しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

川越人足

2021年04月29日 | 銅像の人
場所・静岡県島田市河原   島田宿大井川川越遺跡




「静岡県の歴史」 若井淳之  山川出版社 昭和45年発行 


越すに越されぬ大井川

関所の取り締まりはいかにきびしくとも、通行手形があれば通れるものであった。
しかし、一度大雨でも降ると河原一面に出水して川留になって通ることができないのが
大井川をはじめ安部川・瀬戸川・奥津川などであった。

遠江や駿河のある河川は、天竜川・大井川・安部川・富士川・瀬戸川・奥津川なで、
橋梁のない河川ばかりであった。
こうした河川を通行者がわたるとき、
天竜川・富士川では渡船制度が、
大井川などでは渡渉方式が採用されていた。

大井川の渡渉は古くからたいへんなところであった。
水深も浅く、よほどの大水でない限り渡渉は可能のようであった。
だから”自分越”をしていたが、生命の危険もしばしばあった。

島田代官であった長谷川藤兵衛は1660年頃、往還の川越らが旅人にたいして不作法のことがないように、
川目代を任命してその取り締まりにあたらせた。
こうして大井川の川越制度は徐々に整備されてき、元禄年間に本格的に制度化された。





川越賃銭の統制

島田・金谷両宿に川庄屋と川会所の手に委ねる。
水深
水深二尺五寸を常水ときめ、一尺増水するごとに高くなる。
川庄屋は毎朝夕六つには河原に出て、その日の川の状況を調べ、
水深などにより賃銭の決定や川の留明を決めていた。
川庄屋の決定により、川越人足は動くのであるが、
島田側でみると江戸中期に350人ほどいたといわれ、幕末には650人くらいに増加していった。


肩車や蓮台などの方法があり、
蓮台越には多様で芋手すり、四方手すり2本棒、四方手すり4本棒などの種類があった。
また大名は自分の蓮台を持参、本陣などにあずけていた。

大井川渡渉のなかで最大の問題は、
賃銭でも人足の不作法でもなかった。
川越庄屋たちの判断によって決定される川の留明であった。

雨が降り、川が増水して川留になると、
島田・金谷の川庄屋たちは、宿々にはもちろん、道中奉行にたいしても通報・報告していた。
すると参勤交代の大名も、一般旅行者ももよりの宿場で泊まらざるをえなかったし、
川明になるとその旨がまた通報されるので、先を争って渡ろうとする人々が河原に殺到し、
さながら戦場のようであったという。


川留になって困り果てたのは、大名や通行者ばかりではなかった。
参勤交代の援助をする助郷村の人々も同様であった。
かれらは逗留する大名たちが、宿場にいる間は村にかえることができず、村から食糧を運ばせて待機していたから、
その負担も莫大であった。


いっぽう海上交通・水上交通の発達も忘れてはならない。
菱垣廻船・樽廻船の発達にともない、海上交通とむすびつく清水湊の発達もいちじるしく、富士川の水運の発達ともむすびついて、米や塩の流通の重要な中継地となった。









撮影日・2014年10月9日



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

呉要塞・高烏砲台

2021年04月29日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・広島県呉市警固屋8丁目 高烏台
訪問日・2021年年4月26日  



対象はロシア艦船と思えるが、軍都・広島と東洋一の軍港呉を敵艦から守るため、
出入り口の関門海峡と豊予水道に要塞を造り、さらに周辺の広島湾や呉湾にも要塞を構えた。
大正時代には無用となり廃止されたが、一部要塞は太平洋戦争で高射砲基地として復活した。


高烏砲台跡は戦時中復活したが、敵機に対する戦果はなかったのだろう。




(高烏砲台跡)




高烏砲台跡
(現地案内板)

明治19年(1886)、呉港に鎮守府設置が決まり、陸軍は広島湾と呉軍港を敵艦から守るため、
明治29年(1896)~36年(1903)にかけて周囲の島や山などに呉要塞(のち広島湾要塞)を建設しました。

山頂に八咫烏神社がある高烏山にちなんだ高烏台にも明治35年に砲台が完成しました。
高烏砲台は広湾から呉湾に進入しようとする敵艦を攻撃するためのものでした。

高烏砲台は実戦に使われることはなく、その後も沈黙したまま大正15年(1926)に廃止されました。
その後、
高烏砲台は海軍に引き継がれ、昭和期に入って高角砲設置されました。

戦後は廃墟となっていましたが、昭和36年に、この一帯は音戸の瀬戸公園として整備されています。






(兵舎跡)




旧高烏砲台 兵舎
(現地案内板)

この建物は、明治29年から陸軍が呉(広島湾)の防護のため砲台を整備した際、
高烏砲台の兵舎として建てられた建物です。
高烏砲台は、軍港として軍事的に重要な施設でもあったので、後に海軍に移管されました。
昭和20年8月の終戦後、兵舎は興廃しましたが外壁は現在も残存しています。
兵舎を含む高烏台砲台に使われている石は、
建物の位置から南西側の公園内の斜面から産出された花崗斑岩であることがわかっています。
この兵舎についての記録は残されておらず、
詳細は不明ですが、明治時代の石造建物としての形態を残しています。





(兵舎跡・手前の海が呉湾、奥が広島湾)



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

土屋寛翁像 ~千光寺公園、藤が満開~ 2021.4.26

2021年04月29日 | 銅像の人



天気に誘われ千光寺公園に寄った。
ツツジがきれいだろうと来てみたが、
ツツジの場所は、「千光寺山頂展望台」の工事のため、広い範囲が立入禁止区域だった。







ツツジの場所意外の場所で、藤が二か所綺麗に咲いていた。
千光寺公園は”藤の名所”でもあることを、初めて知った。








・・・・・


土屋寛翁像


場所・広島県呉市西土堂 千光寺公園

千光寺公園、西展望台のすぐ近くにある。

栗原村長・町長、広島県議、衆院議員、尾道市長を務めた人。





(Wikipedia)

土屋寛

広島県御調郡栗原村出身。御調郡書記を務めた後、1909年(明治42年)に栗原村の村長に選出され、町制施行後も町長を務めた。
また、広島県会議員に選出され、県会の郡部会議長にも就任した。
1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し当選。当選回数は合計で4回を数えた。
その間、1940年(昭和15年)から1942年(昭和17年)にかけて尾道市長を務めた。

戦後、日本進歩党の結成に参加するが、大政翼賛会の推薦議員だったため、間もなく公職追放となった。






撮影日・2021年4月26日



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする