しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

東京第二陸軍造兵廠忠海製造所(毒ガス工場)跡

2021年01月27日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・広島県竹原市忠海町大久野島
訪問日・2006年9月26日  

忠海の沖は、小説や映画でも知られた美しい”エデンの海”が広がる。
沖に浮かぶ大久野島には、東洋一の高さの大鉄塔が建ち大三島方面へ伸びている。

その大久野島は、要塞の島→毒ガスの島→うさぎの島と大転換をしてきた。





島内の電力を賄った火力発電所。





旧研究室。









「日本の軍事遺跡」 飯田則夫著 河出書房新社 2004年発行 

造兵廠忠海製造所跡
地図から消され毒ガスを造った島



昭和4年(1929)陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所(のち東京第二陸軍造兵廠忠海製造所)が開設される。
倒産しない官営の軍需工場は、町に活気を与え「久野島景気」と歓迎した。
ただ、そこで何が製造されるかは、知る由もなかった。

毒ガスは国際法で禁じられたが、各国で秘密に研究が進められ、日本もこれに倣った。
場所が大久野島に決まったのは、秘密保持と公害の面で居住地から隔離された島が適していたため。

東京で研究、大久野島で量産、船や列車で福岡県曽根へ運ばれて充填。
運用や訓練は千葉県習志野で行われ、中国各地で実戦に投入された。

イペリットやルイサイトなど多様の毒ガスや信号筒の製造が軌道に乗り、工場は拡張を重ねた。
他の軍関係施設同様に地図から消された島で、1.000名を越える人たちが危険な作業に携わった。


敗戦になると、毒ガス工場のことはすぐ占領軍の調査で知られることになる。
焼却されたり、船に積んで海に沈めるなど、粛々と工場の解体と毒ガス処分が行われた。
朝鮮動乱勃発によって米軍の弾薬基地、続いて弾薬解体処理工場場が置かれた。

現在は休暇村として国民の保養地となった。
ウサギは戦後、小学校が放した数羽のウサギが30年ほどの間に増えたものという。

戦後、大久野島関係者の多くが長い間後遺症に苦しんできた。
彼らのガンによる死亡率は一般の30倍ともいわれる。














毒ガス貯蔵庫。




「日本の島 産業・戦争遺産」 斎藤潤著 マイナビ出版 2018年発行

毒ガス工場跡


明治から大正にかけては芸予要塞の島だったが、昭和に入ると毒ガス工場の島に変身を遂げる。
1963年には国民休暇村となってリゾートの島に再度大変身。

1923年毒ガス研究を秘密裏に進めていた陸軍は、東京戸山ヶ原の科学研究所敷地内に毒ガス研究所や製造実験室の設置を決定。
その直後、関東大震災が発生して延期になる。
周辺人口も多く皇居も近いことから土地探しをはじめた。

各地の有力政治家軍人を巻き込み、陸軍軍需工場の激しい誘致合戦が起きる。
その結果、要塞が造られた後、軍縮のために放棄された大久野島に1927年白羽の矢が立った。
提灯行列で歓迎して祝ったという。

1929年忠海兵器製造所が完成し、毒ガスの生産を開始した。
最盛期、従業員は5.000人に達した。
その頃地図から消されてしまう。
1940年、技能者養成所を設け、近隣の高等小学校の卒業生たちを採用するようになる。
採用された人は、
島でのことは親兄弟にも一切口外しないという誓約書を書かされた。
1944年には原料不足で下火になる。
終戦時、3.000トン以上の毒ガスが残されていた。


大半の毒ガスは土佐沖120kmに運び、船ごと爆破して海洋投棄処分した。
その頃竹原周辺では、痰が絡んで息ができない人が多かった。
1949年頃から救済を求める運動がはじまり、実際に救済がはじまるのは1954年で、
その間に症状の重い人は亡くなった。
学徒の救済は、1970年代からはじまった。





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松代大本営跡(象山地下壕)

2021年01月27日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・長野県長野市松代町  松代大本営跡(象山地下壕)
訪問日・2014.4.14


松代は信州の静かな城下町。






その松代の町はずれまで行く、
そこに象山地下壕がある。






「日本の軍事遺跡」 飯田則夫著 河出書房新社 2004年発行 


松代大本営予定地跡
本土決戦に備えた遷都計画

太平洋戦争末期、戦争遂行に最低限必要な中枢機関を内陸の長野へ移転する壮大な計画が立てられ、
「松代倉庫工事」(マ工事)と呼ばれて極秘裏に工事が進められた。
いわゆる松代大本営である。

工事は昭和19年11月から敗戦まで延べ300万人が動員され、昼夜分かたず3交代で進められた。
半数は朝鮮人といわれ、
また近隣からは勤労報国隊や学徒が動員され、国民学校の児童までもが手伝い、全行程の75%ほどが敗戦までに終わっていた。

3地区の内、もっとも有名なイ地区の象山地下壕は総延長6km弱のうち500mほどが公開されている。
壁面の削岩の跡が生々しく、基盤の目のように掘られた様がよくわかる。

9割がた完成していたロ地区の舞鶴山は、現在・気象庁松代地震センターとなっている。










「日本の歴史14」研秀出版 1973年発行 
松代大本営

比島のレイテをめぐって激戦がつづけられていた昭和19年11月、
陸軍ははやくも本土決戦を考えて長野県松代町に極秘裡に地下の大本営をつくりだした。
松代町は長野市から10km、バスで30分。
古い静かな城下町で、大本営は町はずれ約2kmの山中。

「倉庫」という名目で、当時の金で2億円。延べ3.000.000人の労務者を使い、8分どおり完成したところで終戦となった。
固い岩盤をつらぬいた地下壕は延長10km、三段階、400mの半地下建造物で、砲爆撃にたえられるようになっている。

軍はここに天皇の御座所までつくることを考えていたという。
軍は地下、国民は地上。
それが本土決戦の想定だったのである。




戦争遺跡の辞典」 柏書房 2002年発行

松代大本営跡

松代大本営というと松代町の地下壕をさすが、関連する遺跡は長野盆地一帯に点在している。
というのも、松代大本営は、本土決戦に備えた「遷都計画」として立案・準備されたからである。
地下壕は松代町の三つの山の山腹に掘られたもので、総延長10キロ余ある。
工事名は秘密保持のため「松代倉庫工事」と呼称された。

こうした地下壕や施設の工事は、その大部分を朝鮮人の労働に依拠して遂行された。
朝鮮人労働者は約7.000人動員されたと推定される。
このうちはんぶんほどが、
日本の朝鮮に対する植民地支配により「海外流民」となった人々で、日本国内の鉱山・ダムなどに従事していた。
残りは「徴用」の名目で朝鮮から強制連行された人々であった。
リンチによるケガや死亡、栄養失調、病気なども多々あったが未解明の部分が多い。

近隣市町村から勤労報国隊が動員された。国民学校の児童も動員された。

西松組と鹿島組が請け負った。
工事は未完成のままだったが、地下壕は8~9割完成した。





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震洋隊殉国慰霊塔

2021年01月27日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・高知県香南市夜須町手結山住吉漁港  「震洋隊殉国慰霊塔」
訪問日・2012年4月4日


「震洋」という特攻兵器があった。

震洋は、全長5~6mの程の小型ボート。
大戦末期には本土決戦に備え4.000~5.000隻が実戦配備されていた。



木製のモーターボートに250kgの炸薬を積み込み、
本土に上陸する海兵隊の艇に体当たり攻撃。
米軍の上陸が予想される海岸に配備されていた。





ここ夜須町の住吉海岸は「四国の湘南」とも呼ばれるきれいな海辺。
その海辺に昭和20年、140人の海軍兵が米軍に備えていた。

終戦の翌日、昭和20年8月16日
震洋の1隻が燃え爆発し、他の震洋も爆発していった。
140人のうち、111人が肉片となり散った。






旧海軍の震洋特攻兵は、ほぼ予科練生と、元予科練生
年齢でいえば16~18才程度の若い特攻兵であったと推測される。

戦果が目的のはずが、
死ぬことが目的になっていった戦争末期の特攻兵。
生きて終戦を迎えたが、その翌日に事故死とは痛ましい。



港で網の手入れをする漁師さんに、
「当時の跡は何か残っているのでしょうか?」と尋ねた。

漁師さんは手を休め、
「神社の石段のところに穴を掘りボートを隠していた。
その穴が近年まで残っていたが、崩れてしまった。
その場所に遺族の方が檜を植えて弔っている」と・・・・相当な土佐訛りで・・・話してくれた。

その話しぶりも、なにか兵にたいして可哀そうな口ぶりだった。



・・・・・


「日本の軍事遺跡」 飯田則夫著 河出書房新社 2004年発行 

震洋(しんよう)

海軍唯一の水上特攻兵器である。
軽くて強度が確保できるベニヤ板を張り合わせたモーターボートに爆薬を積んで敵に体当たりする。
「太平洋を震撼させる」の意から震洋と名付けられた。

67馬力のトヨタ製自動車用ガソリンエンジンを搭載し、
乗員1名、
艇首に250㎏爆薬を付け、
ロサ弾と13mm機銃で武装し、
敵の上陸間際に夜陰に乗じて奇襲をかける。
乗員は予科練性が中心。

敗戦後は沖合に沈められた。




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