しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

武漢攻略作戦(ペン部隊の派遣)

2020年05月10日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「日中戦争全史・下」笠原十九司著 2017年 高文研発行より転記

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武漢攻略作戦・ペン部隊の派遣

徐州作戦での戦意高騰に成功した軍部は、武漢を利用したメディア戦略を展開した。
文芸春秋社の菊池寛に要請し、当時の人気作家・流行作家が集められた。
陸軍には、
林芙美子・深田久弥・川口松太郎・尾崎士郎・丹羽文雄・岸田国士・久米正雄・・・。
海軍には、
菊池寛・古屋信子・佐藤春夫・吉川英治・・・・、
さらに軍歌を作詞・作曲しまくった感のある西条八十や古関裕爾らで、
中国戦地へ出発した。

「戦場将兵の活躍ぶりを遺憾なく国民に伝えること」
「皇軍の正義をとうとび、軍規の厳正なること」を要請された。

ペン部隊のヒロインとして大活躍をしたのが『放浪記』がベストセラーになり人気作家になっていた林芙美子だった。
「芙美子さん漢口に一番乗り」
「林芙美子女史が漢口に入城」
「林さんの漢口入城は全日本女性の誇りである」
とセンセーショナルに報道した。

日本国内で、
政府と軍部、中央と地方の官庁肝いりで漢口陥落の戦勝祝賀行事が展開されている最中だった。
日本に帰国した従軍作家たちは早速、祝賀ムード演出のため「武漢陥落戦況報告」の講演会に、連日駆り出された。
どの会場でも超満員の観客が押し寄せた。

ペン部隊の作家たちは、雑誌につぎつぎと従軍記を寄稿し、新聞に対談や座談会を掲載して、
過酷な戦場で「支那膺懲」のために意気軒昴に戦っている日本軍部隊の奮闘ぶりを銃後の国民に伝え、国民精神総動員運動や総力戦体制強化のための国民世論の形成に貢献した。

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武漢攻略作戦

2020年05月10日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
父は第10師団の兵だったが、毒ガスのことを話したことは一度もない。

「日中戦争全史・下」笠原十九司著 2017年 高文研発行より転記

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武漢攻略作戦

武漢は長江に漢水が合流する地点に向かい合う武昌・漢口・漢陽お三鎮(都市)からなる。
南京から重慶へ首都を移すことを宣言した蒋介石が、武漢に暫定的に首都機能を移していた。
また、国民政府軍の軍事機関と施設が集中し、中国軍の主力が集結していた。

1938年6月13日、
大本営御前会議で武漢攻略作戦実施が決定した。
武漢と広東を攻略し、年内に日中戦争の決着をつける方針を立てた。

武漢作戦は、
8月22日「漢口付近の要地を攻略占拠すべし、この間成るべく多くの敵を撃破するに努むべし」という大本営の命令によって開始された。

総勢40万弱の日本軍が動員された。
当時日本の陸軍総兵力が34個師団で、23個師団を中国に送り、満州・朝鮮に9個師団配置してソ連に備え、内地には2個師団を残すのみであった。

武漢は北方は山岳地帯、平地は火鍋といわれる夏の炎熱のなかでの戦闘であった。
コレラ・マラリアの流行などにより人馬ともその体力を消耗し、発病者が多数に及んだ。
戦わないうちに野戦病院は患者で充満するありさまで、病死者が多数出た。
第11軍司令官の報告には「約40万の兵力のうち、約15万に達するマラリア患者の治療」のため、戦力が低下したと述べている。

1938年10月26日、
漢口・武昌を占領。27日に漢陽を占領、武漢攻略作戦は終了した。
国民政府は、すでに6月に重慶に移転していたので「潰滅」にはとうていよばなかった。

2ヶ月におよんだ武漢攻略作戦の戦闘は、中国にとっては抗日における最大規模の戦闘であり、日中両軍の犠牲も大きかった。
日本軍側の記録では、
第2軍と第11軍を合わせて戦死者6.806人、負傷者24.680人。

毒ガスの本格使用
武漢戦場の北側の険しい山岳を含む悪路の進軍を命じられた第2軍は、各部隊に毒ガス戦資材を配分し、毒ガス戦を展開するよう指導した。
姫路第10師団を化学戦力の主力に指定し、優先配分した。
武漢作戦以後、毒ガス兵器の使用は恒常化し、使用も大規模となった。

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徐州作戦

2020年05月10日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「日中戦争全史・下」笠原十九司著 2017年 高文研発行より転記

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日本の政府と軍部さらに国民をふくめて、
賭博の心理そのままに、国民政府の大都市を占領していけば、「国民政府の壊滅を期する」ことができるような思い込みで、さらなる大作戦を展開することになった。
1938年2月、
中支那派遣軍(畑俊六大将)が編成され、長江南岸地域の確保・安定任務があたえられた。

台児荘の戦い
北支那方面軍には黄河以北の確保・安定が任務だった。
しかし北支那方面軍は参謀本部に従わず、戦線を黄河南部にまで拡大した。
3月上旬、台児荘を攻撃した。
中国軍に包囲され、かろじて撤退した。
中国は「台児荘の大勝利」と宣伝し、武漢や重慶で祝賀行事がおこなわれた。
また世界各国にも報道した。
日本軍は面子を失い、大がかりな徐州作戦を発動することになった。

徐州作戦
徐州には中国軍40万人が集結していた。
北支那方面軍は、中国軍を捕捉殲滅する好機であると大本営に具申した。
1938年4月7日、
大本営は徐州作戦実施を命令した。
北支那方面軍は南下、中支那方面軍は北上、南北から中国軍を包囲挟撃すべく、大部隊が徐州へ向かって進軍した。
5月19日、
先立って退却していた徐州を占領した。
日本国内では徐州の占領を祝い、旗行列や提灯行列がおこなわれるなど、戦勝気分をもりあげたが、中国軍を捕捉殲滅するという主目的は達成できず、
ただ戦線を広げた結果になった。

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『麦と兵隊』

徐州作戦は、国民を総動員し、多くの兵士を抵抗感なく中国戦場に送り出すための情報宣伝工作としては、大きな成果をおさめた。

南京攻略戦に参加し「土を兵隊」を書いた陸軍伍長・火野葦平(玉井勝則)を徐州作戦に従軍させた。
運転手付きの車をあたえられた火野は第13師団の最前線を取材してまわり、軍の期待にそって一気に『麦と兵隊』を書きあげた。

1938年9月、中央公論社から単行本として発行され、たちまち120万部を越すベストセラーになった。
軍国歌謡にしようと陸軍はポリドールの藤田まさとプロデューサーに依頼、
本を読んだ藤田は感激し、軍人精神にそった歌詞をつくった。
東海林太郎が歌って大ヒットした。
小説・軍歌とも戦地の兵士と国民の一体感を高め、戦意高騰につながった。

火野は名をはせたが、戦後は一転して公職追放を受け、文芸界からも「文化的戦犯」の批判を浴びた。
過去の反省と克服に苦悩し、1960年、53才で自死した。


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ゴールなき泥沼戦争へ(徐州作戦以前)

2020年05月10日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「日中戦争全史・下」笠原十九司著 2017年 高文研発行より転記

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1937年、
「盧溝橋事件」は「北支事変」に発展させ,
海軍は謀略で「第二次上海事変」を起こした。
さらに首都南京へ渡洋爆撃をおこない、一挙に全面戦争「日支事変」に拡大した。
しかし安易な「中国一撃論」は、すぐに破綻が証明された。
すでに重慶に首都遷都を宣布し、武漢に首都機能を移し抗日戦争を継続したからである。

1938年1月11日、
大本営御前会議で
「トラウトマン和平工作」と「国民政府壊滅の戦争継続」の和戦両策が議論された。
1月15日、
参謀本部以外(陸軍、海軍、軍令部、外相)が戦争継続に賛成した。
1月16日、近衛内閣は
「爾後国民政府を対手とせず」を声明した。
国民政府打倒と、新興政権の成立発展を期待した。
このゴールない日中戦争の悲劇に、日本軍そして日本国民を走らせる最終号砲となった。

なお、これを知った指揮者・小沢征爾の父の小沢開作は「民族協和」を唱える活動家だったが日本政府の反省をもとめた。

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陸軍参謀本部が反対した理由は、
3ヶ月に及んだ上海戦に19万人を投入し、戦死戦傷あわせて4万人以上の損害を出し、それに加え戦病者数も膨大だった。
「首都南京を占領すれば中国は屈服する」という安易な「中国一撃論」にひきずられ強行した南京攻略戦に陸軍は20万人を投入しながら中国を「屈服」させることに失敗したから。

1937には中国に69万人が必要で、大部分は陸軍だった。
これ以上の負担と犠牲を回避しようとした。

その後、反対した参謀本部の当事者は左遷・一掃され、歯止めのない長期泥沼戦争に突入となった。

いっぽう、多くの日本国民は、新聞が繰り広げた報道合戦に煽られ、「南京にいつ日章旗が翻るか」に興奮し、
南京が陥落すると
官庁と教育界・マスコミ・ジャーナリズムの肝いりの南京陥落祝賀行事に参加し、昼は「南京陥落万歳」と日の丸を打ち振って祝賀行事をおこない、夜は「勝った!勝った!」と提灯行列を繰り広げた。

やがて国家総動員法の公布(1938年4月1日)により、権限を政府に付与することになり、国民の経済と生活は政府によって統制されることになった。
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