しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

清水次郎長

2021年04月23日 | 銅像の人
場所・静岡県静岡市清水区美濃輪町



子どものころ
晩飯の後、たまに祖父がラジオを聴くことがあった。
聴くのは決まって浪曲番組だった。

その頃、ラジオのスターは広沢虎造だった。
名調子でうなり、語っていた。








「森の石松と三十石船船道中」



旅行けば 駿河の道に茶の香り



「駿河の国が安倍郡、清水港の宇土町に住む山本長五郎。
通称、清水の次郎長。これが街道一の親分よ」


「お-お-江戸っ子、おい若いの。
ここへ来ねえ来ねえ、座んねえ」

「江戸っ子だってなあ」
「神田の生まれよ」

「なあおい、飲みねぇ、飲みねぇ。寿司を食いねぇ。江戸っ子だってねぇ」
「神田の生まれよ」

「そんなに次郎長が偉いか」
「子分、いい子分がいるぜ次郎長には。
千人近く子分があって、人に親分、兄ぃと言われるような人が28人。
これを唱えて清水の28人衆。
この28人の中に次郎長くらい偉いのがまだ5~6人いるからね」




「お前さんね、ばかに詳しいようだから聞くんだけど、
次郎長の子分の大勢ある中で、一番強いのは誰だか知っているかい?」


「一番強いのは、大政
二番は 小政
三番は 大瀬半五郎
四番は 増川仙衛門
五番は 法印大五郎
六番は 追分三五郎
七番は 尾張の大野んぼ鶴吉
八番は ・・九番は・・ ・・・・・十七番は・・
あとの奴は 一山いくらのガリガリ亡者ばっかりだよ」



「やい、おもしろくねえな、てめえは。
さっきから黙って見てりゃ、酒だって寿司だってみんな俺が買ったんだぞ。
次郎長の子分で肝心なのを一人忘れていませんかてんだ。
この船が伏見に着くまででいいから、よおく考えておくれ。ええ、おい。。」

「泣いたってしょうがねぇやな、お前さん。
あっ!
一人あった!」

「誰だい?」
「こりゃ強い。
遠州森の生まれだ」

「お上がんなさい、お上がんなさいよ。
ええ誰だいその一番強いというのは・・」

「左の目、、あれっ、お前さんとおんなじだ。
森の石松ってんだ。これが一番強いやい」
「飲みねぇ、飲みねぇ、寿司食いねぇ。江戸っ子だってね」
「神田の生まれよ」


「そんなに何かい、石松は強いのかい?」
「強いなんてのは、神武このかた,博打打ちの数ある中、石松っつあんが日本一でしょうな。
だけど、あいつは馬鹿だからね。
東海道で一番馬鹿なんだ」




お茶の香りの東海道 清水一家の名物男
遠州森の石松は 素面のときはよいけれど
お酒飲んだら乱暴者よ 喧嘩早いが玉に瑕
馬鹿は死ななきゃ 治らない


丁度時間となりました・・・




「日本の古典芸能 浪曲・怪談」  龍口雅仁編   丸善出版  令和元年発行









清水次郎長
文政3年(1820)~明治26年(1893)
駿河の侠客。
元治元年(1864)甲斐の黒駒勝蔵に勝って東海道の縄ばりを確保。
慶応4年(1868)官軍から道中探索方に任命され帯刀を許された。
徳川家の駿府移転により山岡鉄舟と交友を結ぶ。
のち富士山麓を開館した。

「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行










撮影日・2014年10月8日




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佐竹義堯

2021年04月23日 | 銅像の人
場所・秋田県秋田市  千秋公園


立派な銅像がお城の中心に建っている割には、その功績が今一つわからない。


秋田市役所HP

第12代秋田藩主佐竹義堯(よしたか)
(文政8年(1825)~明治17年(1884))は、近代秋田を築いた最後の藩主であり、戊辰戦争では新政府方に属して戦いました。
明治維新の激動期を生きた象徴的な人物です。








「歴史と人物」 昭和56年9月号  中央公論   昭和56年発行

奥羽越列藩同盟


複雑にからんだ諸藩の思惑の中で、同盟総体としての戦争目的ははたして明確であったか
そもそも、戦争において、何ゆえに、何のために戦うのかを不明確な結束となった。

一枚岩でなかった。
①朝敵グループ 会津藩・庄内藩、および桑名藩と旧幕脱走兵
②リーダーグループ 仙台藩・米沢藩・長岡藩
③懐疑的グループ 秋田藩・弘前藩・盛岡藩
④弱小藩 (現状維持・日和見)

目的と利害が異なり、諸藩の結束が弱かった。
目的意識の不統一が内部対立を招いた。

同盟結成時点から同盟の方向に懐疑的であり、諸藩間から異論のある藩とみられていた秋田藩・弘前藩は戦争にはいると離脱していった。
20万石余の大名で、後陣を固めるべき立場の藩である。










(Wikipedia)
佐竹義堯
佐竹 義堯(さたけ よしたか)は、江戸時代後期の大名。
出羽国岩崎藩7代藩主、 のちに出羽久保田藩12代にして最後の藩主。
佐竹壱岐守家7代当主。佐竹氏第30, 32代当主。



文政8年(1825)~明治17年(1884)
出羽久保田藩主。
富国強兵と西洋砲術を推進した。
慶応4年、戊辰戦争では新政府を支持して、旧幕府支持派の奥羽列藩同盟と戦う。
明治2年その功で章典禄2万石を受け藩知事となる。

「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行





撮影日・2018年3月24日


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桃太郎

2021年04月23日 | 銅像の人
場所・岡山県岡山市北区駅元町 (JR岡山駅前)

 
入社して2年目の春、九州に転勤になった。
社内の宴会時にTOP(支店長)から、
「きみは(出身が)岡山か、岡山なら仁・智・勇の桃太郎の話を知っている・・・」

鬼退治に犬・猿・キジを連れて行ったのは、日本人なら誰でも知っているが
仁智勇のことは知らなかった。初耳だった。






上司は40代で、戦時中は旧制高校生。
時世がら、小学校の修身で教えてもらったのだろう。

犬は仁を忘れない、猿は頭脳がいい、キジは死を恐れない勇者だ、とか。




思い起こせば、当時は「軍歌酒場」が流行り、
管理人も同僚たちといっしょに「同期の桜」などを大声で歌っていた。





撮影日・2019年8月4日

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自由の男神

2021年04月23日 | 銅像の人
場所・岡山県岡山市中区奥市 護国神社前 
ブロンズ
作者 岡本錦朋
像高 230cm 台座高 200cm
昭和55年9月 歩54戦友会並びに遺族建立







珍しい名称だ、”自由の男神”。
まあ女神があるのだから、男女平等で男神があってもいい、とはいえる。










撮影日・2016年4月5日


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浜子像

2021年04月23日 | 銅像の人
場所・広島県福山市松永町  JR松永駅前


入浜式塩田は昭和30年頃まで、およそ300年間つづいた。
寄島塩田では、↓下記だが、松永塩田もほぼ同じだったと思える。


塩田で働いた人たちの労働は厳しかった。
天候が相手で、やけつく夏も、凍りつく冬も、盆も正月もない。
雨さえ降らねば朝5時から晩の6時まで、1日6回の飯を食べるきつい仕事であった。

塩田は1町5反、2町を短冊型に区画し、これを1塩戸とし経営された。
塩戸毎に
棟梁(2交代で塩を焚く、夜勤を夜釜という)
上浜子(ばんこ)浜子の頭
浜子 1戸5~6人。作業の中枢となって晴雨にかかわらず出勤する。
きっぷ 女や子供・老人で寄せ子といって浜持ち作業の日だけ出勤する。
計約10人くらい。
「寄島風土記」昭和61年 寄島町発行



砂を沼井にすこいこみをするのが、特に
重労働中の重労働であったそうだ。








「あなたの知らない広島県の歴史」 山本博文 洋泉社 2012年発行

広島の製塩業

近世の製塩業は17世紀半ばに瀬戸内海沿岸部で入浜式塩田が開発されて以来、一気に活気づいた。
以前のように人力ではなく、潮の干満を利用するという当時としては画期的な手法の塩田だった。
これにより塩田の経営の効率化に成功し、生産性が向上したのである。

県内の製塩業にこの新手法が導入されたのは、慶安3年(1650)からだ。
福山藩は万治元年(1658)に赤穂から技術者を招いて、沼隈郡松永に入浜式塩田を完成させている。
この時、松永の入浜式塩田を主導した藩士・本荘重政は、その後の松永の発展の基礎を築いたから「松永の父」と呼ばれるようになったという。

作られた塩は海運を通じて日本中に運ばれるようになり、芸備地方は江戸時代を通じて国内有数の塩の一大産地として知られるようになった。









撮影日・2013年1月7日

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加藤友三郎

2021年04月23日 | 銅像の人
場所・広島県広島市中区







「軍国日本の興亡」 猪木正道 中公新書  1995年発行

ワシントン会議

海軍の実力者加藤友三郎は、
日本の国力が米英両国に比べて段違いに劣っていることを考慮し、
1921年12月11日、太平洋の防備を現状のまま維持することを前提として5・5・3の比率を受諾することを決意した。
全権団随員の中には、加藤寛治中将をはじめ反対するものがおり、国内でも強硬論が強かったので、
加藤主席全権は、次官あてに口述をした。
「国防は軍人の専有物に非ず。
戦争もまた軍人のみにてなしうべきものに非ず。
国家総動員してこれに当たらざれば、目的を達しがたし。
・・・・・
平たくいえば、
金がなければ、戦争ができぬということなり」
加藤海軍大臣はさすがに見識が高い。

日露戦争に勝ってから日本国民は増長し、
第1次大戦で火事場泥棒のような手段で国威を発揚した。
そういう雰囲気の中にあって、加藤海軍大臣のような政治・経済のわかる立派な軍人が存したことは賞賛に値する。















加藤友三郎
元帥・海軍大将・首相


大正4年(1915)、第2次大隈内閣の海相に就任してから、4代の内閣で7年10ヶ月の長きに及び海相を務め、
その間才知にたけた加藤は、能力を遺憾なく発揮した。
第1次大戦では英国の要請で特務艦隊を地中海に派遣、
ドイツ潜水艦「Uボート」と戦い「地中海の守護神」と賞賛された。
大正10年(1921)ワシントン軍縮会議に日本首席全権として参加。
英米日の主力艦の比率が5:5:3という米国の提案に対し、従来の方針である対米7割にこだわらず受け入れた。
大正11年(1922)6月内閣総理大臣に就任したが、海相を兼務しワシントン条約に従って大幅に軍縮を行った。
首相在任中の大正12年、直腸ガンで死去。


「大正クロニクル」 世界文化社 2012年発行








撮影日・2017年3月18日

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