しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

高瀬舟歌(吉井川)

2023年01月27日 | 民謡

 

吉井川の高瀬舟は、河川舟運の開発者として有名な”角倉了以”のモデルにもなった。

現在でも、その流れを見ていると理想的な舟運の河川であるように感じる。

 

(柵原ふれあい鉱山公園)

 


高瀬舟(たかせぶね)

説明板

柵原のある美作の国は山国でしたが、
吉井川の高瀬舟によって瀬戸内地方との交流ができたので、
経済活動が盛んでした。
江戸時代の柵原には6ヶ所の船着場があり、
高瀬舟は160隻、船頭も480人いました。
高瀬舟は年貢米をはじめ、
木炭や薪など、この地方の品物を積んで吉井川を下り、
帰りには様々な生活用品を積んで、吉井川を上ってきました。
この高瀬舟は、1992年に再現したものです。

 

・・・

高瀬舟

「加茂町史」

古代以来明治にはいるまでの陸上交通手段は、人畜力のみであったから、
人肩馬背により四方を囲む山々の峠道を越えて行われた。
なかでも年貢米の輸送は、津山あるいは樽河岸へと陸送されるのが常であり、
その納入期には人々の長蛇の列が各輸送路に続いた。
こうした重量貨物で一時に多量の輸送を必要とするものは、
道路輸送よりも荷痛みも少なく、運賃も割安であった水運によって輸送しようという試みが各地で行われた。

高梁川の場合14世紀初頭には、支流成羽川で広島県境ふきん(備中町小谷)まで難工事のうえ通行していた。
当時本流では、数なくとも高梁までは通航していたと考えられる。
旭川・吉井川についても、それぞれ勝山・津山・林野までは中世末期に通航してたと考えられる。
この中世の船路が近世大名たちによって開発された。
航路の維持には、年平均1.000人の有償労働賦役を繰り出して川堀りし、藩の課題となった。

 

・・・・


「せとうち産業風土記」  山陽新聞社  昭和52年発行


今から500年前の室町時代に、早くも岡山県下三大河川には、
中流当たりまで高瀬舟が上っていた。
江戸時代になると、中国山地の山ふところまで航路が伸び、
高梁川は新見市、
旭川は真庭郡久世、落合両町、
吉井川は英田郡美作町、苫田郡鏡野町と奥深く進み、
まさに「舟、山に登る」といった感があった。


舟の長さは12m、幅2m、高さは1.1mほど。
どんな急流でも、幅5mの水路さえあれば自由に通航できたという。
船頭3人は、櫂、櫓、帆を巧みに操りながら下っていく。
江戸時代、高梁川には常時183艘もの舟が往来していたという記録が残っている。


高瀬舟は1艘で、
米なら35俵、
人なら30人運べ、
馬20頭分以上の働きがあり、物資輸送の花形だった。


鉄道が開通し、陸路が整備されると、客と貨物を奪われ
旭川、吉井川から次第に姿を消していった。
昭和3年、伯備線が全線開通するとともに、
高梁川でもその姿は見られなくなり、
河川交通の主役としての長い歴史を閉じる。

・・・

 

(周匝)

 

 

「柵原町史」 柵原町 第一法規出版 昭和62年発行

 

高瀬舟のさし声

 

一、

ほほい ほい ほい

瀬口じゃ 瀬口じゃ 引きずりまわせいや

ふにゃー(舟は)

おきい(沖に)

向いとるじゃないかいや

ろろ へいろー いへん

 

二、

おうい

お最中じゃ ないかいや

ぐいと引いちゃりやー

こいへ へいろー いへん

三、

おーい

引いちゃりやー

ふにゃー頭んばあじゃいわいや

ろろ へいろ いへん

 

(注)

決まった歌詞はなく、その場に合わせて即興的に歌ったそうである。

 

・・

 

「鏡野町史・通史編」  鏡野町 ぎょうせい 平成21年発行

 

年貢米の輸送はもとより商品輸送においても、

牛・馬を使っての陸路輸送に勝る輸送力をもつ高瀬舟は、

当時において第一の極めて有利な輸送手段であった。

そこで、

領地が山間部にある地域では、そこに谷筋が深く入り込む河川航路の開発は重要な意味をもつことになる。

したがって、更に上流へと航路の開発が企てられることになった。

 

河川の氾濫等により変化する航路維持には、大変な労力を必要とした。

川沿いの村々では、川底を掘り下げて航路を維持・確保するための川除けを、村々の責任において毎年毎年行わなければならなかった。

・・・

(津山市三浦駅ふきん)

 

・・・

 

撮影日・2022.4.5  岡山県赤磐市・美咲町・津山市

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

塩田・浜子唄

2023年01月27日 | 民謡

 

昭和30年頃まで、瀬戸内各県の沿岸部で行われていた入浜式塩田。

 

山波・松永・大門・笠岡・寄島などの跡地は、住宅団地や商業・工場となり、面影すらない。

もし現地案内人がいても「ココが汐入川であった」、という名残を見せるにとどまるだろう。

 

 

(「広島県の民謡」から)

 

「寄島風土記」 昭和61年発行

天候が相手で、やけつく夏も、凍てつく冬も、盆も正月もない。
雨さえ降らねば朝5時から晩の6時まで、1日6回のメシを食べるきつい仕事であった。

万牙(まんが)
浜子は理屈は知らないが、朝、昼、晩と太陽の方向と風向きを考えた長い間の経験で、縦、横、斜三様の引き方で砂に着いた海水濃度を高くする。
力と技術を要するので素人には引けない。

塩を撒く
長い柄の小さな木の酌で中溝の海水を塩田に撒く。
満便に撒くので熟練した技術を要する作業である。

沼井堀り
沼井は約4m平方の桝形でかん水をとるところ。
ろ過がすんだ砂を掘り出して沼井の肩に積む。

海水を入れる
潮の干満に気を配り堤防の大樋を抜き、中樋、小樋と抜いて濃い海水(潮の三合満ちまでは海水の濃度が薄い)を注入する。この樋の抜き差しは油断ができない。
失敗すると塩田に海水が侵入し、隣の塩田にも迷惑をかけるので上浜子が受け持っていた。

 

一日の作業


万牙を引く。
昼寝をする。
午後2時、浜持ち。寄子が寄板を持って、力の限り踏ん張って砂を沼井肩の線に一列に寄せる。
女、子供の仕事であるが息も絶えだえ、汗が流れる。
気が遠くなるほど塩田は広い。
夏の太陽は容赦なく照りつける。

次に入鍬がつづく。
特殊な鍬で砂を沼井の中に放り込む。
最も体力がいる作業で屈強な浜子がこれにあたる。

その後に
振り鍬が沼井の肩に積んだ散土を長い鍬の爪先にひっかけて塩田にまんべんなく撒く。

つづいて沼井踏が砂を沼井鍬で踏みならす。

灼熱の炎暑に寄せ子は入鍬に追われ、入鍬は振り鍬に追われる一連の作業は汗を拭く間もない阿修羅の地獄絵である。
寄子は大きな杓を持って沼井壺から藻垂れを沼井に汲み上げる。数多い沼井壺を次々に汲み上げる。
浜子は大きな浜たごを担いで中溝の海水を担いで沼井に注ぐ。
その頃鉢山に太陽が沈む。

従業員400人の寄島塩業は漁業と二大機関産業として貢献した。
第二次大戦中は軍需産業として重視され、幹部従業員には兵役免除の特権があった。
また戦後の食糧危機を救うにも塩は貴重な資源であった。
今では塩田の跡もない。

 

(2022.6.9  浅口市寄島町 画像の左半分くらいが寄島塩田跡地)

・・・

昭和41年「寄島町史」


大浦神社は郷社昇格が念願だったが、その労が報いられてから一か月もたたない昭和21年2月1日にはマッカーサー指令が出され、神社は国家管理の手を離れた。

東は早崎港から西は青佐西端に至る2キロに及んだ。
二町歩(2ヘクタール)をもって1番とし6番まであり、その後昭和30年には15番まで増えた。
明治38年、一日七トン貨車20輌を30日間発送し、山陽鉄道との特約トン数に達せしめたと言われ、当時の生産量は松永・味野・山田塩田を凌駕していた。
明治38年専売法が施行され、塩業者は販売から手をひきもっぱら製塩のみ従事することとなった。

「入浜式」、
満潮より低く、干潮より高い平らな地面を作り、その上に細かい砂をまき、水圧と毛細管現象によって塩田中の溝から表面に達した海水の水分を蒸発させて、塩の付着した砂を集めて塩を溶かし出す方法で、天保期には全国塩田の90%が入浜式だった。
採集したかん水は、各塩戸とも角型の釜で煮沸蒸留により採塩していた。
昭和13年寄島町片本浜に蒸気利用式丸管機を設置すると同時に、かん水はパイプで工場へ送水し一括製塩することになった。
梅雨明けから盛夏にかけて生産が急上昇する季節には、どの塩戸にも臨時の「寄せ子」をどっと雇い入れ、炎天に作業するさまは壮観でもあった。
夏季は塩田労務者、冬季は酒造りの杜氏として出稼ぎに行くような契約で、毎年就業した者もかなりあった。

昭和29年枝条架式濃縮装置をを併用する方向に進み、生産高も従来の1.8倍を製塩んするようになった。

塩業の閉鎖
昭和30年、全国塩田に流下式の採かん方式が採られるや全国の製塩高は急激に上昇した。
必要食糧塩は年間100万トンといわれていた。
工業塩は既に国内塩の半額で200万トン輸入されていた。
加えて、時代の進歩はイオン交換膜によって海水より水分を除き濃縮かん水をつくるまでになり、ついに全国1/3の塩田が姿を消すことになった。
そうして昭和34年11月12日神島・玉島・水島とともに寄島では製塩に終止符がうたれたのである。

 

・・・・・


「広島県の民謡」 中国放送  第一法規出版 昭和46年発行

「お櫃の底を叩く」ほど食わねばならぬ激しい労働、
浜子小屋という特殊な環境での生活、
こうした奴隷的な境遇によって、一般の人の彼らを見る眼は冷たかった。
「子どもをおどすのに『浜子にやろうか』といえば泣き止んだ」というほどであった。


浜子歌

尾道市山波町
浜子可哀やェー 二号半の飯じゃ
足にゃ黒土手にゃ豆がヨーイヨーイヨー

 

豊田郡東野町 (大崎上島)
一夜御寮でも妻持ちゃいやよ
妻の恨みで恐ろしや

 

三原市鷺浦  (佐木島)
来るか来るかと待つ夜は来ずと
待たぬ夜に来て門に立つ

 

豊田郡瀬戸田町 (生口島)
浜子浜引く寄せ子は寄せる
可愛い主さんは土を振る

浜子さんとは承知で惚れた
夜釜たきとは知らなんだ

 

・・・・

(日本最大の製塩都市・香川県坂出市 沙弥塩田跡ふきん  2019.5.11)

 

 

・・・

 

「岡山県史民俗Ⅱ」 岡山県 昭和58年発行

 

浜子唄

真夏の太陽の下で、まっ黒い砂の上を馬鍬(まんが)で砂をかき起こし、

寄板を押して塩分の溜まった砂を寄せる。

これらの労働をするなかで歌われたのが浜子唄である。

 

【玉野市】

備前岡山児島の日比町ヨイヨイ

日比の塩田浜子ぶしヨイヨイ

浜子浜ひき寄子がよせりゃヨイヨイ

あとで浜子がすくいこむヨイヨイ

寄子かわいやねえさんかぶりヨイヨイ

浜子なかせる白い足ヨイヨイ

浜子さんとは承知でほれたヨイヨイ

夜釜たきとは知らなんだヨイヨイ

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

塩田の「兵役免除」が↑記されているが、

そのことは↑にあるように”幹部従業員”に限られる。

それで、↓記事を追加した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「岡山の女性と暮らし 戦前・戦中の歩み」 岡山女性史研究会編  山陽新聞社 2000発行

 

自家製塩の奨励

 

塩田労働者を徴兵・徴用で奪われて、塩の生産も落ち込んだ。

前年晩秋から、漬物用の塩の不足が問題となり、

この5月、国は専売法での製塩制限を撤廃して、自家用製塩の奨励を始めた。

曲折した斜面を作り、何度も海水を流して17度程度のかん水にして、煮詰めれば一日一キロの塩は取れると指導したが、燃料不足で不可能とわかった。

かん水をそのまま利用せよ、という指導に変わった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする