日中戦争の発生原因を調べても、どうもその理由がよくわからない。
なんとなく始まった”事変”であり、終わりのない”戦争”だった。
開戦理由を強いて言えば、
”日本軍の面目”と、
”暴支膺懲”、この二つにいきつくように思う。
どちらも日本人・日本軍が、中国に対する優越感と蔑視から来るもので、
今からみると、歴史上の日本の汚点。
亡き父は、
「日本は中国で悪いことをしてきただけじゃあない」
と言っていたが、その言葉からも悪いことをしていた意識はあったようだ。
父がいう、良いこととは、日本軍が道路を造ったことで、
もちろん中国の為に建設したのではなく、日本軍のため。
道路は持って日本には帰れない。
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「岡山県史第12巻近代」 岡山県 平成元年発行
日中戦争と郷土部隊
盧溝橋での銃声に始まる事件は、事前の謀略によって引き起こされたものではなく、
いわば偶発的事件であった。
といっても、日本軍を弁護しようというのではない。
日本軍による満州での傀儡国家樹立とそれ以後の華北への侵略行動に対して、
中国は、いつ何時でも、日本軍に反撃を加え追い出す正当な権利を有していた。
ここでは、この偶発的事件を、あの泥沼の日中全面戦争へと展開させたものは何であったのかを、問おうというのである。
たしかに日本資本の華北における市場と資源を独占しようとする要求と、
他方における中国の抗日民族闘争の高揚が、その基礎にあったことは間違いない。
だが、それに加えて、
「要するに日本軍の面目さえ立てばよいので、かれらに日本軍に戦闘意識がないとか、叩かれても平気でいるとかいわれたくないので、軍の威信上奮起した」(大隊長・一木清直少佐)、
あるいは「我軍の威武を冒するも甚だしい」ということで、「全部隊に戦闘開始の命令を下した」(連隊長・牟田口廉也 大佐)というのである。
現地指揮官は、日本軍の「面目」や「威信」のために戦闘を開始したのであって、実際に損害を受け危険が迫っていたとか、戦略・戦術上必要であったからというのでは全くない。
非合理的な日本軍の優越感情が、そしてそれは裏返して言えば、中国人に対するこれまた非合理な侮蔑意識が、
日中全面戦争の起点にあったのである。
同じ日、軍中央では、
「三個師団か四個師団を現地に出して一撃を食わして手を挙げさせる、そうしてばっと犬を収めて[中略]一部の兵力を北支に留めて置けば大体北支から内蒙は我が思うようになる」という拡大派が、
対ソ戦準備を第一義とする不拡大派を押さえて大勢を制し、近衛内閣は「重大決意」のもとに、華北への派兵を決定、
事件拡大に大きく踏み出してしまっていたのである。
中国における抗日民族統一戦線結成への大きな展開を、何ら客観的に認識することなく、全く根拠のない
非合理的な優越意識が、軍中央ならびに政府をもとらえていく。
近衛内閣が、8月15日に発表した政府声明は、
「支那軍の暴戻を膺懲し以て南京政府の反省を促す」 という、極めて道徳的で感情的な戦争目的をしか揚げることが出来ず、
ついに客観的で具体的な戦争目的は提示し得なかったのである。
ところで、以上に見てきた近衛内閣や軍人たちの、中国に対する優越意識は、
万世一系の天皇を頂点とする日本国家=国体こそが「真善美の価値内容の独占的決定者」であるという意識である。
そこでの軍事的な優越感は、客観的な軍事そのものに即しての比較 からというよりは、
倫理的道徳的な優越感として意識されている。
下の者に侮辱された、あるいは下の者を懲らしめるというイメージで語られているのである。
南京攻略作戦の中支那方面軍司令官松井石根大将の次の言は、盧溝橋事件に始まる日中戦争についての、
こうした認識の構造をよく示している。
抑も日華両国の闘争は所謂「亜細亜の一家」内に於ける兄弟喧嘩にして......恰も一家内の兄が忍びに忍び抜いても
猶且つ乱暴を止めざる弟を打擲するに均しく其の之を悪むが為にあらず可愛さ余っての反省を促す手段たるべきのことは余の年来の信念にして
ほんの一撃で降参するはずの中国軍の、予想以上の果敢な抵抗で大打撃を被った上海戦の後、
行き当たりばったりで充分な補給もなく、略奪・強姦・虐殺を続けながら南京に殺到した日本軍の、あの南京大虐殺は
「可愛いさ余って憎さ百倍」の狂気の結果であった。
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「語り継ぐ昭和史(1)」 朝日新聞社 昭和50年発行
松本重治
四十年前の日本人の中国観――「弱いシナ」
みなさんに、まず、四十年前の事情を思い出していただきたいのです。
その事情の一つとして、当時の日本人の中国観という、特別のものがあったわけです。
それは簡単にいうと、 シナは弱い、中国は弱いという考え方です。
そういう中国観に基づいて、日本人には中国人を蔑視するという態度があったわけです。
弱い中国を強くして、中国を助けてやれ、という人も日本人のうちには一部はあった。
けれども、大体の日本人は、中国に対しては、料理はこっちがやるんだ、なんでもやっていいんだという考え方、
つまり「弱いシナ」というのが当時の日本人のだいたいの中国観でありました。
この「弱いシナ」という中国観には、いろいろの理由が考えられます。
それには西欧先進国による中国の植民地化、日清戦争における清国の敗戦、その他がありますが、
日中戦争と関連しての中国観というものには、当時、中央政権の支配範囲が事実上非常に限られていたことと、
日本の関東軍や支那駐屯軍が接触した「雑軍」が存在していたことを忘れてはいけないと思います。
今日から約40年前に、「弱いシナ」という考え方を日本で特に強く持っていたのは、陸軍でありました。
ことに、それは関東軍であり、天津にいた支那駐屯軍でありました。
関東軍と支那駐屯軍とは多少任務が違うので、関東軍のほうは、「満州国」を防衛し、間接的に日本をソ連から防衛するということが任務でありまして、数個師団から成っていた。
天津にいた支那駐屯軍のほうは、昭和11年ごろまでは2.000人ぐらいしかいなかったのですから、その実力は関東軍のそれに比べると、 全然もう話にならんぐらいでした。
ものの本などには関東軍と支那駐屯軍と並んで書いてありますけれども、
片方は数個師団、片方は約二連隊、のちに増強されても、せいぜい一旅団あるかないかというような小さなものでした。
この現地陸軍をはじめ、当時の日本人全体に、「弱いシナ」という考え方が徹底的にこびりついていたことが、日中が全面的に衝突した最大の原因であったと私は思うのです。
これにはまた歴史があるんです。
その当時からさらに50年ほど前の日清戦争日清戦争というのは、みなさんが生まれる前だったんじゃないですかね。
ぼく自身も生まれていなかったんですから(笑い)。その日清戦争で日本が勝ったために、日本人は中国人のことを、「チャンコロ」とかまた「チャンチャン坊主」とかといい、全く馬鹿にしていた時代があったんです。
日清戦争のころは、相手は清朝が支配していた清国です。
清朝というのは、ご承知のとおり、満州民族が建てた封建的な政権でありました。
漢民族は、大体、当時通称の「支那本部」にいて、満州民族と蒙古族の一部とが満州にいたわけです。
その満州人が北京にやってきて天下に号令したのが清国なのです。
初期には康熙乾隆の二帝のごとき明君が出て、国威を高めましたが、その後は暗君が相次いで 帝位につき、国力も弱まって行き、清国は、日清戦争で負けたくらい弱い国となっていました。
し かし清朝の朝廷では、すばらしく格式が高く、また漢民族の優秀な人々をも登用したが、近代国家 として清国をもり立てるには、すでにあまりにも弱かった。
「弱いシナ」というのは、第三国にも ずーっと認められていた。第三国の外交官が清朝の政府との話し合いのときは、おまえのところは 弱いなんていわないんで、やはり、あなたのお国もけっこうですというわけで、いちおう対等には やっておったんです。
けれども、内心はみんな、「弱いシナ」「眠れる獅子」「老大国」というよう なことを思っていたわけです。
国民革命の運動と第一次国共合作
この弱い清国を強くして、なんとかして民主主義的な近代国家をつくらなきゃならん、ひとつ漢民族の青年が運動をやろうじゃないかというので、
革命を考えた先覚者の一人が、ホノルルで医学勉強していた孫文でありました。
けれども、いくら革命的行動をやってみても、失敗ばかり続く。
この孫文を終始助けたのが、民間の頭山満だとか、宮崎滔天、山田良政・純三郎兄弟、萱野長知、犬養毅とかいう人たちでした。
しかし残念ながら、それは日本のごく一部の人にすぎなかった。
当時の日本人全体としては、なんとでも料理のできる「弱いシナ」というような固定観念があったのであります。
中国では、清朝を打倒して、弱い中国を強くしようという漢民族の青年のグループは、孫文だけでなく、方々にあったわけです。
漢口へんにもいました。
みなさんもご承知だと思いますが、黄興という人が湖南にいた。
孫文も黄興も、同じように革命青年を指導した人でありますが、この二人、初め仲があまりよくなかった。
二人を東京に招いて握手させたのは、さっき申しました少数日本人の一人、宮崎滔天なんです。
二人が握手してつくったのが、普通、「同盟会」ということばでいわれている国民革命同盟会(のちに中国国民党と改称)で、
これは1905年(明治38年)に東京で組織されたわけです。
それから孫文は広東に帰り、また、南方の華僑にアピールして金を集めたり、世界じゅうの華僑にアピールしたりしたわけです。
日清戦争で清国が負けると、清朝ではだめだと自分たちも考えて、なんとか革命を起こして国を 興さなきゃならんと考えたグループのほとんどは、日本への留学生でありました。
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