父が従軍した徐州戦と漢口戦には、多くの作家も取材従軍をしているが火野芦平と並び石川達三も参加している。
武漢市では、父と石川達三と同じ時を共有している。
「戦争と検閲」河原理子著 2015年発行 岩波新書
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
軍機軍略の掲載禁止
盧溝橋事件が起きた1937年7月から、内務省は矢継ぎ早に、記事差し止めに関する指示を出していた。
兵力が集まる地名は書けない。
部隊の移動を推知させるものも不可。
規模がわからないように、小隊も中隊もすべて「〇〇部隊」と表記。
戦死した場所も空も掲載不可。
そもそも「我軍の不利なる記事・写真は掲載せざること」とあり、都合のよいことしか掲載を認めなかった。
美談は明朗に
書き方を誘導するものがあった。銃後の美談などである。
陸軍省は国民の愛国心を保つため、召集美談、出発見送りの状況掲載は、条件付きで解禁した。
行先・日時・場所明示しない条件で、なおかつ感傷的に流れず、社会の欠陥を裏書きするが如き記事を避けること。
戦死病者の新聞紙上に多数掲載は禁止され、全国掲載はだめだが地元戦死者だけ掲載はよいとなった。
言論統制
そもそも戦争が、民族解放やファッショ国に対する民主主義国家の戦争、とりわけ防御的なものであれば、戦争反対の声はまりでないはずだが、戦争の多くはそうでないから言論統制が求められるのだ。
戦時における言論統制について、官憲によるそれだけを考えることは、大きな間違いである。
言論の機関である新聞・雑誌の類が戦争を謳歌し、反対の意見や批判をまったく却けてしまう。
官憲の手が動いているのはもとよりであるが、新聞や雑誌のみずからの発意に出ていることを見逃すことはできない。
新聞・雑誌社の意図ということもあるが、一般民衆の心理を反映し、それに迎合していうるという点が多いであろう。
かくて、民衆が反対の意見や批判を圧し潰すのである。
民衆が言論を統制するのである。
「生きている兵隊」の年表
中央公論社の南京派遣・193712.29~1938.1.23
1938.2.12脱稿
(1938.2.18発売禁止)
1938.2.19中央公論3月号発売
中央公論編集長(当時)雨宮庸蔵「忍ぶ草」1988年発行より
戦後の編集者には理解しがたいであろうが、検閲制度があったころは、エロチシズムから思想面に至るまで、検閲をとおるか通らぬかぎりぎりの線まで編集の網をなげることによって、よい雑誌、売れる雑誌がつくれるという気概と商魂とが一貫していた。
事前検閲もないではなかったが、実際問題として原稿が締切間際に殺到するケースが多いので実行不可能であった。
「生きている兵隊」にしても330枚の原稿がとどいたのは校正の間際であった。
当時の出版部長・牧野は、
「石川氏の原稿は締切を三日も過ぎていた。頁をあけて待っていた編集部では、組み指定だけをして印刷所へまわした。
雑誌の製作途上には往々にしてあるのである
初稿から問題になった。
伏字・削除・○○を加える。
大削除する。
それでは作品の価値がなくなる。
その時、本文は輪転機にかかって印刷されている。
読みだすと私は原稿に吸いつけられ、完全に魅了された。
一気に読み終えた。そして吾にかえって愕然とした。
これはとても通らない。」
牧野はこうつづる。
「生きている兵隊」は、戦争に伴う罪悪、汚辱、非道をえぐりだしていた。
戦争の本質は殺し合いであり、戦場に送り出しておきながら手をきれいにして帰ってこいなどと求める方が無理だ。
しかし日本兵だけはそのようなことをしないと言い張るのが、当時の軍部であり宣伝だった。
指導者は「正戦あるいは聖戦」のイメージを国民に植え付ける懸命の努力をしていた。
そんな情勢のなか「生きている兵隊」は大胆といおうか無謀といおうか、戦場の風景を率直に描写したのである。軍部がだまって見のがすはずはない・・・・。
編集長・雨宮はおそらく瞬時の判断で、これを載せる決断をした。
発禁
雑誌が発売禁止になると、実行するのは警察である。
書店に出回った雑誌が、各警察署に押収される。
問題個所だけ切り取り、全社員が各警察をまわり、もらい下げる。
部数
発売部数は約73.000部。
約18.000部が逃れた。
4月警察は中国語・英語・ロシア語に訳されたのを知った。
法廷
警視庁は、達三たちを書類送検した。
裁判で達三は
「新聞等は都合のよい事件はかき、真実を報道していないので、国民がのんきな気分でいることが不満でした。
国民は出征兵士を神様のように思い、わが軍が占領した土地には楽土が建設され、支那民衆も之に協力しているか如く考えているか、戦争とは左様な長閑なものでなく、戦争というものの真実を国民に知らせることが必要と信じていました。
ことに、南京陥落の際は提灯行列をやりお祭り騒ぎをしていました。
憤慨に堪えませんでした。
私は戦争の如何なるものかを国民に知らさないといけないと考え、ぜひ一度戦線を視察したい希望を抱いていたのです。」
作家はいかにあるべきか
私は戦場で一人の兵から言われたことがあった。
「内地の新聞を見るとまるで戦争なんて何でもないみたいな書き方をしているが、あれを見てみんな怒っているよ。
俺たちはそんなのんきな戦争をしてるんじゃない、新聞記事はまるで子供の戦争ごっこだ」
私は非国民的な一片の思想をも書いた覚えはなかった。
国策の線に沿いつつしかも線を離れた自由な眼を失ってよいものではない。
この程度の自由さえも失ったならば作家は単なる扇動者になってしまうであろう。
判決
達三と雨宮が禁固4ケ月、牧野が罰金100円の有罪判決である。
判決理由は、
「生きている兵隊」の四つの記述を挙げた。
①瀕死の母を抱いて泣き続ける中国娘を銃剣で殺害する場面。
②砂糖を盗んだ中国青年を銃剣で殺害する場面。
③前線は現地徴発主義でやっている話と、兵士が「牛肉の徴発」に出かける話。
④姑娘が「拳銃の弾丸と交換にくれた」という銀の指輪を見せる場面。
皇軍兵士の非戦闘員の殺戮、掠奪、軍規弛緩の状況を記述し、雨宮が編集、牧野が発行して、達三は執筆した罪。
東京日日新聞は「情の判決」と報じた。
弁護人は、陸軍刑法違反と脅された経過から、安堵した。
武漢市では、父と石川達三と同じ時を共有している。
「戦争と検閲」河原理子著 2015年発行 岩波新書
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
軍機軍略の掲載禁止
盧溝橋事件が起きた1937年7月から、内務省は矢継ぎ早に、記事差し止めに関する指示を出していた。
兵力が集まる地名は書けない。
部隊の移動を推知させるものも不可。
規模がわからないように、小隊も中隊もすべて「〇〇部隊」と表記。
戦死した場所も空も掲載不可。
そもそも「我軍の不利なる記事・写真は掲載せざること」とあり、都合のよいことしか掲載を認めなかった。
美談は明朗に
書き方を誘導するものがあった。銃後の美談などである。
陸軍省は国民の愛国心を保つため、召集美談、出発見送りの状況掲載は、条件付きで解禁した。
行先・日時・場所明示しない条件で、なおかつ感傷的に流れず、社会の欠陥を裏書きするが如き記事を避けること。
戦死病者の新聞紙上に多数掲載は禁止され、全国掲載はだめだが地元戦死者だけ掲載はよいとなった。
言論統制
そもそも戦争が、民族解放やファッショ国に対する民主主義国家の戦争、とりわけ防御的なものであれば、戦争反対の声はまりでないはずだが、戦争の多くはそうでないから言論統制が求められるのだ。
戦時における言論統制について、官憲によるそれだけを考えることは、大きな間違いである。
言論の機関である新聞・雑誌の類が戦争を謳歌し、反対の意見や批判をまったく却けてしまう。
官憲の手が動いているのはもとよりであるが、新聞や雑誌のみずからの発意に出ていることを見逃すことはできない。
新聞・雑誌社の意図ということもあるが、一般民衆の心理を反映し、それに迎合していうるという点が多いであろう。
かくて、民衆が反対の意見や批判を圧し潰すのである。
民衆が言論を統制するのである。
「生きている兵隊」の年表
中央公論社の南京派遣・193712.29~1938.1.23
1938.2.12脱稿
(1938.2.18発売禁止)
1938.2.19中央公論3月号発売
中央公論編集長(当時)雨宮庸蔵「忍ぶ草」1988年発行より
戦後の編集者には理解しがたいであろうが、検閲制度があったころは、エロチシズムから思想面に至るまで、検閲をとおるか通らぬかぎりぎりの線まで編集の網をなげることによって、よい雑誌、売れる雑誌がつくれるという気概と商魂とが一貫していた。
事前検閲もないではなかったが、実際問題として原稿が締切間際に殺到するケースが多いので実行不可能であった。
「生きている兵隊」にしても330枚の原稿がとどいたのは校正の間際であった。
当時の出版部長・牧野は、
「石川氏の原稿は締切を三日も過ぎていた。頁をあけて待っていた編集部では、組み指定だけをして印刷所へまわした。
雑誌の製作途上には往々にしてあるのである
初稿から問題になった。
伏字・削除・○○を加える。
大削除する。
それでは作品の価値がなくなる。
その時、本文は輪転機にかかって印刷されている。
読みだすと私は原稿に吸いつけられ、完全に魅了された。
一気に読み終えた。そして吾にかえって愕然とした。
これはとても通らない。」
牧野はこうつづる。
「生きている兵隊」は、戦争に伴う罪悪、汚辱、非道をえぐりだしていた。
戦争の本質は殺し合いであり、戦場に送り出しておきながら手をきれいにして帰ってこいなどと求める方が無理だ。
しかし日本兵だけはそのようなことをしないと言い張るのが、当時の軍部であり宣伝だった。
指導者は「正戦あるいは聖戦」のイメージを国民に植え付ける懸命の努力をしていた。
そんな情勢のなか「生きている兵隊」は大胆といおうか無謀といおうか、戦場の風景を率直に描写したのである。軍部がだまって見のがすはずはない・・・・。
編集長・雨宮はおそらく瞬時の判断で、これを載せる決断をした。
発禁
雑誌が発売禁止になると、実行するのは警察である。
書店に出回った雑誌が、各警察署に押収される。
問題個所だけ切り取り、全社員が各警察をまわり、もらい下げる。
部数
発売部数は約73.000部。
約18.000部が逃れた。
4月警察は中国語・英語・ロシア語に訳されたのを知った。
法廷
警視庁は、達三たちを書類送検した。
裁判で達三は
「新聞等は都合のよい事件はかき、真実を報道していないので、国民がのんきな気分でいることが不満でした。
国民は出征兵士を神様のように思い、わが軍が占領した土地には楽土が建設され、支那民衆も之に協力しているか如く考えているか、戦争とは左様な長閑なものでなく、戦争というものの真実を国民に知らせることが必要と信じていました。
ことに、南京陥落の際は提灯行列をやりお祭り騒ぎをしていました。
憤慨に堪えませんでした。
私は戦争の如何なるものかを国民に知らさないといけないと考え、ぜひ一度戦線を視察したい希望を抱いていたのです。」
作家はいかにあるべきか
私は戦場で一人の兵から言われたことがあった。
「内地の新聞を見るとまるで戦争なんて何でもないみたいな書き方をしているが、あれを見てみんな怒っているよ。
俺たちはそんなのんきな戦争をしてるんじゃない、新聞記事はまるで子供の戦争ごっこだ」
私は非国民的な一片の思想をも書いた覚えはなかった。
国策の線に沿いつつしかも線を離れた自由な眼を失ってよいものではない。
この程度の自由さえも失ったならば作家は単なる扇動者になってしまうであろう。
判決
達三と雨宮が禁固4ケ月、牧野が罰金100円の有罪判決である。
判決理由は、
「生きている兵隊」の四つの記述を挙げた。
①瀕死の母を抱いて泣き続ける中国娘を銃剣で殺害する場面。
②砂糖を盗んだ中国青年を銃剣で殺害する場面。
③前線は現地徴発主義でやっている話と、兵士が「牛肉の徴発」に出かける話。
④姑娘が「拳銃の弾丸と交換にくれた」という銀の指輪を見せる場面。
皇軍兵士の非戦闘員の殺戮、掠奪、軍規弛緩の状況を記述し、雨宮が編集、牧野が発行して、達三は執筆した罪。
東京日日新聞は「情の判決」と報じた。
弁護人は、陸軍刑法違反と脅された経過から、安堵した。