しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

戦後の教育(岡山県教育史)

2021年01月09日 | 城見小・他校
「岡山県教育史」 岡山県教育委員会 昭和49年発行


(笠岡市立大井小小学校百年誌)

戦後の教育




終戦処理

8月16日学徒動員解除、
8月24日学校教練、学校防空関係の訓令が廃止
8月25日岡山県の通達
一 御真影、詔書類は奉安殿・奉安所に奉還すること
二 ポスターや戦意高揚の一切の資料は除去する、そのほか

戦災を受けなかった学校は、夏休みあけに二学期を迎えたが、児童の転出入はどの学校も多かった。
教育に対する価値転換と占領軍の巡視による精神的な圧迫感が教師の自信喪失となって、全般的に教育そのものも活気を失ってきた。
これに加えて、生活物資の不足、なかでも食糧不足はインフレの激化のなかで教師生活を不安定にした。

国民学校では男女共学が基準となり、二人用の机に男女が並んで席についた。




占領軍の指令

連合国軍最高司令部(GHQ)は12月15日、
国家神道、神社神道に関する指令により
ご真影、奉安殿、英霊室、校内における神社、神棚等はみな除去されることになった。
県は二度にわたり撤去を指示しさらに指示したが、一部の学校では完全に実行されず、軍政部の注意により22年1月至急措置の通牒を出している。

ご真影は21年1月初旬、各地方事務所に奉還、地方事務所から県庁に奉還し、県では吉備津神社の浄火により焼却した。

教育勅語は23年7月までに回収された。



学校教育法

義務教育年限の延長。中等教育を全国民に開放
学校体系の単純化。複雑な体系を改める
男女共学。男女差別の撤廃



岡山県軍政部の指導と干渉

昭和20年10月、呉の米軍第六軍の岡山進駐とともに岡山軍政部が置かれ、呉の中国軍政部の管轄下となった。
焼け残った岡山郵便局の二三階を使用して、産業、経済、厚生、公安、衛生、教育、情報の各課を置き、約4年間県政全般にわたって監督した。
教育課長は係官と通訳を伴い抜き打ち的に学校を巡察してはきびしい摘発を行った。

校舎内外を厳重に点検し、寄宿舎・倉庫なども調べ、武器、武道具、削除教材、体育の号令のかけ方や勅語、ご真影の処理、教員の前歴など細かく視察した。


21年12月15日、笠岡男子国民学校を視察した際の質問
一校長に
授業で質疑や討論をさせているか 時事問題を教科で教えているか 教育勅語を取り扱っているか 英語を学習しているか 映写機はあるか 旧教科書は使っているか
武道具はどうしたか 軍隊の学校を出た先生はいるか 民主主義の講習を受けたか 新教科書で未着なものは何か 武道はやめているか 廃止の教科書はどうした
削除教材は削除したか 入学児童が入学を拒絶することはあるか 父兄会はどのくらい開催しているか
二教員(5人)に
民主主義教育研究の回数 不解の語句はないか 文部省の指示はわかるか・難語句はないか 学校長はどんなか
三児童(5人)に
先生はよくしかるか 宿題はあるか 選挙の話を先生から聞くか・それは面白いか 闇買い出しの手伝いをするか 武道をやっているか そのほか



(完全給食実施をよろこぶこどもたち・昭和27.11.5東小「笠岡小学校史」)

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軍国時代の教育(岡山県教育史)

2021年01月09日 | 城見小・他校
「岡山県教育史」 岡山県教育委員会 昭和49年発行


(笠岡商業90年史)

児童や女学校生徒は防空頭巾を携帯して登校した。
女子は活動の便からモンペをはくようになった。
学校では空襲に備えて待避壕がほられた。
学校の建物は敵機の目標になりやすいので少しでも分散させるのが安全であり、家庭へ避難する訓練もたびたび行われた。
しかし、学校の防空訓練は御真影の奉護と児童の保護が最重点だった。
20年の4月ごろからは、連日昼夜の別なく警戒警報、空襲警報が発令され、登・下校中も油断できなくなった。
夏に綿入れの防空頭巾を頭いっぱいかぶり氏名、血液型を記した布を胸に縫いつけたスフの洋服を着て学校に通った。

工場に動員中の生徒も、警戒警報のたびに避難するので、実働時間は半減していた。
阪神地区で被災したりして、岡山県内へ縁故疎開をしてくる児童・生徒は日を追って増加した。
生徒が学徒総員で出動してあいた校舎が工場や軍の施設として使用されることになった。
井原高等女学校は呉の海軍病院が、勝間田農林学校には熊本陸軍予備士官学校が再疎開したのをはじめ、全県にわたり20年4月以降の学校は軍隊か工場に使用され、まるで学校が校舎を借用しているかのようであった。


昭和10年代になると、陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍経理学校、海軍経理学校などを志願する中学生がしだいに増加した。
管費で陸海軍将校になれる学校は、学資にめぐまれない優秀な中学生には大きな魅力でもあった。
12年9月から海軍甲種飛行予科練習生制度が設けられ、中等学校4年修了者を入隊させ、多数の中堅幹部を養成することとなった。
太平洋戦争の拡大により、ますます航空戦力が必要となり、海軍の勧誘もいよいよ急となり、学校にその出願者の割り当てまでする状況となった。
18年8月1日から行われた甲種飛行予科練習生徴募試験において、願書は2.312通であった。
その内訳は

矢掛中 251
勝山中 120
岡山一商 114
岡山市商 104
吉備商 98
津山商 90
津山中 82
興譲館中 79
高梁中 76
天城中 70
岡山二中 69
金光中 68
興譲館商 63
閑谷中 54
笠岡商 51
(50名以下は略)




(笠岡商業90年史)

海軍に対抗して、陸軍も18年から特別幹部候補生制度を設け、
戦車、通信、高射砲、鉄道、船舶、航空の中堅幹部を養成した。


18年兵役法の改正により、徴兵年齢が1年引き下げられ19歳となり、
大学、高等学校等の生徒に適用されていた徴兵猶予の特権が文科系にはなくなり、現役兵として入営する生徒もでてきた。
18年12月のいわゆる学徒出陣がこれにあたる。



教練と配属将校

大正14年4月、陸軍現役将校配属令が制定せられ、教練教授要目ができ、
男子の中等学校、高等学校、専門学校、大学等に体操とは別に教練が課せられた。
学校における教練の実施状況を査問するため、査問規定が定められた。

この査問は、教練成績の評定だけなく、学校全体に対する評価と考えられていたので、
各学校では査問成績を競った。
教練の行事として、
野外練習、県下中等学校連合演習、軍隊兵営宿泊訓練、実包射撃、狭窄射撃(きょうさくしゃげき)、軍事講話などが行われた。
配属将校は軍直属で学校の教職員との間に、生徒指導の面で各県ともトラブルが起き、学校運営上難渋したことが多かった。
学校長の理想と、未熟で一徹な配属将校の要請との間にしばしば食い違いが起こった。
しかし、校長が配属将校に命令する権限はなかった。



軍隊的規律

15.16年頃から児童生徒は2列縦隊にならび、上級生のもとに通学するようになった。
教師に対してはいっせいに挙手の礼を行い、職員室に入るときは氏名を名乗り、命令を受けたら必ず復唱していた。
女子の学校でも体育に武道(薙刀)が採用され、体操も教練式で閲兵。
16年の中等学校入学生から、男子の制服はスフ地の国防色、制帽は戦闘帽で、ゲートル着用となった。
教師の長髪も少なくなり、国防色の国民服が制服化した。
国民学校も中等学校と変わらないようになった。



学校報国団

15年9月、文部大臣は校内を報国精神に基づく心身一体の修練施設として団体たらしむことを指示した。
16年3月、文部次官は報国団組織を結成し、団長(校長)のもとに総務、鍛錬、国防訓練、学芸、生活その他の部がおかれ、
各部にはいくつかの班がおかれた。

多くの中等学校では、学年で中隊を組織し、学級は小隊となった。
岡山2中では1.2年生で第一大隊、3.4年生で第二大隊を編成した。
こうして報国の名を冠した団体は、産業界からマスコミに至るまで各界にひろく及んだ。
社長以下工員に至るまで全体を隊編成するありさまであった。

軍需工場における集団勤労作業は、18年から断続的に行われた。
津島の陸軍兵器補給廠(岡山医大、六高、二中、一商など)、上井福海軍衣料廠(真備女)、倉敷絹織岡山(六高、市内中等学校)、三菱重工業水島航空機製作所(興譲館中、倉敷工)
倉敷絹織倉敷(生石女)三井造船、九州耐火煉瓦、品川白煉瓦、岡山駅などに出勤。



空襲化の御真影

空襲化の学校で当時、最も憂慮されたのは、各学校に奉安してあるご真影の安否であった。
県では、この日のあることを予想して、6月24日付けの岡山県内政部長名で、非常の場合には
市内公私立中等学校は閑谷中学校へ、岡山市内の国民学校は御津郡馬屋上国民学校へ奉還するよう指示していた。
しかし、準備中に空襲を受け、各学校宿直教員が、猛火の中をそれぞれ近郊の安全な学校へ奉還した。

焼失した学校の生徒の多くは、郡部の縁故を頼って行った。
残った通学可能な生徒を集めて分散授業や青空授業をしたが、出席したのは1~2割だった。

もっとも災害のひどかった深柢国民学校は、午前6時最後に校庭の一隅に立つ相撲場が引火類焼して僅かに奉安殿
を只一つ残したのみである。
児童の死亡49名、行方不明11名計60名の小さい魂を失った。


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