しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「国史」神武天皇  (岡山県笠岡市)

2024年07月02日 | 旅と文学

笠岡諸島の高島は、映画「釣りバカ日誌」で浜ちゃん・スーさんのロケ地になったほどに、
瀬戸内海に浮かぶきれな小島。
本土からは料金180円での8分間の船旅で到着する。
かつては石材産業が盛んで、今は漁業やリゾート・ペンションが人気の島。

高島が一番沸いたのは、皇紀2600年記念祝賀の前。
初代天皇が数年間滞在した”高島”で注目された。
騒ぎは一瞬で終わり、敗戦によって更に忘れ去られた。

 

 

 

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旅の場所・岡山県笠岡市高島  
旅の日・2020年11月30日
書名・国定教科書「尋常小学国史 上巻」
著者・文部省
発行・1934~1940
資料・「ニイタカヤマノボレ1208」 岩崎書店 1995年発行

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「尋常小学国史 上巻」 (小学校五年用)

 

第二 神武天皇

瓊瓊杵尊から神武天皇の御時にいたるまでは、
御代々、日向においでになって、わが国を治めになった。
けれども、東の方は、なおわるものが大勢いて、たいへんさわがしかった。
それ故、天皇は、これらのわるものどもを平げて、人民を安心させようと、舟軍をひきいて、
日向から大和(いまの奈良県)へお向かいになった。
そうして、途中ところどころにお立寄りになり、そのあたりを平げつつ、
長い間かかって難波(いまの大阪府の一部)におつきになった。

天皇は、河内(いまの大阪府の一部)から大和へお進みになろうとした。
わるものどものかしらに長髓彦というものがいて、地勢を利用して御軍をふせぐので、
これをうち破って大和へおはいりになることは、むずかしかった。
そこで、天皇は、道をかえて、紀伊(いまの和歌山県)からおはいりになることになった。
そのあたりは、高い山や深い谷があり、道のないところも多かったので、ひととおりの苦しみではなかった。
しかし、天皇は、ますます勇気をふるいおこされ、
八呎鳥を道案内とし、兵士をはげまして、道を開かせながら、とうとう大和におはいりになった。

 

天皇は、それから、しだいにわるものどもを平げ、ふたたび長髄彦をお攻めになった。
しかし、長髄彦の手下のものどもが、いっしょうけんめいに戦うので、御軍もたやすく勝つことが出来なかった。
時に、空がにわかにかきくもり、雹が降り出した。
すると、どこからともなく金色の鶏が飛んで来て、天皇のお持ちになっている御弓のさきにとまって、きらきらと強くかがやいた。
そのため、わるものどもは、目がくらんで、もはや戦うことが出来
なくて、まけてしまった。
長髓彦も、まもなく殺された。

やがて、天皇は、宮を畝傍山の東南にあたる橿原にお建てになり、はじめて御即位の礼をおあげになった。
この年をわが国の紀元元年としている。
そうして、二月十一日は、またこのめでたい日にあたるので、国民はこぞって、この日に紀元節のお祝いをするのである。

天皇は、また御孝心の深い御方で、御先祖の神々を鳥見山におまつりになった。
かように、天皇は、天照大神のお定めになったわが帝国の基を、ますます固めて、おかくれになった。
そのおかくれになった日に毎年行なわれる御祭は、四月三日の神武天皇祭である。

 

 

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「国史」天照大神  (岡山県備中神楽)

2024年07月02日 | 旅と文学

戦前の小学生でも、神話をほんとの話とは信じていない、
ただ先生の授業を黙って聞いていたのだろう。
たぶん、そのことに触れるのはタブー。疑問を感じないことにする。
先生も質問を受けない・答えない。
おしえる方も、ほんのいくらか抵抗があったことだろう。

 

でも信じていた人がいたかもしれない。
今でも皇紀を信じる人がいるから。
そういう人たちは「天皇陛下のご先祖は天照大臣(女性)である」
ことを、
まさか知らんことはないだろうな。

 

 

(画像はすべて素戔鳴尊です)

 

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旅の場所・岡山県笠岡市甲弩 ”備中神楽”  
旅の日・2023年10月15日 
書名・国定教科書「尋常小学国史 上巻」
著者・文部省
発行・1934~1940
資料・「ニイタカヤマノボレ1208」 岩崎書店 1995年発行

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「尋常小学国史 上巻」 (小学校五年用)

第一 天照大神

天皇陛下の御先祖を、天照大神と申しあげる。
大神(おおみかみ)は御徳のたいそう高い御方で、
はじめて稲や麦などを田畑にうえさせたり、
蚕をかわせたりして、
万民をおめぐみになった。

大神の御弟に、素戔鳴尊という御方があって、たびたびあらあらしい事をなさった。
それでも、大神は、いつも尊をおかわいがりになって、少しもおとがめになることはなかった。
しかし、尊が大神の機屋(はた織りの小屋)をおけがしになったので、
大神は、とうとう天の岩屋に入り、岩戸を立てて御身をおかくしになってしまった。

大勢の神々は、たいそう御心配になった。何とかして大神をお出しそう、
岩戸の外に集まって、いろいろ御相談の上、
八坂瓊曲玉や八呎鏡などを榊の枝にかけて、神楽(神を祭るときにする音楽)をおはじめになった。その時、天鈿女命のまいの様子がいかにもおかしかったので、神々はどっとお笑いになった。
大神は、何事が起こったのかと、ふしぎにお思いになり、少しばかり岩戸をお開きになった。
すぐさま、神々は榊をおさし出しになった。
大神の御すがたが、その枝にかけた鏡にうつった。
大神は、ますますふしぎにお思いになり、少し戸から出て、これを御らんになろうとした。
すると、そばにかくれていた手力男命が、大神の御手を取って、岩屋の中からお出し申しあげた。神々は、うれしさのあまり、思わず声をあげて、およろこびになった。

 


素戔鳴尊は、神々に追われて、出雲(いまの島根県)におくだりになった。
そうして簸川(ひのかわ)の川上で、八岐の大蛇をずたずたに斬って、これまで苦しめられていた人々をおすくいになったが、
この時、大蛇の尾から一ふりの劔を得、これはとうとい劔であるとて、大神におさし上げになった。
これを天叢雲剣と申しあげる。


素戔鳴尊の御子に、大国主命という御方があった。
命は、出雲をはじめ方方を平げられて、なかなか勢いが強かったが、
その他の地方は、まだまだわるものが大勢いて、さわがしかった。
大神は、御孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)にこの国を治めさせようとお考えになり、
まず御使いを大国主命のところへやり、その地方をさし出すようにおさとしになった。
命は、よろこんで大神のおおせに従った。


そこで、大神は、いよいよ瓊瓊杵尊をおくだしになろうとして、尊に向かい、
「この国は、わが子孫の王たるべき地なり。汝皇孫ゆきて治めよ。
皇位の盛なること、天地と共にきわまりなかるべし。」とおおせになった。
万世一系(ばんせいいっけい)の天皇をいただいて、
天地とともにいつの世までも動くことのないわが国体の基は、実にこの時に定まったのである。


大神は、また
八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)・八咫鏡(やたのかがみ)・天叢雲劔(あめのむらくものつるぎ)
を瓊瓊杵尊にお授けになった。
これを三種の神器と申しあげる。
尊は、この神器をささげ、大勢の神々を従えて、日向(いまの宮崎県)へおくだりになった。
これから神器は、御代々の天皇がおひきつぎになって、皇位の御しるしとなさることになった。


大神は、神器(じんぎ)を尊にお授けになる時、
「この鏡をわれと思いて、つねにあがめまつれ。」とおおせになった。
それ故、この御鏡を御神体として、伊勢の皇大神宮に大神をおまつり申し、
御代々の天皇をはじめ、国民すべてが深く御うやまい申しあげているのである。

 

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