは事実である。 

Ponca Cityや Loretta Lynnレースの細かく分けられたカテゴリーには、排気量とは別にストック(無改造、量産車のまま)とモディファイド(改造)があったが、カワサキは最激戦区の80ccモディファイドクラスに、まだ市販されていない翌年型KX80の量産試作車を毎年投入した。この作戦が大ヒットした。レースの1週間か10日程前、ロスアンゼルス近郊のサドルバックで、Ponca Cityに参戦する10~15才位のキッズ選手数人を招集し事前テストする。このテストは量産移行可否のテスト確認の場でもあるが、殆どがプロ選手とほぼ同等のラップで走る飛びぬけて優秀な選手達で、しかも彼らの技量に合わせ特別のセッチングをするものだから、Ponca CityとLoretta Lynnに出場する他の選手より圧倒的に早く、他の競争ライダーを簡単にラップしてしまう。当時は、モディファイドクラスにはホモロゲーションは要らなかったので、発売前の新型でも出られた。当時はモトクロッサーが毎年劇的に進化していた時代で、たとえば現行の空冷エンジンに対して来年型が水冷エンジンだったりすれば、これはもう羨望の的だった。性能的にも格段の差があったうえに、あえてストックのまま出ても他社の改造車に勝てるのに、今度のKXを買えば勝てるぞ、という明確で強烈なインパクトをPonca CityやLoretta Lynnで与えた。この作戦は大成功で、Team Green活躍が格好の宣伝となり、KXシリーズの販売台数は上昇の一途をたどったのは事実である。Ponca CityやLoretta Lynnでのレース活動にはライダー育成や実戦テストといった側面もあって、すべてが好循環に回っていった時代。

しかし、それも、近年のLoretta Lynn's Ranchでのレース結果を見るに、アマチュアライダーの原点でもある排気量65ccと85ccのミニモトクロスクラスの結果表を見てビックリしている。65や85クラスは「KTM」に既に凌駕されているのだ。かろうじて、最近、65㏄や85ccに新モデルを投入した一部の日本車が善戦しているも、総体的にみれば、モトクロスの原点クラスは「KTM」に独占されつつある。40数年以上前、モトクロスと言えばヤマハ、スズキがアマチュアクラスをも含め、その頂点にあって、多くのライダーの信頼を得ていた。そこにカワサキが、Team Green活動が”草の根活動”を通じ、先行する2社に代わって、カワサキが米国のアマチュアライダーの絶対的な信頼を得るに至り、その状態は長く続き、アメリカのモトクロスはカワサキが支え続けていると言っても過言ではない時代が長く続いた。ホンダ、スズキは米国二輪市場の落ち込みに伴い、こうした活動から全面的に撤退したと聞いてから久しい。唯一、カワサキのみが米国のモトクロスライダーを支援し続けてきた歴史がある。ところが、日本各社が二輪市場支援活動から撤退もしくは縮小した間隙の中に、米国オフロード市場に再参入してきたのが、オーストリアの「KTM」社だ。その効果はてき面で、65cc、85cc市場はオレンジ色(KTMカラー)一色に変貌しつつある。こうした傾向にあることを各メデイアからの情報で既に分かっていたが、これほどまでにKTMの寡占状態に近い程に台頭しているとは思いもしなかった。この傾向はミニバイク市場だけかと言うと決してそうではなく、250cc、450ccクラスレースのトップも既に「KTM」が独占する時代へと変わりつつある。

全米には、多くの市民がオフロードを楽しむエリアが幾つもある。現地に行くと、そこには数台のキャンピングカーを中心に、父親と少年少女達がモータサイクルや四輪バギー、VWの改造車でビュンビュンと走リ回っている。側で、母親はキャンピングカーに張ったテントの下で昼食のサンドウィッチを準備をしていて、楽しそうな家族的な風景があった。どちらかと言えば、キャンピング地の近くは、リタイヤした老人達が余生を過ごす場所でもあるが、ホテルの食堂は家族が楽しむ場所でもあった。そこには、暴走族まがいの人達は一切おらず、あくまでも家族単位の行動で、アメリカの週末の過ごし方の一つを垣間見る事が出来た。アメリカ人は長い開拓移民時代に、家族が一つの単位となり、幌馬車に揺られて 新天地を求めて歩み、永住の地にたどり着いた歴史がある。その頃の開拓民にとっては「家族」が唯一の財産であった時代の名残が、いまも脈々と受け続けられているのだろうと思う。開拓時代の馬が現代は単にモトクロスマシンに替わっただけで、一家の宝である自分の子供が英雄になった、この瞬間瞬間を家族は大事にしていくのだろう。こうして見ると、この世界が息づいている米国白人社会では、モトクロスを中心とするオフロード車市場は伸びる事はあっても廃れるとは考えられない。

オフロード大好きアメリカの大市場は昔から、4、50年前から何にも変わらず、それを側面支援し支えるチームが大きく変わりつつあるだけで、我々も米国の良い時代を少しだけだが経験できて面白かった。 この世界最大の大市場が米国であり、彼らが二輪オフ車から四輪オフロード車顧客として発展していくのだから、大事に守っていかねばなるまい。その原点をLoretta Linn牧場に見ることができる。


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「KX50周年」の歴史の一コマ・・・US Team Green活動

2023-10-22 06:11:48 | 二輪事業
  
「KAWASAKI MOTORS CORPORATION / TEAM GREEN AMATEUR RACING PROGURAM / 1981/ by Dave Jordan 」と言う、黒表紙の一冊の企画書がある。

1981年、この企画書から米国KMCの「Team Green」活動が実質スタートした。Team Green活動はカワサキのオフロード事業に多大な貢献をなし、カワサキモトクロス=KXマシンを米国市場において確保たる成功に導き、Team Green活動なかりせばカワサキのモトクロスビジネスはここまでこなかったと本当にそう思う。郊外で、砂漠で、オフロード車を操る遊びは米国人の伝統的な嗜好マインドに良く合致し、それは米国二輪市場にて安定的な販売と収益性を確保する、加えて不況にも断然強いビジネス、という歴史を形作ってきた。

企画書には、こう書いている:「あなたもTeam Greenメンバーになれる」
カワサキのモトクロッサー”KX”を購入したユーザーは誰でも「Team Greenメンバー」として登録でき、全米各地で開催されるレーストラックにおいて分け隔てなく同等の支援を受けることができる。一部の特別なライダーのみが優遇される特権ではなく、レーストラックでは、場合によってはカワサキユーザー以外のモトクロスユーザーへの支援をも除外しなかった。そしてそれは、たった一台のグリーンマシンが末広がりに拡大し、各地でカワサキが驚異的な活躍をすることとなった。例えば、1989年(年間)のラスベガスWorld Mini GPではKXのEntriesが43%、KXのWinsが71%、またPonca CityのNMA FinalsではKXのEntriesが46%、Winsが76%と驚異的な成績である。結果的に、Team Greenの卒業生からAMAモトクロスの著名な多くのチャンピオンを輩出したことは言うまでもない。Jeff EmigやRicky CarmichaelはSXレースのテレビ解説者となり、同じくTeam Greenの卒業生のJames StewartとRyan Villopotは其々ヤマハ、カワサキを駆使し過去、何度もチャンピオンを争っている。

Team Green活動は、広く言えば米国の多くのモトクロスユーザーを支援し、そして育て、米国のモトクロス市場を守ってきたと言っても過言ではない。開発と販売ソフト及び実績が極めて上手にジョイントし成功した好例であり、草の根活動の二輪販売戦略の見本として大いに参考となる活動となった。


そもそも「 Team Green」発起点を、米国カワサキ(KMC)に駐在した百合草さんがこう書いている「1976年KMCに駐在したが、各レース場はスズキ、ヤマハのオンパレードでKXの姿は殆ど見られなかった。そこで、販売店の支援費として営業で使っていた費用をR&Dに移管してもらい、チームグリーンを創設した。ピート堤さんを長としてジョーダンを補佐とし、レースにおける代理店の支援を行った 」。前述したピート堤さんこと堤利雄さんにインタビューした記事がカワサキHPの「KAWASAKI DIRT CHRONICLES」 の中にある。

「カリフォルニア州ロサンゼルス近郊にあるモトクロスの聖地、サドルバックパークを訪れてみると、ライムグリーンのバイクは1台もいなかった。視界に入るモトクロッサーの銘柄はスズキとヤマハが大半を占め、少数だがマイコ、ブルタコ、CZ、ハスクバーナなどの欧州車も走っていた。アメリカのライダーたちにカワサキのモトクロッサーを買ってもらうには、一体どうしたらいいのだろう。コース脇で佇む堤利雄(当時:KMC Technical Service Dept. Manager)は、砂塵にまみれたシャツの袖で額の汗を拭った。

「アメリカでは'70年代後半にモトクロス人気が急上昇したのですが、カワサキが市販モトクロッサーを投入した当初は見向きもされなかったし、無理だよと笑われたこともありました。1969年に渡米してから10年ほど、KMC(カワサキ・モータース・コーポレーション)では技術的な部署にいましたが、モトクロスをビジネスとして成立させるには、メーカーと販社が一体となって取り組まなければいけないと痛感し、私が販売促進にもタッチするようになったのです。そんな折、KX250・KX125に加えて'79年モデルからKX80が新発売され、広い購買層にアピールできるラインナップとなりました。これはチャンスだと、KX80に乗ってくれるライダーを探したことが、チームグリーン活動の始まりでした」

 堤は毎週末あちこちのモトクロス場に通い、辞書と首っ引きでスカウト活動に没頭した。ようやく見つけたのが、サンディエゴのバローナオークスで出会ったサム・ストアという中学2年生。KX80を気に入ってくれたこの少年は、晴れてたった1人の第1期生となった。翌'80年からチームは堤の下を離れ、新たに任命されたマネージャーに引き継がれる。この時から正式にチームグリーンと命名され、活動は少しずつ全米に普及していった。

「チームという概念とはちょっと違って、キャンペーンと言った方が正しいかもしれません。何しろアメリカは国土が広いですから、各地からライダーがどこかに集って合宿するとか、団体行動をするなんてアマチュアレベルでは不可能です。我々が行ったのは、販売促進とカスタマーサポートを一体化したサービスで、ひとことで言えば『いまKXを買えばキミもチームグリーンの一員になれる』というようなキャンペーンだったのです。資格は何もなし。スカウトもセレクションもなし。ただ指定販売店でKXを買えば、誰でもチームグリーンに登録できました。特典はいくらかのディスカウントと、キットパーツや技術情報の提供だけ。契約金も賞金もありませんでした」

 本格的にスタートしたチームグリーンの主戦場は、アメリカ各地のローカルレースだったが、最終目的地として目指したのがポンカシティ(NMA Ponca City Grand National Motocross)。夏休みに全米からアマチュアライダーが集う「モトクロスの甲子園」だった。細かく分けられたカテゴリーには、排気量とは別にストック(無改造)とモディファイド(改造)があったが、カワサキは最激戦区の80ccモディファイドクラスに、まだ市販されていない翌年型KX80の量産試作車を投入。この作戦が大ヒットした。

「モディファイドクラスにはホモロゲーションが要らなかったので、発売前の新型でも出られました。当時はモトクロッサーが毎年劇的に進化していた時代ですから、たとえば現行の空冷エンジンに対して来年型が水冷エンジンだったりすれば、これはもう羨望の的になります。性能的にも格段の差がありましたから、あえてストックのまま出ても他社の改造車に勝てる。今度のKXを買えば勝てるぞ!という明確なメッセージが波及するのに、時間はそれほど必要ありませんでした」

 チームグリーンの活躍が格好の宣伝となり、KXシリーズの販売台数は上昇の一途をたどる。ブームの発端となったポンカシティにおいては、やがて出場車の半数をKXが占めるまでになった。レース活動にはライダーの育成や実戦テストといった側面もあったが、すべてが好循環に回っていった。 チームグリーンのメンバーに対しては、ポンカシティで優勝したらカワサキのファクトリーチームに入れる、というインセンティブもあった。この制度による最初の成功例が、'83年にファクトリーライドを得たビリー・ライルズだった。

「私は'85年には日本に戻りましたが、チームグリーンがその後も成長し、今日まで続いてきたことをとても誇りに思っています。思えば今年で30周年になるのですね。私がスカウトを始めて途方に暮れていた頃は、こんな繁栄を予想することはできませんでした。チームグリーンの収穫には、販売台数以上の図り知れないものがある。カワサキというブランド、ライムグリーンというカラーを浸透させた…とでも言えばいいのでしょうか。それは言葉にも数字にもできない収穫です」

 アメリカのトップライダーの中には、チームグリーン出身者が多い。だが、カワサキのファクトリーシートには限りがあるし、多くはプロデビューを機に他社のファクトリーチームへ流れていく。 「それでもいいじゃありませんか。チームグリーンがカワサキのみならずモトクロス界全体の礎になっているとしたら、こんなに幸せなことはありません」

そのTeam Green活動こそが、今なお続くカワサキモトクロスを中心とするオフロードの支援活動の原風景でもある。その様子は、”Racer X"レポートに詳細が記述されているが、この支援活動こそがUSカワサキモトクロス活動の原点でもあり原風景でもある。同じクラスで戦う複数のTeam Green選手でも勝つのは一人だけだが、勝てなかったライダーにも、勝ったライダーも同等にサポートすることでライダーによるTeam Green支援の差別はない。その事こそが「Team Green」活動が多くのライダーに支持され信頼されて続けている所以だと思う。それは、40数年も続くカワサキの「Team Green」活動の起点でもある。

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「KX50周年」の歴史の一コマ・・・KXの成長過程

2023-10-21 06:20:20 | 二輪事業
 
10年前の「KX40周年懇親会」時、的野さんが明石の開発部隊と欧米現地部隊とのJoint Testの情況を寄稿してくれていたので、再投稿したい。

「的野征治」
赤タンクのカワサキ時代は、レースに於いて山本・星野両選手を筆頭に名選手を擁して活躍していたし、小規模ではあったが市販もされていた。しかし、その後の世界的なモトクロスブームの始まりによりスズキ・ヤマハの2社が本格的な活動に入り、レースに於いても彼我の差が開き始めていた。 その後の市場規模の拡大により、当社としても本格的に参入することとなり、新しくモトクロス車開発専門の組織が発足、私も車体開発の一員として担当することになりました。

当時はロータリーバルブエンジン搭載のF81Mから、主流となっていたピストンバルブ方式採用のF11Mに切り替えている頃でした。このF11Mは’72年レースシーズン初戦で、2階級特進を果たした竹沢選手が乗り、いきなり2位入賞の好結果を得、ポテンシャルの高さを証明しました。この後にリードバルブの採用や、車体関係の改良を加えた、このマシン仕様が初代KX のベースとなりました。当時モトクロスの主流は欧州で、欧州のレースを席巻していたマシンが開発の目標となり、KXもその流れに沿ったものでしたが、アメリカでスーパークロスレースに使われるため耐久性の面での問題も多く発生し、より過酷な条件での開発テストが必要になってきました。

当時国内のモトクロスコースは、レース時だけの特設コースが殆どであったため、本格的なテストコースの必要性に迫られていましたが、西神戸のミカン山がメインコースとして走れるようになって初めて安定したテストが出来るようになりました。テストで来日した、ペテルソンやハンセンもここでテストしたものです。当初はテスト基準も十分でなく、レースで性能確認する事が開発テストの重要な側面を持っていました。また、レース結果は販売に大きく影響するため、勝つ事を目標に、戦闘力が高く、軽量で耐久性に優れたマシンの開発が最大使命でしたが、開発規模が大きく、トップライダーを獲得できるメーカーが有利である事は言うまでもなく、劣勢な中で他社に対抗するには、常に新しいものに挑戦していくという雰囲気が開発者の中にあり、エネルギーとなっていました。初代KX以降、スズキ・ヤマハ・新しく参入したホンダに対して劣勢を強いられましたが、開発陣の弛まぬ努力で、‘76年には竹沢ライダーが全日本の最高峰レース250クラスの年間チャンピオンを獲得、漸く他社と肩を並べる所まで進歩しました。

しかし、その後もレースに於いては苦渋をなめましたが、水冷エンジンへの移行や、KIPSの開発、サスのロングストローク化、ユニトラックサスの開発、ディスクブレーキの採用、ペリメーターフレームの開発、更に斬新なスタイリングの採用等、他社との熾烈な技術開発競争を勝ち抜き、対等に戦い、世界に誇れるKX車へと発展していきました。退職後10年、KXグループの一員であった事は誇りであり、当時の事が懐かしく思い出されます。
              
「KMCチームとの日米合同ワークスマシンテスト。
下段中央はJ・Ward、上段右端よりR・Turner、K・Howerton、上段左端は立脇選手と日本側テストメンバー。J・Ward横が私(的野)」
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「KX50周年」の歴史の一コマ・・・ある時期のUSカワサキモトクロスワークス選手

2023-10-20 06:06:12 | 二輪事業
  
元カワサキ全日本モトクロスのワークスライダー多田さんのFBに投稿された写真がこれ。
  
多田さんがFBに投稿すると、当時関係したライダー諸君等から多くのコメントメッセージが投稿されている。
誰でも昔、少しでも関与した仕事を懐かしく思えてくるのは当然で、暫く眺めて読んでいると知らないことが一杯出てくる。・・・懐かしい。
詳しい年月日の記入はされていないが、US MXワークスライダーの日本テストの様子で、三田にあったMXコースでの写真。当時、毎年開催していた、日米ワークス活動の一環で来季マシンの合同テスト兼意見交換会であるが、今期レースが終了し、来季のスーパークロスが開催される合間、アメリカのモトクロスワークスライダーの殆どが来日した。 当時は、兵庫県の山奥、三田にあったモトクロスコースをカワサキが契約し耐久テスト等に頻繁に使用していた。コース脇にはかなり長い直線路をも設定し、スタート比較や練習ができるように改造しており、日米合同テストの主コースだった。
  
加えて、当時の米国「Kawasaki Racing Team」のMXワークスライダーの写真がこれ。
  
左から、Kent Howerton、Jeff Ward、Billy Liles そして Goat Breaker。
USモトクロス界を代表する有名ライダーばかりだが、改めて見ると当時の超一流ライダーがカワサキを選んでくれたことに感謝。米国では、どのスポーツ選手にも一般的に当てはまることだが、一流に成ればなるほど勝てる可能性の高いチームと契約する。そのことでチャンピオン獲得の可能性が高くなり、契約金も相対的に高くなるからだ。だから何処のチームの出身かを論ずること事態は余り意味をなさず、現在の力量を評価してくれるチームと契約する。それでも、リタイヤ後は、チャンピオンになった時に在籍したチームやリタイヤした時に在籍したチームへのロイヤリティが高い傾向にあるようだ。

★スズキから移籍してきたKent Howertonからは貴重な意見を得たという意味で思い出がある。
彼がカワサキに来てからKXの評価が一変し良くなったのだ。Howertonの仕事は当時のUSワークスライダーの指導とマシン開発へのアドバイスが主契約だったと思う。ある時を境に、特に大きな仕様変更もしていないのに、日本に伝わってくるのはマシンの悪い面ばかりが強調されてくる。不思議に思っていたが、Kent Howertonがテスト来日した際に理由が判明した。Howerton の答えはこうだ。「KXは何も基本的に悪い事はないし、他社と十分な競合力がある」「あえて挙げる改良点はこれだけ・・・」と非常に明快。そのことが開発部門に正しく伝わって来ず、どこかでショートしていただけの事だった。Howertonとは机を前にして直接話した。互いにコミュニケーションの重要さを認識できたし、事実を正しく伝達することで組織の風通しが良くなった。その時以来、KXのマシン評価は一変した。ウソのように良くなったのである。

★Goat(Todd)Breakerがカワサキに居たことを知らない人も多いので、参考までに書いておこう。
KMC R&Dがオレンジカウンティ空港近くに単独の事務所を構えていた頃、確か1970年代中盤頃、その事務所で会ったのが最初だからかなり古い。Goatの兄、Brain Breakerは当時、有名なデザートライダーで、度々カワサキのマシンテストを引き受けていた。Goatは兄の後にくっ付いてカワサキの事務所に度々遊びに来ていたが、まだ10代中盤で勿論頭髪はふさふさしていた。GoatがまだToddと呼ばれていた時期だからかなり前の事だが、テストで山に出掛ける際、いつもBrainの車に同乗しており、たまたま一緒に同乗させたもらったが、悪行ぶりは今も書けないこと多く、その賑やかなこと。その後兄を超える有名ライダーに成長したが、その時以来の縁だからカワサキとは相当の長い付き合いだ。

★Billy Liles。ただただ実直で真面目なモトクロス選手で、懇親会にネクタイ姿で来たGeorgia州出身のナイスガイだ。
彼の人柄は、アメリカで2ヵ月間一緒に暮らした元カワサキワークス立脇選手が詳しい。「84年1月、2月、ニューポートビーチで、Billyと一緒にアパート借りて、CMCのレースや練習をしてたのを思い出しました。 英語が得意でない僕にゆっくりわかりやすく話してくれたナイスガイでした!」との立脇さんのコメントあり。
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「KX50周年」の歴史の一コマ・・・ある時期のKRT全日本チーム

2023-10-19 05:58:39 | 二輪事業
 
2014年9月のFacebookに、'87か'88年頃のKRT(Kawasaki Racing Team:カワサキモトクロスワークス)の写真が投稿してあった。元カワサキワークスライダーの多田洋之さんが投稿したものだが、懐かしい!!
  
「写真向かって、前列左から多田、岡部、花田、長沼のワークスライダー
 後方左から、大津、河野、増田、尾崎、安井、的野、内西、小亦、上田」

「この頃のカワサキワークスメンバーは最強です\(^o^)/
 岡部さん! ありがとー!」と、多田さんのメッセージが書いてある。
FBコメント欄に次の書き込みがあった:
多田 洋之: 私の人生を変えてくれたみなさんに感謝してます!大津さん!!ありがとう御座いました!
藤城 光雄: スタッフの皆さん、若いですね!特に㊨の上田さんが~(^-^)
多田 洋之: 藤城ちゃん!当時のメカニック担当が上田さんだよ!お互いじじいだね!
藤城 光雄:88年ですね!多田さんがゼッケン25でした~?確か
大津 信 :多田さん、カワサキモトクロス会でお会いできるのを楽しみにしています。
Kiyokazu Tada: 真ん中に居てるのは、池内かな?上田のおっちゃんモトクロスチームにいたんやな~\(^o^)/
       88年に僕のメカをして頂きました().。oO
松田 強 :懐かしい今日名阪スポーツランドへ行ったら最終コーナーで平井監督サインボート持ってました!
長沼 朝之: 藤城君♪これは87年やね!俺がAXO着てるから。W多田さん♪お久しぶりです(^O^)
Kiyokazu Tada: 朝之どっちの多田さんや⁉
長沼 朝之 :モトクロスの多田さん♪kiyokazuさんはこないだ絡ませて頂いたから♪ε=ε=(ノ≧∇≦)ノ
      また、お願い致します\(^-^)/
長沼 朝之: 洋之さん♪最強メンバーに加えて頂いてありがとうございます♪
立脇 三樹夫: 多田ちゃんも そろそろ乗ろーぜ!まずはチャリティー見においで(笑)
多田 洋之: 立脇さん!そうですね()/KX60でもいいでしょうか?
多田 洋之: 長沼ちゃん!みんな一緒の写真は貴重だね(^o^)

★カワサキが全日本モトクロス選手権に出場する意義を端的に言うと、次年度以降の量産車の先行開発に専念することだった。他社の先駆的な機構を横目に眺めながら羨ましくはあったけど、自社の立ち位置は守った。他社に劣る戦力は如何ともしようがないので、持った戦力をフルに活用し全日本でのカワサキのプレゼンスを明確にすること、それは量産車の先行開発に徹することだった。その思想の延長上にKXシリーズが完成し、60~500㏄までの品揃えが完成し(当時はカワサキだけだった)、その技術を活用してのKDX、KLXそして三輪や四輪バギー車を自組織内で開発し続けた。

結果的にそれは、「レースに参戦に単にお金を使っているだけだと、景気が悪くなったときすぐにレースをやめろと言われたりするので、ここできちっとレースを事業体をして位置づけることで、レース事業体、ビジネスとしての収益をあげて、それをモータースポーツ活動や車両の開発に投下していくというサイクルを回していく」という考え方である。そして、具体的に言うと、カワサキモトクロスレース活動が戦績を挙げ続けてきた歴史の一番の要因は、ファクトリーチームが技術部の開発チーム内に所属し量産車の開発をも一緒に担当してきた歴史にあるだろう。カワサキモトクロスのプレゼンスが次第に上昇してくると、常勝カワサキを維持し続ける必然性と責任に加え、いや負けるかもしれないという恐怖感が一緒になって自然と心中に沸き起こる。この恐怖感などは一度でもチャンピオンになった者でしか味わえないものだろうが、実際そうなってくる。負けると散々非難され、一方、少しでもチャンピオンを獲得し続けると「もうええで」とか、雑多な意見がそれとはなしに聞こえてくるものだ。これもカワサキモトクロスがその地位を確立したことを認める証左だと理解するも、レース参戦の意義が単に勝ち負けだけの話題になってしまう虚しさが漂ってくる。だから、レースを継続し続けねばならない環境を何がなんでも構築しておかねばと、そう考えてきた。同じ目的で全日本に参戦する他社のマシンと対等以上に戦いチャンピオンを獲得することこそ、カワサキのモトクロスマシンの優秀性を市場に認知させうる最も適した手段だ、と考えていた。

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「KX50周年」の歴史の一コマ・・・カワサキモトクロスの始まり

2023-10-18 06:04:01 | 二輪事業
 
10年前の「KX40周年懇親会」時、50年前のレース部門開発1班班長の百合草さんが「KX40周年にあたっての思い出」を寄稿してくれたので「KX50周年記念」として再投稿する。

「百合草三佐雄」
第1回全日本モトクロス大会が行われたのは1958年4月、大阪府下信太山自衛隊演習地内で開催された。カワサキがオートバイ事業に進出したのが1960年だからまだカワサキ車は参加していないが、メイハツ車は参加していたかもしれない。1962年の第6回全日本では三吉選手が2位に入り、カワサキ初の入賞となった。短期間に開発できたのは設計の松本さん、実験の宗村さん、メイハツから来た堤さん、それにモトクロスの名物おやじ松尾さんによるところ大であった。赤タンクカワサキの名声の出発は青野ヶ原自衛隊駐屯地において兵庫主催の第1回モトクロス大会(観衆1万人)にて、1~6位までカワサキが独占したことである。

当時単車事業部は赤字が続き事業見直しの議論が行われていたが、赤タンクの活躍でこのカワサキの技術を活かせば事業は軌道に乗せることができるとの判断が下された。KXの先輩が事業を救ってくれたのである。KXが1973年に生まれ、その時期のレース監督となった。平井さん率いる神戸スーパースポーツの竹沢選手が各地のレースで好成績をあげ、KXも順調なスタートを切った。KXが生まれる前には三橋、星野,海津、山本、歳森選手らの活躍があった。KXが誕生した頃は世界モトクロスの主流はヨーロッパ勢であった。アムステルダムを拠点として岩田さんが駐在し、開発ライダーにペテルソン、レースで勝つためにハンセンと契約しヨーロッパ各地のレースに参戦し、KXの開発を行った。

1976年KMCに駐在したが、各レース場はスズキ、ヤマハのオンパレードでKXの姿は殆ど見られなかった。そこで、販売店の支援費として営業で使っていた費用をR&Dに移管してもらい、チームグリーンを創設した。ピート堤さんを長としてジョーダンを補佐とし、レースにおける代理店の支援を行った。これが当たって、各地でカワサキが驚異的な活躍をすることとなった。例えば、1989年(年間)のラスベガスWorld Mini GPではKXのEntriesが43%、KXのWinsが71%、またPonca CityのNMA FinalsではKXのEntriesが46%、Winsが76%と驚異的な成績である。これらの成績も明石の開発部隊の研鑽の賜物であり、チームワークの業績である。

AMAのチャンピオンとなったJeff.Ward選手が時の大統領レーガンから表彰されたのも思い出の一つである。
                 参考資料)小関和夫著「カワサキ モーターサイクルズ ストーリー」三樹書房
               「J.Wardと私(百合草)」
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「KX50周年」の歴史の一コマ・・・Motocross Action誌FBの’91KX250

2023-10-17 05:56:29 | 二輪事業
  

16日に投稿された「Motocross Actionネット誌のFBは’91年KX250を紹介している。このマシンは、米国カワサキの「Kawasaki Heritage Hall Collection」に保管されているが、KX50周年を記念するマシンとしてCollection Hall から搬出してきたと解説している。
「1991 Kawasaki KX250 Deep inside the Kawasaki Heritage Hall Collection was this crated KX250 two-stroke lost in the archives inside a dusty crate. To celebrate the”50” years of the KX motorcycle, it was decided to let the bike out of its wooden crate for all to enjoy.

The 1991 KX motorcycle was the second year featuring the new high tensile steel perimeter frame with bold graphics and blue finished KYB 43mm forks. The improved engine was powered by a PWK Keihin 38mm carburetor with 8-pedal carbon fiber reed and digital CD ignition.

Other features included a low deep drop fuel tank keeping mass centralization low, and updated swingarm rigidity. The rear utilized a bottom link Uni-Trak® suspension with 16-way compression and rebound adjustments.  Overall claimed dry weight was 213 lbs.」
  「Motocross Action誌FBの’91KX250」
  


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