しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

森忠政像

2021年05月05日 | 銅像の人
場所・岡山県津山市山下  鶴山公園

ブロンズ 作者 日原康
像高 160cm 
製造・1978年(昭和53年) 津山ライオンズクラブ10週年記念
津山藩初代藩主
津山城を築城
岡山文庫


美作18万石という戦国大名にしては、人物紹介が「森蘭丸の弟」程度の扱い。
人気作家が小説に書いたこともない。
織田・豊臣・徳川に仕えて美作一国の城主の割に、全国的に知られていない。
不思議なお殿様だ。




(銅像の説明板)
幼名を千丸。
元亀元年、美濃(岐阜県)金山城に生まれる。
京都本能寺の変で、織田信長を守護し、悲運の最期を遂げた森蘭丸の弟。
天正一二年(一五八四)兄長可(ながよし)の戦死後家督を継ぎ、豊臣秀吉に仕えて金山七万石を与えられる。
のち徳川家康に仕え、慶長五年(一六〇〇)信濃(長野県)川中島一三万七〇〇〇石を領す。
同八年美作国一円一八万六五〇〇石を与えられ津山に入封。
翌九年より津山城の築城に着手、また城下の街づくりを始め、現在の津山の基をなした。
寛永一一年(一六三四)三代将軍家光に随伴して津山より上京するが、食傷により急死す。
享年六五歳。なお、この像は津山市小田中、森家の菩提寺本源寺にある木像を基としたものである。








津山城

津山市役所HP
津山城は、森忠政が慶長9年(1604)に築城にかかり、元和2年(1616)の完成まで13年の歳月を要しました。
城主は森氏(4代)、松平氏(9代)と続き明治維新を迎えています。
その後明治4年(1871)には廃藩置県、同6年には廃城令、同7年には天守、屋敷、櫓、門など建物はすべて取り壊され石垣のみが残りました。
城跡は一度荒れ放題となりますが、明治33年(1900)には鶴山公園として再出発、昭和38年(1963)には国指定重要文化財(史跡)に指定されました。
今年平成16年(2004)は、森忠政の築城開始から400年目を迎えます。
この記念すべき年を迎えることを契機として、津山市では、津山城をより深く知るために資料調査や発掘調査を行い、
また、後世に よりよい状態で伝えてゆくために、石垣をはじめとする遺構の保存、重要な建造物の復元など、各種の保存整備事業を行っています。




「岡山の歴史」  柴田一  岡山文庫  昭和49年発行

森家の検地の狙いは、村高をより多くはじき出し百姓からより多くの年貢を搾り取ることにあった。
太閤検地より平均25.8%増しになっているという。

検地と並んで、近世大名が力を注いだのが、城郭の建設と城下町の経営である。
森忠政は院庄から鶴山に津山城を築いた。完成まで13年を要した。




撮影日・2013年3月16日



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