しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

戦時体制・空き地の芋づくり

2021年01月11日 | 昭和16年~19年
「新修倉敷市史第六巻」倉敷市 平成16年


戦時体制・空き地の芋づくり

昭和16年ごろから空き地に野菜や雑穀を栽培するのが奨励され始めたが、
昭和18年6月、政府が休閑地を動員して雑穀などを栽培する食糧増産応急対策要綱を出し、
岡山県が河川敷や道路敷などの活用基準を決めると、今の総社市以南の高梁川下流の河原約20ヘクタールを筆頭にして、県内の三大河川下流の河川敷を利用する希望が続出した。
また岡山県青少年団は岡山・倉敷の国道沿線の青少年団を動員し、同国道の両側で大豆を栽培することを決定。
さらに倉敷国民学校新川校舎では低学年児童の父母らが校庭を耕し、
水島の三菱航空機製作所は工場敷地で乳牛・豚・鶏などを寮の残飯や台所くずなどで飼って食料にするため
家畜飼育施設の建設を始めている。
食糧不足の深刻さがうかがえよう。



戦時体制・ガソリン不足

石油類は日を追って不足した。
昭和13年から切符制。
トラックの輸送範囲は50㌔以内。バスは減便。
昭和18年には高梁川などに高瀬舟が復活し、
翌年には味野や高梁でリヤカー輸送隊が発足した。
岡山では15人乗りの乗り合い馬車が大雲寺~福島を運行するようになった。

農作業用の石油は、
籾摺りや灌漑に石油発動機を動かす以外は禁止され、足踏み脱穀機などが復活した。



戦時体制・電力

昭和17年11月から使用制限が始まり、
昭和18年10月から看板灯・暖房用電熱器・扇風機などが使えなくなった。
昭和19年になると、家庭では「夜10時以後絶対消灯厳守」運動が展開された。
その年6月から家庭は一戸一灯だけで、点灯は7時46分から10時まで。
料理店や飲食店は午後9時までとされた。

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(小さな絵本美術館 ミネルヴァ書房 2005年発行)






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東久邇宮・幣原内閣の頃

2021年01月11日 | 昭和20年(戦後)
「日本の歴史を見る10」 世界文化社 2006年発行

終戦から現代までの曲折 猪木正道


陸海軍を復員して占領軍を迎えるという困難な課題は、昭和20年8月17日に成立した東久邇宮内閣に課せられた。
皇族内閣という前例のない体制によって軍人の不満を押え、占領下に国体を護持しようとしたのである。

国民生活は平時へ戻っていった。
他方”一億総ザンゲ論”を唱え、戦争責任の追及をポカすとともに、
莫大な額の軍需物資の放出をつづけた。
9月2日アメリカ戦艦ミズーリの艦上で、降伏文書の調印式が行われた。
この日から天皇と政府の権限は、連合国最高司令官マッカーサーの下に置かれたのである。

日本軍の復員と解体が、誰も予想しなかったほど円滑に進み、
約300.000のアメリカ軍が、ほぼ無事故で占領したことは東久邇宮内閣の大きな功績といってよかった。
この内閣はショックを吸収するクッションのような役割を果たした。
しかし旧大日本帝国の権力構造を根底からくつがえすことを目的とした占領軍に、旧支配勢力で固められた東久邇宮内閣の存続には限界があった。







昭和20年10月9日、幣原喜重郎内閣が成立した。
昭和6年若槻内閣が倒れた語14年間、その存在を忘れられていた。
彼が軍部の大陸政策に反対し、軍国主義者から英米派として排撃されていたことが、
いまや彼にとっても、占領下のわが国にとっても大きな資産となった。
吉田茂が外相に就任した。
吉田は戦争末期、憲兵隊によって投獄されたこともある。
こうして米英との戦争に協力しなかった二人の指導下に、占領軍による上からの民主化を迎えることになった。

10月11日マッカーサー元帥は幣原首相に、
1・婦人の解放
2・労働者に団結権
3・教育の自由化主義化
4・専制政治の廃止
5・経済機構の民主化
を指令し、憲法の改正を示唆した。

10月30日、
軍国主義教員の追放

11月2日、
財閥の解体

12月9日、
農地解放
が指令された。

12月6日には近衛文麿・木戸幸一など天皇側近に逮捕命令が出た。
当時天皇に対する国際世論はかなりきびしかった。
天皇までが戦犯として逮捕される恐れがあった。
幣原内閣はこのような事態を避けるためマッカーサー司令部に必死の働きかけを行い、
翌昭和21年1月1日、”人間宣言”が発表された。
昭和21年2月19日から天皇は地方巡幸を開始し、いたるところで国民の歓迎を受けた。



寄生地主制の崩壊

旧大日本帝国の権力構造が、わが国独特の寄生地主制と深く結びついていることは世界中に知れ渡っていた。
農相松村謙三は、戦争中投獄されていた和田博雄を農政局長に起用して、独自の農地改革案を作製させた。

総司令部は拒否した。
日本の共産化を防止するためにも農地改革を徹底する必要がある、
その勧告にもとづいて第二次農地改革案を国会に提出し可決された。

この二次農地改革によって寄生地主制は事実上消滅した。
わが国の農地は原則として耕作者のものとなった。
わが国の農村は共産主義運動の拠点にならないで、逆に保守勢力の地盤として止まった。



公職追放

問題は追放の範囲をどこまで広げるか、どの程度に限定するかに存じていた。
公職追放令はフランス革命やロシア革命において革命勢力が実力で成し遂げたことを占領軍の命令によって行おうとするものであった。
幣原内閣にも閣僚5名の該当者があった。



学校教育改革
機会均等

総司令部の注意は、軍国主義教員の追放に次いで
終身・日本歴史・地理等の教科に集中した。

義務教育の改善
経済的に困窮している当時の日本にとって義務教育を3年間延長することは、あまりに無謀なように見えた。
占領軍の意向は絶対的と考えられていたので、非常な困難を乗り切って昭和22年4月1日から6.3制が発足した。

6.3.3.4制は義務教育を3年間延長した点、
高等教育と大学教育を普及した点において、教育の機会均等を推進したことは間違いない。
しかし反面、教育の質を低下させたことも否定できない。



新憲法制定

幣原内閣は昭和20年10月マッカーサー元帥から改憲の必要を直接示唆された後も、極めて消極的な態度をとりつづけた。
「主権は国家にあり」と規定し、主権在民説を採用しなかった。
総司令部は、この程度の改憲では到底きびしい国際世論の批判に耐えることができないと判断した。
総司令部民政局は大急ぎで改正憲法の草案を書き上げた。

特徴は、
主権在民
議会制民主主義
基本的人権の保障
戦争の放棄
にあった。

このマッカーサー草案が幣原内閣にとってどれほど大きな衝撃であったかは、想像に難くない。
国際世論の風当たりの強さを知らされ、天皇の地位を残すためには憲法改正を進める他はないことをようやく認識した。

 


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