しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

日中戦争 「弱いシナ」と「暴支膺懲」

2024年07月07日 | 昭和11年~15年

日中戦争の発生原因を調べても、どうもその理由がよくわからない。
なんとなく始まった”事変”であり、終わりのない”戦争”だった。
開戦理由を強いて言えば、
”日本軍の面目”と、
”暴支膺懲”、この二つにいきつくように思う。
どちらも日本人・日本軍が、中国に対する優越感と蔑視から来るもので、
今からみると、歴史上の日本の汚点。

亡き父は、
「日本は中国で悪いことをしてきただけじゃあない」
と言っていたが、その言葉からも悪いことをしていた意識はあったようだ。
父がいう、良いこととは、日本軍が道路を造ったことで、
もちろん中国の為に建設したのではなく、日本軍のため。
道路は持って日本には帰れない。

 

・・・

 

「岡山県史第12巻近代」 岡山県 平成元年発行

日中戦争と郷土部隊

盧溝橋での銃声に始まる事件は、事前の謀略によって引き起こされたものではなく、
いわば偶発的事件であった。
といっても、日本軍を弁護しようというのではない。
日本軍による満州での傀儡国家樹立とそれ以後の華北への侵略行動に対して、
中国は、いつ何時でも、日本軍に反撃を加え追い出す正当な権利を有していた。
ここでは、この偶発的事件を、あの泥沼の日中全面戦争へと展開させたものは何であったのかを、問おうというのである。

たしかに日本資本の華北における市場と資源を独占しようとする要求と、 
他方における中国の抗日民族闘争の高揚が、その基礎にあったことは間違いない。

だが、それに加えて、
「要するに日本軍の面目さえ立てばよいので、かれらに日本軍に戦闘意識がないとか、叩かれても平気でいるとかいわれたくないので、軍の威信上奮起した」(大隊長・一木清直少佐)、
あるいは「我軍の威武を冒するも甚だしい」ということで、「全部隊に戦闘開始の命令を下した」(連隊長・牟田口廉也 大佐)というのである。
現地指揮官は、日本軍の「面目」や「威信」のために戦闘を開始したのであって、実際に損害を受け危険が迫っていたとか、戦略・戦術上必要であったからというのでは全くない。
非合理的な日本軍の優越感情が、そしてそれは裏返して言えば、中国人に対するこれまた非合理な侮蔑意識が、
日中全面戦争の起点にあったのである。

同じ日、軍中央では、
「三個師団か四個師団を現地に出して一撃を食わして手を挙げさせる、そうしてばっと犬を収めて[中略]一部の兵力を北支に留めて置けば大体北支から内蒙は我が思うようになる」という拡大派が、
対ソ戦準備を第一義とする不拡大派を押さえて大勢を制し、近衛内閣は「重大決意」のもとに、華北への派兵を決定、
事件拡大に大きく踏み出してしまっていたのである。

中国における抗日民族統一戦線結成への大きな展開を、何ら客観的に認識することなく、全く根拠のない
非合理的な優越意識が、軍中央ならびに政府をもとらえていく。
近衛内閣が、8月15日に発表した政府声明は、
「支那軍の暴戻を膺懲し以て南京政府の反省を促す」 という、極めて道徳的で感情的な戦争目的をしか揚げることが出来ず、
ついに客観的で具体的な戦争目的は提示し得なかったのである。

ところで、以上に見てきた近衛内閣や軍人たちの、中国に対する優越意識は、
万世一系の天皇を頂点とする日本国家=国体こそが「真善美の価値内容の独占的決定者」であるという意識である。
そこでの軍事的な優越感は、客観的な軍事そのものに即しての比較 からというよりは、
倫理的道徳的な優越感として意識されている。
下の者に侮辱された、あるいは下の者を懲らしめるというイメージで語られているのである。
南京攻略作戦の中支那方面軍司令官松井石根大将の次の言は、盧溝橋事件に始まる日中戦争についての、
こうした認識の構造をよく示している。

抑も日華両国の闘争は所謂「亜細亜の一家」内に於ける兄弟喧嘩にして......恰も一家内の兄が忍びに忍び抜いても
猶且つ乱暴を止めざる弟を打擲するに均しく其の之を悪むが為にあらず可愛さ余っての反省を促す手段たるべきのことは余の年来の信念にして

ほんの一撃で降参するはずの中国軍の、予想以上の果敢な抵抗で大打撃を被った上海戦の後、
行き当たりばったりで充分な補給もなく、略奪・強姦・虐殺を続けながら南京に殺到した日本軍の、あの南京大虐殺は
「可愛いさ余って憎さ百倍」の狂気の結果であった。

 

 

・・・

「語り継ぐ昭和史(1)」  朝日新聞社 昭和50年発行

松本重治

四十年前の日本人の中国観――「弱いシナ」

みなさんに、まず、四十年前の事情を思い出していただきたいのです。

その事情の一つとして、当時の日本人の中国観という、特別のものがあったわけです。
それは簡単にいうと、 シナは弱い、中国は弱いという考え方です。
そういう中国観に基づいて、日本人には中国人を蔑視するという態度があったわけです。
弱い中国を強くして、中国を助けてやれ、という人も日本人のうちには一部はあった。
けれども、大体の日本人は、中国に対しては、料理はこっちがやるんだ、なんでもやっていいんだという考え方、
つまり「弱いシナ」というのが当時の日本人のだいたいの中国観でありました。
この「弱いシナ」という中国観には、いろいろの理由が考えられます。
それには西欧先進国による中国の植民地化、日清戦争における清国の敗戦、その他がありますが、
日中戦争と関連しての中国観というものには、当時、中央政権の支配範囲が事実上非常に限られていたことと、
日本の関東軍や支那駐屯軍が接触した「雑軍」が存在していたことを忘れてはいけないと思います。
今日から約40年前に、「弱いシナ」という考え方を日本で特に強く持っていたのは、陸軍でありました。
ことに、それは関東軍であり、天津にいた支那駐屯軍でありました。


関東軍と支那駐屯軍とは多少任務が違うので、関東軍のほうは、「満州国」を防衛し、間接的に日本をソ連から防衛するということが任務でありまして、数個師団から成っていた。
天津にいた支那駐屯軍のほうは、昭和11年ごろまでは2.000人ぐらいしかいなかったのですから、その実力は関東軍のそれに比べると、 全然もう話にならんぐらいでした。
ものの本などには関東軍と支那駐屯軍と並んで書いてありますけれども、
片方は数個師団、片方は約二連隊、のちに増強されても、せいぜい一旅団あるかないかというような小さなものでした。
この現地陸軍をはじめ、当時の日本人全体に、「弱いシナ」という考え方が徹底的にこびりついていたことが、日中が全面的に衝突した最大の原因であったと私は思うのです。
これにはまた歴史があるんです。
その当時からさらに50年ほど前の日清戦争日清戦争というのは、みなさんが生まれる前だったんじゃないですかね。
ぼく自身も生まれていなかったんですから(笑い)。その日清戦争で日本が勝ったために、日本人は中国人のことを、「チャンコロ」とかまた「チャンチャン坊主」とかといい、全く馬鹿にしていた時代があったんです。 
日清戦争のころは、相手は清朝が支配していた清国です。 
清朝というのは、ご承知のとおり、満州民族が建てた封建的な政権でありました。
漢民族は、大体、当時通称の「支那本部」にいて、満州民族と蒙古族の一部とが満州にいたわけです。
その満州人が北京にやってきて天下に号令したのが清国なのです。 
初期には康熙乾隆の二帝のごとき明君が出て、国威を高めましたが、その後は暗君が相次いで 帝位につき、国力も弱まって行き、清国は、日清戦争で負けたくらい弱い国となっていました。
し かし清朝の朝廷では、すばらしく格式が高く、また漢民族の優秀な人々をも登用したが、近代国家 として清国をもり立てるには、すでにあまりにも弱かった。
「弱いシナ」というのは、第三国にも ずーっと認められていた。第三国の外交官が清朝の政府との話し合いのときは、おまえのところは 弱いなんていわないんで、やはり、あなたのお国もけっこうですというわけで、いちおう対等には やっておったんです。 
けれども、内心はみんな、「弱いシナ」「眠れる獅子」「老大国」というよう なことを思っていたわけです。

 

国民革命の運動と第一次国共合作

この弱い清国を強くして、なんとかして民主主義的な近代国家をつくらなきゃならん、ひとつ漢民族の青年が運動をやろうじゃないかというので、
革命を考えた先覚者の一人が、ホノルルで医学勉強していた孫文でありました。
けれども、いくら革命的行動をやってみても、失敗ばかり続く。
この孫文を終始助けたのが、民間の頭山満だとか、宮崎滔天、山田良政・純三郎兄弟、萱野長知、犬養毅とかいう人たちでした。 
しかし残念ながら、それは日本のごく一部の人にすぎなかった。

当時の日本人全体としては、なんとでも料理のできる「弱いシナ」というような固定観念があったのであります。
中国では、清朝を打倒して、弱い中国を強くしようという漢民族の青年のグループは、孫文だけでなく、方々にあったわけです。
漢口へんにもいました。
みなさんもご承知だと思いますが、黄興という人が湖南にいた。
孫文も黄興も、同じように革命青年を指導した人でありますが、この二人、初め仲があまりよくなかった。
二人を東京に招いて握手させたのは、さっき申しました少数日本人の一人、宮崎滔天なんです。
二人が握手してつくったのが、普通、「同盟会」ということばでいわれている国民革命同盟会(のちに中国国民党と改称)で、
これは1905年(明治38年)に東京で組織されたわけです。
それから孫文は広東に帰り、また、南方の華僑にアピールして金を集めたり、世界じゅうの華僑にアピールしたりしたわけです。
日清戦争で清国が負けると、清朝ではだめだと自分たちも考えて、なんとか革命を起こして国を 興さなきゃならんと考えたグループのほとんどは、日本への留学生でありました。

・・・

 

 

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昭和12年7月7日夜、盧溝橋事件

2024年07月07日 | 昭和11年~15年

日本国家と国民が戦争体制となった”盧溝橋事件”。
ライシャワー博士は「第二次世界大戦の発端」と書かれているが、
西洋史中心の世界史が将来、五大陸化されると、
1937(昭和12)年7月7日が「第二次世界大戦の開始日」になるかもしれない。

・・・

 


「ライシャワーの日本史」  文芸春秋社 1986年発行


第二次世界大戦

第二次世界大戦は、その発端は1937年の日中の衝突にある。
日本軍部の対外政策には一つ根本的に間違った思い込みがあった。
日本軍部はみずからが盲目的愛国心に身を委ねる一方で、
近隣諸国からは欧米の圧政からの救出者として歓迎されるばかりか、
彼らが日本を盟主とする東アジア支配におとなしく盲従して、
何も不満をもたぬはずだと思いこんでいたのである。

・・・


「太平洋戦争」  世界文化社  昭和42年発行

 
昭和12年(1937)7月7日、日本の支邦駐屯軍(天津)のある中隊が、盧溝橋付近で宋哲元の率いる一部隊と衝突した。
事変の口火は諸説あって、今日もなお謎に包まれている。

当時陸軍中央部では、ふしぎなことにまだ中国に対する作戦方針が一定していなかった。 
部内の積極派の連中は、中国は一撃を加えればすぐに屈伏すると考え、それに必要な兵力は7個師団ぐらいで十分だとみていた。
それに対し事変不拡大派は、昭和16年(1941) までを目標に、対ソ戦の準備のために満蒙資源の利用を含む軍需工業の五か年計画を推進中であり、
長期消耗戦になる可能性を多分にもち、少なくとも15個師団を必要とするであろう中国との戦いには絶対反対だった。
まして昭和10.11年にかけて、急速に極東軍備を充実させたソ連の動きをみては、それはなおさらのことだった。
一方、このときの近衛文麿内閣は、この際禍根の根源を将来に残さないように徹底的な解決を行なうべきで、姑息な妥協は極力排撃すべきだとして、意外に強硬だった。

昭和12年の末には、逐次投入”という拙劣な方法で中国大陸に運ばれた兵力は16個師団、約70万を数えた。
そしていちおう戦術的な勝利を繰返していたものの、占領地域は平津(北平=北京と天津) 地方と揚子江下流を中心に、 
大都市間をつなぐ鉄道沿線の点と線に限定され、
しかもその連絡線はいつも中国側のゲリラ攻撃の脅威にさらされていた。
一方、ソ満国境では 5個師団基幹の関東軍が、4倍以上の兵力をもつソビエト極東軍とにらみあっているというのに、
中国との戦いを短期決戦で終結させる望みはなく、まさに泥沼に足をつっこんだような状態であった。

 

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「大陸の戦火」  研秀出版社  平成7年発行

 
盧溝橋の銃声

昭和12年7月、盧溝橋にひびいた十数発の銃声は、中国侵略の野望をむき出しにした日本に対する、中国の抵抗ののろしだった。
日清、日露戦争に勝ち、中国進出の足がかりを得た日本は、西欧列強の中国侵略競争の一員に加わった。
列国の帝国主義的侵略に対する中国人民の最初の反抗が義和団の蜂起だった。
しかし、英仏日など八か国の連合軍は、北京を包囲し 義和団をした。
2万の大軍を出兵した日本は、賠償金のほかに、清国から北京公使館護衛の名で軍隊の駐屯権を獲得した。
これが、 36年後に、盧溝橋事件の主役を演じた日本の支那駐軍の出発点である。

中国の革命運動家や知識人は、日本を明治維新によって近代化をなしとげたアジアの先覚者と評価し、
日本が、中国を植民地化している欧米の勢力駆逐に手をかしてくれるものと期待していた。
しかし、日本は侵略者として中国にのぞんだ。
裏切られた中国の怒りは反日、 抗日の大きなうねりとなった。
21条要求、山東出兵、満蒙独占の野望の下に傀儡国家満州国でっちあげ、更に内家から華北へと、日本の中国侵略は露骨となっていった。
中国では、共産党の抗日救国のアピールが民族の共感を呼び、日本の侵略に抵抗する統一戦線が軌道にのってきていた。
こうした状況のもとで、盧溝橋の銃声がなりひびいたのである。
誰が最初の一発を撃ったかはもはや問題ではなく、遅かれ早かれ、日中いずれかが発砲する状況にあったのである。
事件は一時現地解決なるかと思われたが、7月11日、近衛内閣は拡大を決議 北支事変と称し、 
28日、日本軍は総攻撃に移って北京、天津地区を制圧した。 
8年という長期戦がこれからつづくのである。

 

戦勝にわく国内

南京陥落の報に日本の津々浦々は戦勝の美酒に酔った。
浮かれたのである。
陥落発表は12月13日だった。
しかし国民は待ちきれなかった。
新聞は12月に入ると祝勝気分をあおりたてた。
全国民は今か今かと吉報に胸を躍らせ全神経を「陥落」の二字に集中している。
この異常の緊張裡にさんさんたる 日の出を迎えた7日、
市内の各官庁、銀行会社につとめる人達は、いつもより皆早目に出勤、「号外」と共にいつでも旗行列、提灯行列に出勤できるよう待機・・・ ・
神田や銀座の「祝戦勝」の装飾文字も朝日に映えて美しい......(12.8付東京日日新聞)と伝え、
さらに同日夕刊は、 
待ちきれなくなった帝都市民は一足先に陥落を決めてしまい、7日夜は銀座も浅草も新宿も興奮のるつぼと化し、
ネオンに旗に戦捷一色にぬりつぶされた。
祝杯はこちらでといわぬばかりにカフェー街はここを先途の満艦飾オール銀座は大勝と皇軍への感謝に陶酔〟
という具合であった。
大本営が首都南京攻略を発表したのは13日深夜だったが、
東京ではそれから3日3晩、旗行列や提灯行列が宮城前や大本営のまわりを埋めた。
地方各都市、村々でも同じだった。
横浜港では、在泊の船舶はすべて満艦飾のイルミネーション、市電は花電車を走らせた。

しかし、南京ではまさにその頃大虐殺の惨劇が進行しつつあった。
そして戦争の行方が、敗戦の暗黒とつながっていることなど誰一人として夢想だにしなかったのである。

 

南京大虐殺

昭和12年12月、南京攻略戦にあたった日本軍が、中国人に対して言語に絶する暴行殺戮を行った。 
南京陥落皇軍大勝利に、日本全国が沸きかえっているとき、南京では、恐るべき蛮行が、まさに皇軍将兵によって演じられていた。
この事実は当時南京にいた英米ジャーナリストや宣教師達によって世界中に伝えられ、大きな衝撃を与えた。
日本国民だけが、東京裁判で明るみに出るまでその事実を知らなかったのである。
犠牲者の数は、いまだに確かでないが、東京裁判では、南京占領後、2~3日の間に、
少なくとも12.000人の非戦闘員が殺され、占領後の最初の一か月の間に約2万の強姦事件が発生、一般人になりすました中国兵掃討に名をかりて、兵役年齢の男子二万が集団 で殺され、さらに捕虜三万が降伏して七二時間内に殺されまた、避難民のうち57.000人が日本軍に捕まり、大多数が死亡したり、殺されたりした"とされた。
これは、当時南京大学教授で、東京裁判に証人として出廷したベーツ博士の証言にほぼ近い数字だが、 
実際にはもっと多くの犠牲者があったとされ、現在中国側では30万人と見ているようである。

 
・・・

もう一つの部隊
從軍慰安婦

日中戦争から太平洋戦争にかけて、日本軍には正規軍のほかにもう一つ、従軍慰安婦という“女性部隊”がいた。
彼女たちは銃こそとらなかったものの、戦闘で疲れ、すさんだ兵士たちの心を”慰安”するという、哀れにもまたけなげな "使命”をおっていた。
軍が従軍慰安婦制度の創設を考えたのは、日中戦争勃発後まもない昭和12年秋のことで、
将兵が現地で暴行、強姦を重ねるのを押さえ、
また将兵に性病が蔓延して兵力の低下をきたすのを防ぐため、
軍首脳は軍の厳しい管理下に“慰安所"を設けることとした。

11月中旬、軍の命を受けた御用商人が北九州各地で女性を募集してまわった。 
「前渡し金1.000円、これを全額返済終わったら自由」という、
内地の売春婦にくらべ、はるかに魅力的な条件であった。
約120人が採用され、上海に渡って第11軍に配属された。 


・・・・・
 

「福山市史・下」  福山市史編纂会  昭和58年発行

日中戦争と四十一連隊 


昭和12年(1937)7月7日、いわゆる日中戦争が始まった。
7月27日、第二次動員が第五師団にも下令され、これにともない四十一連隊も応召することになり、 
7月31日夕刻福山駅から出発していった。
第五師団の先頭部隊であった 四十一連隊は、朝鮮を経由して8月11日に天津に入ったが、
この後の転職状況について、連隊長山田鉄二郎大佐の手記『支那事変の思い出』をもとに簡単にふれよう。


山田部隊3.000人はただちに臨戦体制に入り、
8月の長城戦、 
9月の○○城戦(←○○は字が読めない・管理人)戦死120名、
11月杭州湾上陸作戦などをへて、
12月上旬から南京総攻撃に参加して中国軍に大損害(遺棄死1.200人武器など多数押収)を与え(死傷者16人)
12月13日に南京を占領した。
いわゆる大虐殺事件はこのとき起こった。
このころの山田部隊は、そのその進撃の素早さから「快足部隊」の異名をとったといわれる。

昭和13年、
南京で新年を迎え、「慰問の日本酒に半年振りの労を慰して居た」部隊は、
1月3日青島攻略の命を受け、4月まで滞在、
4月7日にはいわゆる徐州、
徐州会戦は歌に歌われ小説にも描かれてているように、なかなかの苦戦であったが、
5月19日ついにこれを占領した。
死傷者750人、馬145頭失う。
 
・・・

こののち日中戦争は文字どおり泥沼化したが、
食糧難、武器不足、病気、 中国軍のゲリラに悩まされながら、軍の作戦がいわゆる北進論から南進論に転換しマレー作戦に投入される17年ころまで、
まったく勝つ見込みのないまま中国各地を転戦させられた。 
福山では41連隊勝利の報がもたらされるたびに、小・中学生を中心とする旗行列が盛大に行なわれた。
夜に入ると大人たちによって提燈行列が行なわれた。
このころから、戦死者の扱い方に大きな変化がみられたことが注目される。

 

すなわち、戦死者は
「男子の本懐 聖戦の死」、
「護国の人柱」、
「壮烈・名誉の戦死」などといわれ、 
しかも遺族は
「本人も満足でせう」、
「肩身が広い」、
「家門の名誉」などと、
夫や息子の戦死について語らされるようになった。
したがって戦傷者は「治ったらまた征く」と本人がいい、
家族は「傷くらいなんでもありません」といわざるをえなくなり、 戦病死はごく小さい扱いしかされなくなった。
右のことは、満州事変に比し戦死者が格段に増加したことも一因であるが、
むしろ二・二六事件以後総動員運動が進展していくなかで、ファシズム軍国主義が新たな段階に入ったことの表現でもあった。

 

・・・・

「鴨方町史本編」 鴨方町 平成2年発行

盧溝橋事件

1937年(昭和12)7月7日、北京郊外の盧溝橋で日本軍夜間演習の終了後、何者かが発砲したのを契機に、
日本軍は翌8日未明に中国軍への戦闘攻撃を開始した。
これ以後、現地では停戦協定も結ばれたが、誕生したばかりの近衛文麿内閣は、
戦線を拡大し北京・天津・上海を占領し、12月には国民政府の首都であった南京を占領した。

「鴨方町報」に次のような伊藤岡山県知事の訓示を掲載している。
時局ニ対スル伊藤岡山県知事訓示

今回の事変の変勃に関しては、御承知の如く7月7日夜、我支那駐屯軍の一部隊が蘆溝橋附近にて演習中、
第二十九軍の理不盡なり不法射撃に端を発しまして、
我方よりの事実の承認及謝罪其の他正当なる要求応ぜざるをのみならず、逐次其の兵力を増加して、
我部隊に不法なる攻撃を加へ来る等挑戦的行動を敢て為し、
或は平津方面の我在留民に対する忍び得ざる迫害頻発する等協定不履行不信行為続発し、
我和平的解決を全面的に拒否至りまして...(以下省略) 

これによれば中国国民党軍による発砲と一方的に決めつけ、
日本および日本軍の戦線拡大が当然であるかのごとく表わしている。
事実は、日本軍の買収に応じた中国人が関東軍の指図に従って発砲したのであり、 戦線拡大を目論んでいた日本軍の仕掛けた事件であった。


・・・・

 

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