しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

昭和16年の日米交渉(駐米大使館)

2021年01月07日 | 昭和16年~19年
「マリコMARIKO」  柳田邦夫著 新潮社 昭和55年発行  




新駐米大使野村吉三郎が、日本郵船の鎌倉丸で横浜港を発ったのは、昭和16年1月23日だった。
着任して3日後ルーズベルト大統領をホワイトハウスに訪ねた。
二人は1915年(大正4年)以来の旧友だった。
3月8日、野村・ハル第一次会談を手始めに日米交渉が実質的な話し合いに入ると、両国の主張と見解にはあまりにもへだたりがあり過ぎ、
容易に妥協点を見出すことができないまま、矢のように月日が過ぎて行くことになる。

大使の役割には「伝達者」と「交渉者」の二つの側面があるといわれる。
戦前においては、19世紀的な「交渉者」の性格が、まだ残っていた。
特に野村大使は交渉者の意識が高かった。

時の外相松岡洋祐は、独伊との枢軸路線の熱烈な推進者だった。
しばしばアメリカ側を刺激する伝達を控え、松岡を激怒させた。

日本政府が絶対に譲れないとした基本原則は、
アメリカは対中国援助を中止、
蒋介石に対日和平交渉につくよう働きかける、
アメリカは対独伊戦に参加すべきでない、
日中が和平を結んだら対日通商関係を復活する。

どれもアメリカ側には認め難いものばかりであった。

アメリカ側は、
中国の領土保全と主権の尊重、
日本軍の中国からの撤退、
日本の南進政策の中止、
を求めた。

野村・ハル会談は頻繁に開かれたが、修正案の提出と拒否の繰り返しにすぎなかった。
この年7月ついに南部仏領インドシナにまで軍を進めた。
これは、日本がインドネシアの石油資源をねらっていることは、明らかだった。
ルーズベルトは日本資産を凍結する命令を出し、すべての通商関係を断絶させる措置に出た。
野村が東京を発ってから半年余り経つうち、情勢は野村の手に届かないところへ行ってしまった。
日米関係が破局を迎えるのは、もはや時間の問題だった。

「マリコの病気は悪くなる一方です。」



(米大使館寺崎書記官夫婦と長女・マリコ)



近衛内閣は「マリコ」(米側態度)の情報を入手するより先に、
内部から”最後通牒”を突き付けられていた。
突き付けたのは陸相の東条だった。
「アメリカに屈すれば、ますます高圧的に出てとまるところを知らなくなる。人間たまには
清水の舞台から、目をつぶって飛び降りることも必要です」
無謀な対米開戦論だった。
近衛は東条を説得するだけの政治力を持っていなかった。
その2日後、近衛内閣は総辞職した。

野村を助けるために、特命全権大使来栖三郎が11月15日ワシントンに着いた。
来栖の派遣は、日本がなお日米交渉に熱意を入れているように見えたが、現実には大使館でできることは、何も残されていなかった。
最後のカードを見せたのはアメリカだった。
11月26日『ハル・ノート』を受け取った。
その内容は、
かねての主張を一歩も退けずに強調するとともに、日本軍の中国および仏領インドシナからの撤退、重慶政権以外の不承認などを強く要求していた。
東条内閣、とりわけ軍部の容認できるものではなかった。

日本では12月1日、「米英蘭に対し開戦す」を下したが、奇襲作戦で臨むため、ワシントンには知らされなかった。
日本大使館はピエロ役を続行した。
栗栖は、
「大統領から天皇陛下に宛てて親電を打ってもらう以外ない。
外務省や東条首相を通さずに、直接天皇陛下に届くような方法で打ってもらわなければならぬ。
三井物産ニューヨーク支店長を仲介に、駐日大使グルーに宛てて打電し、グルーが参内して手渡すという方法をとる」
だが、このときすでに日本海軍の南雲機動隊は、
「Xデーは12月8日なり」の命令を受け北太平洋上を刻々とハワイに向かっていた。


グルーの要請を受けた東郷が、ルーズベルトの親電を持って宮中に参内したのは午後2時過ぎだった。
その頃、
南雲機動部隊は三百数十機の攻撃隊がつぎつぎに発進していた。
ハワイは7日の夜明け前だった。


翌朝、寺崎家の玄関のベルが鳴った。
ドアを開けると,FBI局員が立っていた。
氏名、住所、職業、などをカードに書き込むと、その局員は言った。
「これからあなた方は、私の許可なしで外出することはできません。
私はあなたがたを保護するために、毎日玄関先で見張ることになります」






(映画「太陽にかける橋」に主演のキャロルベーカーとマリコ)



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