しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

昭和12年7月7日夜、盧溝橋事件

2024年07月07日 | 昭和11年~15年

日本国家と国民が戦争体制となった”盧溝橋事件”。
ライシャワー博士は「第二次世界大戦の発端」と書かれているが、
西洋史中心の世界史が将来、五大陸化されると、
1937(昭和12)年7月7日が「第二次世界大戦の開始日」になるかもしれない。

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「ライシャワーの日本史」  文芸春秋社 1986年発行


第二次世界大戦

第二次世界大戦は、その発端は1937年の日中の衝突にある。
日本軍部の対外政策には一つ根本的に間違った思い込みがあった。
日本軍部はみずからが盲目的愛国心に身を委ねる一方で、
近隣諸国からは欧米の圧政からの救出者として歓迎されるばかりか、
彼らが日本を盟主とする東アジア支配におとなしく盲従して、
何も不満をもたぬはずだと思いこんでいたのである。

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「太平洋戦争」  世界文化社  昭和42年発行

 
昭和12年(1937)7月7日、日本の支邦駐屯軍(天津)のある中隊が、盧溝橋付近で宋哲元の率いる一部隊と衝突した。
事変の口火は諸説あって、今日もなお謎に包まれている。

当時陸軍中央部では、ふしぎなことにまだ中国に対する作戦方針が一定していなかった。 
部内の積極派の連中は、中国は一撃を加えればすぐに屈伏すると考え、それに必要な兵力は7個師団ぐらいで十分だとみていた。
それに対し事変不拡大派は、昭和16年(1941) までを目標に、対ソ戦の準備のために満蒙資源の利用を含む軍需工業の五か年計画を推進中であり、
長期消耗戦になる可能性を多分にもち、少なくとも15個師団を必要とするであろう中国との戦いには絶対反対だった。
まして昭和10.11年にかけて、急速に極東軍備を充実させたソ連の動きをみては、それはなおさらのことだった。
一方、このときの近衛文麿内閣は、この際禍根の根源を将来に残さないように徹底的な解決を行なうべきで、姑息な妥協は極力排撃すべきだとして、意外に強硬だった。

昭和12年の末には、逐次投入”という拙劣な方法で中国大陸に運ばれた兵力は16個師団、約70万を数えた。
そしていちおう戦術的な勝利を繰返していたものの、占領地域は平津(北平=北京と天津) 地方と揚子江下流を中心に、 
大都市間をつなぐ鉄道沿線の点と線に限定され、
しかもその連絡線はいつも中国側のゲリラ攻撃の脅威にさらされていた。
一方、ソ満国境では 5個師団基幹の関東軍が、4倍以上の兵力をもつソビエト極東軍とにらみあっているというのに、
中国との戦いを短期決戦で終結させる望みはなく、まさに泥沼に足をつっこんだような状態であった。

 

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「大陸の戦火」  研秀出版社  平成7年発行

 
盧溝橋の銃声

昭和12年7月、盧溝橋にひびいた十数発の銃声は、中国侵略の野望をむき出しにした日本に対する、中国の抵抗ののろしだった。
日清、日露戦争に勝ち、中国進出の足がかりを得た日本は、西欧列強の中国侵略競争の一員に加わった。
列国の帝国主義的侵略に対する中国人民の最初の反抗が義和団の蜂起だった。
しかし、英仏日など八か国の連合軍は、北京を包囲し 義和団をした。
2万の大軍を出兵した日本は、賠償金のほかに、清国から北京公使館護衛の名で軍隊の駐屯権を獲得した。
これが、 36年後に、盧溝橋事件の主役を演じた日本の支那駐軍の出発点である。

中国の革命運動家や知識人は、日本を明治維新によって近代化をなしとげたアジアの先覚者と評価し、
日本が、中国を植民地化している欧米の勢力駆逐に手をかしてくれるものと期待していた。
しかし、日本は侵略者として中国にのぞんだ。
裏切られた中国の怒りは反日、 抗日の大きなうねりとなった。
21条要求、山東出兵、満蒙独占の野望の下に傀儡国家満州国でっちあげ、更に内家から華北へと、日本の中国侵略は露骨となっていった。
中国では、共産党の抗日救国のアピールが民族の共感を呼び、日本の侵略に抵抗する統一戦線が軌道にのってきていた。
こうした状況のもとで、盧溝橋の銃声がなりひびいたのである。
誰が最初の一発を撃ったかはもはや問題ではなく、遅かれ早かれ、日中いずれかが発砲する状況にあったのである。
事件は一時現地解決なるかと思われたが、7月11日、近衛内閣は拡大を決議 北支事変と称し、 
28日、日本軍は総攻撃に移って北京、天津地区を制圧した。 
8年という長期戦がこれからつづくのである。

 

戦勝にわく国内

南京陥落の報に日本の津々浦々は戦勝の美酒に酔った。
浮かれたのである。
陥落発表は12月13日だった。
しかし国民は待ちきれなかった。
新聞は12月に入ると祝勝気分をあおりたてた。
全国民は今か今かと吉報に胸を躍らせ全神経を「陥落」の二字に集中している。
この異常の緊張裡にさんさんたる 日の出を迎えた7日、
市内の各官庁、銀行会社につとめる人達は、いつもより皆早目に出勤、「号外」と共にいつでも旗行列、提灯行列に出勤できるよう待機・・・ ・
神田や銀座の「祝戦勝」の装飾文字も朝日に映えて美しい......(12.8付東京日日新聞)と伝え、
さらに同日夕刊は、 
待ちきれなくなった帝都市民は一足先に陥落を決めてしまい、7日夜は銀座も浅草も新宿も興奮のるつぼと化し、
ネオンに旗に戦捷一色にぬりつぶされた。
祝杯はこちらでといわぬばかりにカフェー街はここを先途の満艦飾オール銀座は大勝と皇軍への感謝に陶酔〟
という具合であった。
大本営が首都南京攻略を発表したのは13日深夜だったが、
東京ではそれから3日3晩、旗行列や提灯行列が宮城前や大本営のまわりを埋めた。
地方各都市、村々でも同じだった。
横浜港では、在泊の船舶はすべて満艦飾のイルミネーション、市電は花電車を走らせた。

しかし、南京ではまさにその頃大虐殺の惨劇が進行しつつあった。
そして戦争の行方が、敗戦の暗黒とつながっていることなど誰一人として夢想だにしなかったのである。

 

南京大虐殺

昭和12年12月、南京攻略戦にあたった日本軍が、中国人に対して言語に絶する暴行殺戮を行った。 
南京陥落皇軍大勝利に、日本全国が沸きかえっているとき、南京では、恐るべき蛮行が、まさに皇軍将兵によって演じられていた。
この事実は当時南京にいた英米ジャーナリストや宣教師達によって世界中に伝えられ、大きな衝撃を与えた。
日本国民だけが、東京裁判で明るみに出るまでその事実を知らなかったのである。
犠牲者の数は、いまだに確かでないが、東京裁判では、南京占領後、2~3日の間に、
少なくとも12.000人の非戦闘員が殺され、占領後の最初の一か月の間に約2万の強姦事件が発生、一般人になりすました中国兵掃討に名をかりて、兵役年齢の男子二万が集団 で殺され、さらに捕虜三万が降伏して七二時間内に殺されまた、避難民のうち57.000人が日本軍に捕まり、大多数が死亡したり、殺されたりした"とされた。
これは、当時南京大学教授で、東京裁判に証人として出廷したベーツ博士の証言にほぼ近い数字だが、 
実際にはもっと多くの犠牲者があったとされ、現在中国側では30万人と見ているようである。

 
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もう一つの部隊
從軍慰安婦

日中戦争から太平洋戦争にかけて、日本軍には正規軍のほかにもう一つ、従軍慰安婦という“女性部隊”がいた。
彼女たちは銃こそとらなかったものの、戦闘で疲れ、すさんだ兵士たちの心を”慰安”するという、哀れにもまたけなげな "使命”をおっていた。
軍が従軍慰安婦制度の創設を考えたのは、日中戦争勃発後まもない昭和12年秋のことで、
将兵が現地で暴行、強姦を重ねるのを押さえ、
また将兵に性病が蔓延して兵力の低下をきたすのを防ぐため、
軍首脳は軍の厳しい管理下に“慰安所"を設けることとした。

11月中旬、軍の命を受けた御用商人が北九州各地で女性を募集してまわった。 
「前渡し金1.000円、これを全額返済終わったら自由」という、
内地の売春婦にくらべ、はるかに魅力的な条件であった。
約120人が採用され、上海に渡って第11軍に配属された。 


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「福山市史・下」  福山市史編纂会  昭和58年発行

日中戦争と四十一連隊 


昭和12年(1937)7月7日、いわゆる日中戦争が始まった。
7月27日、第二次動員が第五師団にも下令され、これにともない四十一連隊も応召することになり、 
7月31日夕刻福山駅から出発していった。
第五師団の先頭部隊であった 四十一連隊は、朝鮮を経由して8月11日に天津に入ったが、
この後の転職状況について、連隊長山田鉄二郎大佐の手記『支那事変の思い出』をもとに簡単にふれよう。


山田部隊3.000人はただちに臨戦体制に入り、
8月の長城戦、 
9月の○○城戦(←○○は字が読めない・管理人)戦死120名、
11月杭州湾上陸作戦などをへて、
12月上旬から南京総攻撃に参加して中国軍に大損害(遺棄死1.200人武器など多数押収)を与え(死傷者16人)
12月13日に南京を占領した。
いわゆる大虐殺事件はこのとき起こった。
このころの山田部隊は、そのその進撃の素早さから「快足部隊」の異名をとったといわれる。

昭和13年、
南京で新年を迎え、「慰問の日本酒に半年振りの労を慰して居た」部隊は、
1月3日青島攻略の命を受け、4月まで滞在、
4月7日にはいわゆる徐州、
徐州会戦は歌に歌われ小説にも描かれてているように、なかなかの苦戦であったが、
5月19日ついにこれを占領した。
死傷者750人、馬145頭失う。
 
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こののち日中戦争は文字どおり泥沼化したが、
食糧難、武器不足、病気、 中国軍のゲリラに悩まされながら、軍の作戦がいわゆる北進論から南進論に転換しマレー作戦に投入される17年ころまで、
まったく勝つ見込みのないまま中国各地を転戦させられた。 
福山では41連隊勝利の報がもたらされるたびに、小・中学生を中心とする旗行列が盛大に行なわれた。
夜に入ると大人たちによって提燈行列が行なわれた。
このころから、戦死者の扱い方に大きな変化がみられたことが注目される。

 

すなわち、戦死者は
「男子の本懐 聖戦の死」、
「護国の人柱」、
「壮烈・名誉の戦死」などといわれ、 
しかも遺族は
「本人も満足でせう」、
「肩身が広い」、
「家門の名誉」などと、
夫や息子の戦死について語らされるようになった。
したがって戦傷者は「治ったらまた征く」と本人がいい、
家族は「傷くらいなんでもありません」といわざるをえなくなり、 戦病死はごく小さい扱いしかされなくなった。
右のことは、満州事変に比し戦死者が格段に増加したことも一因であるが、
むしろ二・二六事件以後総動員運動が進展していくなかで、ファシズム軍国主義が新たな段階に入ったことの表現でもあった。

 

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「鴨方町史本編」 鴨方町 平成2年発行

盧溝橋事件

1937年(昭和12)7月7日、北京郊外の盧溝橋で日本軍夜間演習の終了後、何者かが発砲したのを契機に、
日本軍は翌8日未明に中国軍への戦闘攻撃を開始した。
これ以後、現地では停戦協定も結ばれたが、誕生したばかりの近衛文麿内閣は、
戦線を拡大し北京・天津・上海を占領し、12月には国民政府の首都であった南京を占領した。

「鴨方町報」に次のような伊藤岡山県知事の訓示を掲載している。
時局ニ対スル伊藤岡山県知事訓示

今回の事変の変勃に関しては、御承知の如く7月7日夜、我支那駐屯軍の一部隊が蘆溝橋附近にて演習中、
第二十九軍の理不盡なり不法射撃に端を発しまして、
我方よりの事実の承認及謝罪其の他正当なる要求応ぜざるをのみならず、逐次其の兵力を増加して、
我部隊に不法なる攻撃を加へ来る等挑戦的行動を敢て為し、
或は平津方面の我在留民に対する忍び得ざる迫害頻発する等協定不履行不信行為続発し、
我和平的解決を全面的に拒否至りまして...(以下省略) 

これによれば中国国民党軍による発砲と一方的に決めつけ、
日本および日本軍の戦線拡大が当然であるかのごとく表わしている。
事実は、日本軍の買収に応じた中国人が関東軍の指図に従って発砲したのであり、 戦線拡大を目論んでいた日本軍の仕掛けた事件であった。


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