しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

とんど(福山市)

2023年01月26日 | 民謡


小学生の時、春休みの楽しみは福山の「とんど」を見に行くことだった。
福山の「とんど」は「桜祭り」を兼ねていた。
福山駅におりたら、まず福山城に行って桜を見て、それから街を歩いた。

大相撲「福山場所」があり、通り町の商店に力士は分散して泊っていた。
”ふんどし担ぎ”と呼ばれる幕下以下のお相撲さんが、商店街を闊歩していた。
たいていサーカスも興行してた。
屋根はなく、青天でのサーカスだったような気がするが、記憶違いかもしれない。

映画館に入ってチャンバラ映画を見て、帰るのが「とんど」見物のパターンだった。

 

・・・

 

「広島県の民謡」 中国放送  第一法規出版 昭和46年発行

とんど  福山市

「とんど」というのは左義長、つまり正月に用いた七五三縄(しめなわ)の類を燃やす行事である。
福山では、今から三百三十年ほど前、水野侯が城主となった時、
七五三縄の意味を拡充して、竹類などを集め寄せて燃やしたのが、この福山の「とんど」の起源である。
その後、燃焼物が大規模となり、ついに台輪の上に四本の竹を立て、脚を広げて尖端の部分を結び合わせたものへ、いろいろな飾りをつけ、
頂上に鶴亀とか花車とかの作り物を飾り、この巨大な「俵」を町内を引いて練り歩いて、
最後に燃やしたそうである。
現在は正月に行わず、毎年四月になって「とんど」を行う。

 

 

〇三味線のはいらない「とんど」


とんどとんどと吉津のとんど ハヨイヨイ
上は鶴亀 チョイト 五葉の松
ソラ ヨーイヨーイヨーイヤナ
ハラ リヤリヤ  コラ リヤリヤ ハー ヨーイヤナ

見たか 見てきたか 福山の城を
前はお堀でボラが住む

備後福山十万石よ
丸に鷹の羽の紋どころ

本庄土手から長者町見れば
裸馬かやくらがない

立ちよた立ちよたで昔は立ちよた
お上お仲間槍立ちよた

 

〇三味線のはいる「とんど」

行こか戻ろか戻ろか行こか ハヨイヨイ
ここら思案のチョイト木綿橋
ソラ ヨーイヨーイヨーイヤナ
ハラ リヤリヤ  コラ リヤリヤ ハー ヨーイヤナ

ここはどこどこ船頭衆に問えば
ここは箕島竹が鼻

場所じゃ場所じゃと船橋場所じゃ
出船入船宝船

四国屋島や壇ノ浦のいくさ
今にあるよな絵にかいて

色でしくじる紺屋の手間衆
浅黄染めよとて紺染めた

お前独りか連れ衆はないか
連れ衆あとから駕籠でくる

 

 

撮影日・2023.1.9

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たたら唄

2023年01月25日 | 民謡

かつて中国地方の山間部の大産業であった製鉄は大正時代頃までつづけられた。
「たたら」が有名だが、「かんな流し」や「燃料炭」の作業も負けず厳しい。
言ってしまえば、先人の日常の仕事や暮らしは山に住もうと、里に住もうと、町に住もうと皆食べて生きることだけで精一杯だった。

 

・・・

明治初年において新庄村は「山はわいていた」。
根雨の近藤氏が経営していた。
農家出身の「鉄山者」が伯耆・備中・備後から妻同伴で来ていた。
狭い山間のたたら集落も炭材の枯渇とともに廃墟となっていった。
急速にでき、急速に消えていくのが常である。
鉱山者の多くは九州の八幡あるいは大阪の鉄工所へと移動していった。

「瀬戸内の風土と歴史」 山川出版社 昭和53年発行

・・・

 

 

・・・・

製鉄業の発展は、近世封建社会では領主の統制下でだけ許された。

領主統制下におくことは、無制限な鉄穴流しは、下流平野地域に洪水の危険をひきおこし、農業生産を破壊するためである。

 

雪深い山間部は、農業生産力は低く、農業収入も少なく、到底農業だけでは生活していけない。

ここに百姓を居つかせるには、どうしても副業が必要である。

農業は春から秋へ、秋から春の期間は製鉄業に従事するというかたちが、こうしてつくられた。

移住してきた鉄山労働者にも、家屋敷も貸しつけられ、春から秋には農業にあたったのである。

耕地ともに山林や家屋敷をワンセットにした小作制度がうみだされた。


「島根県の歴史」内藤正中著 山川出版社 昭和44年発行 


・・・・

 

明治になると、洋式製鉄に押され、大正の末年にはたたらの火が消えてしまった。

炉の両側に天秤ふいごと呼ばれるふいご台がある。

番子(ばんこ)と呼ばれる男が足を踏んで炉に空気を送るのだが、灼熱の炉の脇での作業だけにかなりの重労働だ。

そこで出雲では、
「乞食になっても番子になるな」といわれていた。

たたらの製鉄方法は、

炉のなかで木炭を燃やし、約30分ごとに木炭と砂鉄を少しずつ加えてゆく。

炭と砂鉄の投入の仕方については秘伝があるという。

 

炉の中で溶けた不純物(鉄滓)は炉の底部の穴から溶岩のように流れ出し、鋼になる「 鉧 ( けら )」が中に蓄積されていく。

これを不眠不休で三昼夜続け、四日目に炉をこわし鉧を取り出す。

このサイクルは「一代(ひとよ)」と呼ばれている。

それまでに費やされる、

砂鉄は約10トン、

木炭は約12トン。

玉鋼はわずか約800キロが出される。

 

奥出雲たたらの道を往く  「歴史と旅」秋田書店 昭和59年12月号

 

 

「岡山県史民俗Ⅱ」 岡山県 昭和58年発行

たたら唄

山を掘り崩し、水路に流して砂鉄を選び分ける。

粘土で築いた炉の中に木炭といっしょに入れて、ふいごで送風して熱し、

鋼や鉄を精錬する。

たたら吹きといい、

風を送るのに、天井からぶら下がった綱をもってふいごを足で踏むのであるが、

その時の唄がたたら唄(番子唄)である。

番子というのは、ふいごを踏む職人のことである。

二、三人ずつ三交代で三・四昼夜、精錬が終わるまで踏みつづけるのである。

単調でしかも重労働であった。

 

 

西粟倉村

たたら番子はヨー 乞食より劣り

乞食ゃ夜寝てヨー 昼また稼ぐヨー

新庄村

番子ばんことヨオ

あほうでもやれる

片目あるなら あほでもやれる

 

新見市

親父炭焼き わしゃ番子

ともに火を吹く火を送る

・・・・

 

 

撮影日・2020.8.19 島根県雲南市吉田町 (奥出雲)

 

 

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下津井節

2023年01月23日 | 民謡

 

母方の祖父母の家には蓄音機があった。

レコードを乗せてから、手でぐるぐる回し、針を置けば歌が始まった。

針がちびるから、と蓄音機を聴いた記憶は少ないが、

数枚だけあったレコードの一枚は「下津井節」だった。

♪下津井港はヨー、は意味がわかるが、そこ以外の歌詞の意味はまったくわからなかった。

 

当時人気・実力ともナンバーワンの三橋美智也のレコードだった。

 

・・・

下津井


「岡山県の歴史散歩」  山川出版社 1976年発行

下津井の町は、下津井城の城下町としてつくられたが、その後、
北前船の積荷のつみおろし、
讃岐の金毘羅権現と瑜伽権現をむすぶ客船の潮待ちの港、
としてさかえた。


祇園宮の下の白壁・なまこ壁の土蔵、明かり障子にべんがら格子の家並みは、
かつての遊郭のあたり。
威勢のよい下津井節とはうらはらに、
薄幸な遊女のかなしいすがたをしのばせている。

 

 

・・・・・


「岡山の歌謡」 英玲二  岡山文庫  昭和45年発行

下津井節 倉敷市下津井

昭和14年7月5日、岡山放送局から下津井節が電波に乗ったとき、
アナウンサーは「岡山が自慢する三つの代表的なものといえば、
備前米と、吉備団子と、この下津井節である」と説明した。

元来、民謡というものは口から口によって流布するものである。
歌詞は残念なことに下津井の専売ではない。
歌詞は志摩から西へと流れて来たものらしい。
曲の方は播州室津の「散財唄」の借り物である。

明治になって”船まんじゅう”がやかましくなり、
赤線地帯が整理された結果が大島や御手洗、木江、下津井などに女郎屋が残り、
そこに室津節が根をおろしたものである。

ところで、なぜに瀬戸内一帯に歌われていた室津節のお株を下津井が独占したかというと、
全くラジオ放送のおかげなのである。
昭和6年頃、下津井に児太郎、雪治という美声の芸者がいて「室津の散財節」が得意で、たびたび電波にも乗り、その都度大変な評判となり、次第に流行していった。
いつとはなしに下津井節と名づけられ、
新橋喜代三がポリドールレコードに吹き込んでから、一躍有名になった。
昭和32年、岡山県観光連盟が三橋美智也に歌ってもらって全国に下津井の名を高めた。

 

・・・・

「高梁川44」 高梁川流域連盟 昭和61年発行

未哉橋と中川一政  東 一己


下津井港はよ
は入りよで出てよ
まともまきよで まぎりよてよ
トコハイトノエ ナノエ
ソーレソレ

下津井女郎衆はよ
碇か綱かよ
今朝も出船を 二艘止めたよ
トコハイトノエ ナノエ
ソーレソレ


夜ともなれば、妓楼から下津井音頭が流れ出す。
伴奏は港外の波の音、船乗りの高声と漁夫の胴間声、
それに女郎の艶声、
三味の音がからみあって港の情緒は夜の更けるにつれてどこまでも高場されてゆく。


まだかな橋は、下津井港の東岸岸壁の根元にあった。


この橋はいかにも小さかった。
港内に碇泊している小型の北前船に女郎が乗り込み春をひさぐ。
もう線香一本はとうに灰になっとるのに、
あの女郎は何をぐずぐずしとるんなら。
橋の遣手の婆はいらいらしだした。
「まだかな」「まだかな」と婆さんはよく通る声で矢継ぎ早の督促をする。
やっと女郎は波止場にあがり、急ぎ足で妓楼に帰って行く。
今は遠くなった明治大正の情景である。

 

(まだかな橋欄干跡)

 

・・・・・

 

撮影日・2012.1.19 倉敷市下津井

 

 

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高瀬舟唄(旭川)

2023年01月23日 | 民謡

 

岡山県三大河川の吉井川・旭川・高梁川と、その支流には、大正末ごろまで高瀬舟が運航していたが、

鉄道にとって代わられた。

本格的なトラック陸送が始まったのは昭和30年代のなかば頃からだろうか。

 

(鉄道と旭川 2019.4.9 建部・福渡)



「旭町史」 旭町 平成9年発行

明治の全盛期には370隻が就航していた。
明治31年の中国鉄道(現津山線)の開通で打撃を受けたが、それでも大正末年まで就航尾はつづき、昭和3年頃運航はなくなった。


船頭2人を乗せる小型船(ヒセン)と、船頭3人で貨物のみを積む大型船(オーブネ)とがあった。
ヒセンも岡山方面への旅などに利用されていた。
船大工は落合と福渡にいた。


下り荷(岡山方面へ)
米・麦・大豆・木炭・割り木、こんにゃく、鉱石。
上り荷(帰り)
酒・雑貨・酢・醤油・塩・砂糖・肥料など。
下り2700~2800貫(約10トン)、上り400貫(1.5トン)ともいわれる。





川筋にある問屋が集荷し、付近には茶屋や旅籠もあり、船着き場も整備されていたが、
そのほとんどがダムにより水没してしまっている。

旭町からは一日あれば岡山に着いた。
帰りは三・四泊を要した。
流れの難所やかんがい用の井堰の航行に難渋した。だいたい一日4~5里しかのぼれなかった。



高瀬舟は、7~8艘つれだっているのがふつうである。
瀬や堰で舟を引き上げるために共同作業をしなければならないからだ。


高瀬舟は、晩までに積み荷を終えて、朝早く出ていくのがふつうである。
舟には飲食に使う道具や寝具などが持ち込まれていた。
米や野菜や、塩干物、調味料なども用意され、石のくどで炊事した。
冬には炬燵も持ち込まれ、風呂はないが川岸の宿場で銭湯にはいった。

船頭は金毘羅様を信仰した。
事故は増水時の下り舟に多かったので、船着き場などに金毘羅様を祀り、舟行の安全を祈ったという。

運賃積みと自己積みがあった。
川筋にはいくつもの安宿があり、岡山の中島遊郭で散財したり、金川でどんちゃんさわぎをして、すってんてんで帰ることもあった。




船頭唄
船頭唄を歌うのは舟を引き上げる時が多かった。
引き上げるのは重労働であるから、親方船頭が綱曳船頭をはげますためにうたう。

川沿いで洗濯などをしている女性をつかまえて、
すぐ唄にする卑猥な唄が多かったといいます。

 

(旭町 2019.4.9)

 

 



「旭川高瀬舟唄」



備前岡山へヨー 一夜で来たがヨー ヤレ
戻りゃ山坂ヨー 七、八日
綱を背にかけ舟を曳く
ヤサェー 高瀬の船頭シューシュラシュー



二里もこがねにヨー 水かさ増したヨー
ヤレー 奥の美作ヨー 雨じゃろか
エンヤー あの娘の涙雨
ヤレサー 高瀬の船頭シューシュラシュー


・・・


「岡山県史・自然風土」 岡山県 山陽新聞社 昭和58年発行

高瀬舟のまち

古から伝わる名物「落合ようかん」は、舟形をしている。
落合は古くから高瀬舟のまちである。
落合より川上の旭川流域の物資は、落合に集まった。
元禄の頃49艘の高瀬舟があった。
落合を未明に出発した舟は、16里(64km)離れた岡山京橋には夕方着いていた。


・・・

 

 

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高瀬舟唄(高梁川)

2023年01月23日 | 民謡

歌詞の下品さが、この仕事のつらさを、よく示している。

 

(高梁川 2022.5.9 新見市)

 

 


・・・


「流域をたどる歴史六」  豊田・藤岡・大藤編 ぎょうせい 昭和54年発行

川船による物資輸送としての欠陥は、
河川の流水量の不安定による川船就航の制限、
流域水田への灌漑用水確保のため農業用水井堰を閉鎖することである。
このために高瀬船就航は多くの制約をうけた。

 

春船と秋船
高梁川の高瀬船は、
春船は旧正月より湛井井堰がしめきられる5月末日頃までである。
秋船は湛井井堰が開かれる旧9月下旬より旧12月31日までである。
春船の最初の出船をハツフネ、秋船の最期の船をオトフネという。
一年を二区分にした高瀬船の運航方法は、全国河川でもとられた方法だと思う。

 

川堀り
高瀬船が冬季に安全迅速に運航できるには、
たえず河川水路の管理および維持を図らねばならなかった。
このため川堀りは、川船生業者にとっては欠くことのできない義務であった。
「川堀りは秋にやる。
金テコや大きな鍬で川をさらえる。
秋の大水がなくなった頃、2~3度、
川堀りをしたあと県庁の役人集が船に乗って船路を検査し、合格すれば賃金をくれる」
と大正中頃の成羽川の川堀りを回想して古い船頭は、語ってくれた。

 

運賃積みと買荷積み
積荷は高梁川の水量によって決定される。
上水、中水、下水という水深がある。
水量によって積荷を加減する。
運賃積み
問屋の積荷を運送して運賃・日当を問屋、商店からもらう。
収入が一定する。
買荷積み
船頭自身の金で積荷を買い込んで売り込む。うま味と損害がある。

 

操船
船頭の仕事は、大変な重労働である。
下り大名といわれるのと違い、
高瀬船の曳きあげ労働は苦しいものである。
下るときはオモテノリ(前に乗る親方船頭)とカジトリ(船の後ろに乗る船頭)だけの二人で操船することもある。
しかしナカノリの三人が多かった。
川を上るときには、1~2人の綱曳き船頭をやとう。
親方船頭は、
水棹をもって自由に高瀬船を操船するのが条件でもあった。
風の吹き方、急流での水棹のつっぱり方、水棹さばき、川の水量と流れ方の特徴をよく見てのみこまなければならぬ。

 

ツナヒキ船頭と曳綱
川船労働のきびしさは、高瀬船の曳き船作業のきびしさにまさるものはない。
高瀬船運航日数の大半は、高瀬川を遡航することに人力と日数をかけているわけである。
ツナヒキ船頭は、高瀬船に曳綱をつけて曳きあげる仕事をする船頭である。
高梁川の曳船を必要としたのは、河川の中、上流地帯である。
曳綱が水につかると凍りついて重くなる。
作業中は、立ち小便もできない。
呼吸を合わせて曳綱をひっぱるのである。
浅瀬、井堰では棒をつき入れてかtくぁぎあげて越すのもツナヒキ船頭の作業である。
冬でも素手、素足でアシナカをはいて高瀬船を曳きあげる。
汗をかくので冬でも褌ひとつで「よいしょ、よいしょ」と掛け越け声をかけて高瀬船を曳きあげた。
賃金は高いものではないが、農閑期にはかけがえのない収入であった。
そういった三、四十年前の庶民の歴史のひとこまが河川水運にとどまらず、
いま消え去ろうとしている。


・・・・

(成羽川 2015.5.21 高梁市川上町)

 

 

「岡山県史民俗Ⅱ」 岡山県 昭和58年発行

 

高瀬舟唄

 

鉄道が開通するまで交通機関の代表は高瀬舟であった。

長さ六間以上、幅二間の底の浅い舟に、

薪炭・米・雑穀などを2.000貫くらい積んで川を下った。

また、上りにも

乾物や海産物など多い時には4~500貫も積んで川を上った。

 

川を上る時には、五、六隻の舟を繋ぎ、それを引いて上がるのである。

舟の乗組員は一艘三人で、上りの時には一人がサオ、

他の二人が前綱と後綱を引く。

綱は片方の岸から、大綱といって麻でなった細い綱で引く。

綱引きを川猿といって、猿が歩くように四つ這い姿でじわりじわりと引き上げた。

唄はこの時、綱引をはげますために船頭が歌うもので即興のものが多かった。

 

(高梁川・水江の渡し 2013.10.2 倉敷市)

 

 

総社市

ヨッペネー ソーラヨー

赤いやつを出してヨー

洗濯しとるぞー

ヨッペネー ソーラヨー

前があいとるよー

うなぎが飛び込むぞー

ヨッペネー ソーラヨー

娘さん赤いやつをヨー

隠さんでもええぞー

 

新見市

ヨーイヤナー ソーリャヨー

向こうから娘が三人通るヨー

傘がじゃまだよ 風が吹かんかヨー

ヨーイヤナー ソーリャヨー

この瀬を越したら かかあが待ってるぞー

赤いやつを出してナー

ヨーイヤナー ソーリャヨー

オーイおかあ 今もどったァー

間男をいなせヨー

 

・・・

矢掛町史 民俗編」 矢掛町 昭和55年発行

高瀬舟の唄

 

高瀬の船頭えー 一升飯食べて

五合ぐそたれてやはぁー

二・

庄屋の娘の紅そでー

村百姓のなみだ金ー

・・・

 

 

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「大原美術館」には入れなかった

2023年01月20日 | 令和元年~

「平日5日間限定・倉敷市内の民間文化観光施設が無料公開」で、今日も倉敷美観地区に行った。

 

 

混んだらいけないと、最初に大原美術館に行くと!

(午前9時43分)早くも長い列が出来ていた。

 

待って入るか?

あきらめようか?

少し悩んであきらめた。

料金払えば、いつでも見れるからと。

 

 

今日は「大原邸」「大橋家」「考古館」の3館に入館、見学した。

入館の際、年齢と住所(都市のみ)を記入するが、

それを見てみると倉敷市が多く、次に岡山市や笠岡、総社、玉野となっている。

 

美観地区を歩く人も観光客よりも、住民や”無料公開”目的の人の方が多く感じた。

 

今回の無料公開の目的にはさまざまな目的があるようだが、

市民や県民が滅多には入らない施設に気軽に入館でき、

施設内部の展示物や、建築物そのものを内部見学することができ満足した。

感謝します。

 

撮影日・2023年1月19日 

 

 

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「平日5日間限定 倉敷市内の民間文化観光施設が無料公開されます」が始まった 

2023年01月18日 | 令和元年~

2023年1月16日~20日までの5日間、倉敷の美術館・博物館の無料公開が始まった。

 

倉敷考古館、きび美ミュージアム、倉敷民藝館、倉紡記念館、倉敷貯金箱博物館、日本郷土玩具館、大原美術館、国芳館、いがらしゆみこ美術館に入った。
列が出来ていたのは、「大原美術館」「倉敷民藝館」くらいだった(待ち時間は10分程度)が、どの館内も多くの人がいた。
そして普段と違う入館者数に、施設の係員の方も戸惑っていた。

 

昨日入館したのは9館だったが、
やはり「大原美術館」が展示物の良質とも抜けていた。
明日も倉敷に行って他の施設に入館するが、大原美術館だけは再び入館する予定。

 

・・・

 


なお大原美術館は通常の入館料1.500円だが、4月から2.000円に値上がりするそうだ。

 


撮影日・2023.1.17 倉敷美観地区

 

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中国地方の子守歌

2023年01月16日 | 民謡

 

中国地方の子守唄

妻は井原市の生まれで
その妻に、「(自分や妹・弟が)中国地方の子守歌を唄ってもらっていたか」聞いてみると、
「まったくない。そもそもその歌を知り、高屋の歌であることを知ったのが20歳を過ぎてから」という返事だった。

ついでに義母の話、「(子育てを終えて、いつか)テレビの番組で紹介されて初めて知った」。

再び妻の話、
「(井原市内の病院で出産した)病院の壁に「ブラームスの子守歌」と「中国地方の子守歌」が貼ってあった。
それを見て、自分の子には中国地方の子守歌を唄うことがあった」。

 

・・・・

「矢掛町史 民俗編」 矢掛町 昭和55年発行

「子供のねかせ唄」


「子供のねかせ唄」は「中国地方の子守唄」として全国的に有名なものである。
矢掛から井原地方にかけて歌われた本歌を昭和3年井原市高屋の上野耐之が山田耕筰の前で歌い、先生から「僕にくれないか」といわれ、編曲として発表されているものである。

本歌 立間可年
なんねなさりませ ねたこのかわいさ
おきてなくこのねんころりん つらにいくい

・・・・

 

「日本の子守唄」  西舘好子 游学社 2018年発行

岡山県
育児のこころに沿って、ねんねこさっしゃりませ
【中国地方の子守唄】

子守唄は自分の心の吐け口、自分のために歌う唄なのです。
岡山県井原に伝承されていた「井原の子守唄」は、詞に感動した山田耕筰が「中国地方の子守唄」と改題し編曲しました。
途端に、中国地方のあちこちで歌われるようになりました。
今も日本の子守唄の代表格の一つです。
子育ての本質がこの子守唄の冒頭にあります。
「寝た子のかわいさ 起きて泣く子の憎さ」
これ名言だと痛感しています。

・・・

 

 

画像・岡山県井原市高屋町 2021.10.22

 

 

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金光町の「子守り唄」

2023年01月16日 | 民謡

金光町の「子守り唄」

 

少年時代、姉が幼い妹や弟をおんぶする姿は日常風景だった。

どこからか”子守り”の少女がきて、住まわせる家もあった。

それはお金持ちの家という訳でなく、母親が少し病弱とか、篤農家で手が足りない、という感じの家だった。

 

雇われてきた”子守り”の少女は、やはり寂しそうな顔をしていて、気の毒な感じがした。

いつのまにか見なくなり、家人の世間話で「ありゃあいんだんじゃ」というケースが多かった。

遠方からでなく現在の福山市東部から来た人が多いような気がした。

 

・・


「日本の子守唄」  西舘好子 游学社 2018年発行

全国には何万という子守唄があります。
赤ちゃんを寝かしつける目的で歌われる唄ですから複雑で難解というものはありません。
しかし、歌う人は百人百様、歌詞は無限にあり、意味も不明というものが多く見られます。

・・・

 

(岡山県浅口市金光町 2023.1.6)

 

「金光町史」 金光町  平成10年発行

子守り歌

お月さんなんぼ

十三、九つ

そりゃまだ若いぞ

若い時に子を産んで

おたまにだかして

酒屋のどで

とっくりびんとぶち割って

いんでかかに叱られた

 

ねーんねーんねんねんせー

ねんねのお守りゃどけぇいた

ありゃ町へ茶買いに

茶々買うたら早よもどれ

早よにもどらにゃいなすど

・・・・

 

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島原地方の子守歌

2023年01月15日 | 民謡

島原地方の子守唄

 

島原の駅前に「島原の子守唄」の銅像がある。

この歌には”女衒”(ぜげん)がでてくる。

 

貧しい農村国家だった日本では、長く(昭和20代ごろまで)職業「女衒」の人が日本中に存在していた。

「食べる」、そのことが暮らしのすべてともいう時代だった。ほんの近年まで。

 

 

「日本の子守唄」  西舘好子 游学社 2018年発行

島原の子守歌
島原地方俗謡 作詞:宮崎康平 


おどみゃ 島原の
おどみゃ 島原の
なしの木 育ちよ
何のなしやら
何のなしやら
色気なしばよ ショーカイナ
はよ寝ろ 泣かんで オロロンバイ
鬼の池ん 久助どんの 連れんこらるるばい

 

・・

島原の梨の木のある家で育った私は色気もない、

ないない尽くしの毎日です。

泣かないで、早く寝て、寝ないと人買いが連れにきますよ。

・・

帰りにゃ 寄っちょくれんか
帰りにゃ 寄っちょくれんか
あばら家 じゃけんど 唐芋飯や 
粟ん飯 唐芋飯や
粟ん飯 唐芋飯や
黄金飯ばよ ショーカイナ
嫁ごん 紅な誰がくれた
唇つけたなら 暖かろ

 

・・

帰りには立ち寄ってください。

栗飯に芋を混ぜたごはんのご馳走しかありませんが、

嫁の口は紅をのせて赤いですか。

一体誰がくれたんでしょうか

・・・

あん人たちゃ 二つも
あん人たちゃ 二つも
金の指輪 はめとらす
金はどこん金
金はどこん金
唐金げなばい ショーカイナ
オロロン オロロン オロロンバイ
オロロン オロロン オロロンバイ

山ん中は かん火事げなばい
山ん中は かん火事げなばい
サイパン船はよろん人
姉しゃんな にぎん飯で
姉しゃんな にぎん飯で
船ん底ばよ ショーカイナ
オロロン オロロン オロロンバイ
オロロン オロロン オロロンバイ

・・・

姉さんはどこに行ったのでしょう。

青い煙突の外国船の中に閉じ込められて外国に連れていかれたのでしょう。

・・

姉しゃんな 何処行たろかい
姉しゃんな 何処行たろかい
青煙突のバッタンフール
唐は 何処ん在所
唐は 何処ん在所
海の涯ばよ ショーカイナ
泣くもんな蟹(がね)かむ オロロンバイ
あめ型買うて 引っ張らしょ

沖の不知火
沖の不知火
消えては 燃える
バテレン祭りの
バテレン祭りの
笛や太鼓も 鳴りやんだ
はよ寝ろ 泣かんで オロロンバイ
鬼池の 久助どんの 連れんこらるるばい

 

・・・

オロロンはアルメニア語のゆりかごです。

哀しい女たちの歴史は唄の中の永久の証人なのです。

 

・・・

 

 

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女衒(ぜげん)
遊郭など性的産業に人を売る人買いのこと。
売春を専門に娘を女郎屋に売る仕事。
女衒は日中戦争、第二次世界大戦の時期は、兵隊の慰安のために娘たちを日本軍の占領地に運んだ。
東南アジアに売られた女性を「からゆきさん」と呼ぶ。
女衒は江戸時代に「忘八」とも呼ばれた。儒教の徳目を忘れた人という意味で、
まさにその本質を突いている。

「昭和の消えた仕事図鑑」  澤宮優 原書房 2016年発行

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画像・2012.5.9  長崎県島原市

 

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