しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

生きている兵隊②  「生きている兵隊」事件  

2024年07月08日 | 旅と文学

昭和13年著作の、石川達三の「生きてゐる兵隊」は、
軍の検閲にかかるのは氏も確信していたことだろう。
それでも書いたのは、それは作家として氏の矜持であったように思える。

大きな権力の前に、自己の保身を微塵だに感じさせない作品。
”東洋平和のために戦う正義の皇軍”と、国内が統一世論の時代に発表された稀有な本。

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「在郷軍人会」 藤井忠俊 岩波書店 2009年発行

戦場の軍紀

戦場における徴発
その時食糧の補給が続かない時に日本軍はえてして末端の小部隊、時には分隊単位に食糧の調達をさせていたことが知られる。その時の調達は「微発」という用語で語られ、伝えられた。
そしてほとんどは強制を伴った行為であった。
この行為を軍紀違反にしたかどうかの確固とした事例が見出せない。
これは軍上層部でも十分に意識されていないようである。
ここで無名の兵の記録を示すことはやめよう。
たとえば、当時のベストセラーになった日中戦争のルポルタージュ、火野葦平の『麦と兵隊』(改造社、1938年)をみると、
兵たちが行軍中の小休止で、鶏や豚や羊をとったり、芋や野菜をとり、分隊で調理して昼食をとる場面がある。 
火野自身の述懐もあるが、原稿は軍の厳重なチェックを経ているのである。
しかし軍の検閲ではこうした一種の略奪行為はむしろほほえましいエピソードとして描かれる。
軍紀に厳密なはずの軍が、このようなケースは違反事項と考えていないことがわかる。
南京の事件をルポルタージュした石川達三の「生きてゐる兵隊」(『中央公論』1938年3月号)は検閲にひっかかっているのである。
軍の徴発行為は許していた、あるいは基準がきわめて甘いことがわかる。


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「語りつぐ昭和史(4)」 朝日新聞社 昭和51年発行

「生きている兵隊」事件

青地晨(あおちしん)

 

「生きている兵隊」事件

私は十三年に中央公論社に入社。
当時の「中央公論」というのは、今の「中央公論」よりも権威があったと思います。
「改造」と 肩を並べて日本の代表的な二つの総合雑誌というふうに、一般にみなされていた。
今でも「中央公 論」は立派な雑誌ではありますが、当時は今よりもなお権威があったというふうに思います。

入社そうそういきなり「生きている兵隊」事件にぶつかった。
その当時、私は切り取られた「生きている兵隊」をそっと読ませてもらったんですが、軍の忌諱にふれた部分は、次のような一節だったというふうに聞いております。
日中戦争の初期のころ、上海で戦線が膠着した。 
その間に起こった悲惨な状況を石川さんが書いているわけです。
ちょうど両軍が対峙している戦線の真ん中に、砲弾か爆弾かでつくられた大きな穴があいている。 
そこに逃げ遅れた中国の若い嫁さんが、乳飲み子を連れて逃げ込んだ。
その若い奥さんは負傷しているが、むろん飲み水も食料もそこにはない。
しかも両軍対峙の真ん中だから、逃げ場はないわけです。
深夜になると砲声がいくらか静かになる。
すると乳飲み子の泣き声が聞こえてくる。
母親は食べる物も飲む物もないから、だんだん身体が弱りお乳も出なくなる。
腹をすかせて赤ん坊が火がついたように泣く。
その泣き声が日が経つにつれ、だんだん弱くなって命の灯が消えてゆくのが兵隊たちにもわかる。
赤ん坊の泣き声はなんとも物悲しく、陰惨に塹壕のなかの兵隊たちの耳に届く。 
そのころ上海戦線には、予備や後備の中年の兵隊が駆り出されていた。
この連中は、当然妻子を国に残している。
そういう老兵たちが赤ん坊の泣き声を聞くたびに、故郷を思い妻子を思い出してくる。
そういうような情景がありまして、私は非常に印象が深かった。
いかにも石川さんらしい人道主義といいますか、そういう場面があったわけです。


つまり石川さんは、戦う兵隊ではなく、ひとりの人間、生きている兵隊としての人間を書いている。
あのころ軍部は、兵隊というものは忠君愛国にこりかたまっているべきで、血も涙もある人間、つまり人間らしい人間であってはいけないという考え方なんです。
だから「生きている兵隊」は、軍の忌諱に触れたということだろうと思うんです。

そういうことで、中央公論社に入ってしょっぱなにそういう目に遭ったんです。
日中事変が昭和12年に起こってますから、ちょうど私が入社したころ、ずいぶん召集があって、駅々では「天にかわりて不義を撃つ」という軍歌を歌いながら出征兵士を見送る情景が、至るところで見られた時 代だったわけです。


内閣情報局と軍人情報官

昭和15年12月に、内閣情報局というものができました。
600人もの人々を集め、いわば日本の言論統制、弾圧の総本山という意味をもっていた。
そこに情報官という役人がいっぱいいたわけですが、その役人たちの重要ポストのほとんどは、陸海軍の現役将校によって占められていた。
情報官のなかで羽振りがいいのはみな軍人、ことに新聞、雑誌の直接の統制に当たる人たちは陸軍の少佐、中佐というクラスが大部分でした。
この人たちが内閣情報局を支配し、本当の力を持っていたといえると思います。


呼びつけられて、毎月、雑誌出版懇談会が開かれた。
大きなホールに雑誌、出版関係の編者が集まり、軍人情報官が壇上に上がり、大声を張りあげて今月号の雑誌についてこれから講評をおこう」というんです。
その上で「今月の『中央公論』は国策非協力である。
○○の論文はけしからん、××の小説は個人の恋愛とか情とかを書いていて国策にそわない」
というようなことを言うわけです。

「非国民だ」ということばは、もう耳にタコができるほど再三再四、「中央公論」や「改造」の連中は言われ続けてきた。
それだけならいいんですけれど、非常に不愉快だったのは、そこに列席している出版雑誌社の人たち、
講談社のMという人だったかが、「中央公論」は国策非協力だ、非国民だといわれてる最中、急に立ち上がってわれわれのほうを指さして「おい、お前たち非国民は出ていけ! 同席するのが恥ずかしい」とどなり、
それに乗っかって軍人が「腹を切れ」ということを言った。
そういうふうに、内部から足を引っ張る編集者がいたわけです。

 

軍人情報官の腐敗
同時に腐敗の面をいいますと、情報局のほかに大本営陸軍報道部、大本営海軍報道部というものがあって、
そこにも報道関係の将校がいる。
これらの将校は、情報官を兼務している者が多かった。 そういう軍人に、むやみやたらと原稿を頼む。
そして夜の接待をする。 原稿料は普通の二倍、三倍を支払う。
厳密にいえば用紙割り当てにからむ賄賂みたいなものだと思うんです。

 

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生きている兵隊   (中国・無錫市)

2024年07月08日 | 旅と文学

日中戦争に参加派遣された作家は多い。
応召兵として実戦参加の火野葦平。
中央公論の派遣記者、石川達三。
内閣の「ペン部隊」だった、菊池寛・吉川英治・尾崎士郎ほか20人。
なかでも林芙美子は、「漢口(武漢市)一番乗り」で有名。

火野葦平の「麦と兵隊」は、父の体験談とほぼ同じ。読みながら父を思う。
石川達三は、その時見たこと聞いたことを小説にしていて、現実のように思わす。
林芙美子さんはあおったり、美化した。戦後批判されたが、それは当然だろう。

 

 

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旅の場所・ 中国・無錫  
旅の日・2016年3月11日  
書名・「生きている兵隊」 
著者・石川達三 
発行・日本現代文学全集35 講談社 昭和44年発行(初本は昭和13年)

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その夜のうちに友軍は、三方の城門を突破して城内になだれ込んだ。
城門の上に立てられた日章旗は雨にぬれてびたびたと鳴った。 
翌朝は未明から城内の掃蕩が開始され正午に至つてひとまづ占領は完成した。
兵は到るところで火を焚いて服を乾かし、火のまはりにごろごろ と横になって眠った。

蘇州、常熟を放棄した敵はすべて西に走って無錫の堅陣に據つた。
人口二十萬の城市、農産物と生繭との集散地、大運河と京滬鐵道とによる交通の要地、
そして南京攻略戦の重要な防禦地點でもある。
二十日、海軍の航空は友軍の頭上を通過して無錫の敵陣地に痛烈な爆撃を加へた。
地上部隊の攻撃は二十一日から開始された。
蘇州から追撃してきた友軍は望亭から長靡して京滬沿線を進み、常熟から進んだ西澤聯隊その他はクリーク地帯をわたつて東から迫った。

敵陣はコンクリートのトーチカと掩蔽壕とによつて堅固な守りをかためてゐた。 
古家中隊の戦闘は午後からはじめられて塹壕の第一線を奪った が、
小銃と機銃とを敵に向けたまで戰線は黄昏れてきた。
敵の守りは堅くなかなか突撃にうつるまでの態勢ができなかった。
そして暗くなりはじめるにつれて両方の銃火はまばらになり、戦局は一段落のかたちになって行った。

稲を刈ったあとの何も生えてない畠が平につづき、民家がその間に點々と低い屋根を置いてゐた。
家々の裏手には必らず掘割りがあつてクリークの水がそこまで流れこんでゐた。
遠くに無錫の低い城壁がまつくろく連なってその上の空が廣重の版畫のやうに靑かつた。
ふりかへつて見ると過ぎてきた職場では看護兵の姿が、横たはつてゐる戦死者を探してはその場に佇み手を合はせて冥福を祈ってゐる片山従軍僧のずんぐり肥った姿もそれと見分けられた。

 

 

 

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倉田少尉と平尾、近藤一等兵と機銃分隊の笠原伍長とが鐵兜をならべて煙草を喫つてゐる壕のそばに一軒の平たい農家があった。 
屋根は砲弾に打ちぬかれ扉は土間に倒れ裏の菜園はふみ荒されて、この家の中から女の泣き聲がしてゐた。
銃聲の止んだあとになってその聲は急に兵士の耳につきはじめた。
「何だ、女が泣いとるぜえ」と女好きな笠原伍長が言った。 
「姑娘だぞ!」
「可哀相にな」
「母親がな、彈丸を喰ってまゐつてるんだよ。十七八のクーニだ」
「いい娘かい?」と一人の兵が言った。
「まだ泣いてやがる」 
平尾一等兵は小さなで呟いた。
「うるせえっ!」
「あいつ、殺すんだ!」
平尾一等兵はさう言ひすてて銃剣を抱いたま低くなって駆けだした。
「えい、えい、えいっ!」
まるで気が狂ったやうな甲高い叫びをあげながら平尾は銃剣をもつて女の胸のあたりを三たび突き貫いた。
他の兵も各短剣をもつて頭といはず腹といはず突きまくった。
ほとんど十秒と女は生きては居なかった。

笠原伍長は壕の底の方に胡坐をかいて煙草を喫ひながら笑ひを含んだ聲で呟いた。
「勿体ねえことをしやがるなあ、ほんとに!」

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さすがに無錫の守りは堅く、二日目の戦闘にもつひに城門をぬくまでには至らなかった。 
西澤聯隊はこの日聯隊旗手を失った。
弾丸は彼の左胸部をつらぬき、擔架に乗せられたときにはもう息は絶えていた。
戦闘は夜を徹して行はれ、翌廿六日の朝になつてやうやく無錫は攻撃軍の手に陥ちた。 
永い戦ひに疲れ切った兵は市街の家々を占領し市民たちのベッドにもぐりこんで眠った。
友軍はさらに敗残の兵を追うて常州に向ひ、西澤聯隊は無錫にとどまつて三日間の休養をとつた。

生き残ってゐる兵が最も女を欲しがるのはかういふ場合であつた。
彼等は大きな歩幅で街の中を歩きまはり、兎を追ふ犬のやうになって女をさがし廻った。 
この無軌道な行爲は北の戦線にあつては厳重にとりしまられたが、ここまで来ては彼等の行動を束縛することは困難であつた。
彼等は一人一人が帝王のやうに暴君のやうに誇らかな我儘な氣持になつてゐた。
そして街の中で目的を達し得ないときは遠く城外の民家までも出かけて行った。
そのあたりにはまだ敗残兵がかくれてたり土民が武器を持つてゐたりする危険は充分にあったが、
しかも兵たちは何の逡巡も躊躇も感じはしなかった。
自分よりも強いものは世界中に居ないやうな氣持であつた。 

 


聯隊の大行李はまだ上陸してゐない、漸く上海に近づいたくらゐの頃であった。
従って前線の部隊は後方の輸送をあてにすることはできず、
物資はすべて現地で微して間に合はせるより仕方がなかつた。
米や野菜には比較的こまらなかったが、一番ひどく缺乏したのは調味料であつた。
最も缺乏のはなはだしかったのが無錫滞在のあひだであった。

聯隊本部の炊事當番は茶碗に一杯ほどの白砂糖の使ひ残りを大事に持つてゐた。
武井は腰の短剣を引きぬくと一瞬の躊躇もなしに背から彼の胸板を突き貫いた。
青年は呻きながら池の中に倒れ、波紋は五間ばかり向の近藤が米をといでゐる岸にばさばさと波をうつた。
「何をやったですか」
「ふてえ野郎だ、聯隊長殿にな、やつととつてあった砂糖を盗んでなめやがったんだ」
「はあ」 
近藤は飯盒をぶら下げたま水に浮いてゐる背中を眺めてゐた。
上等兵は足どりも荒々しく帰って行った。
それにしても一塊の砂糖は一人の生命と引きかへられるのである、と。
またしても生命とは何ぞやであった。

 

 

 

無錫を出する朝、兵士たちは自分等が宿した民家に火をはなつた。 
といふよりも火を消さないであとから燃え上ることを期待して出したものが多かった。
それは二度とこの町へ来ないといふ覚悟を自分に示するでもあったし、 
敗残兵が再びこに入ることを防ぐ意味もなくはなかった。
更に、この市街を焼きはらふことによって占領が最も確実にされるやうな気もしたのである。

 

ふり向いて見ると無錫の空は黒煙が渦巻き立つていた。
燃えあがる炎は吹きすぎる風のやうな音をたてて遠くまで聞こえて来るのであった。
人口二十萬の都市無錫は、大部隊が出発して行つたあとには極く小人数の警備兵が残つてゐるばかりで
殆んど住民の影も見らず、炎は燃えあがるまに辻から辻、町から町へとひろがり
そして自然に消えて行くのであった。

この日部隊は道に沿うて行軍した。
南京へ、南京へ!
南京は敵の首都である。
兵隊はそれが嬉しかった。常熟や無錫と違って南京を乗つとることは決定的な勝利を意味する。 
彼等は退屈しなかつた。

 

 

・・・

つづく

「生きている兵隊」事件  

 

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