しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「生きている兵隊」②岩波新書・戦争と検閲より

2020年05月18日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
父が従軍した徐州戦と漢口戦には、多くの作家も取材従軍をしているが火野芦平と並び石川達三も参加している。
武漢市では、父と石川達三と同じ時を共有している。



「戦争と検閲」河原理子著 2015年発行 岩波新書

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軍機軍略の掲載禁止
 盧溝橋事件が起きた1937年7月から、内務省は矢継ぎ早に、記事差し止めに関する指示を出していた。
兵力が集まる地名は書けない。
部隊の移動を推知させるものも不可。
規模がわからないように、小隊も中隊もすべて「〇〇部隊」と表記。
戦死した場所も空も掲載不可。
 そもそも「我軍の不利なる記事・写真は掲載せざること」とあり、都合のよいことしか掲載を認めなかった。

美談は明朗に
 書き方を誘導するものがあった。銃後の美談などである。
陸軍省は国民の愛国心を保つため、召集美談、出発見送りの状況掲載は、条件付きで解禁した。
行先・日時・場所明示しない条件で、なおかつ感傷的に流れず、社会の欠陥を裏書きするが如き記事を避けること。
 戦死病者の新聞紙上に多数掲載は禁止され、全国掲載はだめだが地元戦死者だけ掲載はよいとなった。

言論統制
そもそも戦争が、民族解放やファッショ国に対する民主主義国家の戦争、とりわけ防御的なものであれば、戦争反対の声はまりでないはずだが、戦争の多くはそうでないから言論統制が求められるのだ。
戦時における言論統制について、官憲によるそれだけを考えることは、大きな間違いである。
言論の機関である新聞・雑誌の類が戦争を謳歌し、反対の意見や批判をまったく却けてしまう。
官憲の手が動いているのはもとよりであるが、新聞や雑誌のみずからの発意に出ていることを見逃すことはできない。
新聞・雑誌社の意図ということもあるが、一般民衆の心理を反映し、それに迎合していうるという点が多いであろう。
かくて、民衆が反対の意見や批判を圧し潰すのである。
民衆が言論を統制するのである。

「生きている兵隊」の年表
中央公論社の南京派遣・193712.29~1938.1.23
1938.2.12脱稿
(1938.2.18発売禁止)
1938.2.19中央公論3月号発売

中央公論編集長(当時)雨宮庸蔵「忍ぶ草」1988年発行より
戦後の編集者には理解しがたいであろうが、検閲制度があったころは、エロチシズムから思想面に至るまで、検閲をとおるか通らぬかぎりぎりの線まで編集の網をなげることによって、よい雑誌、売れる雑誌がつくれるという気概と商魂とが一貫していた。
事前検閲もないではなかったが、実際問題として原稿が締切間際に殺到するケースが多いので実行不可能であった。
「生きている兵隊」にしても330枚の原稿がとどいたのは校正の間際であった。

当時の出版部長・牧野は、
「石川氏の原稿は締切を三日も過ぎていた。頁をあけて待っていた編集部では、組み指定だけをして印刷所へまわした。
雑誌の製作途上には往々にしてあるのである
 初稿から問題になった。
伏字・削除・○○を加える。
大削除する。
それでは作品の価値がなくなる。
その時、本文は輪転機にかかって印刷されている。
読みだすと私は原稿に吸いつけられ、完全に魅了された。
一気に読み終えた。そして吾にかえって愕然とした。
 これはとても通らない。」

牧野はこうつづる。
「生きている兵隊」は、戦争に伴う罪悪、汚辱、非道をえぐりだしていた。
戦争の本質は殺し合いであり、戦場に送り出しておきながら手をきれいにして帰ってこいなどと求める方が無理だ。
 しかし日本兵だけはそのようなことをしないと言い張るのが、当時の軍部であり宣伝だった。
指導者は「正戦あるいは聖戦」のイメージを国民に植え付ける懸命の努力をしていた。
そんな情勢のなか「生きている兵隊」は大胆といおうか無謀といおうか、戦場の風景を率直に描写したのである。軍部がだまって見のがすはずはない・・・・。

編集長・雨宮はおそらく瞬時の判断で、これを載せる決断をした。

発禁
雑誌が発売禁止になると、実行するのは警察である。
書店に出回った雑誌が、各警察署に押収される。
問題個所だけ切り取り、全社員が各警察をまわり、もらい下げる。

部数
発売部数は約73.000部。
約18.000部が逃れた。
4月警察は中国語・英語・ロシア語に訳されたのを知った。

法廷
警視庁は、達三たちを書類送検した。
裁判で達三は
「新聞等は都合のよい事件はかき、真実を報道していないので、国民がのんきな気分でいることが不満でした。
国民は出征兵士を神様のように思い、わが軍が占領した土地には楽土が建設され、支那民衆も之に協力しているか如く考えているか、戦争とは左様な長閑なものでなく、戦争というものの真実を国民に知らせることが必要と信じていました。
ことに、南京陥落の際は提灯行列をやりお祭り騒ぎをしていました。
憤慨に堪えませんでした。
私は戦争の如何なるものかを国民に知らさないといけないと考え、ぜひ一度戦線を視察したい希望を抱いていたのです。」

作家はいかにあるべきか
私は戦場で一人の兵から言われたことがあった。
「内地の新聞を見るとまるで戦争なんて何でもないみたいな書き方をしているが、あれを見てみんな怒っているよ。
俺たちはそんなのんきな戦争をしてるんじゃない、新聞記事はまるで子供の戦争ごっこだ」
私は非国民的な一片の思想をも書いた覚えはなかった。
国策の線に沿いつつしかも線を離れた自由な眼を失ってよいものではない。
この程度の自由さえも失ったならば作家は単なる扇動者になってしまうであろう。

判決
達三と雨宮が禁固4ケ月、牧野が罰金100円の有罪判決である。
判決理由は、
「生きている兵隊」の四つの記述を挙げた。
①瀕死の母を抱いて泣き続ける中国娘を銃剣で殺害する場面。
②砂糖を盗んだ中国青年を銃剣で殺害する場面。
③前線は現地徴発主義でやっている話と、兵士が「牛肉の徴発」に出かける話。
④姑娘が「拳銃の弾丸と交換にくれた」という銀の指輪を見せる場面。

皇軍兵士の非戦闘員の殺戮、掠奪、軍規弛緩の状況を記述し、雨宮が編集、牧野が発行して、達三は執筆した罪。
東京日日新聞は「情の判決」と報じた。
弁護人は、陸軍刑法違反と脅された経過から、安堵した。

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高見順「敗戦日記」② 昭和20年8月9日

2020年05月18日 | 昭和20年(終戦まで)
高見順「敗戦日記」②

高見順は情報量が多かったようで、かつ沈着な分析で
70余年後の今読んでも、歴史に流されることのない日記であることに驚く。

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高見順「敗戦日記」

8月9日
 前日と今日の新聞が一緒に来た。前日の新聞をまず見た。「新型爆弾」については、一面のトップに記事が掲げてあるが、なるほど簡単である。

・・・
  8月8日(毎日新聞)  軽視許されぬ其威力    速かに対策を樹立
  8月6日午前8時すぎB29少数機は広島市に侵入、少数の新型爆弾を投下した、そのため同市の相当数の家屋が倒壊、各所に火災が発生した、敵の投下した新型爆弾は落下傘をつけ空中で破裂したものの如くであり、その詳細については目下調査中であるが、その威力は軽視を許さぬ
  〔大阪発〕6日広島市に投下した敵のいはゆる新型爆弾につき6日広島の現場に急行詳細な調査を遂げ8日帰阪した中部軍管区参謀赤塚一雄中佐はその視察結果を公表した。
被害が比較的大きかったのは時あたかも空襲警報解除ののちであり
一般市民もほつとしてゐたいはば気分にゆるみがあったときである、ここへ突如従来とは全く性能を異にした爆弾を投下されたので
普通なら何でもなかったのに
この予想外の被害を生んだのである、敵は高性能の爆弾を投下したと発表した。

その特徴をあげると
第1に熱線による焼夷的な威力が大きかったこと、
第2爆風圧が従来のものより強烈であったこと
この種爆弾は日本でも研究されこの実体もわかってゐた程度のものである、
 第1の熱線の焼夷的効力についてまづ上空に向って遮蔽をすることが最も効果的である、この意味から地下壕は絶対的である
 五体の露出部分は完全な防空服装によつて包むこと、2枚以上の服装をまとつたものは安全であつた。
かうした防空服装を整へて壕に入つてをれば絶対安全である

 第2の爆風圧即ち爆風に対しても上空に向つての遮蔽が有効であることはいふまでもない。その一例は電車の鉄筋が日本家屋の柱より強かつたからである

 熱線を防ぐため伏せの姿勢が有効であるは論をまたない、この敵の新型爆弾に対処する途は今こそ一億総穴居、完全な防空生活に徹することの以外にはない、新型爆弾恐れるに足らず、
要は不用意な安心感をもつて壕への待避と完全な防空服装を怠ることによつて不慮の災禍を蒙る。

・・・

朝、久米家へ行った。
原子爆弾の話が出た。仁丹みたいな粒で東京がすっ飛ぶという話から、新爆弾をいつか「仁丹」と呼び出した。
「そのうち、横須賀にも仁丹が来ますな」
「2里四方駄目だというが、鎌倉は、するとまあ助かりますかな」
 昼食後、今日は私の当番なので、妻と店へ行く。いつもながらの繁昌である。「仁丹」が現われても、街に動揺はない。続々と会員申し込みがある。

4時過ぎ頃、林房雄が自転車に乗って来て、
「えらいことになった。戦争はもうおしまいだな」という。新爆弾のことかと思ったら、
「まだ知らんのか。ソ聯が宣戦布告だ」
 3時のラジオで報道されたという。

放送局の人が来た。
「えらいことになったですな」と私は言った。
「爆弾ですか」
 2人は、つい先刻の私と同じく、ソ聯の宣戦をまだ知らないのだった。

永井君が来た。
東京からの帰りに寄ったのである。緊張した表情である。長崎がまた原子爆弾に襲われ広島より惨害がひどいらしいという。
 避難の話になった。もうこうなったら避難すべき時だということはわかっているのだが、誰もしかし逃げる気がしない。億劫でありまた破れかぶれだ。
「仕方がない。死ぬんだな」

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昭和20年8月8日夕刻、仁科芳雄博士広島に着く

2020年05月18日 | 昭和20年(終戦まで)
仁科博士の出身地である里庄町では、
「広島に投下された新型爆弾は”原爆”である」と最初に報告し、
戦争を「終戦へ導いた」平和の功労者である、ことになっている。

しかし、博士は原爆の開発者であり、(原爆の父となりえる地位)
軍は”原爆”と判定したので、その確認のため開発者である博士を派遣したのは間違いない。
それに、博士が広島に着いたのは8月8日夕刻である。
一般人である作家の高見順でさえ、8月7日に情報を入手している。

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高見順「敗戦日記」①

8月7日
新橋駅で義兄に「やあ、高見さん」と声をかけられた。
「大変な話——聞いた?」と義兄はいう。
「大変な話?」
 あたりの人をはばかって、義兄は歩廊に出るまで、黙っていた。人のいないとこへと彼は私を引っぱって行って、
「原子爆弾の話——」
「広島は原子爆弾でやられて大変らしい。畑俊六も死ぬし……」
「ふっ飛んじまったらしい」
大塚総監も知事も——広島の全人口の3分の1がやられたという。
「もう戦争はおしまいだ」
 原子爆弾をいち早く発明した国が勝利を占める、原子爆弾には絶対に抵抗できないからだ、そういう話はかねて聞いていた。
その原子爆弾が遂に出現したというのだ。——衝撃は強烈だった。私はふーんと言ったきり、口がきけなかった。
対日共同宣言に日本が「黙殺」という態度に出たので、それに対する応答だと敵の放送は言っているという。
「黙殺というのは全く手のない話で、黙殺するくらいなら、一国の首相ともあろうものが何も黙殺というようなことをわざわざいう必要はない。
それこそほんとうに黙っていればいいのだ。まるで子供が政治をしているみたいだ。
——実際、子供の喧嘩だな」と私は言った。

8月8日
 大詔奉戴日
 電車が来たので乗ろうとすると、向うの窓から今君が呼ぶ。その車に乗った。常と同じく、満員である。
 今君と2人きりになったとき、
「新聞読んだ?」
 と、聞いてみたら、読んだというので、広島の爆弾のことが出ていたかと聞くと、
「出ていた——」
「変な爆弾だったらしいが」
「うん、新型爆弾だと書いてある」
「原子爆弾らしいのだが、そんなこと書いてなかった?」
「ない。——ごくアッサリした記事だった」
「そうかね。原子爆弾らしいんだがね。——で、もしほんとに原子爆弾だったとしたら、もう戦争は終結だがね」
 田村町へ歩きながらの会話だ。あたりに人はいないが、私は声を低くしていた。
街の様子、人の様子は、いつもと少しも変ってない。恐ろしい原子爆弾が東京の私たちの頭上にもいつ炸裂するかわからないというのに
人々は、のんびりした、ぼんやりした顔をしている。これはどういうことか。
 文報へ行くと、調査部の部屋でまだ常会が行われていた。。
 今君が原子爆弾のことを座に披露した。誰も知らない。知らないのは当り前であった。新聞でもラジオでも、単に新型爆弾という言葉で、あっさり片付けているからだ。国民に恐怖心をおこさせまいとする政府の隠蔽政策は、——万事につけてこの政策だが、——隠せば隠すだけ、むしろ誇大に伝わるだろう。その害の方が警戒すべきなのではないか。万事につけて、今までいつもそうだったが——。

 今日は常務理事会だが、会長の高島米峰氏ひとりしかやってこない。帰り際になって警報が鳴った。
新橋で東京新聞を買った。
「新兵器に防策なき例なし」こういう見出しだ。ひどく苦しい表現だ。
大本営発表(昭和20年8月7日15時30分)
  一、昨8月6日広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり
  二、敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり
  昨7日の大本営発表にみられる通り、敵は6日午前8時すぎB29の少数機を広島市に侵入せしめ、少数の新型爆弾を投下、少数機、少数の爆弾をもつて一瞬にして無辜(むこ)の民多数に残虐なる殺傷を加へたるのほか、相当数の家屋を倒壊、市内各所に火災を生ぜしめるの天人共に許さざる暴挙を敢へてなしたのである、新型爆弾の威力、被害等については未だ詳細判明せざるも、共に軽視すべからざるものがあり、つねに人道をロにし、表面正義をよそほふ敵米ながら、既にこと、この暴挙に至っては最早や世界の何人も許さざる鬼畜の手段たるにたがはず、吾等は日本民族抹殺目指す暴虐なる敵新企図の一切に対しては敢然今ぞ反撥するところがなければならぬ
 今君は、これを読んで、
「こりゃ、君、相当なものだね」
 と言った。私も記事の背後に、爆弾の恐ろしさを読んだ。どうして真相を発表しないのか。どうしていたずらに疑心暗鬼を生ぜしめるのか。
 歩廊で北条秀司君に会った。原巌、鈴木英輔等の死を聞く。
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