場所・静岡県島田市河原 島田宿大井川川越遺跡
「静岡県の歴史」 若井淳之 山川出版社 昭和45年発行
越すに越されぬ大井川
関所の取り締まりはいかにきびしくとも、通行手形があれば通れるものであった。
しかし、一度大雨でも降ると河原一面に出水して川留になって通ることができないのが
大井川をはじめ安部川・瀬戸川・奥津川などであった。
遠江や駿河のある河川は、天竜川・大井川・安部川・富士川・瀬戸川・奥津川なで、
橋梁のない河川ばかりであった。
こうした河川を通行者がわたるとき、
天竜川・富士川では渡船制度が、
大井川などでは渡渉方式が採用されていた。
大井川の渡渉は古くからたいへんなところであった。
水深も浅く、よほどの大水でない限り渡渉は可能のようであった。
だから”自分越”をしていたが、生命の危険もしばしばあった。
島田代官であった長谷川藤兵衛は1660年頃、往還の川越らが旅人にたいして不作法のことがないように、
川目代を任命してその取り締まりにあたらせた。
こうして大井川の川越制度は徐々に整備されてき、元禄年間に本格的に制度化された。
川越賃銭の統制
島田・金谷両宿に川庄屋と川会所の手に委ねる。
水深
水深二尺五寸を常水ときめ、一尺増水するごとに高くなる。
川庄屋は毎朝夕六つには河原に出て、その日の川の状況を調べ、
水深などにより賃銭の決定や川の留明を決めていた。
川庄屋の決定により、川越人足は動くのであるが、
島田側でみると江戸中期に350人ほどいたといわれ、幕末には650人くらいに増加していった。
肩車や蓮台などの方法があり、
蓮台越には多様で芋手すり、四方手すり2本棒、四方手すり4本棒などの種類があった。
また大名は自分の蓮台を持参、本陣などにあずけていた。
大井川渡渉のなかで最大の問題は、
賃銭でも人足の不作法でもなかった。
川越庄屋たちの判断によって決定される川の留明であった。
雨が降り、川が増水して川留になると、
島田・金谷の川庄屋たちは、宿々にはもちろん、道中奉行にたいしても通報・報告していた。
すると参勤交代の大名も、一般旅行者ももよりの宿場で泊まらざるをえなかったし、
川明になるとその旨がまた通報されるので、先を争って渡ろうとする人々が河原に殺到し、
さながら戦場のようであったという。
川留になって困り果てたのは、大名や通行者ばかりではなかった。
参勤交代の援助をする助郷村の人々も同様であった。
かれらは逗留する大名たちが、宿場にいる間は村にかえることができず、村から食糧を運ばせて待機していたから、
その負担も莫大であった。
いっぽう海上交通・水上交通の発達も忘れてはならない。
菱垣廻船・樽廻船の発達にともない、海上交通とむすびつく清水湊の発達もいちじるしく、富士川の水運の発達ともむすびついて、米や塩の流通の重要な中継地となった。
撮影日・2014年10月9日
「静岡県の歴史」 若井淳之 山川出版社 昭和45年発行
越すに越されぬ大井川
関所の取り締まりはいかにきびしくとも、通行手形があれば通れるものであった。
しかし、一度大雨でも降ると河原一面に出水して川留になって通ることができないのが
大井川をはじめ安部川・瀬戸川・奥津川などであった。
遠江や駿河のある河川は、天竜川・大井川・安部川・富士川・瀬戸川・奥津川なで、
橋梁のない河川ばかりであった。
こうした河川を通行者がわたるとき、
天竜川・富士川では渡船制度が、
大井川などでは渡渉方式が採用されていた。
大井川の渡渉は古くからたいへんなところであった。
水深も浅く、よほどの大水でない限り渡渉は可能のようであった。
だから”自分越”をしていたが、生命の危険もしばしばあった。
島田代官であった長谷川藤兵衛は1660年頃、往還の川越らが旅人にたいして不作法のことがないように、
川目代を任命してその取り締まりにあたらせた。
こうして大井川の川越制度は徐々に整備されてき、元禄年間に本格的に制度化された。
川越賃銭の統制
島田・金谷両宿に川庄屋と川会所の手に委ねる。
水深
水深二尺五寸を常水ときめ、一尺増水するごとに高くなる。
川庄屋は毎朝夕六つには河原に出て、その日の川の状況を調べ、
水深などにより賃銭の決定や川の留明を決めていた。
川庄屋の決定により、川越人足は動くのであるが、
島田側でみると江戸中期に350人ほどいたといわれ、幕末には650人くらいに増加していった。
肩車や蓮台などの方法があり、
蓮台越には多様で芋手すり、四方手すり2本棒、四方手すり4本棒などの種類があった。
また大名は自分の蓮台を持参、本陣などにあずけていた。
大井川渡渉のなかで最大の問題は、
賃銭でも人足の不作法でもなかった。
川越庄屋たちの判断によって決定される川の留明であった。
雨が降り、川が増水して川留になると、
島田・金谷の川庄屋たちは、宿々にはもちろん、道中奉行にたいしても通報・報告していた。
すると参勤交代の大名も、一般旅行者ももよりの宿場で泊まらざるをえなかったし、
川明になるとその旨がまた通報されるので、先を争って渡ろうとする人々が河原に殺到し、
さながら戦場のようであったという。
川留になって困り果てたのは、大名や通行者ばかりではなかった。
参勤交代の援助をする助郷村の人々も同様であった。
かれらは逗留する大名たちが、宿場にいる間は村にかえることができず、村から食糧を運ばせて待機していたから、
その負担も莫大であった。
いっぽう海上交通・水上交通の発達も忘れてはならない。
菱垣廻船・樽廻船の発達にともない、海上交通とむすびつく清水湊の発達もいちじるしく、富士川の水運の発達ともむすびついて、米や塩の流通の重要な中継地となった。
撮影日・2014年10月9日