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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

戦中戦後の国民学校⑦大井国民学校

2021年01月02日 | 城見小・他校

(笠岡市立大井小学校)


大井国民学校
「小学校誌 ―創立百年を記念して― 大井小学校」 (昭和52年発行)



昭和10年 御真影奉安殿を建築す
昭和16年 小田郡大井国民学校
昭和20年 2個学級増加
昭和22年 高等科廃止
     大井村立大井小学校
昭和23年 1学級増加12学級(6.20)
昭和24年 本館2階西3教室壁造り完成(8.25)
     本館北側石垣工事完成、山ノ神奉仕(10.10)






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思い出  T子(旧職員)

昭和15年4月から昭和22年3月まで勤務でした。
然し勤務は大東亜戦争中であり、敗戦と続き、現在の児童には想像もつかない労苦と不自由を重ねて勉強をしていました。

私は勤務中7年間ずっと1年生を受け持ちしました。
その頃は幼稚園も保育園もなく団体生活は小学校が初めてでした。
親のそばを離れて泣く児童もいました。
2列に並ぶこともできず、最初は骨がおれました。



終戦前後の思い出  K男(旧職員)

勝つか負けるか、生きるか死ぬかの正念場、丁度昭和18年4月大東亜戦争の真最中、
新山校から大井校へ突然の転任、それから24年3月まで6ケ年勤務。

その間多数の勇士を村人とともに戦場へ送り出しました。
当時の村長、助役、収入役、農協組合長さん等の緊張された面影が次々と浮かんでまいります。

転任早々突き当たったことは、前年来受けていた県指定の戦時教育教育会場のことでした。
勝たねばならぬ戦争を、一方学問も道徳も芸術も尊い心を培う全人的教育理念のもとに国民教育を進めていかなければならぬ使命を背負っていたことで、
学校行事の取捨選択にも意を用いました。

戦況はいよいよ深刻になり、国民の食糧さえ乏しく、小国民も食糧増産に参加して、蛸村と小平井の2個所に開墾畑を作り用具や資材を運び、
汗を流して国の方針に微力を尽くした風景が今も明確に眼底に残っています。

昭和20年8月15日正午、
あの高い玄関先へラジオを持ち出し職員が並び、生徒は下の運動場へ勢揃いして学校での終戦風景でした。
両眼からは止め度もなく涙が流れ、職員室に入って何時間も机にかじりつき悲しくて動けなかった事が思い出されます。

戦後はマッカーサーの指令とかで、色々の命令が次々と達せられ今まで大切に使用していた掛け軸や図書は一纏めにして提出、どう処理されたか不明です。
一番聖域として崇めていた奉安殿も取毀されてしまうし、
国民の混乱は児童生活のうえにも反映して昭和21年22年は極度の動揺を来たし、学校経営の困難にも遭遇しました。

尚、在任中青年学校が吉田校へ組合立として参加したこと、戦後6.3制に当たって西中へ通うようになったこと、PTAを初めて作り多数の参加を戴いたこと等大きな出来事でした。




思い出 F男(昭和20年度卒業)

私たちの入学は昭和15年4月で、この年から学校の名前も国民学校と呼ばれるようになりました。
戦争、戦争の毎日が続き、勉強どころではなかった小学校時代でありました。

4年生の頃には、戦争も激しくなり、授業は午前中ぐらいで、午後は空襲にあった時の避難訓練をしたように思います。
土地の若いお父さんやお兄さん達が毎日のように戦争に狩りだされて行き、
その出征軍人さんを大井村の駅まで国防婦人の皆様と見送りに行くのが度々いや毎日のようにあったと思います。
全校生徒で先生につれられてお宮に参っていました。
そのうち、毎月8日はきまっていたように思います。

5年生の頃は戦況も悪化し、昼も空襲があったりして授業も中断することが続くようになりました。
上級生とともに六道の山へ開墾に行き、切り開いて、芋を作ったり、麦を蒔いたりしたものです。
運動会もありませんでした。

6年生の時は、戦況は最悪でした。
初等科以外の学校では授業を1年間停止され、中学生、高等科の生徒は学徒動員として兵器を作る工場へつれていかれました。

卒業写真は私たちの学年だけありません、しかし71名全員健在で生活を送っています。




(初等科生徒)
戦時色濃く物資も乏しく女子は着物をたおして作ったモンペをはいて通学した




(高等科生徒)
男子は戦闘帽、ぞうりばきなどが印象に残る。後方に始業合図をした太鼓が見える



(青年学校女性徒)



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座談会

昭和中期生まれ

・開墾開墾で、小平井の分教場跡、六道、門田、鳴淵などへ鍬をかついでよくいった。
畑には芋やとうきびを植えて、学校でふかしたり、焼いて食べていた。
・運動場は大半が芋畑で、勉強も運動もなかった。炭焼きをして学校で使っていた。

・遊ぶことは少なかった。
・学校から帰れば、牛飼い、さなだ組み、子守、トラックや魚売りの押し子(才の神の坂を押してお金をもらう)
・出征兵士を吉浜まで送りに行った。大井出身の兵士は大井村駅まで旗をもってみんなで送ったものだ。



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