しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

武漢攻略作戦  --毎日新聞・日本の戦史

2020年05月26日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「一億人の昭和史・日本の戦史4」 昭和54年 毎日新聞発行  より転記

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(武漢三鎮。父によれば中国軍は租界地をうまく利用した陣地だったそうだ)

武漢攻略作戦


中国軍は徐州会戦後、武漢地区の防衛を一段と強化した。
大本営は、日中戦争の早期解決のため、武漢攻略作戦の実施を昭和13年6月15日に決定し、海軍との協同作戦を計画した。
第11軍(第6・9・27・101・106師団ほか)を揚子江に沿う地区から進め、
第2軍(第3・10・13・16師団ほか)を大別山系の北側地区から進めて、第11軍の作戦を支援する方針を採った。

第2軍は蘆州周辺に兵力を集中し、第10・13師団は8月27日から進撃を開始した。
中国軍の抵抗は頑強で、損害は多く、マラリア患者も多発し、戦力低下は大きかった。

第3・10師団を信陽方面に進攻させた。


(信陽を攻める第10師団)


揚子江左岸の第6師団は随所で中国軍を撃破して、10月25日夜、漢口市街の一角に突入して、翌26日完全占領した。
第2軍主力も漢口北方地区に進出した。

日本軍の損害は、戦死者約7.000人、戦傷者約24.800人であった。


・・・・

補給難と伝染病 第2軍の江北作戦
第2軍(東久邇宮中将=昭和20年に首相へ)は8月27日、
第10・13師団の六安・霍山への攻撃前進によって武漢作戦を開始した。
同軍の主要任務は、京漢線の要衝・信陽を攻略する一方、大別山系を突破南下して、南から武漢に迫る第11軍を支援することであった。
揚子江北岸には約44個師の中国軍が布陣し、西進する日本軍に激しく抵抗、悪天候と補給難、そしてマラリアに悩まされた第2軍は各所で苦戦を強いられ、
戦死2.505、負傷7.427を出したほか、総兵力のほぼ半数が羅病した。

西進また西進  第10師団
第2軍は、第10師団が六安から光州へ、第13師団が霍山から商城を目指した。
道路は各所で徹底的に破壊されていた。
8月28日六安を占領、ひたすら西へ進んだ。

武漢三鎮へ突入
武漢三鎮進入命令が下されたのは10月24日。
すでの京漢線の要衝・信陽を攻略した第3・10師団は漢口へ向かって南下中。
漢口は25日夜、
武昌は26日早朝に占領された。


(漢口市庁舎)

軍は特に、
「第三国権益を尊重し・・・、掠奪・放火・強姦等の絶無を期すを要す」と厳命、南京事件の再発防止に努めた。
武漢占領後も各師団はそれぞれ追撃戦を続行した。
11月11日、第9師団の洞庭湖畔の岳州(岳陽)の占領により日中戦勃発以来、最大の兵力を動員した攻略作戦は完了した。


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背負われて料金所をとおる

2020年05月25日 | 城見小・他校
茂平集会所の映画

茂平集会所の映画は、興行は金浦座で、茂平の世話は「浜の良やん」がしていた。
良やんは入口に主同然に座って料金を集めていた。
ひとり一人お金を集め箱に入れていた。
映画は父か祖父と行っていたが、良やんは私の顔を見るとおんぶされるように口を出した。
そして、
「まだ歩けんのは子供じゃあない」と無料にしてくれた。
この好意に感謝していたが・・・・だんだんと身体が大きくなり、おんぶの状態でその場所を通るのが明らかに不自然になった。恥ずかしかった。
良やんはそれでも無料にしてくれた。
4年生か5年生になり、近所の子供同士で行くことがあり、その時からお金を払うようになった。
茂平の映画は、「良やん」の好意と、いつまでも「おんぶ」されたことを思い出す。



一円札・拾円札・百円札

一円札
家の近くに恵比寿っさんの社があった。
恵比寿っさんにお賽銭があり一円札が何枚かあった。
そのうちアルミ貨の一円玉も置かれるようになった。
1円玉を見るようになって一年ほど経ち、一円札は見ないようになった。
それからは、まったく見ないようになった。今は完全に思い出の中だけになった。
十円札
子供に身近なお金は1円・5円・10円だった。
五円札は無かった。五円玉だった。
一番よく使ったのが十円札と十円玉だった。
比較的長く10円札と10円玉が併用された。
百円札
お年玉にもらっていた。その日の内に、親に徴収された。
親はその百円札を、もらった親の子にお年玉で渡していた。
そうやって親類同士でまわしていた。
五百円札
岩倉具視の顔はよく覚えているが、それ以上の記憶がない。
千円札
高校の修学旅行の旅費を学校に納めるとき、初めて手にした。
一万円札
高校の理科の時間、級友から「いいものを見してやる」と言われた。
それが初めて見た一万円札だった。
その友は真鍋島の出身で笠岡に下宿していた。
たぶん、下宿費を親からもらった(預かる)ばかりだったのだろう。
当時は、高校生が手にするお金ではなかった。
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学校帰りの森陰で

2020年05月24日 | 城見小・他校
学校帰りの森陰で



学校から茂平までは遠かった。
峠の手前に泉が湧いていた。
その泉に降りて行って手酌で水を飲んでいた。
泉の水は・・・当然ながら・・・塩分がまったくなく、
塩辛い水に慣れていた茂平の子にとっては名水だった。
女の子も、男の子もその泉の水を飲んでいた。
しかし学校へ行くとき、泉で飲む子は誰もいなかった。

野苺
帰り道は腹が減っていた。
道べりには、春から夏に野苺があった。
その野苺をつまんでは食べた。
しかし、野苺は実が小さく
食べても食べても腹の足しになることはなかった。

三太郎
用之江から茂平になり、道べりにTくんちの畑があった。
その畑は李が植えてあり、初夏に三太郎が食べごろになった。
その頃は、意識してTくんといっしょに帰っていた。
その訳は、Tくんが畑に入って三太郎を取って食べることがあり、その時は一個渡してくれた。
三太郎は、噛むときにプシッと皮を破る音がするのが好きだった。
すっぱい味もよかった。
その頃父に、
「ウチにも三太郎を植えてほしい」と言った。
父はすぐに植えてくれたが、木が成長して実がなる頃(高校生になっていた),
もう三太郎に興味はなくなっていた。

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岡山市民会館に新川次郎ショーを見に行く

2020年05月24日 | 昭和51年~64年
岡山市民会館に新川次郎ショーを見に行く

高校一年生の時、笠岡の大和座で「新川次郎ショー」があった。
その日は授業があり、見に行くお金もなかった。
授業中、今頃新川次郎は歌っているのだろうな、と気になった。
それから10余年後、岡山で新川次郎ショーがあった。
その時は独身貴族でお金のことはまったく気にならなかったが、
既に、新川次郎の地位が小さくなっていて、
「西川峰子・新川次郎ショー」だった。主役は西川峰子の方だった。
場所は岡山市民会館。
新川次郎は最後に「東京の日よいつまでも」を歌った。
その三番目は、
♪ああ岡山の日よ いつまでも~ で終わった。
いい声をしていた。

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岡山市民会館に北島三郎ショーを見に行く

中学生の時、北島三郎が「ブンガチャ節」でデビューした。
次の「泪船」もヒットした。
それ以来北島三郎のファンだった。
昭和50年ごろ、岡山市民会館で「北島三郎ショー」があった。
既に歌謡界の大物になっていた。
定時後、一人でショーを見に行った。
数々のヒット曲を歌ったが、途中のおしゃべりで
「聴かせてやってんだから」と発言した。
その言葉を聞いた時、
いっぺんに北島三郎に対する熱が冷めた。
その発言のある前から、ステージでなんとなく偉そうな感じがしていた。
当時、三波春夫が
「お客様は神様です」のフレーズが知られていた。
それまでは、ファンに阿るような気がしていたが、三波春夫を大いに見直すようになった。
それからは、三波春夫の歌をよく聴くようになった。



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占守島 --「断乎反撃せよ!」知られざる戦記

2020年05月23日 | 占守島の戦い
「断乎反撃せよ!」知られざる戦記 歴史街道編 2017年 PHP発行 より転記する。

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「8月17日夜、占守島(しゅむしゅとう)北東部に奇襲上陸し、18日日没までに同島全域を占領する」。
ソ連軍は当初、一日あれば制圧できるとみて、四部隊で上陸を敢行した。
しかし日本軍は立ちはだかる。


画像(わしズム・小林よしのり 2005年・幻冬舎発行より)


17日深夜、ソ連軍先遣隊が竹田浜より上陸し始めると、歩兵282大隊は四嶺山に司令部を置き、ソ連軍部隊の「壁」となった。
日本軍の砲台から砲撃によりソ連軍艦艇が撃沈、部隊の体を為さなくなった。
そこへ戦車第11連隊が駆け付け、日本軍の優勢は確実となった。
以後、占守島の戦いは8月22日に停戦するまで続く。
しかし小戦闘が起きるのみであった。

停戦交渉
談・元陸軍大尉長島厚
8月18日14時ごろ、師団長の命令で護衛隊と日魯漁業の通訳とソ連軍司令部に出発した。
戦闘は継続中で、頭の上を日ソの弾丸が飛び交う状況でした。
19時ごろ、やっとソ連軍陣地に近づきました。
捕虜となり、後ろ手に縛られ尋問がはじまりました。
停戦文書に司令官の判子を押していたが、サインがないとわめいた。
翌8月19日早朝、
ソ連軍指揮官の大佐に連れてゆかれた。
大佐に朝の6時30分ごろ、堤師団長の停戦文書を手渡しました。
大佐は大柄でさすがに立派で魅力的な方でした。
8月19日15時、
日本軍とソ連軍による停戦交渉が行われました。
日本側は最高指揮官の代理として杉野旅団長と柳岡参謀長、私も同席しました。
しかし
「即決武装解除か否か」を巡り紛糾します。
満洲の居留民の悲劇もあり、停戦は承知するが、武装解除は容認できなかった。
8月22日13時、
堤師団長がソ連軍艦艇で降伏文書に調印した。
占守島の戦いは日本軍約800、ソ連軍約2.300の犠牲を出し、ようやく終わりました。
私はその後、収容所に連行、拘留され、無事に帰国を果たしたのは昭和23年5月でした。

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常磐ハワイアンセンターで、桜田淳子ショーを見ていたら

2020年05月23日 | 昭和51年~64年
常磐ハワイアンセンターで、桜田淳子ショーを見ていたら

常磐ハワイアンセンターは大きな温泉施設で、毎日がレジャー客で人気があった。
管理人も会員になっていて、(年会費を払えば何度でも入れた)
家族でよく行っていた。

常磐ハワイアンセンターには芸能ショーがあり、一流の歌手も出演していた。
ある日、当時人気・・・今でも一定の年齢層に人気・・の桜田淳子ショーがあった。

会場に行くと、いつもと違って超満員。
立ち見でショーを見ることになった。
その時、妻と2歳の長女の三人だった。

ステージに現れた桜田淳子はかわいいステージ衣装で、踊って歌った。
残念ながら後方で見ているので、お顔までははっきりと見えなかった。
歌とおしゃべりのショーだったが、
話す内容が子供向けで、おしゃべりは物足りなかった。

長女は大人の脚しか見えないので、可愛そうで肩車にした。
最初はステージを見て反応がよかったが、
いつの間にか動く様子が無くなった。
妻に言うと、
「寝ている!」
管理人の頭を枕にして、べったりの姿勢で寝ていた。


人気スター桜田淳子は、結婚が原因で芸能界から消えてしまった。
原因はどうあれ出なくなったので、いつまでも若くて可愛いままのイメージが残っている。


・・・・・・


特急ひたちで、往年の大歌手・霧島昇と付人を見た


東京への出張は特急ひたちで往復していた。
出張手当はグリーン車が出ていた。
復路のみグリーン車に乗って、往路のグリーン料金をこずかい銭にしていた。

ある時の出張帰り、上野駅午後6:00発のひたちグリーン車に乗ると,霧島昇がいた。
霧島以上に年配と見える男性の付き人が相席していた。
そのグリーン車には、いつものように、合わせても5~6人程度の乗客だった。

しかも管理人の一列前の隣列だったので、二人の様子と会話がよく見え、よく聞こえた。

列車は水戸駅を過ぎた。
水戸駅を過ぎると乗客の乗り降りは、降りるだけになっていく。
つまり車内はいっそう静かになり、自分が降りる駅に着くのを待つだけの状態となってゆく。
その時に、
霧島昇は突然言った、
「駅弁がほしい」。
その瞬間、
付き人は席を立ち、前方に向かって走り出した。
そして次に、そのまま後方に走り去った。
・・・・・そして霧島の席まで戻り、なにやら言った。
探したり当たったり努力したが、結局駅弁は買えなかったという報告であろう。
霧島は強い口調で、しかるようで、納得をした。


普通であれば、時間的に無理かなと思うであろう。
しかし両者は本気モードで弁当を求めた。

両者が冷静に話していれば、管理人も”無理であること”をおしてもよかったのだが、
とても、そんな雰囲気ではなかった。
芸能人の実態を垣間見たような、そして残念な気持になった。
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三沢高校と決勝戦をした松山商業のグラウンド

2020年05月23日 | 昭和41年~50年
三沢高校と決勝戦をした松山商業のグラウンド


春と夏の甲子園では、幾多のヒーローが生まれているが
誰が一番人気者であったか?
といえば三沢高校の太田幸司投手だろう。
顔は日露混血のエキゾチックな二枚目。試合は一人で延長戦を投げ抜き、翌日も連投、そして敗者となった。
たちまち日本中の大ヒーロー。
その試合に勝ったのが松山商業。

優勝パレードがあり、松山市の上一万で見物した。
選手はユニフォーム姿で、オープンカー4~5台、連なって学校方面へ向かっていった。

松山商業は、もともと香川の高松商業と並んで、四国を代表する伝統の強豪校だった。
その年は、甲子園優勝が加わり更に話題になった。

それで、
街中にある松山商の校庭に、野球部の練習を何度か見に行った。
独立した野球部のグラウンドでなく、校舎と同じ敷地の校庭が練習場。

広いグラウンドの外野の奥(敷地のいちばん後ろ)に大きな木が並んでいて、その下にコート姿の大人が黙って練習を見ていた。
時おり、手帳を出してメモしていた。
「あれはプロ野球のスカウトだ」という話だった。
スカウトは離れた状態で4~6人いて、視線は選手だけに注がれていた。

その時代はまだ、学校内、特に校庭はどこからでも出入り自由。
選手・部員の邪魔にならないことだけが前提だった。
今思えば平和な時代だった。

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天満屋サテライトスタジオで舟木一夫を見た

2020年05月22日 | 昭和51年~64年
天満屋サテライトスタジオで舟木一夫を見た

今もそうではあるが、当時(昭和50年前後)の岡山のバスターミナルといえば天満屋バスターミナルだった。
今とは勢いがまったく違っていて、表町そして天満屋が、岡山市の中央である中心地だった。
仕事で県庁に行くとき、休日に街へ行くときはバスターミナルでおり、帰りもそこから乗っていた。
人の流れが多いのでラジオ山陽のサテライトスタジオがあった。
ある日、サテライトスタジオの前を通っていたら舟木一夫がゲストで地元アナと会話をしていた。
その当時、
大歌手・舟木一夫は歌手人生のどん底の時代だった。
透明のガラス越しに見る本物の舟木一夫は、人気歌手でもアイドル歌手でもなく、顔の表情に覇気がまったくなかった。
つまり、立ち止まって見るほどの魅力がなかった。素通りした。
それから何年かして復活した。
復活して20余年経った。
よく復活したなあといつも感心する。
本人もそうだろうが、ファンも”舟木一夫”によって人生を楽しんでいる。復活ありがとう。


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岡山市の名所・本郷ビル

岡山市の営業所に赴任早々の頃、
上司である課長と同乗していると、車中の雑談の感じで、岡山市内の取引先や名所や便利な場所などをおしえてくれた。
そのうちの一つ、
「あれが本郷ビルだ」と本郷金物店を指さした。東山線の日銀の向かい側に三階建てのビルだった。
「はぁ?」
「本郷功次郎の実家よね」と。
本郷功次郎は岡山県を代表する映画スターだった。
必ず「岡山朝日高校出身」と紹介された。
大映映画『ああ江田島』でスターになった。
30代になると主役でなく渋い脇役が多かったが、存在感は亡くなるまで続いた。
2013年に亡くなったが、まだ74才だった。
なお本郷ビルは今は無く、その跡地ですら判明ができない程の昔話になってしまった。


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丸坊主

2020年05月22日 | 城見小・他校
丸坊主

城見保育園ができ、その入園ごろに丸坊主になった。
(それから高校3年生になる春まで、ずっと丸坊主だった)

城見小学生の2年か3年の時、学校の下に散髪屋ができた。
そこには大人と、子供の一部が客で入っていた。

ほとんどの子供はバリカンで刈り上げていた。
庭で箱に座り、近所の年上の子や兄弟に頼む子も多かった。
子供が刈ると、どうしても虎狩りになっていた。
そして刃が(よく切れなくて)髪にはさったまま止まり、バリカンを髪から抜いてやり直していた。
その時の子供の顔はそうとう歪んでいた。
それは日常の風景だった。

私は父親がバリカンで刈ってくれていた。
刈った後はカミソリで剃ってくれた。

高校生になって、床屋に行くようになった。
「にまいがり」といってクリクリ坊主でなく、ほんの少しイガグリ頭で、当然ながら父よりは刈った頭がきれいだった。
大門の駅東にいまもある床屋に行っていた。


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蛍取り

田植えが終わってしばらくした頃、いちばんの楽しみはホタル取りだった。
夕方が終える頃、箒と瓶を手にして水田のほとりに向かった。
蛍はどこにでもいたが、蛍の多い場所に行く。
場所は毎年決まっていた。
かまんどうから砂川の法に蛍は多くいた。

暗くなると、あちこちから子供の声が聞こえていた。
光のはホタルの他に、水ボタルと蛇がいた。
水ボタルは近寄ると水の中で光っているので止める。
むずかしいのは蛇だった。
うっかり蛇をにぎるとにゅるっとして背筋が寒くなっていた。

取った蛍は瓶にスギナを入れて明かりを楽しむか、蚊帳の中に入れて飛ばす。
蚊帳の中で光る蛍は、なんともいえない風情があった。
しかし、どちらにしても翌日には蛍は光らなかった。一夜の明りだった。


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旗行列・提灯行列

2020年05月20日 | 昭和11年~15年
ひいひい祖母さんが吉浜から茂平に嫁入りしたときは提灯行列だったそうだ。(江戸末期)
母やおばの話では、昭和15年の皇紀2600年の祝賀で町村の旗行列に参加している。
戦前の南京陥落や武漢陥落も笠岡地域で行列があったようだ。
政治家では戦線の犬養木堂の首相就任で庭瀬で、戦後は越後の田中角さんの大臣就任の写真記事をみる。
近年では広島でのカープ優勝の提灯行列。

夜道を、提灯をもって歩く時代が過ぎると、ほぼ提灯行列は消えていったように思える。

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「こどもの四季」加太こうじ著 河出書房 2009年9月発行より転記

ちょうちん行列

ちょうちん行列、旗行列と昭和12年7月7日の日中全面交戦の勃発から昭和17年末頃までは、年に何回かは、きまって町内会のお達しで戦勝祝賀の行進にかりだされた。
昭和16年12月8日の対米英戦宣戦の日は、在郷軍人がかりだされて「神国必勝 打倒米英」などと書いたのぼりをかかげて行進した。
東京ではその在郷軍人の列が愛国行進曲などを高唱しながら宮城前へあとからあとから押しよせていた。
それが、昭和18年初頭のころからはまったく変化した。
町内会ででてこいというのは、たいがい英霊を出むかえるためで、駅頭で白布に包まれて遺族の胸にかかえられている遺骨に、『海行かば』のメロディと共に黙祷をささげなけばならなかった。
そのあとの敗戦につづく自由の到来では、庶民は自主的に大挙してくりだしたが、それは食糧を得ための買い出しだった。


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