しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

西郷隆盛 (城山の洞窟)

2021年04月13日 | 銅像の人
場所・鹿児島県鹿児島市城山町 「西郷隆盛洞窟」前






西郷軍は熊本まで攻めのぼるが、熊本城は落とせず、
九州を大行軍して鹿児島に帰り着く。
9月に入り、西郷は城山の狭い洞窟の中にいた。

9月24日、官軍が総攻撃を始める。
西郷は洞窟を出て、最前線に出ようと歩いていくが、途中で腹に官軍の弾丸が当たる。
西郷はかたわらの別府晋介にむかって、

「晋どん、晋どん、もうここでよかろ」
と言ってすわった。
晋介がその西郷の首を介錯した。

「銅像めぐり旅」 清水義範著 詳伝社 平成14年発行









「西南戦争」

西郷隆盛率兵進発 明治10年2月15日(1877年)
西郷隆盛ら自刃   同年 9月24日

西南戦争の誘因は、征韓論に敗れて下野した西郷隆盛が、東京を去って鹿児島に隠退したことからはじまる。
鹿児島の軍事訓練校でもある私学校の生徒が西郷の不遇に憤慨し、武力蜂起を実行にうつそうとした。
それを阻止していた西郷も遂に力およばず,止むなくこれを指揮して東上の兵を起こしたのである。

こういえば簡単だが、その内情はけっして単純ではない。

幕藩体制の崩壊と新政府政策の矛盾のあらわれ、廃藩置県に付随した徴兵制度による全国武士階級の没落、
政府の財政窮乏からくるインフレ、地租改正による農民の不安と秩禄喪失による士族の生活難、木戸と西郷の対立、
派閥的には長州と薩州の反目が内在している。

西郷はブルドーザーのごとく旧制度を破壊したが、緻密に鉄筋を組み立てていく建築家ではなかった。
武人は敵の破壊が任務であって建設者ではない。
西郷は根っからの武人だった。

幕府を兵力で倒した西郷が、その後に見たものは新政府による廃刀令、徴兵制、地租改正などの他、
士族の失業に与えるに長期年賦の秩禄公債と気にいらぬ改革ばかりだった。
鉄道敷設に金を使うよりも兵力の充実に回すべきだと彼は不平満々だった。
二百万の士族の困窮を、新政府が見殺しにしているのも不満にたえなかった。

・・・

9月24日午前4時、号砲3発、その響きは殷々として城山を震わせた。
雲霞の如き官軍は、こうして四方より城山に総攻撃をかけたのである。
別府晋助と逸見十郎太は西郷の左右に従がっていたが形勢は急なり、
「もう、ゆはごはんすめいか}
「まだまだ」
また行くこと一町余り。
四方から集中した弾丸は驟雨のごとくである。
逸見はまた問うたが「まだまだ」と西郷は言った。

流れ弾丸が西郷の股と腹を貫通した。
西郷は別府をかえりみて、
「晋どん、晋どん。もう、ここでよか」と云い、地に座った。
別府晋助は西郷に向かい、
「ごめんなったもんし」と、
刀を持って西郷の首に打ち下した。
隆盛、51歳であった。

この日、戦闘は午後4時をもって始まり、同9時に終わった。
西郷の首は一兵卒が発見し、これを清水で洗って浄めた。
山県の回想に曰く。
「このとき余は西郷の首実検をし、一面には征伐の任務を全うしたことを喜んだが、
他の一面には、一代の傑出したる英雄がかくのごとき運命に遭遇したかと思い、
覚えず厳然として涙下り、哀情が耐えられなかった」(公爵山県有朋伝)

西郷としては、せめて故郷の鹿児島に戻って死んだのが本望だったろう。


「私説・日本合戦譚」 松本清張  文春文庫 1977年発行






撮影日・2013年8月8日




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お市の方

2021年04月13日 | 銅像の人
場所・福井県福井市  北ノ庄城跡

織田信長の家系は容姿が優れていたのだろうな、みな。
お市の方も、美人・悲劇・血筋を残し、名を歴史に残した。


お市の方

お市の方の肖像画が、いまも高野山持明院に所蔵されているが、
さすがに戦国一の美女の面影をうかがわせるものがある。

お市の方は薄幸の運命に翻弄された女性だった。
はじめ近江の浅井長政にとついで三女二男を生んだが、夫と長男は信長に殺害された。


北ノ庄城の最後。
勝家は再三、お市の方に退城をすすめた。
しかしお市の方は最後まで首をたてにふらず、夫と運命をともにすることを誓い、
辞世をよんだ。お市の方は37歳であった。


 さらぬだに打ちぬる程も夏の夜の
   夢路をさそうほととぎすかな


「戦国武将100話」  桑田忠親監修  立風書房 1978年発行






「歴史と旅」 昭和52年9月号 秋田書店
戦国三美人 お市の方・ガラシャ・勝頼夫人 来水明子

ひたむきな母性愛---お市の方


お市の方は、おそらく10代後半の年齢で、浅井長政のもとに嫁ぎ、
天正元年9月の小谷落城まで、足掛け7年の歳月を浅井家に過ごして、長政との間に数人の子女をもうけた。
夫の長政が自刃を遂げたあと実家に戻って寡居すること10年、
本能寺の変のとしの天正10年(1582)の8,9月頃に、
信長死後の勢力分野再調整の一環として、柴田勝家と再婚し、
翌天正11年4月24日、越前北ノ庄城で勝家とともに世を去った。

つまりお市の方が勝家夫人であったのは正味8ヶ月ばかり、一年にも足らぬ期間のことで、もちろん勝家とのあいだには子もなかった。
勝家の方は彼女との再婚のとき、すでに老齢に近かった。
三人の姉妹は、北ヶ庄城落城の時はすでに15.16から11.12までの少女となっていた。
婚期の早かった当時にあっては、三人とも、もうそろそろ母のもとを離れる年齢だったといっていい。

最初の婚家の浅井家は亡びてあとかたもなく、
柴田家は今や滅亡の寸前、
実家の織田家は甥たちが四分五裂のありさま。
お市の方は無常感をつよく誘われる点もあったはずである。


さらぬだに うちぬる程も夏の夜の 別れをさそうほととぎすかな

お市の方の辞世として諸書が伝える歌である。





撮影日・撮影日・2015年8月3日  


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柴田勝家

2021年04月13日 | 銅像の人
場所・福井県福井市中央   北ノ庄城跡
建立・1967年(昭和42年)


柴田勝家

剛直ひとすじの武将である。
織田信長の死後、その跡目をめぐり、秀吉とはげしい主導権争いを演じて敗れた。

民政家としては、
一向一揆を討伐して越前北ノ庄城主となった勝家は、
刀狩りを断行し、農民の武器をすべてとりあげたが、
これを農機具に鋳なおして、また農民に与えている。
国中から48艘の船を集め、これを鎖でつないで橋にした。


織田家の跡目を決める清洲会議で、勝家は信長の三男信孝を推したが、
丹羽長秀を味方につけた秀吉が成功した。
そのかわり、当時絶世の美女と謳われた信長の妹お市の方を妻にむかえたのである。

賤ケ岳の合戦で敗れ北ノ庄で自害、62歳であった。

「戦国武将100話」  桑田忠親監修  立風書房 1978年発行










柴田勝家像
「鬼」と呼ばれた猛将

織田信長の筆頭家老。
無骨な性格で武勇に秀でたため「鬼柴田」と呼ばれる。
水瓶を割って背水の陣で出撃して敵を打ち破った逸話から
「瓶割柴田」の異名ももつ。

「日本の銅像完全名鑑」 廣済堂出版 2013年発行









「戦国武将100話」  桑田忠親 立風書房 1978年発行

柴田勝家

通称権六。修理亮(しゅりのすけ)。
織田家筆頭の老臣で、天正3年(1575)9月信長の越前一向一揆討伐後、越前国主となる。
本能寺の変のときは、越後の上杉景勝にあたっていた。
賤ケ嶽の合戦で敗れて居城北ノ庄で自害した時は62歳で、妻のお市の方は37歳であった。
墓は、福井市左内町の西光寺にある。






撮影日・2015年8月3日  



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旅立ちの法然さま

2021年04月13日 | 銅像の人
岡山県久米郡久米南町里方   「誕生寺」
ブロンズ
作者 山田良定
昭和49年6月 浄土宗保育協会建立





法然(源空)

浄土宗の開祖
1132年 誕生時で出生
1145年 叡山に登り修業
1175年 浄土宗を開く
1212年 京都で寂す
岡山文庫





誕生寺・ 会式法要(二十五菩薩練供養) 



平安時代の終わりごろ、法然は久米南条郡稲岡荘の押領・漆間時国の子として生まれた。
幼名は勢至丸。
勢至丸が9歳の時、時国は夜討にあい、時国は討ち死にして所領は横領された。
この不幸が、勢至丸を浄土宗の開祖法然にするきっかけとなった。

勢至丸は叔父観覚のもとにひきとられ仏門にはいったが、天養2年(1145)、13歳のとき、観覚のすすめで比叡山にのぼった。
18歳の時、天台座主への栄光の道をすて、隠遁、読経と思索にふけった。
腐敗堕落した天台宗にあきたらず、くるしむ民衆を救済する真の仏教をもとめつづけた。
「南無阿弥陀仏」を念仏をとなえれば、その念仏の功徳によって、
どんなに罪業ふかいともがらであろうとも、来世の往生極楽いたがいなしとし、専修念仏の浄土宗をおこした。


鎌倉仏教のなかでも、もっともはやく貴族の間に浸透し、民衆の間にもひろまった浄土宗も、
ふしぎに法然の故郷の美作地方にはのびていない。
法然みずから郷里への布教はおこなっていないのである。
誕生寺が建立されたのも南北朝時代である。

「岡山県の歴史」 谷口澄夫  山川出版社 昭和45年発行






撮影日・2016年4月17日 




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