しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

川中島の戦い

2021年04月09日 | 銅像の人
場所・長野県長野市小島田町  川中島古戦場(八幡原史跡公園)
建立・1969年(昭和44年)

川中島の合戦は小学校にあがる前に、パッチンで知っていた。
漫画・小説・テレビ・映画でいろいろ合戦シーンが登場するが、
一番、印象に残っているは映画「風林火山」。

三船プロ制作「風林火山」で、川中島では
中村錦ちゃんが武田信玄、石原裕ちゃんの上杉謙信。
馬上から裕ちゃんが斬りつけると、錦ちゃんが座ったまま軍配で受け止める。
あのシーンは見ごたえあった。
後で思ったが、あの映画で裕ちゃんのセリフは一つもなかった。







「私説・日本合戦譚」 松本清張  文春文庫 1977年発行

川中島の戦

川中島の戦といっても、今の青少年にはあまり分からぬ。
筆者の子供時代の絵本とえば、必ず武田信玄と上杉謙信の一騎打ちが、極彩色で載っていたものだ。
床机に腰かけ、諏訪法性の兜をかぶった信玄が、馬上で襲いかかる謙信の太刀を、軍配で受け止めている図だ。

何となく謙信が勇ましく、信玄は小狡くみえた。
信長や秀吉に人気があり、家康に人気がないのと似ている。
実際、家康は信玄から民治など学んでいるので、性格も似通ったところがある。

川中島の戦いは、戦前だと琵琶歌などに歌われ、特に頼山陽がこの戦いに詩を作ってから、
日本合戦史の華のように思わてきた。
また、謙信と信玄の組合せが、山陽などに竜虎にたとえられたから、
横綱同士の四つ相撲みたいに思われているが、
事実は謙信の方が信玄にくらべて大ぶん見劣りがすると思う。









武田信玄対上杉謙信像
川中島の一騎討ち



戦国時代の名シーンといえる川中島合戦の一騎討ち。
武田軍の本陣に攻め入り馬上から斬りつける謙信と、
それを軍配で受ける信玄という一騎打ちの場面を再現している。
NHK大河ドラマ「天と地と」の放映を記念して立てられた。
建造から40年以上経ち、破損も目立つが、迫力はいささかも衰えていない。

「日本の銅像完全名鑑」 廣済堂出版 2013年発行





撮影日・2014年7月19日





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山内一豊

2021年04月09日 | 銅像の人
場所・高知県高知市丸ノ内






山内一豊

高知城を造ったのは山内一豊である。
山内一豊といえば、妻のへそくりで名馬を買ったことで男をあげ、
掛川五万石の城主にまで出世したことで有名なあの山内一豊である。
一豊は徳川家康にもうまくつかえ,慶長5年(1600)に土佐一国二十万余石を与えられたのだ。
その一豊が10年かけて造ったのが高知城。

一豊の銅像は、この前の戦争の時に供出され、長らく不在のままだった。
それが、平成8年に再建され、追手門をくぐる前の、県立図書館の前に建っていた。
武具をつけ、槍を持って馬に乗る勇壮な銅像である。

それにしても面白いのは、
戦争の時に、一豊の銅像は供出されたのに、竜馬の銅像は供出されなかったということである。
追手門をくぐってすぐ広場の一角に、板垣退助の銅像がある。
そして、石段をあがっていった三の丸跡の広場の隅に、一豊の妻千代と馬の銅像がある。
説明を読むとこれは、高知商工会議所の婦人会が建てたものだそうだ。

いづれにしろ、
どうも高知の人は銅像好きである。
人材が多く出た、ということもあるのだろうが、あちこちに銅像があるのだ。


「銅像めぐり旅」 清水義範著 詳伝社 平成14年発行











撮影日・2007年8月11日



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

武市半平太

2021年04月09日 | 銅像の人
場所・ 高知県須崎市浦ノ内 「武市瑞山銅像」
制作・原寛山
設置・昭和61年


土佐の最下級武士の岡田以蔵が、いわれるまま「人斬り」をして、最後には虫けらのように磔刑で死んでゆく。
命じる武市に仲代達也、以蔵に勝新太郎、薩摩の人斬りに三島由紀夫が出演した。
話題作で公開時に映画館で見たが、印象深い活劇映画だった。








「歴史の中の日本」 司馬遼太郎  昭和51年  中公文庫

武市半平太ーー映画「人斬り」で思うこと


橋本忍氏が、拙作の『人斬り以蔵』という短編を参考にされ、
五社英雄監督とともにひとつの映画世界をつくられたのが映画「人斬り」である。
私は参考人程度である。
脚本を読んでみると、さすがにおもしろい。


陰謀と暗殺、
これに手を染めた者は、洋の東西を問わず歴史の審判はおそろしく悪い。
暗い不浄者の扱いをうける。
明治後、東京の土佐人の間で「土佐の吉田松陰」などとその死後の名を顕揚されたことがあったあが、
その評価は一般化しなかった。
松陰がもっている独特の文学性と思想性が武市に欠けていたことにもよるが、
最大の欠陥はかれが暗殺団を組織し、その黒幕になっていたということであった。

罪状否定のまま武市は腹を切らされるのだが、
切腹は、江戸三百年のあいだこれほどみごとな例はなかったかもしれない。
武市の革命家としての暗さは、人柄のよさと、
この最後のみごとさによって一挙にすくわれているような感じである。

つまるところ、武市らを首領に岡田以蔵らがやったテロリズムというのは、
武市が期待した効果などは少しもなく、白痴の政治活動におわったし、
むしろ大反動をまねきよせたという点で、逆効果の方が大きかったようにおもわれる。
テロというのは、本来、そういうものなのである。











撮影日・2012年4月4日


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長宗我部元親

2021年04月09日 | 銅像の人
場所・高知県高知市長浜
建立・1999年(平成11年)



「鬼若子」と呼ばれた四国の覇者

土佐の国人だった長宗我部国知価親から領地を継ぎ、1代で四国を統一するまでに成長。
その後、豊臣秀吉に敗れ、土佐一国の支配者になる。
元親は初陣まで「姫若子」と呼ばれるほど貧弱だったが、後に鬼武者へと変わり、
「鬼若子」の異名をとった。

「日本の銅像完全名鑑」 廣済堂出版 2013年発行










土佐一国は、ひょんなことから尾張出身の山内一豊が授かった領地である。

土佐にいたもともとの武将は、長宗我部元親だった。
その人物がほとんど一代で土佐全土どころか、四国の全土を平らげたのである。
それなのに、秀吉と戦って敗れて土佐一国に押し込められ、後に、
家康によって家をつぶされたのだ。

そういうところへ、一豊は赴任してきたのである。

「銅像めぐり旅」 清水義範著 詳伝社 平成14年発行









撮影日・2018年3月24日



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする