しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

下津井節

2023年01月23日 | 民謡

 

母方の祖父母の家には蓄音機があった。

レコードを乗せてから、手でぐるぐる回し、針を置けば歌が始まった。

針がちびるから、と蓄音機を聴いた記憶は少ないが、

数枚だけあったレコードの一枚は「下津井節」だった。

♪下津井港はヨー、は意味がわかるが、そこ以外の歌詞の意味はまったくわからなかった。

 

当時人気・実力ともナンバーワンの三橋美智也のレコードだった。

 

・・・

下津井


「岡山県の歴史散歩」  山川出版社 1976年発行

下津井の町は、下津井城の城下町としてつくられたが、その後、
北前船の積荷のつみおろし、
讃岐の金毘羅権現と瑜伽権現をむすぶ客船の潮待ちの港、
としてさかえた。


祇園宮の下の白壁・なまこ壁の土蔵、明かり障子にべんがら格子の家並みは、
かつての遊郭のあたり。
威勢のよい下津井節とはうらはらに、
薄幸な遊女のかなしいすがたをしのばせている。

 

 

・・・・・


「岡山の歌謡」 英玲二  岡山文庫  昭和45年発行

下津井節 倉敷市下津井

昭和14年7月5日、岡山放送局から下津井節が電波に乗ったとき、
アナウンサーは「岡山が自慢する三つの代表的なものといえば、
備前米と、吉備団子と、この下津井節である」と説明した。

元来、民謡というものは口から口によって流布するものである。
歌詞は残念なことに下津井の専売ではない。
歌詞は志摩から西へと流れて来たものらしい。
曲の方は播州室津の「散財唄」の借り物である。

明治になって”船まんじゅう”がやかましくなり、
赤線地帯が整理された結果が大島や御手洗、木江、下津井などに女郎屋が残り、
そこに室津節が根をおろしたものである。

ところで、なぜに瀬戸内一帯に歌われていた室津節のお株を下津井が独占したかというと、
全くラジオ放送のおかげなのである。
昭和6年頃、下津井に児太郎、雪治という美声の芸者がいて「室津の散財節」が得意で、たびたび電波にも乗り、その都度大変な評判となり、次第に流行していった。
いつとはなしに下津井節と名づけられ、
新橋喜代三がポリドールレコードに吹き込んでから、一躍有名になった。
昭和32年、岡山県観光連盟が三橋美智也に歌ってもらって全国に下津井の名を高めた。

 

・・・・

「高梁川44」 高梁川流域連盟 昭和61年発行

未哉橋と中川一政  東 一己


下津井港はよ
は入りよで出てよ
まともまきよで まぎりよてよ
トコハイトノエ ナノエ
ソーレソレ

下津井女郎衆はよ
碇か綱かよ
今朝も出船を 二艘止めたよ
トコハイトノエ ナノエ
ソーレソレ


夜ともなれば、妓楼から下津井音頭が流れ出す。
伴奏は港外の波の音、船乗りの高声と漁夫の胴間声、
それに女郎の艶声、
三味の音がからみあって港の情緒は夜の更けるにつれてどこまでも高場されてゆく。


まだかな橋は、下津井港の東岸岸壁の根元にあった。


この橋はいかにも小さかった。
港内に碇泊している小型の北前船に女郎が乗り込み春をひさぐ。
もう線香一本はとうに灰になっとるのに、
あの女郎は何をぐずぐずしとるんなら。
橋の遣手の婆はいらいらしだした。
「まだかな」「まだかな」と婆さんはよく通る声で矢継ぎ早の督促をする。
やっと女郎は波止場にあがり、急ぎ足で妓楼に帰って行く。
今は遠くなった明治大正の情景である。

 

(まだかな橋欄干跡)

 

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撮影日・2012.1.19 倉敷市下津井

 

 

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高瀬舟唄(旭川)

2023年01月23日 | 民謡

 

岡山県三大河川の吉井川・旭川・高梁川と、その支流には、大正末ごろまで高瀬舟が運航していたが、

鉄道にとって代わられた。

本格的なトラック陸送が始まったのは昭和30年代のなかば頃からだろうか。

 

(鉄道と旭川 2019.4.9 建部・福渡)



「旭町史」 旭町 平成9年発行

明治の全盛期には370隻が就航していた。
明治31年の中国鉄道(現津山線)の開通で打撃を受けたが、それでも大正末年まで就航尾はつづき、昭和3年頃運航はなくなった。


船頭2人を乗せる小型船(ヒセン)と、船頭3人で貨物のみを積む大型船(オーブネ)とがあった。
ヒセンも岡山方面への旅などに利用されていた。
船大工は落合と福渡にいた。


下り荷(岡山方面へ)
米・麦・大豆・木炭・割り木、こんにゃく、鉱石。
上り荷(帰り)
酒・雑貨・酢・醤油・塩・砂糖・肥料など。
下り2700~2800貫(約10トン)、上り400貫(1.5トン)ともいわれる。





川筋にある問屋が集荷し、付近には茶屋や旅籠もあり、船着き場も整備されていたが、
そのほとんどがダムにより水没してしまっている。

旭町からは一日あれば岡山に着いた。
帰りは三・四泊を要した。
流れの難所やかんがい用の井堰の航行に難渋した。だいたい一日4~5里しかのぼれなかった。



高瀬舟は、7~8艘つれだっているのがふつうである。
瀬や堰で舟を引き上げるために共同作業をしなければならないからだ。


高瀬舟は、晩までに積み荷を終えて、朝早く出ていくのがふつうである。
舟には飲食に使う道具や寝具などが持ち込まれていた。
米や野菜や、塩干物、調味料なども用意され、石のくどで炊事した。
冬には炬燵も持ち込まれ、風呂はないが川岸の宿場で銭湯にはいった。

船頭は金毘羅様を信仰した。
事故は増水時の下り舟に多かったので、船着き場などに金毘羅様を祀り、舟行の安全を祈ったという。

運賃積みと自己積みがあった。
川筋にはいくつもの安宿があり、岡山の中島遊郭で散財したり、金川でどんちゃんさわぎをして、すってんてんで帰ることもあった。




船頭唄
船頭唄を歌うのは舟を引き上げる時が多かった。
引き上げるのは重労働であるから、親方船頭が綱曳船頭をはげますためにうたう。

川沿いで洗濯などをしている女性をつかまえて、
すぐ唄にする卑猥な唄が多かったといいます。

 

(旭町 2019.4.9)

 

 



「旭川高瀬舟唄」



備前岡山へヨー 一夜で来たがヨー ヤレ
戻りゃ山坂ヨー 七、八日
綱を背にかけ舟を曳く
ヤサェー 高瀬の船頭シューシュラシュー



二里もこがねにヨー 水かさ増したヨー
ヤレー 奥の美作ヨー 雨じゃろか
エンヤー あの娘の涙雨
ヤレサー 高瀬の船頭シューシュラシュー


・・・


「岡山県史・自然風土」 岡山県 山陽新聞社 昭和58年発行

高瀬舟のまち

古から伝わる名物「落合ようかん」は、舟形をしている。
落合は古くから高瀬舟のまちである。
落合より川上の旭川流域の物資は、落合に集まった。
元禄の頃49艘の高瀬舟があった。
落合を未明に出発した舟は、16里(64km)離れた岡山京橋には夕方着いていた。


・・・

 

 

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高瀬舟唄(高梁川)

2023年01月23日 | 民謡

歌詞の下品さが、この仕事のつらさを、よく示している。

 

(高梁川 2022.5.9 新見市)

 

 


・・・


「流域をたどる歴史六」  豊田・藤岡・大藤編 ぎょうせい 昭和54年発行

川船による物資輸送としての欠陥は、
河川の流水量の不安定による川船就航の制限、
流域水田への灌漑用水確保のため農業用水井堰を閉鎖することである。
このために高瀬船就航は多くの制約をうけた。

 

春船と秋船
高梁川の高瀬船は、
春船は旧正月より湛井井堰がしめきられる5月末日頃までである。
秋船は湛井井堰が開かれる旧9月下旬より旧12月31日までである。
春船の最初の出船をハツフネ、秋船の最期の船をオトフネという。
一年を二区分にした高瀬船の運航方法は、全国河川でもとられた方法だと思う。

 

川堀り
高瀬船が冬季に安全迅速に運航できるには、
たえず河川水路の管理および維持を図らねばならなかった。
このため川堀りは、川船生業者にとっては欠くことのできない義務であった。
「川堀りは秋にやる。
金テコや大きな鍬で川をさらえる。
秋の大水がなくなった頃、2~3度、
川堀りをしたあと県庁の役人集が船に乗って船路を検査し、合格すれば賃金をくれる」
と大正中頃の成羽川の川堀りを回想して古い船頭は、語ってくれた。

 

運賃積みと買荷積み
積荷は高梁川の水量によって決定される。
上水、中水、下水という水深がある。
水量によって積荷を加減する。
運賃積み
問屋の積荷を運送して運賃・日当を問屋、商店からもらう。
収入が一定する。
買荷積み
船頭自身の金で積荷を買い込んで売り込む。うま味と損害がある。

 

操船
船頭の仕事は、大変な重労働である。
下り大名といわれるのと違い、
高瀬船の曳きあげ労働は苦しいものである。
下るときはオモテノリ(前に乗る親方船頭)とカジトリ(船の後ろに乗る船頭)だけの二人で操船することもある。
しかしナカノリの三人が多かった。
川を上るときには、1~2人の綱曳き船頭をやとう。
親方船頭は、
水棹をもって自由に高瀬船を操船するのが条件でもあった。
風の吹き方、急流での水棹のつっぱり方、水棹さばき、川の水量と流れ方の特徴をよく見てのみこまなければならぬ。

 

ツナヒキ船頭と曳綱
川船労働のきびしさは、高瀬船の曳き船作業のきびしさにまさるものはない。
高瀬船運航日数の大半は、高瀬川を遡航することに人力と日数をかけているわけである。
ツナヒキ船頭は、高瀬船に曳綱をつけて曳きあげる仕事をする船頭である。
高梁川の曳船を必要としたのは、河川の中、上流地帯である。
曳綱が水につかると凍りついて重くなる。
作業中は、立ち小便もできない。
呼吸を合わせて曳綱をひっぱるのである。
浅瀬、井堰では棒をつき入れてかtくぁぎあげて越すのもツナヒキ船頭の作業である。
冬でも素手、素足でアシナカをはいて高瀬船を曳きあげる。
汗をかくので冬でも褌ひとつで「よいしょ、よいしょ」と掛け越け声をかけて高瀬船を曳きあげた。
賃金は高いものではないが、農閑期にはかけがえのない収入であった。
そういった三、四十年前の庶民の歴史のひとこまが河川水運にとどまらず、
いま消え去ろうとしている。


・・・・

(成羽川 2015.5.21 高梁市川上町)

 

 

「岡山県史民俗Ⅱ」 岡山県 昭和58年発行

 

高瀬舟唄

 

鉄道が開通するまで交通機関の代表は高瀬舟であった。

長さ六間以上、幅二間の底の浅い舟に、

薪炭・米・雑穀などを2.000貫くらい積んで川を下った。

また、上りにも

乾物や海産物など多い時には4~500貫も積んで川を上った。

 

川を上る時には、五、六隻の舟を繋ぎ、それを引いて上がるのである。

舟の乗組員は一艘三人で、上りの時には一人がサオ、

他の二人が前綱と後綱を引く。

綱は片方の岸から、大綱といって麻でなった細い綱で引く。

綱引きを川猿といって、猿が歩くように四つ這い姿でじわりじわりと引き上げた。

唄はこの時、綱引をはげますために船頭が歌うもので即興のものが多かった。

 

(高梁川・水江の渡し 2013.10.2 倉敷市)

 

 

総社市

ヨッペネー ソーラヨー

赤いやつを出してヨー

洗濯しとるぞー

ヨッペネー ソーラヨー

前があいとるよー

うなぎが飛び込むぞー

ヨッペネー ソーラヨー

娘さん赤いやつをヨー

隠さんでもええぞー

 

新見市

ヨーイヤナー ソーリャヨー

向こうから娘が三人通るヨー

傘がじゃまだよ 風が吹かんかヨー

ヨーイヤナー ソーリャヨー

この瀬を越したら かかあが待ってるぞー

赤いやつを出してナー

ヨーイヤナー ソーリャヨー

オーイおかあ 今もどったァー

間男をいなせヨー

 

・・・

矢掛町史 民俗編」 矢掛町 昭和55年発行

高瀬舟の唄

 

高瀬の船頭えー 一升飯食べて

五合ぐそたれてやはぁー

二・

庄屋の娘の紅そでー

村百姓のなみだ金ー

・・・

 

 

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