しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

東郷平八郎

2021年05月17日 | 銅像の人
場所・岡山県倉敷市船穂 高瀬通し沿い


戦前・戦中までの英雄、今では希少価値?の東郷元帥像。


「近代日本の出発」  坂野潤治  新人物文庫  2010年発行

日本海海戦

陸軍の苦境を救ったのは海軍であった。
38年5月27日の日本海海戦で、東郷平八郎のひきい連合艦隊41隻がバルチック艦隊30隻と対馬海峡において決戦を行い、大勝したのである。

日露戦争の帰趨を決定的にし、ロシア皇帝に講和を決意させた。
縦列をつくるバルチック艦隊の先頭をT字型をつくるように横切って
全艦隊から先頭の戦艦2隻を攻撃して大破させた東郷元帥のT字戦法はのちのちまで、
東郷神話をつくることになるが、
東郷神話のもうひとつの柱である対馬海峡での迎撃は偶然的要素の方が強い。









「『坂の上の雲』歴史紀行」 JTBパブリッシング  2009年発行

日本海海戦

決戦は午後2時ごろ開始された。
この時、艦隊を左180度転回させる。
いわゆる丁字戦法をとった。
危険な戦法だが、この戦い「勝つ」だけでは十分とはいえなかった。
主力艦1隻でもウラジオストクに逃がしてしえば、戦局に悪影響が必死だったからである。
東郷は、乗艦三笠と自分の命を失う覚悟をしていた。

回頭が終わった連合艦隊は射撃を開始した。
日本海海戦は、世界史上にその名を残す空前絶後のワンサイドゲームとなった。


バルチック艦隊全滅の報に欧米諸国は態度も一変した。
フランスはロシアに講和を勧め。
ドイツ皇帝も皇帝ニコライに講和を勧告した。
日本に好意を寄せていたアメリカ大統領ルーズベルトは、駐露大使に講和を進めるよう命じた。
ニコライはこれらの勧告を受け入れ、ルーズベルトが調停役となった。






訪問日・2006.5.6


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