「断乎反撃せよ!」知られざる戦記 歴史街道編 2017年 PHP発行 より転記する。
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「8月17日夜、占守島(しゅむしゅとう)北東部に奇襲上陸し、18日日没までに同島全域を占領する」。
ソ連軍は当初、一日あれば制圧できるとみて、四部隊で上陸を敢行した。
しかし日本軍は立ちはだかる。
画像(わしズム・小林よしのり 2005年・幻冬舎発行より)
17日深夜、ソ連軍先遣隊が竹田浜より上陸し始めると、歩兵282大隊は四嶺山に司令部を置き、ソ連軍部隊の「壁」となった。
日本軍の砲台から砲撃によりソ連軍艦艇が撃沈、部隊の体を為さなくなった。
そこへ戦車第11連隊が駆け付け、日本軍の優勢は確実となった。
以後、占守島の戦いは8月22日に停戦するまで続く。
しかし小戦闘が起きるのみであった。
停戦交渉
談・元陸軍大尉長島厚
8月18日14時ごろ、師団長の命令で護衛隊と日魯漁業の通訳とソ連軍司令部に出発した。
戦闘は継続中で、頭の上を日ソの弾丸が飛び交う状況でした。
19時ごろ、やっとソ連軍陣地に近づきました。
捕虜となり、後ろ手に縛られ尋問がはじまりました。
停戦文書に司令官の判子を押していたが、サインがないとわめいた。
翌8月19日早朝、
ソ連軍指揮官の大佐に連れてゆかれた。
大佐に朝の6時30分ごろ、堤師団長の停戦文書を手渡しました。
大佐は大柄でさすがに立派で魅力的な方でした。
8月19日15時、
日本軍とソ連軍による停戦交渉が行われました。
日本側は最高指揮官の代理として杉野旅団長と柳岡参謀長、私も同席しました。
しかし
「即決武装解除か否か」を巡り紛糾します。
満洲の居留民の悲劇もあり、停戦は承知するが、武装解除は容認できなかった。
8月22日13時、
堤師団長がソ連軍艦艇で降伏文書に調印した。
占守島の戦いは日本軍約800、ソ連軍約2.300の犠牲を出し、ようやく終わりました。
私はその後、収容所に連行、拘留され、無事に帰国を果たしたのは昭和23年5月でした。
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「8月17日夜、占守島(しゅむしゅとう)北東部に奇襲上陸し、18日日没までに同島全域を占領する」。
ソ連軍は当初、一日あれば制圧できるとみて、四部隊で上陸を敢行した。
しかし日本軍は立ちはだかる。
画像(わしズム・小林よしのり 2005年・幻冬舎発行より)
17日深夜、ソ連軍先遣隊が竹田浜より上陸し始めると、歩兵282大隊は四嶺山に司令部を置き、ソ連軍部隊の「壁」となった。
日本軍の砲台から砲撃によりソ連軍艦艇が撃沈、部隊の体を為さなくなった。
そこへ戦車第11連隊が駆け付け、日本軍の優勢は確実となった。
以後、占守島の戦いは8月22日に停戦するまで続く。
しかし小戦闘が起きるのみであった。
停戦交渉
談・元陸軍大尉長島厚
8月18日14時ごろ、師団長の命令で護衛隊と日魯漁業の通訳とソ連軍司令部に出発した。
戦闘は継続中で、頭の上を日ソの弾丸が飛び交う状況でした。
19時ごろ、やっとソ連軍陣地に近づきました。
捕虜となり、後ろ手に縛られ尋問がはじまりました。
停戦文書に司令官の判子を押していたが、サインがないとわめいた。
翌8月19日早朝、
ソ連軍指揮官の大佐に連れてゆかれた。
大佐に朝の6時30分ごろ、堤師団長の停戦文書を手渡しました。
大佐は大柄でさすがに立派で魅力的な方でした。
8月19日15時、
日本軍とソ連軍による停戦交渉が行われました。
日本側は最高指揮官の代理として杉野旅団長と柳岡参謀長、私も同席しました。
しかし
「即決武装解除か否か」を巡り紛糾します。
満洲の居留民の悲劇もあり、停戦は承知するが、武装解除は容認できなかった。
8月22日13時、
堤師団長がソ連軍艦艇で降伏文書に調印した。
占守島の戦いは日本軍約800、ソ連軍約2.300の犠牲を出し、ようやく終わりました。
私はその後、収容所に連行、拘留され、無事に帰国を果たしたのは昭和23年5月でした。
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