しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

上杉謙信

2021年04月11日 | 銅像の人
場所・新潟県上越市春日山町  春日山城跡


春日山城はJR春日山駅の真正面に位置し、駅前通りがそのまま春日山城へとつづく。
今も市民の心に、戦国武将謙信は顕彰されているような感じがした。





上杉謙信


享禄3年(1530)越後守護代長尾為景の子として生まれる。
初めの名は景虎。
兄や一族と争ったが、守護上杉定実の調停で守護代につき越後春日山城主となる。
天文21年(1552)亡命してきた上杉憲政から上杉の姓と関東管領職を譲られる。
武田信玄との川中島での決戦は5度に及んでいる。
越中を平定し、能登・加賀に進攻し、織田信長と対決して天下に覇をとなえんとしたが、
惜しくも天正6年病に倒れた。墓は、高野山および上越市林泉寺、米沢市御廟町にあり、
遺品の数々が米沢市の上杉神社におさめられている。




「戦国武将100話」  桑田忠親 立風書房 1978年発行












撮影日・2015年3月8日


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山中鹿之介像

2021年04月11日 | 銅像の人
場所・島根観安来市広瀬町
建立・1978年(昭和53年)



「尼子十勇士」の筆頭

尼子氏再興のために毛利氏と戦い、織田信長に支援を求めるなどの奮闘をみせる。
「我に七難八苦を与えよ」と祈った逸話が残る。

「日本の銅像完全名鑑」 広済堂出版 2013年発行









山中鹿之介

山中鹿之介といえば、戦前には講談はもとより、教科書にまでのった話は有名である。
山の端にかかる三日月をあおいで、
「われに七難八苦をあたえたまえ」
と祈ったという場面である。

主家再興のために骨をくだいて奔走する姿が、戦前の忠君愛国の精神教育に格好の題材となったのである。
彼の人生ドラマを華やかにいろどるのは、主家尼子家再興のために戦う、その執拗なゲリラ活動にあるだろう。

「戦国武将100話」  桑田忠親 立風書房 1978年発行






撮影日・2020年10月28日



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吉川経家

2021年04月11日 | 銅像の人
場所・鳥取県鳥取市  鳥取城跡


戦国の世でも、因幡鳥取城の籠城ほど人間性が極限まで追い詰められたものはまれであろう。
羽柴秀吉の大規模な包囲作戦で、城は完全に飢餓地獄におとされ、人肉をくらうという未曽有の事態が発生したのである。







当時の記録は、その模様をなまなましくつたえている。
「・・・・稲かぶを上々の食物とし、のちにはこれも尽き候て、牛馬をくらい、霜露にうたて弱き者は餓死・・・」
痩せ細った歩行も困難な男女が、城の柵ぎわにすがって、包囲軍に助け候えと泣き叫ぶのである。
それに容赦なく寄せ手の銃火が集中する。
撃たれた者がまだ息もあるというのに,城内のものどもが、手に刃物をもって、むらがり、あらそってその肉を切りとった。
「・・・身体のうちにても、とりわけ頭はよき味とみえ、頭をこなたかなたへ奪い取り逃げ候・・・」

秀吉の「渇殺し、槍も刀もいらず」という兵糧攻めの典型がこの鳥取城に対して行われたのである。
味方の兵を失わず、相手の自壊をまつ、ただし時間がかかる。
この攻城戦は、落城までに半年を要している。








総大将自刃に対し、秀吉は食べ物を与えた。
飢餓状態のあとの食物のため、胃や内臓がちじんでいるため、一度に食べて頓死する城兵が少なくなかった。


「戦国武将100話」  桑田忠親 立風書房 1978年発行




訪問日・2020年10月14日




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