「一億人の昭和史・日本の戦史4」 昭和54年 毎日新聞発行 より転記
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(武漢三鎮。父によれば中国軍は租界地をうまく利用した陣地だったそうだ)
武漢攻略作戦
中国軍は徐州会戦後、武漢地区の防衛を一段と強化した。
大本営は、日中戦争の早期解決のため、武漢攻略作戦の実施を昭和13年6月15日に決定し、海軍との協同作戦を計画した。
第11軍(第6・9・27・101・106師団ほか)を揚子江に沿う地区から進め、
第2軍(第3・10・13・16師団ほか)を大別山系の北側地区から進めて、第11軍の作戦を支援する方針を採った。
第2軍は蘆州周辺に兵力を集中し、第10・13師団は8月27日から進撃を開始した。
中国軍の抵抗は頑強で、損害は多く、マラリア患者も多発し、戦力低下は大きかった。
第3・10師団を信陽方面に進攻させた。
(信陽を攻める第10師団)
揚子江左岸の第6師団は随所で中国軍を撃破して、10月25日夜、漢口市街の一角に突入して、翌26日完全占領した。
第2軍主力も漢口北方地区に進出した。
日本軍の損害は、戦死者約7.000人、戦傷者約24.800人であった。
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補給難と伝染病 第2軍の江北作戦
第2軍(東久邇宮中将=昭和20年に首相へ)は8月27日、
第10・13師団の六安・霍山への攻撃前進によって武漢作戦を開始した。
同軍の主要任務は、京漢線の要衝・信陽を攻略する一方、大別山系を突破南下して、南から武漢に迫る第11軍を支援することであった。
揚子江北岸には約44個師の中国軍が布陣し、西進する日本軍に激しく抵抗、悪天候と補給難、そしてマラリアに悩まされた第2軍は各所で苦戦を強いられ、
戦死2.505、負傷7.427を出したほか、総兵力のほぼ半数が羅病した。
西進また西進 第10師団
第2軍は、第10師団が六安から光州へ、第13師団が霍山から商城を目指した。
道路は各所で徹底的に破壊されていた。
8月28日六安を占領、ひたすら西へ進んだ。
武漢三鎮へ突入
武漢三鎮進入命令が下されたのは10月24日。
すでの京漢線の要衝・信陽を攻略した第3・10師団は漢口へ向かって南下中。
漢口は25日夜、
武昌は26日早朝に占領された。
(漢口市庁舎)
軍は特に、
「第三国権益を尊重し・・・、掠奪・放火・強姦等の絶無を期すを要す」と厳命、南京事件の再発防止に努めた。
武漢占領後も各師団はそれぞれ追撃戦を続行した。
11月11日、第9師団の洞庭湖畔の岳州(岳陽)の占領により日中戦勃発以来、最大の兵力を動員した攻略作戦は完了した。
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(武漢三鎮。父によれば中国軍は租界地をうまく利用した陣地だったそうだ)
武漢攻略作戦
中国軍は徐州会戦後、武漢地区の防衛を一段と強化した。
大本営は、日中戦争の早期解決のため、武漢攻略作戦の実施を昭和13年6月15日に決定し、海軍との協同作戦を計画した。
第11軍(第6・9・27・101・106師団ほか)を揚子江に沿う地区から進め、
第2軍(第3・10・13・16師団ほか)を大別山系の北側地区から進めて、第11軍の作戦を支援する方針を採った。
第2軍は蘆州周辺に兵力を集中し、第10・13師団は8月27日から進撃を開始した。
中国軍の抵抗は頑強で、損害は多く、マラリア患者も多発し、戦力低下は大きかった。
第3・10師団を信陽方面に進攻させた。
(信陽を攻める第10師団)
揚子江左岸の第6師団は随所で中国軍を撃破して、10月25日夜、漢口市街の一角に突入して、翌26日完全占領した。
第2軍主力も漢口北方地区に進出した。
日本軍の損害は、戦死者約7.000人、戦傷者約24.800人であった。
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補給難と伝染病 第2軍の江北作戦
第2軍(東久邇宮中将=昭和20年に首相へ)は8月27日、
第10・13師団の六安・霍山への攻撃前進によって武漢作戦を開始した。
同軍の主要任務は、京漢線の要衝・信陽を攻略する一方、大別山系を突破南下して、南から武漢に迫る第11軍を支援することであった。
揚子江北岸には約44個師の中国軍が布陣し、西進する日本軍に激しく抵抗、悪天候と補給難、そしてマラリアに悩まされた第2軍は各所で苦戦を強いられ、
戦死2.505、負傷7.427を出したほか、総兵力のほぼ半数が羅病した。
西進また西進 第10師団
第2軍は、第10師団が六安から光州へ、第13師団が霍山から商城を目指した。
道路は各所で徹底的に破壊されていた。
8月28日六安を占領、ひたすら西へ進んだ。
武漢三鎮へ突入
武漢三鎮進入命令が下されたのは10月24日。
すでの京漢線の要衝・信陽を攻略した第3・10師団は漢口へ向かって南下中。
漢口は25日夜、
武昌は26日早朝に占領された。
(漢口市庁舎)
軍は特に、
「第三国権益を尊重し・・・、掠奪・放火・強姦等の絶無を期すを要す」と厳命、南京事件の再発防止に努めた。
武漢占領後も各師団はそれぞれ追撃戦を続行した。
11月11日、第9師団の洞庭湖畔の岳州(岳陽)の占領により日中戦勃発以来、最大の兵力を動員した攻略作戦は完了した。