しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

上杉謙信公騎馬銅像

2021年04月17日 | 銅像の人
場所・新潟県上越市春日山町 「謙信公武道館」


春日山駅を出て、正面の春日山城を仰ぎ見ながら目指していると体育館が右手にあり、銅像があった。
それが「謙信公武道館」であり「上杉謙信公騎馬銅像」だった。
日本100名城のスタンプは、この体育館でもらえる。





上杉謙信

天正4年(1576)には上杉と本願寺との講和が成立し、織田と上杉との同盟は破れた。
翌5年9月15日、
中秋の名月の日に七尾城を手に入れ、
転じて加賀に進み湊川(名取川)で織田軍を撃破、加賀の北半を制圧した。
そしてまた能登に帰り七尾城の未亡人とその幼児の面倒をみることにした。

勢いに乗ったかれは、関東平定をも実現しようとして、天正6年(1587)正月、関東出兵の陣触れをおこなった。
大進発の日は3月15日、謙信一代のうちで最大規模の動員であった。
ところが出発の6日前、3月9日午刻(正午)、とつじょ厠で昏倒し、人事不省となった。脳出血である。
病床にあること5日、ついに永眠した。

四十九年一睡夢 一期栄華一盃酒

かねて用意してあった辞世の句であった。
和歌もたくみで、人情味のある武将であった。
その身長は六尺ちかく、目つきの鋭い偉丈夫でもあった。


「新潟県の歴史」 井上鋭夫 山川出版社 昭和45年発行







上杉謙信

戦国時代の武将。
天文17年(1548)春日山城主となる。
越後へ亡命してきた上杉憲政を助けて関東にはいり、
のち上杉憲政の養子となる。
信玄没後、越中・能登・加賀に進出したが上洛はできず、越後の雄として終わる。

「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行






撮影日・2015年3月8日


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「杜若(かきつばた)」の像

2021年04月17日 | 銅像の人
場所・石川県金沢市  能楽堂


金沢の街は戦災も受けず、今も加賀百万石の街並みと風情が残り、なんともいえない魅力がある。





金沢の街には
この歌がぴったりくる。歌・詞・曲、三拍子そろった名曲。

謡曲がふるふる 加賀宝生の
木洩れ陽青い 石だたみ
ああ 金沢は 金沢は・・・


加賀の女 歌:北島三郎 作詞:星野哲郎 作曲:島津伸男」







「石川県の歴史」  下出積興 山川出版社 昭和45年発行


加賀宝生の世界

”加賀へ行くと天から謡曲が降ってくる”、
屋根葺や植木屋が、仕事をしながら謡の一節を口ずさむからだ。

室町時代以来、能楽は武家のたしなみとされていたので、加賀の富樫、能登の畠山によっておこなわれたが、
さかんになったのは江戸時代にはいってからである。
利家は幸若舞の愛好者で、能楽のファンでもあった。
利長も父の資質をうけ神事能をはじめた。
宝生流とのつながりができたのは三代利常のときである。

加賀宝生の伝統の基礎をつくったのは綱紀である。
綱紀は、将軍綱吉の好みにおうじて能を宝生大夫友春(9代)にならった

それだけでなく、藩の能大夫も宝生流に弟子入りさせ、以後は藩内の能楽を宝生流一本に統一する。
さらに綱紀は細工者(工芸職人)たちにシテ方以外の各部門を余技として修練させた。
その上手下手におうじて扶持の増俸があった。
これが、町民各層をはじめ農民にいたるまで能楽を普及させた大きな原因となった。

半面、中世以来の他の芸能はほとんどこのころまでに姿を消してしまった。
幸若はおとろえ、
琵琶法師もうけつぐものはなかった。
歌舞伎は寛永以後は興行されなかった。









撮影日・2016年2月2日


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藤堂高虎

2021年04月17日 | 銅像の人
場所・愛媛県今治市通町
制作・2004年(平成16年)


「戦国武将100話」  桑田忠親 立風書房 1978年発行

藤堂高虎
処世にたけたスパイ大名



戦国時代は、よき主君をもとめて諸家を渡り歩くことはふつうに行われ、
「七たび主家を変えねば一人前とは言えぬ」といわれたほどであった。
その意味での典型が藤堂高虎である。
高虎は七たび主人を変えた。

とりたてて挙げるべく武勇譚がほとんどない。
高虎は槍ばたらきよりも、人間関係を滑らかにすることで世を渡ろうとしたようである。

高虎は、秀吉死後の天下人を、家康とみとめ、しきりと接近をはかり、家康の対立者たちの情報を細大もらさず家康の元へ運びこんだのである。
高虎の家康への献身は、当の家康が死んだ後もつづく。


【藤堂高虎】

近江浅井郡藤堂郷に生まれる。
浅井家の滅亡後、主家を転々とし、文禄3年(1594)秀吉につかえて伊予宇和島で7万石。
第二次朝鮮の役では水軍として出動。
関ケ原役後、伊予半国をあたえられ、のち大坂の役の功で伊賀伊勢32万石となった。
元和2年(1616)没、75歳。






(Wikipedia)
藤堂高虎

時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 弘治2年1月6日(1556年2月16日)
死没 寛永7年10月5日(1630年11月9日)
改名 与吉(幼名)、高虎
主君 浅井長政→阿閉貞征→磯野員昌→津田信澄→豊臣秀長→秀保→秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠→家光
藩 伊予今治藩主→伊勢津藩主

藤堂 高虎は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。
伊予今治藩主、後に伊勢津藩の初代藩主となる。藤堂家宗
何度も主君を変えた戦国武将として知られる。
築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城・二条城などを築城し黒田孝高、加藤清正とともに名人として知られる。
高虎の築城は、石垣を高く積み上げることと堀の設計に特徴があり、石垣の反りを重視する加藤清正と対比される。











撮影日・2018年10月13日



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