しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

島原地方の子守歌

2023年01月15日 | 民謡

島原地方の子守唄

 

島原の駅前に「島原の子守唄」の銅像がある。

この歌には”女衒”(ぜげん)がでてくる。

 

貧しい農村国家だった日本では、長く(昭和20代ごろまで)職業「女衒」の人が日本中に存在していた。

「食べる」、そのことが暮らしのすべてともいう時代だった。ほんの近年まで。

 

 

「日本の子守唄」  西舘好子 游学社 2018年発行

島原の子守歌
島原地方俗謡 作詞:宮崎康平 


おどみゃ 島原の
おどみゃ 島原の
なしの木 育ちよ
何のなしやら
何のなしやら
色気なしばよ ショーカイナ
はよ寝ろ 泣かんで オロロンバイ
鬼の池ん 久助どんの 連れんこらるるばい

 

・・

島原の梨の木のある家で育った私は色気もない、

ないない尽くしの毎日です。

泣かないで、早く寝て、寝ないと人買いが連れにきますよ。

・・

帰りにゃ 寄っちょくれんか
帰りにゃ 寄っちょくれんか
あばら家 じゃけんど 唐芋飯や 
粟ん飯 唐芋飯や
粟ん飯 唐芋飯や
黄金飯ばよ ショーカイナ
嫁ごん 紅な誰がくれた
唇つけたなら 暖かろ

 

・・

帰りには立ち寄ってください。

栗飯に芋を混ぜたごはんのご馳走しかありませんが、

嫁の口は紅をのせて赤いですか。

一体誰がくれたんでしょうか

・・・

あん人たちゃ 二つも
あん人たちゃ 二つも
金の指輪 はめとらす
金はどこん金
金はどこん金
唐金げなばい ショーカイナ
オロロン オロロン オロロンバイ
オロロン オロロン オロロンバイ

山ん中は かん火事げなばい
山ん中は かん火事げなばい
サイパン船はよろん人
姉しゃんな にぎん飯で
姉しゃんな にぎん飯で
船ん底ばよ ショーカイナ
オロロン オロロン オロロンバイ
オロロン オロロン オロロンバイ

・・・

姉さんはどこに行ったのでしょう。

青い煙突の外国船の中に閉じ込められて外国に連れていかれたのでしょう。

・・

姉しゃんな 何処行たろかい
姉しゃんな 何処行たろかい
青煙突のバッタンフール
唐は 何処ん在所
唐は 何処ん在所
海の涯ばよ ショーカイナ
泣くもんな蟹(がね)かむ オロロンバイ
あめ型買うて 引っ張らしょ

沖の不知火
沖の不知火
消えては 燃える
バテレン祭りの
バテレン祭りの
笛や太鼓も 鳴りやんだ
はよ寝ろ 泣かんで オロロンバイ
鬼池の 久助どんの 連れんこらるるばい

 

・・・

オロロンはアルメニア語のゆりかごです。

哀しい女たちの歴史は唄の中の永久の証人なのです。

 

・・・

 

 

・・・・・・・・・・

女衒(ぜげん)
遊郭など性的産業に人を売る人買いのこと。
売春を専門に娘を女郎屋に売る仕事。
女衒は日中戦争、第二次世界大戦の時期は、兵隊の慰安のために娘たちを日本軍の占領地に運んだ。
東南アジアに売られた女性を「からゆきさん」と呼ぶ。
女衒は江戸時代に「忘八」とも呼ばれた。儒教の徳目を忘れた人という意味で、
まさにその本質を突いている。

「昭和の消えた仕事図鑑」  澤宮優 原書房 2016年発行

・・・・・・・・・・

画像・2012.5.9  長崎県島原市

 

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五木の子守唄

2023年01月15日 | 民謡

五木の子守唄

 

すっかり過去のことで、それが小学校だったか、中学校だったか、それとも高校の時だったか思い出せない。

音楽の授業で、みんなで「五木の子守唄」を歌った。

おだやかな、ゆっくりとした曲だったが、

先生が黒板に歌詞を書いて、その意味を説明した。

 

曲の良さは別にして

こんな悲しいことが歌われているのかと、すこし衝撃を受けたのをよく覚えている。

 


「日本の子守唄」  西舘好子 游学社 2018年発行

熊本県
子守奉公の辛い現実
【五木の子守唄】

子守唄といえば「五木の子守唄」が筆頭にあがります。
九州熊本県球磨郡五木村は江戸時代から、
子守奉公に同県南部の人吉や近郊の都市に娘を輩出することで有名でした。
貧しさからの口減らしで、
今では、児童虐待に問われそうな状況の中で、彼女たちはいわば盆までのお勤めと騙されて奉公に行くのですから辛いのは当然です。
背中に子を負ぶい、そればかりか、買い物、洗濯などの家事手伝いもさせられるのです。
無賃金(親には事前にわずかな金銭が渡されています)で、着物、下駄は盆と暮れに支給されました。
休日なし、食事は腸汁という過酷な環境での奉公は初潮がくるまで続くのです。
遊びたい盛り、まだ親に甘えていたい年齢で働かされる少女たちは、その発散のために、唄を作り歌うことで気を紛らせていたのでしょう。

貧しさも底をついたという生活からやむをえない手段として、娘を「子守奉公」に出した親たちも
「食べられれば、それだけでいい、生きてくれ」という切迫した中での選択が、
その親の気持ちを幼い子どもたちは肌で感じたのでしょう。

 


おどま盆ぎり盆ぎり
盆からさきゃおらんど
盆が早よくりゃ 早よ戻る

おどま勧進勧進
あんひとたちゃよか衆
よか衆よか帯 よか着物(きもん)

おどんが打死だちゅうて
誰が泣てくりゅきゃ
裏ん松山 蝉が鳴く

おどんが打死ちゅうたば
道端いけろ
通る人ごち 花あぎゅう

花はなんの花
つんつん椿
水は天から 貰い水

 

・・・・

画像・熊本県人吉市・人吉城跡 2013.8.10

 

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