しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

占守島 --「断乎反撃せよ!」知られざる戦記

2020年05月23日 | 占守島の戦い
「断乎反撃せよ!」知られざる戦記 歴史街道編 2017年 PHP発行 より転記する。

・・・・・・・・・・・・

「8月17日夜、占守島(しゅむしゅとう)北東部に奇襲上陸し、18日日没までに同島全域を占領する」。
ソ連軍は当初、一日あれば制圧できるとみて、四部隊で上陸を敢行した。
しかし日本軍は立ちはだかる。


画像(わしズム・小林よしのり 2005年・幻冬舎発行より)


17日深夜、ソ連軍先遣隊が竹田浜より上陸し始めると、歩兵282大隊は四嶺山に司令部を置き、ソ連軍部隊の「壁」となった。
日本軍の砲台から砲撃によりソ連軍艦艇が撃沈、部隊の体を為さなくなった。
そこへ戦車第11連隊が駆け付け、日本軍の優勢は確実となった。
以後、占守島の戦いは8月22日に停戦するまで続く。
しかし小戦闘が起きるのみであった。

停戦交渉
談・元陸軍大尉長島厚
8月18日14時ごろ、師団長の命令で護衛隊と日魯漁業の通訳とソ連軍司令部に出発した。
戦闘は継続中で、頭の上を日ソの弾丸が飛び交う状況でした。
19時ごろ、やっとソ連軍陣地に近づきました。
捕虜となり、後ろ手に縛られ尋問がはじまりました。
停戦文書に司令官の判子を押していたが、サインがないとわめいた。
翌8月19日早朝、
ソ連軍指揮官の大佐に連れてゆかれた。
大佐に朝の6時30分ごろ、堤師団長の停戦文書を手渡しました。
大佐は大柄でさすがに立派で魅力的な方でした。
8月19日15時、
日本軍とソ連軍による停戦交渉が行われました。
日本側は最高指揮官の代理として杉野旅団長と柳岡参謀長、私も同席しました。
しかし
「即決武装解除か否か」を巡り紛糾します。
満洲の居留民の悲劇もあり、停戦は承知するが、武装解除は容認できなかった。
8月22日13時、
堤師団長がソ連軍艦艇で降伏文書に調印した。
占守島の戦いは日本軍約800、ソ連軍約2.300の犠牲を出し、ようやく終わりました。
私はその後、収容所に連行、拘留され、無事に帰国を果たしたのは昭和23年5月でした。

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常磐ハワイアンセンターで、桜田淳子ショーを見ていたら

2020年05月23日 | 昭和51年~64年
常磐ハワイアンセンターで、桜田淳子ショーを見ていたら

常磐ハワイアンセンターは大きな温泉施設で、毎日がレジャー客で人気があった。
管理人も会員になっていて、(年会費を払えば何度でも入れた)
家族でよく行っていた。

常磐ハワイアンセンターには芸能ショーがあり、一流の歌手も出演していた。
ある日、当時人気・・・今でも一定の年齢層に人気・・の桜田淳子ショーがあった。

会場に行くと、いつもと違って超満員。
立ち見でショーを見ることになった。
その時、妻と2歳の長女の三人だった。

ステージに現れた桜田淳子はかわいいステージ衣装で、踊って歌った。
残念ながら後方で見ているので、お顔までははっきりと見えなかった。
歌とおしゃべりのショーだったが、
話す内容が子供向けで、おしゃべりは物足りなかった。

長女は大人の脚しか見えないので、可愛そうで肩車にした。
最初はステージを見て反応がよかったが、
いつの間にか動く様子が無くなった。
妻に言うと、
「寝ている!」
管理人の頭を枕にして、べったりの姿勢で寝ていた。


人気スター桜田淳子は、結婚が原因で芸能界から消えてしまった。
原因はどうあれ出なくなったので、いつまでも若くて可愛いままのイメージが残っている。


・・・・・・


特急ひたちで、往年の大歌手・霧島昇と付人を見た


東京への出張は特急ひたちで往復していた。
出張手当はグリーン車が出ていた。
復路のみグリーン車に乗って、往路のグリーン料金をこずかい銭にしていた。

ある時の出張帰り、上野駅午後6:00発のひたちグリーン車に乗ると,霧島昇がいた。
霧島以上に年配と見える男性の付き人が相席していた。
そのグリーン車には、いつものように、合わせても5~6人程度の乗客だった。

しかも管理人の一列前の隣列だったので、二人の様子と会話がよく見え、よく聞こえた。

列車は水戸駅を過ぎた。
水戸駅を過ぎると乗客の乗り降りは、降りるだけになっていく。
つまり車内はいっそう静かになり、自分が降りる駅に着くのを待つだけの状態となってゆく。
その時に、
霧島昇は突然言った、
「駅弁がほしい」。
その瞬間、
付き人は席を立ち、前方に向かって走り出した。
そして次に、そのまま後方に走り去った。
・・・・・そして霧島の席まで戻り、なにやら言った。
探したり当たったり努力したが、結局駅弁は買えなかったという報告であろう。
霧島は強い口調で、しかるようで、納得をした。


普通であれば、時間的に無理かなと思うであろう。
しかし両者は本気モードで弁当を求めた。

両者が冷静に話していれば、管理人も”無理であること”をおしてもよかったのだが、
とても、そんな雰囲気ではなかった。
芸能人の実態を垣間見たような、そして残念な気持になった。
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三沢高校と決勝戦をした松山商業のグラウンド

2020年05月23日 | 昭和41年~50年
三沢高校と決勝戦をした松山商業のグラウンド


春と夏の甲子園では、幾多のヒーローが生まれているが
誰が一番人気者であったか?
といえば三沢高校の太田幸司投手だろう。
顔は日露混血のエキゾチックな二枚目。試合は一人で延長戦を投げ抜き、翌日も連投、そして敗者となった。
たちまち日本中の大ヒーロー。
その試合に勝ったのが松山商業。

優勝パレードがあり、松山市の上一万で見物した。
選手はユニフォーム姿で、オープンカー4~5台、連なって学校方面へ向かっていった。

松山商業は、もともと香川の高松商業と並んで、四国を代表する伝統の強豪校だった。
その年は、甲子園優勝が加わり更に話題になった。

それで、
街中にある松山商の校庭に、野球部の練習を何度か見に行った。
独立した野球部のグラウンドでなく、校舎と同じ敷地の校庭が練習場。

広いグラウンドの外野の奥(敷地のいちばん後ろ)に大きな木が並んでいて、その下にコート姿の大人が黙って練習を見ていた。
時おり、手帳を出してメモしていた。
「あれはプロ野球のスカウトだ」という話だった。
スカウトは離れた状態で4~6人いて、視線は選手だけに注がれていた。

その時代はまだ、学校内、特に校庭はどこからでも出入り自由。
選手・部員の邪魔にならないことだけが前提だった。
今思えば平和な時代だった。

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