しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

源頼朝

2021年05月17日 | 銅像の人
場所・神奈川県鎌倉市扇ガ谷   源氏山公園



鎌倉

武士の作った政治の町鎌倉は、ここに150年間もの間、日本の政治の中心があったとは思えぬほど狭く小さな場所である。
三方を山々が取り囲み、一方が海に開ける鎌倉の地形は、そのまま自然の作った防御陣地を形づくっている。
頼朝が入ったころの鎌倉は、まだ人家もまばらな寒村に過ぎなかった。
三方を山に囲まれているため、外部と鎌倉をつなぐには、山を切り開き、道をつくらねばならなかった。
今も残る「切り通し」がそれである。








(永井路子)

ここに本拠をもうけたことによって、頼朝と、この近くの武士団との間に、たいへん密接なつながりができます。
このために、鎌倉氏の子孫である三浦氏とか、梶原氏とかが頼朝に密着し、その御家人として立ち上がる。
こうして、北条氏を姻戚としながら、一方歴代の有力御家人である三浦氏の本拠の近くである鎌倉に移ったということによって、
非常に微妙な勢力関係の上に立つ形で、頼朝の政権は出発したわけですね。

「日本史探訪7」 角川書店編 角川文庫  昭和59年発行







源頼朝

(村上元三)

義経のいき方というのは、大軍を率いて真っ先に進むというよりも
少人数で、突入する戦法ですね。自分も真っ先に敵の中へ進んでいく。
天才的な戦略家・軍人ですよ。

頼朝は、やはり政治家ですよ。
義経をじゅうぶん利用して天下をとったわけですよ。
ところが、平家を破ったあと、今度は義経がじゃまになるわけですね。

ぼくは、頼朝が武家政治の始まりとか言いますが、
武家政治の始まりというのは清盛の方を買いますね。
福原に港を開いて宋と貿易するとか、
スケールが大きいし、独創性があります。

頼朝が偉かったのは、
情におぼれなかった。
家来に対しても、お公家さんに対しても、それだけ冷たいところもあったのでしょう。
お公家さんたちが、つけいるすきのない人間。


「日本史探訪6」角川書店編 角川文庫  昭和59年発行 




撮影日・2011年9月8日


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