しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

松浦岩蔵氏の葡萄経営

2022年08月01日 | 農業(農作物・家畜)

父が若い頃、果物栽培の先生として、教えを請いに伺っていた”岩蔵先生”の記事があったので転記して残す。

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「岡山の果物」  三宅忠一 岡山文庫 昭和43年発行

松浦岩蔵氏の葡萄経営

松浦岩蔵氏は明治2年城見村大冝に生まれ、
明治29年頃日清戦争除隊後全家を携えて転居。
氏は日清・北清・日露の三役に従軍したが、
名を辱めぬ体躯と精神力の持ち主で、
かねて新渡戸稲造博士を崇拝し、その著書中に
「人間は一生を通じて地球の表面に痕跡を遺すことに務めよ」
にいたく共鳴して開拓を決意したのであった。

 

 

在隊中深夜人知れず農書を携え、除隊後国繁に移籍。
細道さえない不毛の山麓から海岸に至る約二町歩を開墾。
葡萄栽培に特に熱意を傾け、大正天皇の御登極の際、
葡萄献納の光栄に浴した。
園の一側に枇杷を移植して、潮風害防ぐ。
労力節減のため葡萄棚を高めた。
明治28年海岸に荷揚げ場を構築して、果物の集荷はほとんど舟艇を駆使して、
帰路必ず福山・笠岡・金浦より塵埃、紡績屑を搬入利用することを園の生命成りとし、
選定屑、落ち葉、籾殻をもって燻炭製造技術を設け、加里給源として重用し、
当代すでに全面施肥、腐植の重要性を身をもって垂範していた。

床下を利用して貯蔵庫を作り、邸内空地は葡萄をもって埋め、小川の上に鶏舎を建てて塀を兼ね、除虫菊栽培の端緒を拓き勧説に務め、
犬をもって園番に任ぜしめ、用便に当たっては止め金を伸ばし寸暇を惜しむに至っては、
その透徹した経営構造と実行力に衆人等しく驚嘆するところである。

また氏は生前、
もしこの事業成功の暁は全財産を四分し、
一は学校、一は旦那寺へ、一は青年団等の団体に提供し、
残りの一をもって一家を支えるのだ、とさえもらしていたと伝えられる。

昭和11年、大隅義一氏は果物月刊誌上に
「私の見た園芸界の傑物故松浦岩蔵君」と題して、
「千軍万馬の中を馳駆した英傑も病魔の強敵に勝つあたわず、
悲風凄然、偉業を遺して巨星墜つ、大正十四年十月十四日、享年五十有七、
実に本県園芸界にとって取返しのつかぬ大損失である」と述べている。

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(父の話)

 

茂平・国繁「不老園」のこと

「不老園」が果物をつくりょうた。
あの頃は,みんな果物をつくりょうらなんだ。

梨をつくりょうた。

 

・・・・・・

個人が主作りょうた。
市場に出すのに名前が要った。

戦争まで続いた。戦後は番号みたいなのになった。

長いこと茂平では「不老園」が果物の代表じゃった。


「西渓園」が干しいちじくをはじめた。

農園は30なんぼあってもだしょうらん名前だけのもあった。

大正~昭和初期の頃


2001年7月14日

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「岡山の果物」  三宅忠一 岡山文庫 昭和43年発行


隣保共同組織の結成

桃および梨を中核とする果樹栽培の意欲は年とともに高まり、
生産も逐年増大して地場消費、近郊消費での需要がこれに伴わず、
明治30年ごろから阪神など県外に市場を求めた。

本県果樹栽培の殆どが農家の副業で、僅々1~2反歩に充たぬ経営でも、
それぞれ園名を採用したことは奇異とさえ感じられるが、
当時としては一たび市場で商品を競う場合、何園、何印の呼称表示は取り扱いの便宜上からも必緊であった。

かく個人間の競争時代を経て、産地間の競争に移り、やがて生産府県の競争段階を迎えた。

 

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