しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

みかん輝く黄金の島、大長

2022年05月13日 | 農業(農作物・家畜)

戦後の農政は、土地改革という歴史的大仕事があったが、それは占領時代のこと。
独立後の日本農政は、豊富な予算をひたすら”稲作”と”農業土木”につぎ込んだだけ、という思いがする。

昭和30年代の初頭、西日本の沿岸部を中心にミカン栽培が推進され、先進地の大長(おうちょう)は誰もが名を知る島となった。


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みかん輝く黄金の島、大長

 

「島」 斎藤潤 みずわの出版 2010年発行

昭和30年代半ばに温州ミカン一箱が当時の金額で数千円した。
小さな島から大阪市場へ直行するミカン専用船があった。
王長は、黄金の島の異名をとった。

「柑橘類は、やはり島が中心です。
周囲が海で気温が下がりにくい、
傾斜地が多く水が少ない、
風が比較的当たりにくい、という条件が、栽培に適しているんです」
水分はぎりぎりまで絞り最低限の量だけをパイプで点滴してやる。

農船とは、大長のミカン栽培の象徴的な存在と言っていい5トン未満の木造船だ。
近くの島や対岸の本州、四国まで土地を求め、開墾してミカン畑を作った。
農作業に通う足であり、ミカンを運ぶ輸送船でもあった。

 

 

大長ミカンとは大長地区で収穫される柑橘全般をさし、品種名ではない。
代表するのは温州ミカンの青江早生だ。
種無しの温州ミカンは、子孫ができないと嫌われていた。
大分県の青江村から穂木を譲り受けて接木し青江早生と名づけ、
翌年から村内に穂木を配って広めた。
最盛期には全国の早生ミカンの8割を占めた。
皮が滑らかで薄く、房が柔らかでそのまま食べられた。

昭和30年代から40年代の初めまでが大長の黄金期で、
当時の金で、年収1億を超える農家が、何軒もあったという。

ミカン倉
天井に喚起口があり、上には越屋根が載っている。
湿度の管理が重要だったようだ。
10段ほど棚があり、昔はミカン一つ一つていねいに並べて保存したのだという。
「ミカンは寒さに弱いので、青くても年内にもいどって、ミカン倉に入れて保存する。
朝は4時や5時に冷気を入れてやりました。
ロウソクの光で毎日一つ一つ点検して、腐ったものは取り除いたものです」
ミカン倉の目的は、ミカンを長期保存しておいて、端境期になってから高い値段で出荷すること。
貯蔵ミカンをいかに座らせるかが大切だったらしい。
「うまく座ると色もきて、糖度も上がる。
座らせているうちに2割くらい目減りするが、それ以上にいい値がついたんです」

「力の弱い人は3箱くらいだったが、10箱背負える力自慢が5~6人はいました」
一箱約20kgだから、多い人は急峻な山道を1回に200kg担ぎ下したことになる。

 

 

 

除草剤を極力使わないようにしている。
ミカンの後口にちょっと渋みが残るし、糖度も上がらなくなるからだという。
一年中途切れることのない畑の手入れや剪定の苦労、相場の変動。

 

 

 

改めて家々を観察すると、立派な建築が多い。
瓦やら塀などに、さりげなく凝った家もたくさん見かけた。
ミカン山に登って大長の町並みを一望する。
農業集落でこれだけ家屋が密集している場所は、他にないのではないか。
大長ミカン黄金伝説とともに、この集落景観は長く保存されるべきだ。
御手洗に勝るとも劣らないのではないか、と思いつつ急坂を下った。

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