山刀伐峠。
芭蕉と曾良が命からがら峠越えした”最大の難所”。
峠の名からして恐ろしい。
反脇差を腰に差した若者が道案内をした
”今日こそ必ず危あやうき目にも遭うべき日なれ”と心細く後をついて行った。
峠を無事に越えて尾花沢に着いた。
この町には紅花大尽・清風が、芭蕉が来るのを待っていた。
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旅の場所・山形県尾花沢市
旅の日・2019年6月30日
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉
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「日本詩人選17 松尾芭蕉」 尾形仂 筑摩書房 昭和46年発行
涼しさをわが宿にしてねまるなり
元禄二年五月十七日(陽暦七月三日)、芭蕉は山刀伐峠の険を越えて、
奥羽山系の横断を果たし、羽前国北村山郡の尾花沢(今の山形県尾花沢市)に到着、
土地の豪商鈴木清風の厚遇のもとに二十七日までここに旅の足を休めた。
句はこの滞在の間に巻かれた清風・曽良・素英・風流との五吟歌仙の発句として披露されたもので、
険路を踏破した後、ひとときの清閑の宿りを得やすらぎの思いがおのずからにしてにじみ出ている。
季語の「涼し」は、「清風」の号にちなみ清風亭の涼風を賞するとともに、また、
あるじ清風の、富貴にして俗塵を離れた胸中の清涼をたたえる挨拶の意を寓したもの。
同じく「わが宿にして」にも、わが家にでもいるような気持でということの中に、
あるじの好意にまかせきり、 その清閑の情にあやかって、との含蓄がある。
一句の句眼ともいうべき「ねまる」の語義については、
江戸期の注釈書以来、諸家に説々あり、「坐る」「寝る」の両義いずれを取るかで論が分かれているが、
多くの用例を加えて従来の 諸説を徹底的に再検討し、
これを「坐る」の義と断じた山田孝雄博士の「ねまるなり」の考が最も従うべきであろう。
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「奥の細道の旅」 講談社 1989年発行
山刀伐峠を越え尾花沢に入る
大雨のため、やむなく堺田の封人家で二泊した芭蕉は、快晴となっ 五月十七日、尾花沢へ向けて出立する。
寂しい山道を怖い思いをしながら山刀伐峠を越え、市野々、正厳 を経て、尾花沢の鈴木清風宅に入る。
●山刀伐峠
芭蕉はこの峠越えを最も心細く感じ、今日は危険な目に遭うに違いないと予感した。
若者を案内につけてもらったが、道はわかりにくく、樹木はうっそうとしてなお暗いという不気味さ。
しかも、ここては必らず、乱暴な事件が起こると聞かされて、芭蕉は生きた心地もなく峠を越えたようである。
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「奥の細道の旅」 講談社 1989年発行
尾花沢にて清風と云ふ者を尋ぬ。
かれは富めるものなれども、志いやしからず。
都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知りたれば、
日比とどめて、長途のいたはりさまざまにもてなし侍る。
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「山形県の歴史」 昭和45年山川出版社発行
涼しさを 我宿にして ねまる也
松尾芭蕉が尾花沢で、”紅花大尽”の清風にもてなしを受けた際の気持ちが句によく出ている。
最上地方の名産「紅花」はなぜ衰退したのだろう?
養蚕・生糸業の発展
”最上紅花”として全国に名をはくした村山地方の紅花が衰退したのは、
幕末に支那紅が輸入され、さらに明治にはいり、
廉価な新紅と呼ばれた化学染料”洋粉アニリン”が、大量に京都に輸入されるようになってからである。
河北町の明治3年の記録に「畑方は紅花もよろしからず。百姓一同大いに困りいりそうろう」とある。
明治3年の山形県の産額は1万2千貫目、その翌年は半分、やがて統計書から姿を消した。
いっぽう製糸・絹織物は飛躍的な発展をみた。
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【花笠音頭】
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花の山形 紅葉の天童
雪を眺むる 尾花沢
の「尾花沢」は民謡に歌われる町だが、意外に小さな町並みだった。
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