しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

徐州会戦 人馬は進む麦畑 (昭和13年)

2020年05月07日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
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「昭和史4」研秀出版 平成7年発行より転記
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(徐州の麦畑でなく、岡山県笠岡市の麦畑 2020.5.7)



人馬は進む麦畑

昭和13年3月、台児荘で北支那方面軍の一部は中国軍と激戦した。
大本営は、戦線を拡大しない方針であったが、
4月7日徐州作戦を命令した。

大本営の計画は、北方から北支那方面軍、南方から中支那方面軍を進攻させて、徐州方面の敵を包囲攻撃しようとした。

北支那方面軍は5月9日から南下を開始し、第5・10・16・114師団は徐州に向かい攻撃前進した。

中支那方面軍は5月19日徐州を占領した。

徐州攻略後、第10・14・16師団は西進して京漢線方面に進攻したが、6月12日の黄河決壊により、その前進は阻止された。

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南京攻略戦 弾雨をのむ城壁 (昭和12年)

2020年05月07日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
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「昭和史4」研秀出版 平成7年発行より転記
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弾雨をのむ城壁

軍中央は10月中旬、上海戦線の苦戦中を見て第10軍(第6・18・114師団)を上海南方の杭州湾に上陸させた。
上海の中国軍は総崩れとなり西方へ退却した。

上海派遣軍司令官の松井大将は、第10軍をあわせ中支那方面軍司令官となった。

11月20日、大本営が設置。

12月1日、大本営より南京攻略が下った。
南京へ突進を開始した。

12月9日、松井司令官は南京開城を勧告し、翌日正午までの回答を求めた。
回答がないため、午後1時より総攻撃を開始した。

12月12日、城壁を攻略。

12月13日、南京を占領した。

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北支戦線 山岳を征く  (昭和12年)

2020年05月07日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
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「昭和史4」研秀出版 平成7年発行より転記
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山岳を征く

北支方面の日本軍は逐次増加され、8月31日には北支那方面軍司令部(司令官寺内寿一大将)を設け、兵力は第5・第6・第14・第16・第20・第108・第109師団、臨時航空兵団を基幹とした。

(途中略)

第10師団は津浦線地区を南進し、12月26日には済南を攻略した。



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戦火上海に飛ぶ (昭和12年)

2020年05月07日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「昭和史4」研秀出版 平成7年発行より転記
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戦火上海に飛ぶ

北支事変後、中・南支方面の情勢も悪化した。

昭和12年8月9日、海軍大山中尉が保安隊に射殺される事件が起こり、翌日から交戦状態になった。
海軍は長崎の大村や台北から南京や南昌の航空基地に渡洋爆撃を実施した。

居留民保護のため、上海派遣軍(松井石根大将の指揮する第3、第11師団)が編成され急派されることになった。
上海派遣軍は8月23日から攻撃を開始したが、中国はクリークを設備した堅固なもので進展しなかった。

第9、第13、第101師団などが9月末から増強されたが苦戦が続いた。
9月末、上海周辺の日本軍は約19万であった。

10月20日、海軍は第3、題4艦隊で支那方面艦隊を編成した。
なお、海軍は9月5日全中国の沿岸封鎖を宣言した。
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